†パープルタイズ†


【出題編】


  3/

 翌日の朝の教室にて、まだ早い時間に担任の進藤(しんどう)先生から定期テストの告知があった。リディには朝のホームルームが無いので、担任の先生の顔を見るのも久々ということになる。わざわざ担任の先生が教室に現れた。そのことだけでどこか非常事態的で、定期テストが如何にリディにて重要な意味合いを持っているのかが感じられた。勿論、クラスの誰もが、既に理解していたことではあるけれど。
 リディの定期テストは単純明快。期限までに自分のビジネスで一定額を稼げるかどうか。ボーダーラインの額を稼げなかった生徒は落第、あとは上から順にランク分けされて成績が付けられるだけだ。
「今の時代、世界は二つの世界に分かれている」
 眼鏡の下から覗かせる眼光が鋭い進藤先生が、告知のあとに、続けて演説めいた調子で話している。
「ベルリンの壁が崩壊して、インターネットが世界に登場した頃のことだ。世界には、情報時代の波に乗った者達が住む自由な世界と、産業時代の文脈に縛られた者達が住む、不自由な世界の二つの世界が存在し始めた。前者の世界に住まう者達は豊かな量のお金を蓄え、動かし、世界と共に加速しながら、もう一方の側にいる人間を雇う。後者の世界に住まう者達は、少量のお金のために時間を犠牲にし、お金に動かされ、もう一方の側にいる人間から雇われる。君たちは前者、情報時代の世界に住まう人間になるためにこのリディーエル学園にやってきた。定期テストの期限まで、持てる知力を振り絞って情報を集め、自分の頭で考え、そして全力で行動したまえ。その行いは必ずや君たちに大量のお金を与え、自由を与え、そして加速する時代と共に歩める不思議なアンテナを与えてくれるだろう。覚悟と、崇高なる意志を持って先に向かって進みたまえ。諸君の健闘を祈る」
 それだけを生徒に伝えると、進藤先生は教室から出て行った。次のやることが待ってるから。そんな雰囲気だった。それでも、わざわざ教室まで赴いて告知せずとも、重要な連絡は全て生徒のラップトップパソコン宛に送信されるようになっているので、教室までやってきて自分の口から伝えてくれただけ、リディでは生身のコミュニケーションを重んじてる方の先生なのだ。
 教室には緊張感に包まれた沈黙がしばし訪れた。皆、入学した時から誰もが自分のビジネスを講じ、授業を通して日々それを錬磨してきた。それでも、やはり十五歳やそこらの少年少女にはまだビジネスという触媒でもって世界と向き合うことそのものが未知の怖さを秘めていて、時々途方に暮れたくなるものなのだ。期日を設けられてそれまでに結果を出さないとならないとなると、いよいよそんな怖さと正面から向かい合わなければならなくなる。そんな裏側の心情が導いたしばらくの沈黙だった。モダもセッチャンも黙ったまま何か自分の思索をめぐらせているようだ。
「だけどね、こうもお金お金と言われると、少し疲れる気もするよ」
 なんだか無性に由咲ちゃんの顔が見たくなったな。そう思って芙毬が振り返った時、最初に沈黙を破ったのは、意外にも芙毬の斜め後ろの席に座ってる三澄(みすみ)くんという小柄な少年だった。
 二、三、印象に残ったような残らなかったような会話をしたことがあるだけの間柄の男の子だったけど、目が合ったので芙毬も答えた。
「そうだね、お金より大事なものもやっぱりあるよね」
 我ながら月並みな台詞だと思いながら笑いかける。
「同意してくれて嬉しいよ。ま、そう言いつつ巫奈守さんもテストは頑張るわけだけどね」
 何故かせっかく合った目をそらして語る三澄くん。
 そりゃまあ、ね。
