生活科の基礎研究(2)心理学に学ぶ生活科の子供観、方法論   


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  はじめに〜私たちは子供を理解しているか(例題で考えてみましょう)
  心理学への招待〜心理学最前線
  Q1 理想の子供像とは〜現代心理学の児童観
  Q2 犬、狼、アライグマ、猿がかかる病気〜有能な学び手としての子供
  Q3 自己中心性とは
     〜未分化
      発達概論
      自己中心性
      発達と支援
      言語能力
      その他
  Q4 保存実験から〜発達は状況によって変化する
  Q5 消極的な子〜楽しさの心理と生理
  Q6 強制・命令という支援はあるか〜支援はすなわち関係である
  Q7 そこにいるだけで支援と呼ぶか
     〜そこに「いるだけ」ということ
       関係づくりの成果 


はじめに

 「生活科はボトムアップの教科である」といいます。
 「新児童中心主義の教育のさきがけである」ともいいます。 
 では、我々生活科教師はどこまで子供を理解していると言えるでしょう。ためしに次の問題を考えてみてください。 


 例題1
  これは、1年生に対するある先生の通知表の所見です。どこが間違っているのでしょうか。
 『いつも友達と一緒に遊んでいました。ルールを破ったり、トラブルを起こしたりすることもなく、また学習時にも、与えられた作業や問題に素早く取り組んでいました。学習内容もよく理解しており、申し分ありません。』 


例題2
  職員室での会話です。この間違いは?   
 ☆「いやあ、A男にはまいったなあ。」                   
 ★「どうしたの?」                            
 ☆「いや、ほかの子が喜んで活動しているときにもA男だけポツンと一人で何もしていないのさ。」 
 ★「ああ、ウチにもいるわ。いわゆる消極的なタイプなのね。」        
 ☆「今のところ、ようすを見ているんだけどねえ。」 


例題3
 絵を描くのが好きな子供たちをA、B2つのグループに分けました。両方のグループの子に「描いたら先生に見せてね。」と投げかけます。子供たちはどんどん描いては持ってきます。                         
  Aの子たちには、「ふうん」程度の言葉がけで絵を受け取ります。        
  Bの子たちには、「上手だねえ」とほめる言葉がけをし、金シールなんか張ってやったりします。
 AとBには交流はありません。このような受容の結果、2週間後には2つのグループには顕著な違いが表れました。それはどんな違いでしょうか? 


 いかがでしたか。                              
 例題1のような所見に「ちょっと物足りないかなあ」程度の感想をもつのなら、それははっきり言って低いレベルです。
ここには、明らかに「子供というものに対する理解の不足」いや「とんでもない誤解」が表現されています。それを明快に指摘できることが、生活科教師として必要なのです。もし、こんな「問題のない子」がいたとしたら、それこそ問題です。健全な人間としての発達がどこかで阻害されているのです。または、この所見を書いた人がきわめて表面的にしか子供を見ていないか。
 例題2のような会話に対して、「そうそう」などと話し合いに加わるようでは、これまた低いレベルと言われてもしかたないでしょう。
だからといって「もっと子供をよく見て!」だとか「今の若い人は…」などと怒ったり嘆いたりするのもあまりほめられたものではない。A男への確かなアプローチができるだけの子供理解が必要なのです。「タイプ」でくくるような浅い見方をされているうちは、子供は変化しないのです。
 例題3は、やや難しいです。この正解は「Bの子供たちは自発的に絵を描かなくなった」です。誤植ではありません。教師の評価によって、描かなくなる傾向が出るのです。文部省の嶋野教科調査官は「支援になることをする」と言われるが、ほめたり賞を与えたりすることが「支援にならないこともある」ことを知っておきたいものです。正しい子供理解に立脚しない支援は、かえって子供の意欲をそぐものなのです。

 生活科は、学級経営と直結していると言われます。それは、日常繰り返される子供たちへの働きかけの、子供理解の度合いが活動に色濃く影響するからです。次々に訪れる問題に的確な判断を下せることが、生活科教師として必要なのです。

 もとより、子供理解は宇宙の探索と同じように「きりのない」ものです。しかし、「児童中心」だの「ボトムアップ」だのという飾りことばがついた生活科を専門とするならば、ぜひ身に付けておきたいレベルの子供理解のあれこれがあるはずです。それを心理学の成果から学んでみたいと考えました。 


 心理学への招待 

 生活科誕生の背景には、心理学の研究の成果が生かされていると言われています。
  「低学年の子供は、未分化である」「子供は有能な学び手である」「環境に働きかけることが学習そのものである」「表現活動を重視する」「自分とのかかわりが大切である」「共感的な理解と支援が大切である」…これら生活科実践のための知見は、心理学から得たものです。
 より確かな生活科実践・研究のために心理学にアプローチしてみましょう。
 まず、心理学の最近の動向を整理しておきます。
 私たちの年代(昭和60年以前に大学を卒業した年代)の多くが、大学で学んだ心理学は主に「連合説」と呼ばれる分野の研究の成果でした。「連合説」とは「SーR理論」や「条件付け」などに代表される学習理論です。ソーンダイク、パヴロフ、スキナーなどがその中心的な学者でした。
 その後、学習心理学は「認知説」が主流となってきています。こちらは「場理論」「ゲシュタルト理論」「知覚的理論」などに代表されるもので、ブルーナー、マスロー、ロジャースなどがその中心的な学者でした。
 そして、現代の学習心理学はR.ド・シャームの「自己原因性」やピアジェの「発達理論」の追試や検証、ローゼンソールとヤコブソンの「ピグマリオン効果」の追試、佐伯胖らの「アクティブマインド」など、子供や集団のアクティブな側面を重視して展開されているようです。では、この新しい心理学からの主張をひとつ紹介しましょう。

 つい最近までの「学習心理学」というのは、下等動物から高等動物にいたるまでのすべての動物の行動を、外界の刺激のコントロールによって、いかようにでも「形成」できるものと考え、そのための技術を開発するのが学習課題のすべてと考えられてきた。そういう「心理学的知識」を応用しさえすれば、どんな知識でも、いかなる発達段階の子どもにも、「教える」ことが可能なのだという信念が行きわたっていたといえよう。
 しかるに、最近の認知心理学の研究成果によると、もっとも下等な動物からサルなどの高等動物にいたるまで、それぞれの種に固有な行動でどうやっても「学ばせる」ことができない場合や、また、ほとんど何の報酬も与えないに等しいときに一回の試行で自分から「学んで」しまうことがあることがわかってきたのである。これは正に「本人が自分で学んでいる」としか言いようがない。
 もっとも、このような現象は古くから知られていたことで、ゾーンダイクはこれを「レディネスの法則」と名づけ、ある種の「構え」や「心の準備」がなければ学習は成立しないことを指摘していたのである。しかし、このゾーンダイクの「レディネスの法則」は、その意味するところがあまりにも漠然としており、「学習の法則」が適用されるための前提条件として考えられてはいても、「学ぶ」ということの本質がここにある、とまでは考えられてはいなかった。
 幸いにも、今日の心理学では、このような考え方への批判も生れ、本当の「学び」が常に「学ぶべきもの」の側からの内なる「問いかけ」の活動によって先導されている点を最も重視するべきこととするに至っている。
   (『考えることの教育』佐伯胖著 国土社 122p)

 それでは、以下演習形式で最新の心理学とのひとときをお楽しみください。 


Q1
 次に5つのタイプの子供像を掲げます。あなたの理想とする子供像に最も近いのはどれでしょう。

A やさしさがあって、思いやりがあり、礼儀正しく、時間通りに仕事をし、勤勉で、記憶が良く、年長者の判断はよろこんで受け入れ、内気でなく、現行の組織や手続きを乱さず、おしゃべりしない。

B 思いやりがあり、自発的に行動し、礼儀正しく、決意固く、自分で考え、勤勉で、ユーモアを解し、まじめで、いばらず、現行の組織や手続きを乱さず、内気や恥ずかしがりやでなく、好奇心が強い。

