登校拒否を乗り越えた3日間全員で跳んだ跳び箱
(1980年,札幌市立太平小学校3年生の学級通信より)


長いので,ジャンプできるようにしました

8月27日〜小森さん登校拒否,みんなで迎えに
8月28日〜跳び箱全員跳び越しに挑戦(1)
8月29日〜跳び箱全員跳び越しに挑戦(2),そして小森さんは…
99年のコメント


  8月27日(水)
  クラスは,いうまでもなく一つの集団である。それも育ちつつある子供たちの集団である。子どもたちの豊かな可能性は,クラスの中で引き出されていくのだから,クラスはいつも理想の集団に近づく努力をしなければならない。きびしく言うならば,クラスはいつも恥とか怖れとか,エゴイズムとか安易性とかいうものと闘い続け,クラスの全員で創っていくものである。私はそういう考えで,子どもたちにもよく「クラスをみんなで創るんだ」「みんな一人残らず」「一人はみんなのために」「まちがいを出し合っていいクラスにしよう」と呼びかけている。
 さて,今日のこと。
 朝,始業のベルが鳴って,私が教室に入っていくと,かなり空席が目立つ。カバンのある席が多いので,きっと忘れ物を取りに行ったのだろうと思う。やがて席が埋まり,授業がスタートする。欠席は,林君と小森さんのようだ。林君はおたふく風邪で,昨日数人の子とお見舞いに行っていたので,その話を子供たちにも聞かせてやった。そして,林君の勉強はどうしようかと相談すると,もうおたふくにかかった子どもたちが,放課後交代で教えに行くということになった。その後,「小森さんはどうしたんだろうね。」と言うと,加藤さんが朝一緒に学校に来る途中,小森さんが忘れ物に気付き,引き返したがそれっきりなのだと言う。
 すぐに小森さんの家に電話を入れて,お母さんに事情を聞いた。すると,忘れ物に気付き引き返した。家に着くともう8時35分で,朝の活動が始まっている時間だ。そう思うと行くのがおっくうになってしまった。お母さんがそれでも行きなさいと言うと,今度はおなかまで痛くなってきてしまった。それでお母さんもどうしたものかと困り果てていたということだった。
 一応の事情を聞いて,受話器を置いた私は,暗たんたる心持ちになってしまった。
 1学期の間,私は楽しい学級,授業に寝る間も惜しんで頑張ってきたつもりだった。明るく仲の良いクラスの雰囲気づくりに力を入れてきたつもりだった。そして,それはある程度の効果が上がったかのように思っていた。家庭訪問で,懇談で,職員室で学級のことをほめられて,私はいささか得意でもあった。しかし,小森さんにとってはそうではなかったのだ。いや,おそらくは他の子も学校へ来ることが楽しいなどと言ったり書いたりしていても,本当にそうかどうかと言えば,何も自信がない。
 私は自分で自分をなぐりたいと思った。すぐに学校を抜け出してどこかの野原にひっくり返っていたいとも思った。
 しかし,逃げ出すわけにはいかなかった。教育の仕事は常に前向きの闘いなのだ。甘ったれるなと自分に気合いを入れ,クラスへ戻り,事情を子供たちに聞かせた。そして,どう思うか,どうしたらいいと思うかをたずねてみた。
 「林君も休んでいるのに,小森さんまで休んだら3年2組でなくなる。」
 「遅れて来ても誰も笑ったりしないのに。」
 「小森さんはズル休みになっちゃうよ。」
 「来ればいいのに。」
 「来ればいいのに。」
 「先生,迎えに行こうよ。」
 「みんなで連れて来ようよ。」
 クラスの意志は固まった。ここまでの話し合いを,私は一切誘導はしなかった。約15分くらいの間に,全員で小森さんを迎えに行くことになった。私はホッとしたような気もしたが,何かモヤモヤしたものが依然胸中にあった。それは,1つは子供たちが一人残らず本心から小森さんを連れ戻そうと思っているのだろうかという疑いである。この子たちはひょっとしてこの物珍しい出来事を,口では小森さんのためと言いながらも,単純におもしろがっているのではないだろうか。私は,たった今ほんのちょっぴり持っていたクラスに対する自信をなくしたところだったので,どうしても子どもたちの心を信じられない気がした。 
 2つ目は,みんなで行っても果たして小森さんの心を開くことができるかどうか,ということである。私には小森さんの心が何も分かっていない。そのことを突きつけられたばかりである。要するに,今までいっぱしにやってきたつもりのものが砂上の楼閣であり,まったく不確かなものであることを思い知ったのである。