 とは言え、何はともあれリディに在籍してる仲間なわけだから、とりあえずは一緒にテスト頑張ろうよとでも言っておこうと芙毬は思ったのだけど、当の三澄くんは席から立ち上がって教室の出口に向かって歩いていってしまった。一限目の授業、出ないのかな? 何にせよ人の目を見ないのは良くないなぁ。コミュニケーション能力って、ビジネスでもとても大事だと思うけれど。
「『お金と言われると疲れる』? いかにも『産業時代落ち』が言いそうな戯れ言だな」
 三澄くんが出て行った後、新たに沈黙を破ったのは急に響いた低い声だった。
 声の主は教室後方の席に陣取っている高島(たかしま)くん。それだけを言い残して、高島くんも席を立って教室の外へと向かっていく。だけど今回は高島くんも授業を受けないのかとか、そんなことよりも、高島くんが発した「産業時代落ち」という言葉を聞いた時に沸き起こった感情の方が芙毬の心を乱した。リディに入ってから覚えた言葉のうち、最も共感できない言葉のうちの一つだ。
 リディのお題目は「情報時代のリーダーとなるビジネスオーナーを育成すること」。しかしながら、そのビジネスの厳しい競争の中で、リディが定める平均をクリアすることができず、落第という形や、あるいは自主的にという形で、他の一般校に移っていく生徒が少なからず存在する。そんな生徒達を総称して、「産業時代落ち」と呼ぶことがあるのだ。新進の情報時代の先駆校をうたっているリディにいられなくなったものだから、一時代前の産業時代へと落ちていった者。そんな意味合いが込められている、明らかな蔑称だ。芙毬がどうしても好きになれない言葉だ。
「なんで、三澄くんがあんなこと言われなきゃならないワケ?」
 怒りに近い感情がわき起こりかけていたけれど、できるだけ冷静に前の席のモダと、左隣のセッチャンに向かって話かけてみる。
「巫奈守はこういうの疎いからなぁ」
 小声で答えるモダ。
「三澄くん、この一ヶ月で投資に失敗して、もうだいぶ負債抱えてしもうとって、これからどんなにリディで頑張ったって挽回不可能やいう話なんやわ。もう、その、別の学校行って普通に労働者になって、少しづつお金返しながら生きていくしかないやろて。ネットで噂になっとったんやわ」
 同じく小声で解説してくれるセッチャン。「産業時代落ち」という言葉を使わないで三澄くんの行く先を迂言的に表現してくれてる心遣いが感じられた。それにしてもネット? 噂? どうやら、モダとセッチャンをはじめ、教室の他の皆は芙毬の知らない情報源を持っているようだ。
「でも……」
 その噂? が事実だとして、高島くん、あんな言い方は無いんじゃないだろうか。
「私、ちょっと言ってやってくる」
 そう言って席から立ち上がった所で、思わず、それまでいつも通り読書中のポーズを取っていた由咲ちゃんが口を開いた。
「芙毬、やめたまえよ。高島氏の言い方は悪かったかもしれないが、我々が意識を向けるべきは定期テストであり、お金を稼ぐことであるのは事実だ。そうである以上、些細なことに関わるよりも、君自身が『産業時代落ち』してしまわないように、目の前の授業に集中する方が筋というものだ。投資系専門の三澄氏や高島氏と違って、マーケティングの授業は君には必要なものだろう?」
 芙毬が嫌っている「産業時代落ち」という言葉を由咲ちゃんが素で使ったのがちょっとショックだった。
「それは、そうかもしれないけれど……」
 ちょっと斜め後ろの席の友だちに共感して、その子が蔑称で呼ばれたことに怒りを感じることはそんなに悪いことだろうか。
「芙毬にも、リディに来た目的があるんだったろう?」
 昨日の話だ。
 モダもセッチャンも特に何も言わない。由咲ちゃんの意見に賛成ということだろうか。
 結局、一番はそろそろ授業が始まる時間だったという点をもとに判断して、高島くんを追うのはやめた。やめたけど、なんだか心にわだかまりが残ってしまって、一限目のマーケティングの授業はあんまり頭に入ってこなかった。
 
