9/9 Sun. ヘルツェグ・ノヴィ旧市街
13:51 時計塔
カフェの席を立ち、右手に見える階段を上って
時計塔 (Sahat Kula (Tora))→
をくぐった。
Nikole Durkovića広場、カフェの席から
正面に見えるのは西塔(Zapadna Kula)かな?
時計塔は旧市街のゲート。その内側が、1382年にボスニア王トブルトコ1世によって建設された町になる。
ただしこの塔は1667年、オスマン帝国のスルタン、メフメト4世の命によって造られたんだって。たしかに時計下の窓枠はイスラムチックだわ。・・・あ、コンスタンティノープルを攻略したのはメフメト2世ね。4世はそれから200年ほど後のスルタン。
いずれにせよ、モンテネグロの大半の土地と同様、この町も一時期(1482-1687) トルコに支配されていたわけだ。ツェティニェは辛くも首都であり続け、コトルは自治を貫き、ブドヴァなどはヴェネツィア統治下だったころに。ヘルツェグ・ノヴィがヴェネツィア領となるのは、その後のことだ。
さて、階段は塔の先もしばらく続いていて、上がりきるとベラヴィスタ広場 (Trg Belavista) に出る。
さきほど海側から仰ぎ見たフォルテ・マーレのように、こちらもきっとヴェネツィア時代からの名だろう。近年はヘルツェグ・ステファン広場 (Trg Herceg Stefana) と呼ばれているらしい。
天使首ミハイル教会のファサード
扉上のモザイク画
広場の、ど真ん中じゃなく片隅ともいえない微妙な位置にはセルビア正教会の聖天使首ミハイル教会(Crkva Sv. Arhanđela Mihaila / Church of St. Michael Archangel) がある。
 ※カトリック風にいえば「聖大天使ミカエル教会」
教会の左手に城塞へ通じる道がある
着工1883年、完成が1911年というから、町がオーストリア領だったころの比較的新しい教会だ。ベースはビザンチン様式で、バラ窓や扉上の彫刻、細い尖塔風な装飾など、ゴシック様式も取り入れている。
とはいえ尖塔は本数も彫刻もゴシックと呼ぶには控え目。どちらかというとモスクのミナレットを彷彿とさせた。既存の教会にミナレットを足してモスクに転用したケースは何度か見たけど、それを逆輸入したかのようで興味深い。4コーナーに配置されたナツメヤシもやけにオリエントっぽく見えちゃう。この辺でも珍しい木じゃないのにw。

・・・と、ここまで書いていてハタと気づいた!
建物はよくあるパターンで、上から見た形がいわゆるギリシャ十字になっているんだろうが、だとするとこのヤシの木、セルビア十字の "C" の字の役目では?
 ※ギリシャ十字は主に正教会で用いられる縦横同寸の十字。
セルビア十字はその正十字形の4空間にそれぞれ外向きに"C"の字が配置されるもので、セルビア国旗やセルビア正教会の旗にも使われている。
セルビア正教会の旗
画像 by Ivan Sarajčić
© FOTW Flags Of The World website
http://flagspot.net/flags/
旧市街のなか
案内表示に従い、城塞に行くことにした。
所々に表示があって
わかりやすい
城塞まであと少し

ここは旧市街の北側、一番高い位置にあるカンリ・クラ (Kanli Kula) という要塞だ。入場料は1€。その下に広がる町を一望できる。
東側にも新市街が広がる
要塞の壁
さきほどの広場も時計塔も、ずいぶん下方だ。
旧市街の展望 (右手に西側の新市街が少々)
最上部のカフェはオープンしていなかった
最上部から野外劇場全体を見下ろす
起源はトルコ時代にさかのぼり、監獄として使われていたらしいが、20世紀になって野外ステージに改築されたそうだ。
14:14 建物入口の赤い日よけに
「Internet」の文字
広場に戻って、モンテネグロで最初にして最後のネットカフェに立ち寄った。コトルでも見かけなかったし、ブドヴァだって旧市街をはじめ私の歩いたエリアにはなかったのだ。

もちろん日本語は読むことしかできなかったが、自分の掲示板にローマ字で生存報告を書きこみw、この町をあとにすることにした。
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