C 確信していることに対しては勇気があり、好奇心が強く、自分で考え判断し、仕事に没頭して余念がなく、直感的で、持続的で、独断的断定でものごとをみようとせず、危険をものともせず、権威者の判断をそのまま受け入れることを好まない。
D 社会的によく適応し、彼の仲間の行動規範を守り、従順で、礼儀正しく、敏活に仕事をし、清潔できちんとしており、ひかえめで、人気があり、そして仲間から好かれる。

E 冒険好きで、むずかしい仕事をやろうとし、好奇心があり、自分で判断し、思考し、勤勉で自信があり、ユーモアを解し、まじめで、内気や恥ずかしがりやでなく、いばらず、現行の組織や手続きを乱さない。

【現代心理学の児童観】                             
 Q1は、創造性研究の学者トーランスが、心理学者たち9名と取り組んだものから取材しました。Aは、トーランスらがフィリピンの教師1000名ほどに「望ましい子供像」をアンケートし、その結果をまとめたものです。
 Bは、アメリカ、Eはドイツの教師のアンケート結果からまとめられた「子供像」です。では、CやDは、どのようなものでしょうか。
 実はCは、トーランスら学者10名がディスカッションの末にまとめた「望ましい子供像」であり、Dは「望ましくない子供像」だったのです。(『教師の自己研修』高階玲治著 明治図書 87pより)  
 この例から分かるように、心理学者は教育に対して一家言を持っています。
 例えば、波多野誼余夫は、「人間観の重要性」という項目の中で次のように言っています。           

 心理学が特定の人間観を支持することは、今日では大きな社会的意味を持つ。労働や教育に関する政策も、心理学的な裏づけを持った人間観からひき出されるところが少なくない。心理学が人間怠けもの説をとなえていれば、労働や教育の場を楽しいものにしようとする試みは、はじめから否定されてしまう。ー人間はもともと、自分から働きたくて、楽しくて働くわけがない、要するに食うためなのだ、勉強だって、おもいしろいわけがない、叱られるのがこわくて、イヤイヤやっているのだ、と。
  (『知的好奇心』波多野誼余夫・稲垣佳世子著 中公新書 20p)

 また、R.ド・シャームは旧来の動機づけ理論の根底にある人間観を批判し、次のように言います。

 人間はその最良の状態としては、能動的(active) であるべきであり、受動的(reactive)であってはならない、というものである。人はあやつり人形のように他者に依存して動くべきではなく、自ら努力して動くべきである。人は自分の行為の主人であるべきで、権威によって指示されるものであってはならない。他者の指示のままに動かされるコマであってはならず、自らの行動の指し手でなければならないのである。
 人間行動の客観的な先行物は、外部で生じた事象であるかもしれない。しかし、彼が個人的な決意にもとづいて決定した行為は、その人自身にとっては、彼自らがその原因となっているのである。これが、“自己原因性”であり、動機づけについてのわたしたちの基本的な仮説である。
  (『やる気を育てる教室』R.ド・シャーム著 佐伯胖訳 金子書房7p)

 他の心理学者たちも、この人間観においては、おおむね共通であるようです。例題のDタイプの子は、このアクティヴさが乏しいゆえに、望ましくないとされるのです。しかし、これまで学校でいわゆる「よい子」とされていたのは、正にDタイプの子供でした。冒頭の通知表の文例も、この子供観から生まれています。生活科が学校教育を変革できるか否かは、授業の中でCタイプの子供たちが多く出現するような授業ができるかどうかにかかっていると言えるでしょう。
 現代心理学は、このように積極的に「望ましい人間観・児童観」を打ち出して、教育との接点を見出そうとしています。そして、それが単なるイデオロギーからではなく、人間に対する科学的なアプローチの結果、得られた知見から導き出されているということが重要なのです。では、次にその科学的なアプローチの一端を紹介しましょう。 


Q2
 次の動物たちが、共通してかかる病気とは?  
 ・犬 ・狼 ・アライグマ ・猿 
 ヒント〜次の動物たちは、かからない病気です。 
 ・アリクイ ・コアラ ・パンダ ・ヘビ ・ワシ

【有能な学び手としての子供】 
 動物学者のデズモンド・モリスによると、動物は「スペシャリスト」と「オポチュニスト」に分けられるといいます。スペシャリストは、特定のものにしか興味を示さない動物。例えばコアラなどは、ユーカリの葉っぱ以外には関心がなく、食べるとき以外の一日20時間以上は眠っているほどです。一方オポチュニスト(辞典には「ご都合主義者」とありますが、「多趣味者」くらいの意味で考えた方がよいでしょう)は、好奇心が旺盛で、いろいろなものに興味・関心を抱く動物。これらの動物は、環境をたえず探索し、調査し、吟味し、新たな刺激を求め続けるという傾向があります。そして、それが満たされないときは、オポチュニストは退屈し、ノイローゼにかかってしまうのです。
 という訳で、正解は「ノイローゼ」でした。
 人間は、このオポチュニストの最たるものです。カナダで行われた有名な「感覚遮断実験」で、これは決定的に証拠づけられました。この実験の概要は次のようです。
 五感を遮断された状態で、あとはトイレや食事も自由という状態でできるだけ長く個室で楽にしていてほしい、報酬は通常のアルバイトの倍額という条件で、人間は何日くらい耐えられるかを実験したところ、すべての人が2〜3日で限界を訴え、その多くはノイローゼ症状になってしまったというものです。
 現代心理学は、子供が生まれながらにしてもつオポチュニティを「知的好奇心」と名づけ、それが引き出されることによって発達が引き起こされると想定しているのです。ここに、生活科で「応答的な環境」が重要視されることの根拠があります。

 環境が応答的であると、なぜ発達が促進されるのだろうか。
 最近の心理学の知見によれば、人間は本来活動的な存在だといわれている。環境が応答的であることは、この活動性を引き出し、さらに高めるのに寄与するらしい。自分の活動の結果、環境が変化した、いいかえれば、自分は環境を動かすことができた、という体験は、さらにまた環境に働きかけることを動機づけるからだ。(中略)
 …このような体験をくりかえしていくと、「自分が活動すると何かおもしろいことがおこるだろう」といった、一般化された期待が形成される。あるいはまた、「自分は環境に影響を及ぼすことができる」といったように、自分の能力に自信をもつようになるであろう。この自信に裏づけられてこそはじめて、新しいものを積極的に探索したり、ねばり強く課題に取りくむことも可能になる。自分のもっている能力を最大限に使おうともする。そしてそれが長い目で見たとき、知力の発達を促進させることになるのである。
  (『知力の発達』波多野誼余夫・稲垣佳世子著 岩波新書 77p)

 ところで、子供の(というより人間の)オポチュニストぶりは「遊び」においてもっとも発揮されるものです。森楙(しげる) は、古来からの遊びに関する論考を整理して、遊びの共通特性をつぎの4つにまとめています。(『遊びの原理に立つ教育』黎明書房より) 
(1) 遊びは自由な活動である。
(2) 遊びは自発的な活動である。
(3) 遊びは自己目的的活動である。
(4) 遊びは、喜び、楽しさ、緊張感を伴う活動である。

 また、遊びの原理として、ニューマンは次の3つを基準としています。(同書)
(1) 現実からの制約を超越していること。 
(2) 行動が内部から動機づけられていること。
(3) 行動を統制する座が内部にあること。

 「人間は遊んでいるときにもっとも人間らしい」(シラー)と言われます。遊びの特性や原理を見ると、そこには最大のオポチュニストを刺激し、発達させる環境とのかかわりの姿が見えてきます。「生活科においては、遊びも学習である」という指摘は、この辺に根拠があるようです。
 では、遊びはどのような条件のもとで生じるのでしょうか。遊びの原理を教育の原理にするということは本当にできるのでしょうか。森は言っています。                           