 ◇

「連絡事項補足だ」
 一限目の休み時間になるとすぐ、進藤先生が再び教室に入ってきた。
「昨日、学園の学園長室に「荒らし」が入ったとのことだ。幸い学園長ご自身は部屋にいない時だったし、何か重要品が盗難にあったという話は今の所出てきていないが、机やロッカー、書棚をはじめ、部屋中各所が鈍器のようなものでメチャメチャに荒らされていたとのことだ」
 そこまで話を聞いて、芙毬の心がざわついた。芙毬がよく知る学園長の顔が脳裏に浮かぶ。
「警察は今のところ外部の者の犯行という見方で捜査しているようだが、諸君も気をつけたまえ。お金を稼ぐということは、妬まれることと表裏一体の側面があるからな」
 進藤先生はまだ話しの途中といった様子だったが、芙毬は席を立ち上がった。
「モダ。私ちょっと行ってくるね。二限目空きだし」
 モダとセッチャンが頷く。
「俺らは二限あるけど、終わったら会いに行ってみるよ」
 教室から出かけた所で、由咲ちゃんが静かに席から立ち上がった。
「学園長の所へ行くのかね?」
「あの、私、学園長には良くして貰ってるというか。大丈夫だって言うけど、心配で」
 先ほどのことがあったので、また制止されるのかと少し思ったけど、今度は違った。
「私も行くよ。私も次は空いているし。学年一人のパープルタイなものでね。私も学園長とは少なからず縁があるんだ」
 そうなんだ。それはそうか。入学式で由咲ちゃんにパープルタイを直接授与したのは他ならぬ学園長だ。
 由咲ちゃんはパープルタイの両端を軽くつまんで、ピンと左右に引っ張った。
「行こうか」
 
 ◇

 学園長室の前に、紫色のオーバーコートを着て学園長は佇んでいた。
「あら、巫奈守さんに香源司さん。五月だっていうのに寒いわねぇ。あらあら、お二人ってお友達だったの?」
 若干白髪がかった髪を特に染めもせずにナチュラルかつ上品に伸ばして後ろで束ねている、知的な眼鏡が印象的な女性。もう、高校生にとっては母親くらいの年齢の方なのだけど、いささかも老けた印象を与えない、肌がピンと張っていてはつらつとした印象を与えられる女性。それがこのリディーエル学園の学園長だ。
「良かった。ご無事だったんですね!」
 芙毬が少々いさんだ様子で声をかける。
「はいはい、ご無事ですよ。この寒い中部屋を追い出されちゃったのは無事とは言えないかもしれないけれど」
 いたって朗らかに答える学園長。
「警察の現場検証ですか」
 由咲ちゃんが開かれたドアから学園長室の中をのぞき込んで冷静に口にする。
 続いて芙毬も中をのぞき込む。真っ先に、ひしゃげてしまった学園長の机が目に入ってくる。これは非道いと心が重くなった所で、鼻の脇のホクロが印象的な中年の男の人と目があったので覗き見るのをやめる。警察の制服を着てない所をみると刑事さんのような人なのだろうか。何にせよ、大事になっているらしい。
「犯行時間は?」
 由咲ちゃんが学園長室の入り口脇に学園長と並んでもたれかかりながら聞いた。芙毬も、それに習う。
「あらあら、パープルタイだからって、何も探偵さんの真似事までしなくても良いのよ」
「些細な好奇心からですよ」
 そう言いながら、由咲ちゃんは制服のポケットからメモ帳を取り出す。些細な好奇心のわりには、メモを取るくらいは真剣であるらしい。
「まあ、夜中でしょうね。さすがに昼間に堂々とやっていたら、誰かに気付かれるという思慮くらいは犯人さんも持ってたんじゃないかしら」
「夜中? リディのセキュリティーはそんなに甘いんですか? ましてや学園長室でしょう」
「うーん。甘いとも言わないけれど、並だわねぇ。学園長室も、わりと一般的な鍵で施錠してあるだけよ。まさかこじ開けられるとは思わなかったけど、それといって取られて困るものなんか置いてなかったしねぇ。リディで並以上のセキュリティーが完備されているのはメインサーバーが置いてある地下サーバー室くらいのものよ。あんまり大仰に考えないで。普通の学園なのよ、ここは」
 由咲ちゃんが手帳を閉じる。由咲ちゃんがメモを取りたかった類のお話と、学園長のお話は趣旨が違っていたらしい。
「それにしても意外じゃない? 巫奈守さんとはどうやってお知り合いになったの?」
 既に、話題を他のことに移す学園長。どうやら、本人はあんまり危機感を感じてないらしい。こうやって話しているのを聞いていると、その辺りにいる普通のおばちゃんのような印象を受ける。勿論、リディの学園長たるもの、この人も一人の立派なビジネスオーナーだったりするわけだけれど。
「はあ、少々きっかけがありまして、ここ数日でお近づきになりました」
 先の質問には芙毬が答える。
「偶然の産物と言います」
 由咲ちゃんが言わなくてもいい補足をつける。
「芙毬の方こそ、学園長とはどうしてお近づきに?」
 えーと、何だったっけ。ここ一ヶ月、色々お話したり、時には相談にのって貰ったりと親しくさせて頂いていたけれど、きっかけはというと……。
「やだ、巫奈守さん、忘れちゃったの? 荷物運びを手伝ってくれたのよ。私が図書館の本を山ほど積み上げて階段を歩いていたら、ちょっとお持ちしましょうかって声をかけてくれたのが巫奈守さんだったのよ」
 そうだ。そういえばそんなことがあった。
「フフフ」
 急に学園長が何かを思い出したように笑うので、由咲ちゃんと一緒に学園長の次の言葉を待つ。
「やだ思い出しちゃった。その時、やっぱり本もデータ化するべきかしらねぇって言った私に、巫奈守さん何て言ったと思う?」
 由咲ちゃんがこちらを見る。何て言ったっけ? そんなに、爆笑解答は用意してなかったはずだけど。
「そんなことないです! こうして本を運べば筋トレになりますし! 重量には意味がありますよ! ……って言ったのよ。確かに、ビジネススキルだけじゃなく、体も鍛えないとダメよねぇ。空手の黒帯さん」
 笑いながら話す学園長の語りには愛情がこもっていたようだけど、由咲ちゃんはあきれたような顔をしてこんな感想をもらした。
「君は、少女趣味なわりに肉体指向なんだな」
 べ、別に筋肉フェチとか、そういうんでは無いんだからね!
 