 それでも行かないわけにはいかなかった。子供たちと外に出た。
 「ミーたん(小森さんのあだ名)の家,知ってる!」
と,何人かの子が走り出した。それにつられて半数くらいの子が走り出した。残りの子は三々五々歩いている。手をつないだり,おしゃべりをしている。何の話かは分からないが,少なくとも小森さんの話ではないことは分かる。走った子だって,早く小森さんの家に行って何かをしようと思ったのではなく,単に外に出た解放感で走り出したに過ぎなかった。
 一つの目的に向かって子供たちの心が一つになっているとき,37人の力は単に37で終わらず,100にも200にもなっていく。そうしたエネルギーが感じられなかった。
 私が小森さんの家の前に着くと,ほとんどの子は玄関前にしゃがみ込んでいた。扉に「赤ちゃんがいるのでベルを押さないで」というプレートがかけてあり,子供たちは私が来るのを待っていたのである。
 私は,子供たちに向かって話した。
 「みんなは,何のためにここに来たの?見ていると,遊び半分の人がほとんどだ。だから,ちっともみんなの心が一つになっていない。そんなみんなのところに,ミーたんおいでって,自信をもって言えるのかい?」
 子供たちの目が澄んできた。表情が落ち着いてきた。
「そうだね。今,みんながミーたんのことを考えているね。今なら迎えられるね。」
私は玄関に入った。「ワーン」と泣き声が聞こえた。お母さんが,二階を指さした。私は,心の中で気合いを入れると階段を上った。小森さんはベッドに腰かけて泣いていた。私は,そばに腰を下ろして
 「ミー,ミーが来ないとみんな勉先に進めないって言ってるぞ。さあ,みんなと行こう。」
と言った。その一言で,彼女は泣きやんだ。照れくさそうに下を向いて階段を降りた小森さんに玄関にあふれていた子供たちは,何も言わなかった。何も言う必要がなかったのである。小森さんを囲む子どもたちの心が一つだったからである。輪の外側の子どもたちも,でなく,心で小森さんを見ていた。
 これが,今日の一部始終である。このことで私は実に多くのことを学んだ。中でも,クラスというものがどうあらねばならないかということを考えさせられた。やはり一人一人が解放され,のびのびしていると共に,クラス全員が一つのことを追求することが大切だ。何か,実質的なものを据えて全員の心をつなげていくのでなければいけない。私は,今日まで口だけで「クラス,クラス」といってきたような気がする。だから,今回も子供たちは見事に口だけは「クラス」だが,体が伴わなかった。教育の仕事は子どもの中に事実を確実に創り上げるはずであった。口だけで子どもがよくなるのなら,教師ほど楽なものはない。
わが3の2は,今お話ししたような状態だ。今,夜中の12時を回った。こんなにしてクラスのことを書くのは正直つらい。書くことによって,自分を傷つけているのだから。でも,それ以上に小森さんや他の子にも,悪いことをしたと思っている。すべては,口だけで上っ面の仲間意識を育ててきた私の責任である。小森さんや他の子には悪いところは一つもない。今,我が3の2はこういう状態だ。しかし,いつまでもこうではない。近いうちに,必ず本物のクラスにする。待っていてください。


8月28日(木)
 子供たちに,こんなことを言った。
 「人間に,できる人間とかできない人間とかいうものはない。やるか,やらないかの差しかないのだ。自分はできるとか,できないなどと思っている人は,今すぐその考えを捨てなさい。このクラスには,やればできる人ばかりがいる。できない人は一人もいない。だから,先生はみんなに約束する。計算はできるまでつきあってやる。全員が跳び箱を跳べるまで,先生もあきらめない。全員10m泳げるように応援し続ける。みんなも,できないと言わないで,真剣にやれ。」
 そして,口だけでなく,まず事実を創り上げることが大事だと思ったので,4時間目に跳び箱に取り組んだ。
 私が大言壮語したものだから,子供たちは期待に満ちた顔で待っていた。まず,1回全員跳ばせてみて,踏み切りだけを見て「よし」「だめ」と声をかけていった。跳び箱のポイントは踏み切りである。足のそろっていない子,片足にのみ力の入っている子,ドタン,ベタンという音のする子,すべてダメである。そういう子は,みな跳び越し方も不安定で,越せなかったりどこかをぶつけたりしていたのだった。一通り終わって「よし」の子は9名しかいなかった。その子たちには4段の跳び箱をよりリズミカルに軽く跳ぶように指示し,残りの子たちを集合させた。踏み切りがきれいにいくと,無理なくリズミカルに跳べることを簡単に話してやり,その場で踏み込み方の練習をする。両足を揃えること,すっと踏むこと。2,3歩の助走で踏み込む練習を繰り返させると,子どもたちの動きが,だんだんしなやかになっていくことが分かった。そこで,もう一度跳ばせてみる。すると,今度は6名の子を抜かして「よし」だった。踏み切りの音が格段にきれいになり,あちこちにぶつけることもなくなった。「できた!」「跳べた!」「フワッとした!」と顔を輝かす子どもたちに,4段の方へ行くように指示を出し,残り6名の方に取り組む。