 生体は外部に対して刺激を求めなくてはならない。適切な刺激が得られるためには、外部の環境はそれなりの条件を備えておく必要があろう。(中略)
 環境は、子どもの側からの探索→調査→操作→認識という一連のはたらきかけに対して、新奇性、複雑性、応答性、問題性といった性質を備えていなくてはならない。そうでないと、学習も遊びも発展しないであろう。(中略)
 図は、教育の連続線を、遊び的要素と課業的要素の比率によって示したものである。(中略) 
 問題は、自由をその本質とする遊び的要素と、組織的教育の主要部分を構成する課業的要素とをどう組み合わせるか、というところにある。すなわちこれは、遊び的要素と課業的要素との配分比率の問題であり、遊戯性と課題性の問題である。(中略)教育全般において、遊びの原理が生かされなくては、学習活動の基礎である自主性を子どものなかに育てることはできないであろう。(同書)
遊びと課業

また、教師の児童観が指導を変化させることを稲垣らは次のような例で主張しています。

 子どもが本来能動的で有能であると認める教師は、子どもにいろいろ探索し、自分で試してみる自由を保証しようとするだろう。子どもたちが自分たちで意味のある知識を知識を構成するなどとても無理だし、時間の無駄だ、などと初めからきめつけるのは、伝統的学習観の産物である。「もうひとつの」学習観は、予想をもって環境に働きかけ、結果を友達同士比べあうなかで、子どもは多くのことを学んでいくことができる、と想定するからである。
 幼稚園や小学校でよく行われる植物の栽培を例にとってみよう。従来、子どもたちは、指定された場所に、指定された仕方で種をまき、世話をすることが多かった。全員がそろって花を咲かせられることが価値あることのように考える教師も少なくない。これは、植物の成育条件を子どもが発見する可能性を、教師が信じていないことから派生した教育のやり方であるといえるだろう。年少の子どもでも、植物の栽培を通じ、その成育条件について多くのことを学ぶ潜在力があると考えていれば、ほぼ同じ条件下で育つ植物を観察するだけのやり方は、どうみても子どもの思考を刺激するのに適切なやり方とはいえないからである。 
 この点、本吉の実践(『私の生活保育論』本吉圓子著 フレーベル館所収)は、「もうひとつの」学習観を具体化したものとして興味深い。彼女は、保育園で花を栽培するとき、子どもたちに自分の好きな場所に種子をまくようはげました。その結果、子どもたちは花壇だけでなく、砂場のなか、ウサギ小屋の下、鶏小屋の隣、物置の陰、など思いがけない場所に種をまいた。2〜3週間後、種は芽を出しはじめたが、砂場にまいた種は芽が出てこない、物置の陰にまいた種は芽は出てきたがあまり伸びない。鶏小屋の隣にまいた種の芽は太くて元気がよい、などさまざまであった。
 子どもの観点からすれば、どの子も同じように種をまいたのである。それなのに自分の種は芽がでてこなかったり、同じ芽でも、友達のは見るからに元気そうな芽だったりするのは、何とも不思議な現象である。   
 そこで彼らは、その原因を探ろうといろいろ調べはじめた。その結果、「花壇のなかの土はやわらかいけど、花壇の柵の外の土は固い。だから花壇の外にまいた種は、芽がなかなかでてこなかったんだ」「種をまいたところを踏んづけちゃだめなんだ」などの発言が、子どもたちのなかから出てきたという。
 子どもが探索を通じて学ぶのを奨励することは、実際にはとても時間がかかることは確かである。答えを知っている側から見れば、その可能性はゼロなのに、と思える予想も、子どもは実際に試してみようとすることがあるからだ。しかし子どもは子どもなりの論理があってそうするのである。このことを認め、子どもの能動性に共感し、その有能さを信頼しうる教師だけが、彼らの探索につきあうことができるのだといえよう。
  (『人はいかに学ぶか』稲垣佳世子・波多野誼余夫著 中公新書 184p)

 このように子供の特性は、環境に働きかけ、そこから得た知識や期待、自信などによってより高次で複雑なものに発達していきます。これを、いくつかの段階で考えようとするのが発達心理学です。

 では、次にその発達段階の分野から。


Q3
 ピアジェは、「自己中心性」という概念を提唱しました。では、「自己中心性」とはどのような概念でしょうか。
@「はい、どいて!」と電車の中で座席とりをするおばさんは、自己中心性がぬけていない。 
A「お月さまが、ぼくについてくる!」というのは自己中心性の特徴だ。 
B写真を撮るときに、真ん中に割り込んでくる子は、自己中心性が強い。 
C「みにくいあひるの子って、白鳥だからみにくくないよ。」と主張する子は、作者の意図を読み取ることができない自己中心性の強い子。 
Dかけっこをするとき、ズルをしてでも一等になりたいのは、自己中心性のせいだ。 

【低学年の発達〜未分化】 
 「低学年の児童は未分化であり…」と言われ、それが生活科成立のひとつの根拠となっています。この「未分化」とは、どのような内容なのでしょうか。

 1年生のものの考え方は、幼児の域をまだあまり出てはいない。特に、1学期は幼児のものの考え方の延長のようなものである。(中略)現実と空想、自分と他人などの区別が漠然としているのが、幼児の心の特徴であり、未分化な心といわれる。そのために、たとえば、幼児の遊びは、心の緊張をとくはたらきをもつのである。つまり、幼児は日常出会う欲求不満を、遊びの中で解決することができる。母親から叱られた幼児は、遊びの中で母親になぞらえた人形をたたくことによって、叱られたことから生じる欲求不満とそれにともなう心の緊張を解消することができる。それは、幼児にとって現実と空想が未分化なため、遊びの中での出来事も、現実での出来事と大差ないためである。遊びの中で人形をたたくことは、現実に母親をたたいたのと同じ効果をもつのである。
 また、幼児は所有権などというものを知らない。だから、欲しいと思えば店のおもちゃでもチョコレートでも、黙ってもってきてしまう。反対に、喜んで乗り回していた三輪車も、あきればどこにでも放ってきてしまう。これは、他人のものをとれば、その人が困るだろうとか、この三輪車は自分のもので、他人にとられては困るというような考え方ができないからである。自分と他人とが考えのうえで明確に分かれていないことによる。
 1年生の考え方も、この幼児の心の特徴を卒業していない。というより、そこから抜け出すべく第一歩を踏み出したばかりの時期といえる。したがって、まだ多分に未分化な心の特徴をもっている。
  (『1年生の心理』大日本図書 高野清純・高野英夫著 123p)

 【発達概論】  
 ここで、発達に関する概論を整理しておきましょう。
 子供の発達は、「多様性の統一化」をひとつの特徴とする。いろいろな方面に子供の精神的・肉体的機能が分化され、それがまとまりをなして動くようになります。
 この分化と統一化は、「生活空間・時間の拡大」となって表われます。子供はいつも生活時間拡大の要求を持っています。時期によってこの欲求が強まることがあります。満7、8才の頃に家出をしたり夕方遅く帰ったりするのはその表われです。 
 このような分化と統一化の過程で、子供は生まれつき持っている反射や本能の機能をいろいろに統制しているのです。これをピアジェは、「調整化」と名付け、人間の知性の原点であるとしました。
 この調整化には、様々な人との関わりが大きく影響してきます。すなわち、子供が行なう調整の是非は、回りからその社会的意義に照らし合わされてフィードバックされます。このフィードバックが子供に取り入れられる際においては、いつも子供の内面にある「劣等感」と「自己中心性」がその抵抗ともなり、また成長の原動力ともなります。
 子供は、だれでも大人に対して劣等感を持っており、それゆえ大きくなろう、おとなになろうと心がけます。そして反面、この劣等感ゆえに、子供は傷つきやすいのです。おおむねこのような内面の動きで環境と接する中で、子供は劣等感や自己中心性を脱却する調整を経て、生活空間・時間を拡大し、論理性を身につけていきます。この過程のうち、特に目覚ましい変化が表われる時期の区分を発達段階と呼ぶのです。

