総合実践で育つ子供

■ある会で「総合的な学習をちゃんとやっているかどうかは,そこで育つ子供の姿で決めるべきだ」というお話をさせていただいた。けっこう刺激的な話だったらしく,話の後しばらく話題がとぎれなかった。話の趣旨は,以下の通りである。

■総合的な学習が単なる「体験学習」で終わっている例を多く目にする。(それでも,しないよりはずっと良いが。)「体験学習」は,体験することに目的がある。しかし,総合は体験の中から,あるいは中で学ぶ学習である。「体験的学習」なのである。(テーマを決めて調べ学習に入るための,あるいは確かめるための体験はもちろん重要であり,体験をしなくても良いと言っているのではない。念のため。)
では,「体験的学習」と単なる「体験学習」では,子供の姿はどのように違ってくるだろうか。

■総合実践で育つ子供の姿を次のように想定すると,目指すべき方向も見えるし,チェックもできて良い。5点挙げてみよう。

No. 総合で育つ子供の姿
自発的な読書量が増える。
インターネットの特に活字部分を活用することができる。
未知の人に対して,礼儀正しくはきはきと接することができる。学級の仲間の「持ち味」を素直に認める。
表やグラフを描いたり,作文用紙4,5枚の文章を書いたりを苦にしない。
「先生,私は今度はこうしたいんです。」という申し出をすることができる。

■以下,簡単に解説する。

自発的な読書量が増える。

総合的な学習の中心は,調べ学習である。
調べ学習がちゃんと(正常に)推進されていれば,自然に自発的な読書量が増える。それも,現代の課題に直結するようなテーマの本も含めて,である。(当然の副産物として小説類の読書量も増える。要するに読書量全体が増える。)
新聞も,マンガやスポーツ欄だけでなく政治欄や社会面にも目を向けるようになるはずである。

インターネットの特に活字部分を活用することができる。

読書量の増大が見られれば,総合の調べ学習において盛んに行われているインターネットの活用においても,活字部分の活用能力が高くなるはずである。
適当なホームページをプリントアウトして,大きな紙に貼り付けて調べ学習終わり,というようなほとんど無意味な作業は活字の活用という意識が希薄であるところから生じる。

未知の人に対して,礼儀正しくはきはきと接することができる。学級の仲間の「持ち味」を素直に認める。

たとえばどこかに出かけて,あるいは電話で取材するときなど,調べたいという強い意志があれば子供同士で顔を見合ってもじもじしたりはしない。知りたい情報が得られれば,相手に対して言う「ありがとうございました。」という言葉にも命が宿る。
追求するテーマは違っても,真剣な調べ学習の姿や,テーマへの着眼点,そのプレゼンテーションなどから,他の子のよさや持ち味を感じるはずである。
特に高学年になると,学級内に小さなグループができ,時にはそのグループ外のメンバーに排他的になるような場面も見られるが,総合実践をちゃんとやっていれば,そんなつまらないことも消えていくはず。

表やグラフを描いたり,作文用紙4,5枚の文章を書いたりを苦にしない。

算数や国語の学習を,生きた場で発揮するのが総合である。カードや発表物に表やグラフはあるだろうか。
また,蛇足だが学習指導要領の国語には,各学年の作文の時数が定められている。

(5) 第2の各学年の内容の「B書くこと」に関する指導については,文章による表現の基礎的な能力を養うことに重点を置くこと。また,文章を書くことを主とする指導については,第1学年及び第2学年では年間90単位時間程度,第3学年及び第4学年では年間85単位時間程度,第5学年及び第6学年では年間55単位時間程度を配当するようにするとともに,実際に文章を書く活動をなるべく多くしたり特に取り上げて指導したりすること。

これを実現するためには,
・総合の時間には「企画」「取材」「プレゼン」
・国語の時間に総合のテーマについて「作文」
という図式で取り組むというのが,自然に標準的な図式になる。

「先生,私は今度はこうしたいんです。」という申し出をすることができる。

自らテーマを決めての調べ学習を自分のアイディアと力で進めるのである。教師の指示待ち,あるいは適当なところでお茶を濁したり形を作ったりするのとは反対に,子供の方から企画を打ち出したり,要求をしてくるのでなくては本物とはいえない。(それも,単に「終わらなかったから次の時間も総合にしてえ。」などというふにゃけた要求ではなく。)
ときには,教師の指示に対してもきっぱりと自分の意志を表明するような,そんな自立的な子供の姿をこそ目指したい。

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