 よく見ているとこの6名にはそれぞれ跳べない原因があった。
@跳び箱までの距離が感覚的につかめず,踏み切りがいいところでできない。
A両足が踏み切りでそろわない
B踏み切ったとき,足が緊張して全体の動きが止まってしまう。
Cつま先のバネが使えない。踏み切りでかかとを付いてしまい,腰が後ろに残る。
D突き手を突っ張り,体を前に運べない
E手を揃えることができず,バランスが左右に崩れる
F頭を上げるため,腰が引ける
 これらの原因に合わせて補助をしたり,踏み切りのみの部分練習をしたりして,10分後には4名の子が合格。しかし,そこで時間になってしまった。2名が残ってしまった。康夫君と晃君である。二人とも跳べない原因は,1つではない。先の分析のすべてが当てはまるのである。
 時刻は,もう給食の準備である。私はあきらめて,子供たちに給食の準備をするように言って,跳び箱とマットを片づけてもらった。しかし,一セットは残しておいて,「康夫,もうちょっとやるか?」と言った。
 彼は,素直に跳び箱に向かって立った。走った。助走にバネも力もなかった。一緒に走った。何度も走った。ただ走るだけでも,タイミングが合わずに,体が遅れそうになる。かかとをついたり足の外側をついたりして,まっすぐに走れない。しかし,少しなめらかになってきた。踏み切りを練習した。両足が揃えられない。助走の距離を短くして何度も踏み込む練習をした。何度も何度も繰り返した。長い助走にして,踏み込む練習をした。やがてできるようになってきた。次は助走の力を踏み込みでバネにかえて跳ぶのだ。一人だけの練習が,15分も続いた。康夫君は走った。跳んでも跳んでも,バネが見えてこない。ズルズルと跳び箱の上に腰かけてしまう。その度に,「もっと前だ!」「手で前に押すんだ。」と声をかけた。康夫君の顔は,真っ赤だった。それでも,もういやだとは決して言わず,座ってしまった跳び箱から,またスタートへ戻った。
 ひょっとしたら,これは無限に続くことなのではないだろうかと,一瞬思った。ふと見ると,クラスの子が半分くらい跳び箱やマットのそばにしゃがんで見ていた。みんなで康夫君を見守っているのである。小さな声で「がんばれ!」「惜しい!」「もうちょっと!」と声をかけている。
 もう「いただきます」の時間である。私は,その子たちに向かって「教室へ行って,給食を食べていなさい。」と言った。
 小さな声が「いやだ。」と言った。女の子の声だった。誰の声かと,子供たちの方を見た時に,私は子どもたちが康夫君を見守るために,目には見えない太い線でがっちりとつながっているのを感じた。
「いやだ」,何という頼もしいがんこな言葉だろう。それは,子供たち全員の心の声だったに違いない。
 康夫君はさらに跳び続けた。やがてじわじわと腰の落ちる場所が前に出てきた。あとほんの少しだ。手のブレーキがだんだん弱くなり,体が前へ前へと出てきている。
 そして,同じようなスタート,助走。おっ,ちょっと踏み切りがいいぞ,と,体はどこも跳び箱につくことなく,…跳べた!跳び越せた!
 康夫君は着地したマットの上で,静止した。広い体育館がシーンとした。見ていた子供たちから「跳び越せたぞ」というつぶやきがかすかに聞こえた。私は,フラフラと康夫君のそばに行って,「おい,跳べたな。やったぞ!」と言って,彼を抱き上げた。サーッとやさしい雨のような拍手が起こった。私も涙がサーッとこぼれた。そして,康夫君を抱いたまま,「みんな,よかったね。」というのが精一杯だった。子どもたちはほとんどの子が泣いていた。泣きながら拍手し続けていた。ふと気がつくと頭の上からも拍手が聞こえた。ふり仰ぐと,給食を準備していた子たちも戻ってきて階段のところで見ていてくれたのだった。
 「さあ,給食にしよう。」
 全員が,1つの生命体のようにスーッと動いていく。どの子の顔も満ち足りた表情をしていた。さあ,次は晃君だ!