 【ピアジェの発達段階説】  
 では、次にピアジェの発達段階説を見てみましょう。ピアジェは、発達段階を大きく4つに分けています。
 @感覚運動的知能の段階  
 誕生からほぼ2才ころまで。実際にものを扱いながら自分お運動を調整し、見通しを持った行動ができるようになる。この段階をさらに6つに分けて、1才半ころに始まる 最後の段階で感覚運動的知能の完成と表象の発生を見ている。 
 A前操作的思考の段階 
 幼児期に当たる。前半は、積み木をおにぎりに見立てて遊ぶなどの象徴遊びが盛ん。 4才ころからの後半は、直感的思考の段階といわれ、思考が見かけのものに左右されや すい。「保存」の実験もこの時期を対象としている。
 B具体的操作の思考の段階 
 7、8才ころに「保存」が、可逆的な操作などによって成立し、経験をもとに判断や推理をするが、仮定を元にした仮説演繹的な思考にはまだ手が届かない。 
 C形式的操作の思考の段階 
 一般には11、12才ころから始まる。可能性にもとづいた思考が可能となる。具体的な状況から離れて論理を追求する。課題意識が強まるのもこの時期である。

 このピアジェの発達理論は、前の発達が後の発達を包みこんで高次化していく過程として設定されているが、例えばワロンなどは前の発達と後の発達との異質性を強調し、前の発達を否定する関係の中で次の発達が生じてくると設定している。(ワロンの発達段階については、段階の名称のみを記すこととする。すなわち、@胎児段階、A運動的衝動性の段階、B情動的段階、C感覚運動的活動の段階、D多価的パーソナリティーとカテゴリー的思考の段階、F思春期および青年期の段階である。)
 以上が、発達に関する概論です。(以上の要約は、『子どもの心』波多野完治編 大日本図書 23p〜および『子どもと教育94年4月臨時増刊号 子どもの発達段階と教育実践』内海和雄ら あゆみ出版所収「発達という考え方」〜田丸敏高に多くを依りました。)                                        

【自己中心性】 
 上に述べた発達の中で、「未分化な心」はどのような表われとして見えるのでしょうか。 

 1年生のかいた絵をみて、よく気づくことに、太陽に目鼻がかかれていることである。また、自動車や電車をかいても、顔がかかれたり、どこか人間らしいところが認められる。絵だけでなく、1年生に太陽は生きているかと聞いてみると、8割くらいの子どもが、「生きている」と答える。自転車や自動車や電車などについても、1年生の2、3割の子どもは、生きていると考えている。つまり、動くものはすべて生きていて、自分たちと同じように感じ、考えるものだと信じているのである。だから、机や椅子などの足(これは動くものではないが)が折れたりすると痛いだろう、かわいそうにと同情したりすることさえある。
 こういうものの考え方は、高名なスイスの児童心理学者ピアジェが名づけた自己中心性という心の特徴から生まれたものである。自己中心性というのは、外見上は自分勝手とか、自分のことしか考えないということと似ている。けれども、1年生の場合は、自分が最もよく知覚した部分だけに着目し、他は無視してしまう傾向であり、同時に2つ以上のことが考えられない傾向をいう。そのために、太陽のまるさに着目した子どもは、それと自分の顔が似ているところから、当然目鼻や口があるものと信じてしまうのである。そして、自分が意識されているときには、他人は意識の外にでてしまうので、自分の欲しいものがたまたまそこにあるから持って帰るのであって、どうしてそれが悪いのか理解できない。つまり、自分が欲しいとなると自分だけが存在し、他人はまったく意識されなくなってしまうのである。  (同書125p)    

 このように自己中心性とは、周囲と自分との境界がはっきりと自覚されず、ものごとの見方や判断が、自分の主観のみによる傾向をいいます。自己中心性をよく表す例をもうひとつ示しましょう。
(例)4才の子との会話  
 「あなたには兄弟がいる?」
 「うん、弟と妹がいるよ。」 
 「じゃあ、妹には兄弟はいる?」
 「いや、いない。」 
 「じゃあ、弟には?」
 「いない。」
 「あなたの弟は、あなたの妹の兄弟じゃないの?」
 「うん、そう。」
 「じゃあ、弟には兄弟はいるの?」
 「ある。ぼく、お兄ちゃん。」 
 他には、問題のCも、他者の見方になって考えることができない点が自己中心性の現れと考えられます。(というわけで@、B、Dは心理学で言う「自己中心性」の例ではありません。)
 自己中心性は、生活科の対象である1、2年生の時期にゆっくりと脱却の方向に向かいます。ピアジェの発達段階でいうと具体的操作の段階にあり、生活空間・時間の拡大と論理性の獲得が促されるからです。
 ここに、生活科がことさらに「具体的な活動」や「人との関わり」「自分自身への気づき」を重視することの根拠があると言えるでしょう。
 また、生活科の授業においては、友達同士のトラブルや、自分の思ったとおりに活動が進まないことも重要な学習と考える根拠もここにあるのです。                                                      

【発達と支援〜「うそ」から】 
 以上、概論が続いたので、次に子供のつく「うそ」に焦点を絞り、発達と支援について具体的に考えてみましょう。
 まず、「うそ」の発達について。これは、言葉と行為が分離することから生じます。

 うそは三歳ごろからつくようになるが、はじめは自分の思いまちがえていることをそのままのべて、それがおとなたちにうそと判定されてしまう、という種類のものが多い。しかし、だんだんすすんで、小学校二年から三年になると、意識的に、自分の考えているのとちがうことがいえるようになる。言葉と行為の分離が可能になるのである。それも、はじめのうちは、自分のやったことを「否定する」程度のことであるが、だんだんと、ありもしないことをまことしやかに話せる能力にのびてくる。(中略)
 小学校二、三年のときは、学校生活と家庭生活とが分離する時代である。親にわからぬ生活が学校でおこなわれている。この時期にうそがいえるようになるが、そのうそが親に発見されないという事態も生じてくる。小学校へ上るまでは、子どもの親に対する信頼は絶対で、自分のいったことはもとより、自分の考えたことまで親にわかるとおもっている。うそをいっても、バレると信じている。しかし、小学校二、三年のころになるとこの信念がくずれる。 
  (『子どものものの考え方』波多野完治・滝沢武久著 岩波新書39p)

 次に「うそ」に対する支援について。発達は、劣等感や自己中心性を脱却することですから、子供のうそに出会ったときの支援によっては、発達が促進されるか、発達が止まってしまうかと結果がまったく違ったものになってきます。

 「子どもがウソをつくときは、自分に自信がないときや自分を守りたいときだ」ということを、すでにくり返しお話しました。それでは、子どもがウソをつかないためにはどうしたらいいのでしょうか。その逆の状態を子どもに与えてあげればいいのです。
 ウソをつかないで生きることは、ちょっと考えただけでもなかなか難しいことです。私たち大人でさえ、みんな何かしらのウソをつきながら生きています。自分を他人に良く見せたいと思う心、人に認めてもらいたいという心、嫌な奴だと思われたくない心、様々な心の背景がウソを呼び込みます。
 ウソをつかないで生きるということは、言い換えれば、ありのままの自分、裸のままの自分を人前にさらすようなものなのです。これには相当な勇気が必要でしょう。
 では、この勇気はいったいどこから出てくるのでしょうか。それは、ありのままの自分に対して、自信をもつこと、そしてそんな自分を好きになれることから生まれてくるのです。
  (『子どものウソの見抜き方』星一郎著 ごま書房 154p)

 このように、発達という観点で考えると、「うそ」ひとつをとっても、その背景が見えてきます。生活科の授業の中には、このようなポイントとなる現象がいくつもります。今後は、授業の中のいくつかの子供の現象を取り上げ、それを発達の一側面として背景を探り、そこから望ましい支援を考えていくというような研究がますます大事になっていくことでしょう。 
 例えば、
 ・「ひとり」でいる子 
 ・「似たパターンを繰り返す」子
 ・交流場面で「だんまり」の子
 ・集団の中で話の聞けない子
 ・完成した作品を粗末にする子
 ・活動は生き生きとしていたのに、カードなどには全くかけない子
 ・生き物に感情移入のできない子
などなど、生活科の学習の中で、ともすればマイナスの状態と考えられ、抑制されがちな行動についても、まずその心の背景を理解しようとする構えが必要です。そうした理解に立って、適切な支援に結び付けたいものです。  

【言語能力】 
 次に、言語についての研究の成果を紹介しましょう。生活科においては、具体的な活動と表現活動を車の両輪のように考えています。そして、表現活動では言語のもつ比重が大きいのですが、それも、やはり心理学の研究の成果が生かされてのことだったのです。
 言語能力は、低学年の時期に著しく伸びるものです。

◇かこさとし『子どもと遊び』169Pには、脳重の重さの増減状況のグラフが掲げられています。そして6才から8才までの山について、かこは次のように言っています。

 図を見れば明らかなように、この小学校前期に子どもの脳の重量増加のもう一つの山がおとずれている。体の成長や運動能力の増大は、ますます活動圏を大きくし探究活動の機会をあたえ、加速度的に脳のからみあいを進めてゆくが、ここでの大きな原動力となっているのは、言語のもつ作用である。 (同書190p) 

◇また、岡本夏木は、子供の言葉の発達を「一次的ことば」「二次的ことば」という概念で考察しています。(『ことばと発達』岩波新書)
 「一次的ことば」とは、子供の日常会話であり、「二次的ことば」は、あることがらについて、それが実際に起こる現実場面を離れたところで間接的に表現し伝えようとすることばのことです。そして、特に書き言葉がこれを発達させるとしています。(模式図参照)                                           
◇幼稚園の年長と1年生の話しことばと書き言葉を丹念に比較したものに『子どもの文章』(内田伸子著 東京大学出版会)があります。その中から、2つのグラフを紹介します。説明がなくても、 子供の言語の発達のすごさが分かることでしょう。

 【その他】 
◇1年生の教室でよく見られる風景。
 教師が何かについて説明し始めると、
A君「知ってる、知ってる!」 
教師「じゃあ、A君に説明してもらおうかな。」
A君「忘れた!」  
教師「じゃあ、先生が言うね。これはね…(説明する)」 
A君「やっぱり!」 

 これは、メタ思考(メタ記憶とも言われる)が未発達なために生じる風景です。メタ思考も児童期初期に著しい発達が見られます。「自分が分かっているのかどうか」が分かるようになるのです。フラベルらは、子供の年齢に応じた枚数の絵を子供の前に並べ、すべての絵を覚えたらベルを鳴らすようにと指示を出しました。4〜5才の子供たちは、ベルを鳴らしても、すべて報告できる子は少なかったのですが、8才になるとほとんどが正しく報告できました。 

◇課題意識  
 ツワイゲルは、赤と黄色のカードをいろいろな年代の子供に分類させる作業の中で、課題意識をどの程度意識しているかを調べました。グラフを読むと、児童期には課題意識がほぼ完成することが分かります。幼稚園の活動と生活科との違いを考えるとき、この課題意識に着目するのが有効でしょう。

Q4
 4〜5才の子供を対象とした有名な実験にピアジェの「保存」実験があります。2つの同じ大きさの容器に入れた同じ量の水の片方を、細長い容器に移し替えて、水の量が同じかどうかを尋ねます。多くの子が細長い方が多いと答えます。ここからピアジェは、幼児には数量の保存ができないと主張したのです。                     この後、ゲルマンは、おもちゃのネズミを使っての「手品実験」を試してみました。2匹のネズミと3匹のネズミをおおい隠します。3匹のネズミの方を開けると「当たり」となります。何度か遊んだ後、「当たり」の3匹のネズミの並べ方をくっつけたり離したり、または意地悪に一つ減らしたりしてみたのです。結果はどうだったでしょう。
@かえって混乱が激しくなった。
A水と同じように保存はされなかった。
B数量をかなり正確に指摘した。
Cその他 

【発達は状況によって変化する】 
 Q4の問題は、ピアジェが「前操作期」から「具体的操作期」と呼ぶ時期にかけての「保存」実験からの出題です。
 先に挙げた「自己中心性」とも関連がありますが、「保存」も子供のものの考え方を知るには好適な特性です。ピアジェによれば、保存性の認識が成立するには、次の3つの要素から成る「論理性」が必要であるといいます。
 @同一性〜同じものは形が変っても同じである
 A可逆性〜元に戻したらどうなるか
 B相補性〜高くなった分だけ幅は狭くなっている
 ところで、Q4の正解はBです。ゲルマンの実験では、「当たり」を確かめようとした幼児は次のような反応を見せました。
 @変化が生じたことにびっくりした。
 A減ったネズミを探そうとした。
 Bはっきりと言葉で変化を指摘した。
 ここに、ピアジェの主張である「幼児は数量の保存ができない」は否定されたことになります。幼児期は前操作期であるから、数量概念を論理的に操作することは困難であると思われてきましたが、幼児の知識レベルをうまくとらえて、また問題に対する意欲を喚起しながら課題に向かわせれば、幼児にも操作的な思考が可能であったのです。
 私が所属する北海道生活科教育連盟の冬の宿泊学習会において、この話題を取り上げたところ、旭川付属幼稚園(当時)の岩崎氏からは、次の2つの指摘がなされました。
・まず、「数量」と一口に言うが、「数」と「量」では圧倒的に「数」の方が保存されやすいという傾向にある。氏の園で、子供たちにお菓子を配ったときのことである。大きなせんべいをいくつかに割って子供たちに配る。その際、教師の方ではできるだけ同じ「量」になるように「大きなもの1個」と「小さなもの2個」で配ろうとした。ところが、子供たちは「それじゃずるい」と言うのだそうだ。「2個のほうが多い」と。そこで、「おおきな1個」を割って2つにすると、それで満足するという。
・また、お弁当を食べるときにお茶をそれぞれのコップに入れて回る。その際も、いろいろな径のコップがあるので、配る方はできるだけ同じ「量」になるようにしようとするのだが、子供たちは お茶の「高さ」に着目し、「多い、少ない」と言うのだという。

 こうしてみると、ピアジェの実験は「量」、ゲルマンの「数」を扱っているので、そこに差異が生じたと見ることもできます。
 また、岩崎氏は「幼児は、同じことを扱っても、ちょっとした言葉づかいやその場の雰囲気などでその理解に大きく差が出る」と言います。ピアジェとゲルマンそれぞれの実験に使われた言葉や雰囲気は、かなり違っています。 
 第1に、ゲルマンの実験方法の方が、幼児にとって「楽しい」ものであることは自明でしょう。容器の水の移し替えは、「抽象的」「静的」ですが、かくしていたネズミを見つけるのは、「具体的」「動的」です。「当たり」が仕組まれていることも楽しさをいっそう駆り立てるものでしょう。ネズミは、子供にとって親しみのもてるものです。
 第2に、幼児に判断を表現させるとき、ピアジェの方法は「言語で表現させる」ような設定となっています。それに比べてゲルマンの方法は、「具体的な動き」で表現ができます。ゲルマンは、子供の認識を探るのに、言語に頼らずに表情や動きから探ろうとしたのです。その結果、言葉による指摘までもが表出したのです。
 第3に、何度か繰り返して遊んでいることです。遊ぶことで、ネズミや実験者、あるいはその場に対する親しみが強くなり、幼児は安心してこの実験に集中できたことが想像できます。また、ネズミのシェマが形成され、それが後の変化への気付きへと結び付いたことも想像に難くありません。
 このように、発達の様相は状況によってかなり変化するものです。もちろん発達段階をおおまかにとらえておく必要はあるでしょうが、具体的な場では「ちょっとしたこと」によって子供の活動や表現が左右されることも押えておきたいものです。そして、「どうせ、できないだろう」などという目で子供を見るのではなく、どこまでも有能な学び手として、大いなる可能性に満ちた存在として子供をとらえていきたいのです。


Q5
 これまで、子供は生まれながらにして能動的であると述べてきましたが、実際の授業場面では全員が能動的だとは言えない場面もよく目にするところです。次の子供たちは、どうも環境に積極的に働きかけられないようですが、さて、その心理は? 
A お年寄りとの交流場面。楽しい遊びの活動が始まっても、教室の片隅でぼんやりとみんなの活動を見ている。さっさと活動に入ってくれればいいのに…。  