8月29日(金)
 欠席者が2名いたのはとても残念だけれど,4段の跳び箱を,本日全員跳び越した。「一人残らず全員が跳ぶ」という目標を何とか果たしたことになる。しかし,私が何かしたという実感はまったくというほどない。よく子供たちががんばってくれた,そして友達を支えてくれたというようにしか思えない。
 昨日の康夫君のがんばりが波及して,今日は朝から子供たちの顔つきが違っていた。まだ一人残っていた晃君は,朝,私の顔を見るなり「今日,跳び箱がんばる。」と話しかけてきた。子どもたちの日記も,ほとんどが昨日のことについてだった。
「きょう体育の時間にとびばこをしましたが,ぼくとほったくんと遠どうさんがなかなかできなくて,さいしょに遠どうさんできるようになりました。ぼくもいっしょうけんめいに先生におしえてもらって何度もれんしゅうしたらやっととべるようになりました。先生の顔を見たら泣きそうな顔をしてよろこんでくれました。ぼくもうれしくてしかたがありませんでした。先生どうもありがとう。」(康夫)
「今日4時間目,体育をやった。とべない人もとべる人もいっしょうけんめい練習した。やすおくんはすごいなー。じぶんのできないことをできるようにしようと思って,ぼくはとべたと思う。3年2組は全員とべるようになった。」(智)
「きょうとびばこのとき康夫君ががんばってとびばこをとんだ。そしたら先生がないてよろこんだ。私たちも泣いた。」(美紀)
 やる気一つで,今までできなかったことができるようになったことへの素直な歓びや驚きが,生き生きした日記を書かせたのだろう。
 さて,今日の授業開始後の子供たちは,それぞれが「より軽く,空気のいっぱいつまったボールのように踏み切ること」をはっきりと意識して練習している。跳び箱のポイントが踏み切りにあることを,自分の進歩や他の子の跳び方の変化からしっかりとつかめているのである。特に,昨日康夫君が踏み切りの感覚をつかむのに比例して,20分程度でどんどん跳べるようになっていったことが,その意識をよりはっきりとさせていったのだろう。
 さて,晃君は,助走,踏み切り,着手のたびにそのつながるところで体の動きがストップしていまうので跳び越せないでいるのだった。そこで,1,2の3で足を揃えて上に跳ぶ練習を平地で繰り返したところ,踏み切りの感覚をつかんだようだったので,もう一度3段の跳び箱に向かわせたところ,すぐに跳んでしまった。そこで,他の子と同じ4段に挑戦させた。何度も何度も走ったが,いくらやってもうまくいかない。しかし,晃君もまわりの子も必ず跳べると信じていた。
 たがて小さな変化が出てきた。晃君が,助走のスタートをする前に,一度ちょっと背伸びをするようにしてから走るようになったのだ。彼は走るリズムを設定し始めたのである。それにつれて踏み切りも良くなり,もう少しで跳べそうな感じになった。跳び越す最後におしりをかすってしまうくらいにまでなった。こういうときは,おしりを後ろから軽く押してやると感覚をつかめるだろうと思った。しかし,私はあえて補助はしないことにした。もう少しなのだ。せっかく自分でつかんだリズムを大切にして,自力で跳び越してほしいと思った。
 見ている子供たちは1回1回のトライアルに,「おしい!」とか「もうちょい!」などと声をかけ,拍手を送っている。そして,ついに4段も跳べたのだ。「やったー!」という歓声が上がり,大きな大きな拍手がわき上がった。私は晃君を抱き上げると跳び箱の上に立たせた。
「ぼくは3じかんめにとびばこをやって,3だんをやってとべたので,ぼくは4だんをせんせいがだしたので,ぼくはじしんがなかったけれろ,とんでみた。そしてなんかいもなんかいもなんかいもとんでみた。そしてとべるようになったのでぼくはうれしかった。こころのなかでおめでとうっていっているみたいだった。こんどは5だん,6だん,7だんをとべるようになってほしいです。じしんがないかなとおもって,きっととべるかもしれないです。きととべるようほしいです。」(晃)
「きょう,体育の時間5だんがとべてほんとうにうれしかった。でも,あきらくんがとべたのもうれしかった。がんばってやったらとべたから,3年2組ぜんいんとべるようになったからとてもうれしかった。」(新)