B 校区の地図づくりを黙々と続けている子供たち。手は動いているのだけれど、何かものたりない。そうだ、表情の輝きが足りないようだ…。 

@AもBもスペシャリストタイプの子である 
A人間はオポチュニストだが、中には消極的なタイプもある。
Bタイプではなく「病気」である。 
Cその他  

【楽しさの心理と生理】 
 AもBも活動に消極的に見える。これは、タイプの問題なのでしょうか。意外かも知れませんが、心理学では、このような状態を「病気」と考えます。というより、心理学では人間の存在そのものを、「本来が、知的好奇心をもち、生き生きと前向きに生きるもの」と考えており、それが何らかの障害によってうまく発揮されない場合には、その人の心を解きほぐすことを考えるのです。これがカウンセリングの基本原理です。
 AとBの子供の内面を一言で言うなら「楽しくない」という状態です。消極的なのは、「知的好奇心が発揮されず、したがって生き生きと前向きに活動もできない」ということです。では、人間にとって「楽しい」とは、どのようなことなのでしょうか。
 ここで大脳生理学に話が飛びます。人間が環境に働きかける際には、ドーパミンやアミンなどと呼ばれる物質が脳に分泌されます。これは、実は青酸化合物よりも毒性の強いもので、ごく微量でも人間の諸機能に多大な影響を与えるそうです。
 少量のときは、心身は刺激を求めて、諸機能は拡散します。これは「退屈」状態です。
 過度のときは、心身が畏縮し、諸機能は低下します。これが「不安」状態です。
 適量のときは、心身が活性化し、諸機能は集中・上昇島します。これが「楽しい」という状態です。

 実際、私たちが意欲的に仕事をしていると、脳がひじょうに活性化してドーパミンというホルモンがふんだんに出てきます。ドーパミンというのは人間に意欲を起こさせるホルモンですが、出過ぎるとエネルギーを使い過ぎて早死にしてしまうのです。
 死ななくても精神分裂病とか癲癇のような症状を起こす。出なければ出ないでパーキンソン病や痴呆になってしまいますが、出過ぎるのも問題です。過去に天才といわれる人物が早死にしたり脳の病気が多いのは、ドーパミン過剰と関係が深いと考えられます。
   (『脳内革命』春山茂雄著 サンマーク出版 30p)

 子供の例で考えてみましょう。
 幼児をはじめての場所に置くと、キョロキョロし、落ち着きません。が、しばらく時間がたつとあちこち動き回るようになります。これは、はじめのうちは環境の「新奇性」刺激が強すぎ、諸機能がその刺激をうまく処理できずに不安だったのが、時間がたって処理が進むとともに諸機能が上昇し、心身が活性化してきて「楽しい」という心理状態になったと解釈できます。
 Q5のAは、「不安」状態の子供の姿です。これらの子供にとって、お年寄りとの活動はかなり抵抗の大きいものです。脳では、活動や場に対する対応として、ドーパミンやアミンが大量に分泌され、諸機能が低下しているのです。こういう場合、表情は固くなり、呼びかけても返事も出来ないことも多いようです。
 Bの子供たちは「退屈」状態です。諸機能は拡散しています。「もっとおもしろいことないかな」と目は、あちこちをさまよっています。そして、「ま、こんなもんでいいだろう」と作業を続けて行くのです。(ただし、何か心配なことなどがあって、「心ここにあらず」というときも、諸機能は低下します。もっともその場合は目はあちこちをさまよわずにいることが多いのですが。)
 『脳内革命』では、さらにマズローの欲求段階説と脳内物質との関連についても触れ、「自己実現」の欲求レベルで行動することこそ真の「喜び」につながることを論証していますが、ここでは割愛しておきます。
 「不安」も「退屈」もオポチュニストにとっては、望ましくない状態です。この状態がいつも繰り返されると、自らの体を守るために、あえて「がんばらない」という構えが形成されてくるのです。
 教師に必要なのは、その環境の「新奇性」刺激が、その子にとって強すぎないか、弱すぎないかをその表情から解釈することです。(この「解釈」力は、教師の力量のひとつでしょう。) 
 そして、「不安」状態の子には安心させて、諸機能の上昇を待ち、「退屈」状態の子には環境や活動の「新奇性」を高める働きかけをしていく、これがまさに支援でしょう。
 なお、ここまで「働きかけ」という言葉を使い、あえて「支援」という言葉を避けてきました。それは、心理学における「支援」という言葉と、現在生活科で使うそれとの間にカテゴリーの食い違いが見られるからです。
 では、次に心理学の「支援」を見てみましょう。
 生活科では、「支援」は教科の中核をなす概念です。そして、「支援」は、心理療法の流れから入ってきた考えでもあります。 


Q6
 「支援」の本家である心理学には「強制・命令」という形の支援はありうるでしょうか。 
@よくある 
Aごくまれにある 
Bまったくない
Cその他                    

【支援は、すなわち関係である】
 心理学では、「支援」の関係をカウンセリングと呼びます。伊東博は、「カウンセリングとは教育相談などではなく、『援助の関係』(helping relationship)である。」とし、以下のようにまとめています。すなわち、支援者Aは、つまづいているBに対して「こうした方がよい」だの「これをしなさい」だのといった、相手の行動を指し示すような助言を行なうのではなく、Bが自ら変化できるような、AとBの関係を作ることに力を注ぐというのです。 

 教師は、児童・生徒を「教え」たり、「しつけ」たり、「指導」したり、「なおし」たりすることはできないのであり、教師の任務は、児童・生徒(個人であれ、集団であれ)と「関係」をつくることなのである。いい換えると、児童・生徒の成長や学習が、もっともよく促進するような「関係」をつくることなのである。  (『援助する教育』伊東博著 明治図書 46p)

 また、ロジャース(伊東はロージァズと表記している)は、言っています。

 わたくしはとうとう決意しました。この想像上の杖(魔法の杖…横藤注)をひと振りして、あらゆるレベルの、すべての教師に、彼らが教師であることを忘れさせてしまおう、と。これでありとあらゆる教師が、完全な記憶喪失にかかり、長年苦心惨憺して獲得した教授技術(teaching skills) を、全部忘却してしまうことになります。あなたがた教師は、もうまったく教えることができなくなったことに気づくでしょう。その代わりあなたがたは自分には純粋性(genuineness) 、尊重(prizing) 、そして感情移入(enpathy) という学習の促進者(facilitator of learning) としての態度が残されており、そうした技能を所有しているということに気づくでしょう。
  (『人間中心の教師』カール・R・ロージァズ著 伊東博訳 岩崎学術出版社 35p)

 カウンセリングを生業とする臨床心理学者たちは、おおむね基本的には上のような「支援観」をもっているようです。生活科に「支援」という言葉が入ってきたときに、「指導はやめて」という付録もついてきたのは、こうした背景もあってのことだと考えられます。 しかし、「指導はしないで、支援を」は、一歩間違えると指導以上の弊害を起こします。 
 野田俊作は、言っています。

 ある心理学者たちは、「子どもに全面的にまかせて、どこまでも自由にさせておけば、それでかならずうまくゆく」と主張しています。これは嘘です。トウモロコシの苗なら、水をやって日光にあてておけば大きくなるかもしれません。人間はそうはゆかないのです。学ぶべきことを学ばなければ、ちゃんとした大人にはなれないのです。何でも容認するアナーキスト教師は、ときにはこのような誤った心理学で武装しています。(中略)
 「愛があればそれでいいじゃないか」という反論があるかもしれません。たしかに教育には愛が必要です。しかし、一方で技術も必要なのです。(中略)アナーキスト教師には何の技術もありません。それなら、誤った技術を身につけたファシスト教師の方が、ある意味ではまだましであるかもしれません。ファシスト教師のクラスでは、子どもたちは、たとえ恐怖心からであっても、ともかく前進しますが、アナーキスト教師のクラスの子どもたちは、その場に留まってしまうか、あるいはかえって退行してしまうからです。(中略)
 このような教師のクラスは、やがてばらばらになってしまい、有機的な統一体としての生命を失ってしまいます。(中略)教師と生徒、生徒と生徒は、ただ物理的に一緒にいるだけで精神的にはまったく疎遠でばらばらなのです。そのようなクラスは、集団ではありますが、組織ではありません。およそ関係と呼べるようなものが存在しないのですから、それはただの群衆です。
  (『クラスはよみがえる』野田俊作・萩昌子著 創元社 75p)