「3だんはみんな合かくした。わたしも合かくした。4だんはむずかしかったけれど,心の中で『できる。やってみせる。』と思っていた。すぐにはできなかったけれど,ずっと『できる,できる。』と思っていた。するとできた。4だんはむずかしかったけれど,いっしょうけんめいにやったのでできた。次は5だんにちょうせんする。もしも心の中で『できる,できる』と思っていたら,きっとできると思う。晃君もさいしょはできないような顔だったが,やっている間に自信があるような顔になった。そして,やっととべた。みんなうれしそうな顔だった。きっと晃君も心の中でわたしと同じ子とを考えていただろう。」(裕希子)
 一人残らず跳べたことで,子供たちは人間の可能性というものを,その鋭い感性で捉えたようだ。それは私が子どもたちに託す願いでもあった。
 しかし,この授業はそれだけではすまなかったらしい。
「とびばこは,みんな練習してとべた。とてもうれしい。みんなよくれんしゅうしているから,みんなよくとべるようになったと思う。みんな今度とぶとき,かるがるとべるといいな。前とべなかった友達も,みんなとべるようになってとてもうれしい体育だった。」(浩子)
 授業の中でがんばったことが全員に共通するものだったことが,友達意識,クラス意識を大きく育てたらしい。浩子さんの日記には「みんな」と言う言葉が何度も繰り返され,文章のリズムを作り,詩のようになっている。
「そして,一番うれしかったのは康夫くんががんばってとびばこをこしたことだ。はじめはできるかなあって見ていたけど,だんだん『がんばれ!』って言いながらおうえんするようになりました。康夫くんもたまたまちょっととべなくなったりしてざんねんだなあと思ったりしました。とちゅうで足がしびれてもがまんして見ました。そのとき康夫くんがとべた。先生が『よかったね』って言った。ぼくはうれしくてなみだが出た。とってもとってもうれしくて,おなかがいたくなるほどうれしかった。」(宣雄)
「今日の晃くんの目はキラキラでした。きのうの康夫くんの目も同じです。ダイヤモンドを百こ光らせてもたりないぐらいでした。わたし,あんな目をしたことあるかなと,とっさに思ってしまいました。自分にじしんがなくなりました。今までは康夫くんも晃くんも弱々しいと思っていました。でも,いまはずっと強く見えます。」(美幸)
 子供が育つというのは,こういう瞬間なのだろうと思う。できるから偉く,できないからダメなどという表面的なものではなく,一人一人の心の中にある美しさや強さを引き出すことができたとき,子どもは変わるのだろう。
 さて,迎えに行った小森さんは,次のように書いた。
「きょう,3年2組の全いんがとびばこをとべた。きのうは康夫くんがとべて,きょうは晃くんがとべた。わたしはとてもうれしかった。でも,どうしてわたしのことじゃないのにこんなにうれしかったのかがふしぎに思う。わたしの考えでは『わたしがいるクラス』だからだと思った。」


99年のコメント

 今から19年も前の新卒3年目の実践で,今読むと文章に若気の至りの一方的な決めつけが目立ちます。教育技術としても,未熟そのものです。しかし,子供たちの生き生きとした作文に救われているかな?と,思います。
 登校拒否(今は不登校というのが一般的ですね)への基本的な考え方は,「学校に来させる」ことではなく,学校に来たくない気持ちをどう変えていくかだと思います。その意味で,最後の小森さんの作文は貴重だとうぬぼれています。(蛇足ですが,彼女は1,2年の時も登校不安気味でよく休んだそうですが,この後は元気に登校し続けました。5年生で転校しましたが,転校先の学校にも中学校にも,普通に通ったそうです。)
 このころは,学級通信もガリ版刷りで,毎日夜遅くまで鉄筆を握って書いていました。このときは,3日連続でB4用紙3枚ずつの発行でした。この跳び箱実践の次の年,向山洋一氏が書かれた『斉藤喜博を追って』という名著に出会いました。そこには,跳び箱を2,3分で跳ばせる方法が載っており,正直「すごい!やられた!」というのが実感でした。
 しかし,その後も向山氏の著作を全部と言って良いほど読みました。またウトナイ湖で開催された第1回の法則化北海道合宿に参加して2本の論文がAをもらったりもしました。しかし,いつもかすかに感じた違和感がありました。それは,上の実践記録の中にある「後ろから補助するのをあえてしなかった」という私の感性です。私には子供の自然な学びを大事にしたいという気持ちが強く,それが生活科につながってきたのだと思っています。(法則化運動で生活科が盛んにならないのは,やはり基本的なポリシーが違うからでしょうか。いつかこの辺りを論じたいと思っています。)

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