 一見対立するような主張ではあるが、「関係」の重要さでは共通しています。心理学者は「支援」を従来の「指導=強制・命令」のイメージとは違う次元のものとして考えているのです。しかし、例外的に「強制・命令」的なカウンセリングを行なう場合もあるようです。河合隼雄のカウンセリングに次のような事例があります。

 「不純異性交友」という項目が、少年非行のなかにある。中学生や高校生などが、いわゆる桃色遊戯にふけったりする場合である。 多くの男性と性関係を持つ、ある女子高校生に会った。彼女は自分のしていることが、どうして悪いことか、分からないと主張する。自分は自分の好きなことをしているだけであって、だれにも迷惑をかけていないのに、どうしていけないのか。大人たちはうらやましいから何とかケチをつけているだけではないか、となかなか厳しいことを言う。一般に、彼らの論理は鋭いので、それに耳を傾けていると、ひょっとして彼らの方が正しいのではないかという気さえしてくる。好きなものの関係が不純で、好きでもない関係だのに夫婦であれば純粋というのか、とつめよられてたじたじとなった高校の先生もいる。
 私は彼女の話を熱心に聴いた。ともかく相手の話を聴くことは大切だ。彼女の話がひととおり終わった時、私は言った。「世の中で、してはならないことには二種類あって、説明がつくのと理屈抜きで悪い、というのがあります。あなたのしていることは後者の方で、ともかく理屈抜きで絶対にやめるべきです。」これで問題が片づいたわけではないが、ともかく彼女はそれ以来男性関係を断った。
  (『新しい教育と文化の探究』河合隼雄著 創元社 172p)

 ここには、禁止の「強制・命令」が支援となった事例があります。まれには、こうした場合もあるのです。しかし、これも「ひょっとして彼らの方が正しいのでは」というような素直さで、「熱心に話を聴いて」いるうちに、河合と少女の間に「関係」が生まれたからこそ成立した「支援」であったのは想像に難くありません。
 では、「支援的でない関係」とは、一体どのようなもので、また、なぜ生じるのでしょうか。  

(前略)「良い教師は穏やかで優しく、常に冷静で、感情をあからさまにしない」「良い教師は自分のありのままの感情を生徒に見せない」「良い教師はえこひいきしない」「良い教師は態度が首尾一貫していて、ときに応じて態度を変えたり、より好みしたり、感情の起伏を表に出したり、間違ったりすることはない」「良い教師は生とが何を質問しても答えられる」等の「良い教師」に関する様々な〈神話〉があると指摘し、生身の人間にはとうてい達成できないこのような理想を達成しようとすれば、先生は、自分を隠し、あたかもこのような完璧な人間であるかのようなふりをするいつわりの役割演技に追い込まれざるをえないと言います。
 一方、このような神話は、それを達成できない時には、「私は教師としては失格だ」という良心の呵責を伴って教師の神経をジリジリと痛めつける始末の悪いものであることは、教師の心の中の迷いや葛藤に触れたことのある人なら、誰でもうなずくことがらでしょう。(中略) 
 子どもを一定の方向に動かし、「あるべき姿」に向かって教え導く時には、つまり指導的な立場に立つ大人の言うことを子どもが「よく聞く」ような関係を作るためには、大人は子どもが仰ぎ見るような、完全さを備えた、一段上の「権威」でなければならないという暗黙の〈神話〉に教師もまたわれわれ大人の多くと同じように深くとらわれているのでしょう。
 そして、このような権威関係が崩れそうになった時には、新たに〈力〉を持ち出し、子どもよりも大きな力をもつ「権力」として君臨し、有無を言わさず力づくで子どもを支配しようとする方向に動かされていきます。(中略) 
 教える立場に立つ大人としての教師が、子どもとの間に、柔らかで、率直な、生きた、楽しい、意味のある関係を築くことは、実はとてつもなく難しいことなのです。 
  (『子どもと教師のもつれ』近藤邦夫著 岩波書店 185p)

Q7
 「関係」が「支援」の中心となるのであれば、ある子のそばで、一言も発せずそこに「いるだけ」という支援も存在するのでしょうか。
@そこに「いるだけ」でも支援になりうる 

A「いるだけ」じゃあねえ…                              

【そこに「いるだけ」ということ】 
 心理学ではそこに「いるだけ」でも、支援になりうると考えます。

 4〜6歳頃の子どもは、何かつぶやきぶつぶつ自問自答しながら遊んでいることが多い。そしてその言葉は、おとなには理解しにくい、子ども自身の言葉である。ピアジェはこれは子どもの自己中心性を示すものであって、この時期を終わってはじめて、子どもの社会性は発達してくると考えた。これにたいしてヴィゴツキーは、子どもの社会性の発達は、ピアジェのいうようなものではなく、子どもは社会的存在として生まれてきたと考える。だから、自己中心性を示すようにみえる子どもの言葉は、じつは不特定の周囲のおとなに向けられたものである。そしてそのおとなに代わって、自分が答えているのである。これが他とのコミュニケーションの手段としての外言から、自己とのコミュニケーションの手段としての内言への移行の、過渡段階である。
 子どものそばにおとながいるだけで、子どもの自己中心言語は増え、また子どもの問題解決の成績は向上する。一人ぽっちより、誰かがそばにいるだけで成績が上がったわけである。ヴィゴツキーは、つぎのように解釈する。子どもは、そもそも社会的存在であるのだから、適当に組織化された社会的関係のなかに置かれるならば、子どものつぎの発達課題であるものを、達成することができる。子どもは最初は一人だけではできないが、大人の助けを借りて達成していくなかで自分のものとする。このような、「子どもが現在いる関係領域よりも高い発達段階で、子どもが占めることのできる関係領域」を「発達の最近接領域」と呼んだのである。
  (脳のはたらきと子どもの教育』坂野登著 青木書店 120p)

 ここで、またしても「関係」が出てきました。もう一例は、「いるだけ」でもよい、というよりも「いるだけ」こそが支援の基本であるという主張です。                     

 (前略)「どこへでも行って好きなように遊んでいなさい」と放っておいても、よくはならないのである。そこに私(教師ー横藤注)がいるということは、思いのほかに重要なのである。自分の行為に関心をもって見守ってくれる人が存在することによって、その子どもに潜んでいた可能性が動き始めるのである。
 自由ということを誤解する人は、子どもを放任しておくとよいと思っている。しかし、それでは駄目である。子どもの傍にいて、関心をもって見守ってくれる人がいることが、子どもの自己表現の力が表出されてくるための要件なのである。「関心をもって見守る」ことは、簡単なようで難しいことである。(中略) 
 このように考えると、教師は外から見ると何もしていないように見えながら、心のなかでは大いに仕事をしていることがわかるのである。あっちへ行っては「やめなさい」と言い、こっちへ行っては「こんなふうにしてはどう」と教え、大活躍をしているように見える先生は「専門家」とは言えない。「あの子、あれで大丈夫かな」、「けんかをしているけれど、もう少し子どもたちにまかせてみよう」などと心の中が大車輪で動いていても、落ちついてそこにただいるだけというのが、理想の教師と言えるのではなかろうか。
  (『子どもと学校』河合隼雄 岩波新書 97p)

 ここで、このページの冒頭に「支援になりうる」と言ったが、「支援になる」とは言わなかったことに注目していただきたいのです。子供にとって、そこにいる大人(教師)が、「無意識のうちに語りかけている」「関心をもって見守ってくれている」と感じられるような人間であることが、子供のとの「関係」づくりにまず必要だからで、そういう場合なら十分「支援になる」のであって、「だまっているのが一番よい方法だ」などと早合点をしてはいけないのです。言葉も「関係」づくりには重要なものであることはいまさら言うべきことではないでしょう。
 では、次に支援の「言葉」について学んでみましょう。
 トマス・ゴードンは言います。

 子供への接し方が効果的か否かの違いは、「あなたメッセージ」と「わたしメッセージ」の違いといえばわかりやすいと思う。(中略)

「あなた」の入るメッセージ 
  ・やめなさい。
  ・そんなことしちゃいけません。
  ・やめないんだったら…。
  ・こうしたらどう?
  ・いたずらっ子ね。
  ・赤ん坊みたいじゃないか。
  ・人の注意を引こうとして…。
  ・どうしていい子になれないの。
  ・もっとよくわかっているはずでしょ。

 ところが、子供の行動が親に受容できないから、親はどう感じているかということだけを子供に話せば、これはふつう「わたしメッセージ」になる。
  ・だれかが膝の上にのぼろうとすると、ゆっくり休めないんだがな。
  ・疲れているときは遊びたくないんだよ。
  ・時間までにご馳走の支度ができないんじゃないかしら、心配だわ。
  ・きれいなお台所がまた汚れてると、ほんとガッカリしちゃうわ。(中略)
 子供の行動が、親の楽しみや親自身の欲求充足の妨害をするので親に受容ができない場合、問題を「所有する」のは、あきらかに親である。親は怒り、落胆し、疲れ、心配し、困惑し、負担を感じる。そこで、自分が何を考えているかを子供に知らせるためには、適切な記号を選択しなければならない。 

  「あなたメッセージ」 

  親                                     子供 
疲れている →  記号化のプロセス  →→「うるさいなあ…」→→   解読のプロセス → 「私は悪い子」

  「わたしメッセージ」 

 親                                       子供 
疲れている →  記号化のプロセス  →→「私は疲れている」→→  解読のプロセス → 「パパは疲れている」

 (『親業』トマス・ゴードン著 近藤千恵訳 サイマル出版会 109p)

 このように言葉一つで、子供の受け取り方は正反対といってもよいくらいのものになるのです。子供との「関係」をよいものにするには、「わたしメッセージ」のような言葉が有効であると言えるでしょう。
 人間関係をよくする方法について、野田俊作氏は言います。

 よい人間関係というのは、ヨコの関係だといいましたけれど、それはべつの言葉で言えば、おたがいどうしが、勇気づけをし合える関係だということですね。勇気づけというと、あっ、ほめるんですか? とよく言われるけれどそうじゃないんです。ほめるのはね、勇気くじきなんですよ。叱るのはもちろん勇気くじき。(中略)
 ほめるんじゃなくて勇気づける。それはごく微妙な違いです。(中略)では、なぜ「ありがとう」とか「うれしい」だと勇気づけられて、「えらい」「がんばったね」だと勇気づけられないのかというと、「えらい」は“あなたメッセージ”だから。「あなたは良い、あるいは悪い」というのを、こちらが判断している。「うれしい」とか「ありがとう」というのは、こちらがどう感じているかを言っている「わたしメッセージ」です。相手をいいか悪いか判断するのは、勇気くじきなんです。
 こちらが判断する人であれば、当然相手よりえらい。点つける人はつけられる人よりえらいですからね。そこにタテ関係がある。
  (『続アドラー心理学トーキングセミナー』野田俊作著 アニマ2001 104p)

 また、タテの関係の悪さを以下のようにまとめています。 

 人間のもっとも根元的な欲求は『所属欲求』であると私たちは考えています。人間にとって、集団に所属する欲求は、生存の欲求よりも強いのです。(中略)  
 子どもだって同じことです。あなたのクラスのすべての子どもは、「クラスの中に自分の居場所を確保する」ことを目標にして行動しています。(中略)
 クラスが競争原理にもとづいて運営されるていると、子どもがクラスに所属することは、そう簡単ではありません。(中略)そのような場で子どもたちが展開する作戦には次の5つがあることが知られています。 
1.賞賛を求める(いい子でいてほめられよう) 
2.注目を引く (なんとしてもめだとう)  
3.権力闘争をしかける(勝とう、少なくとも負けないでいよう)
4.復讐する  (相手にできるだけダメージを与えよう)
5.無能力を誇示する(見捨ててもらおう)
   (『クラスはよみがえる』野田俊作・萩昌子著 創元社 46p)

 そして、勇気づけの具体的な方法を以下のようにまとめています。 (『続アドラー心理学トーキングセミナー』野田俊作著 アニマ2001 113p) 
 
           勇気づけ(エンカレッジメント)

勇気づけるメッセージ 勇気をくじくメッセージ
貢献や協力に注自する
あなたのおかげでとても助かつた
あなたが嬉しそうなので、私まで嬉しい
勝敗や能力に注目する
あなたはほんとうに有能だ
えらい、よくやつた
過程を重視する
努力したんだね
失敗したけれど、一生懸命やつたんだね
成果を重視する
いい成績だ.私は満足だ
いくら頑張ったって、結果がこれではね
すでに達成できている成果を指摘する
この部分はとてもいいと思う
すいぶん進歩したように思う
なお達成できていない部分を指摘する
全体としてはいいが、ここがだめだな
ここをもう少し工夫するといい
失敗をも受け入れる
残念そうだね。努力したのにね
この次はどうすればいいだろうか
成功だけを評価する
失敗してはなにもならない
いったいなぜ失敗したんだ
個人の成長を重視する
この前よりもすいぶん上手になつたね
一度くらい後戻りしてもいいじやないか
他者との比較を重視する
あの人よりもあなたのほうが上手だ
あの人に負けていてどうするんだ
相手に判断をゆだねる
あなたはどう思う?
一番いいと思うようにすればいい
こちらが善悪良否を判断する
それはよくない、こうしたほうがいい
ここはよくできた.しかしここはだめだ
肯定的な表現を使う
気が小さいんじやなくて慎重なんだろう
謙虚に反省しているんだね
否定的な表現を使う
気が小さいね。もつと気を大きく持て
メソメソするんじやない
「私メッセージ」を使う
(私は)そのやりかたはすきだ
(私ほ)そのやり方たをやめてほしい
「あなたメッセージ」を使う
(あなたの)そのやりかたはいい
(あなたの)そのやりかたをやめなさい
「意見ことば」を使う
あなたは正しいと思う
あなたの意見に私は賛成できない
「事実ことば」を使う
あなたは正しい
あなたの意見は間違つている
感謝し共感する
協力してくれてありがとう
やる気があるので嬉しい
賞賛し叱陀激励する
よく働いてえらいね
もっとがんばるんだよ

 この表の中にあるようなカテゴリーの言葉こそが、心理学の考える「支援」の具体例です。今後の授業研究で、教師の行為は「支援になったのか」を判断する際の大いなる参考になるのではないでしょうか。
 教師と子供、子供と子供の「関係」こそが、心理学における「支援」の中心概念を占めていることがお分かりいただけたことと思います。では、「よい関係」の中では、実際にどのような成果があげられるのでしょうか。


 【「関係」づくりの成果】

よい人間関係の中にあると、人間は精神的に安定し、自分の目標を適切に定めることができます。それを示すのが、右のグラフです。

 これは、アトキンソンが大学生対象に行なった実験であるが、性格検査で「不安度が高い」と判定されたグループと「低い」と判定されたグループのそれぞれに、輪投げに挑戦してもらった。すると、「高い」と判定されたグループでは、中程度の困難度の位置から投げた人が多かったのに対し、「高い」グループでは、非常に近い場所や非常に遠い場所から投げた人が比較的多くなっている。これは、精神的な安定度が、目標設定の重要な要素となっていることを表わしていると考えられる。

  (『学び方・学ばせ方の心理学』北尾倫彦著 創元社16p)                                          
 また、教師の子供との接し方を「親和・統率型」「親和型」「統率型」「放任型」の4つに分けて、子供の学級所属意識を調査したところ右のような結果になりました。
 「親和・統率」とは、やさしく、よく話を聴いてくれる一方で、ときにはガキ大将となって、リードしていくタイプがイメージされるでしょう。そしてここでも、やはり放任はよくないことがわかります。

 (『教師が変われば子どもも変わる〜望ましいピグマリオン教育のポイント』 浜名外喜男ら著 北大路書房 109p) 
 ここまでを見ると、我々教師が使う「支援」と心理学のそれとにはズレがあるように思われます。生活科授業で言われる「直接的支援」よりも「間接的支援」の方により近いようです。いや、それよりもっと基本的・根源的なところに心理学の支援の概念はあるようです。
 今後は、こうした点を意識しつつ、場合によっては「直接的支援」も大胆に取り入れて授業を展開していきたいものです。 

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