 ◇

 結局、小一時間学園長と由咲ちゃんとで話していた所に、意外な人物がやってきた。まだ授業中だったんでモダやセッチャンが来るには早いなと思った所、やってきたのは、さきほど一時間目をボイコットして出て行った三澄くんだった。
「学内WEBの掲示見てたら、学園長室が荒らしにあったって……それで、僕」
 思わず由咲ちゃんの方を見やる。先ほどの件があったので、芙毬の胸中はちょっと複雑なのだ。
「あらあら、ここにも私を心配して来てくれた優しい生徒さんが。でも大丈夫よ、警察の人達に追い出されちゃって寒い想いをしていたけど、楽しいお二人とお話ししていたらポカポカしてきちゃったわ」
「そ、そうですか」
 何となく、芙毬や由咲ちゃんと学園長との間柄に比べて、学園長と三澄くんの間には距離を感じる。いや、それって、一生徒と学園長の間には当然あってしかるべき距離なのかもしれないけれど。
「君と学園長はどうして?」
 芙毬と同様に三澄くんと学園長の距離感が気になったのか、由咲ちゃんが三澄くんに質問する。それほど親しくはないとしても、まったく関係が無かったらわざわざ会いにはこないだろう。
「僕は、その……」
 三澄くんは、あまりハキハキと喋る人ではないらしい。先ほど目をそらされたことといい、人とのコミュニケーションがちょっと苦手なのかもしれない。芙毬はそんなことを思った。
「この前廊下でぶつかった仲よね」
 学園長が相変わらず上品に微笑みながら答える。
 芙毬は何だそれはと思ったが、今度は三澄くんから解説が入る。
「あの時、僕の方が完全に余所見してて悪かったのに、学園長、手を差し伸べてくれて。その後、少し話して、それでお近づきになったというか」
「あらあら、私も悪かったのよ、沢山積んだ本を抱えていて、前が良く見えてなかったの」
 またですか。学園長は、分散して本を運ぶということを学習した方がいいのかもしれない。本の重量による筋力トレーニングを提唱してしまった芙毬が言うことではないかもしれないけれど。
「三澄くん」
 でも、それだけの縁でこうして学園長の様子を伺いに来てくれるなんていい人だと思ったので、芙毬は照れくさいけど一言言ってみることにした。
「あの、唐突だけど、何かあったら私でよければ相談とかしてね。その、席が斜め隣同士のご縁というか」
 暗に、三澄くんが投資で失敗しているという前提で言葉を紡いだのは三澄くんを傷つけてしまうかもしれない。ちょっとだけそう思ったけれど、芙毬の言葉に学園長も続いてくれた。
「そうよ、私にも相談なさいな。私、自称は恥ずかしいけれど、こう見えてもビジネスに関しては幾多の困難を乗り越えて来た勇者なのよ」
 勇者て、と芙毬は思ったが、敢えて突っ込まずに流し、それよりも何よりも、気になって由咲ちゃんに視線を送る。
 その視線に気付いてか、由咲ちゃんもポリポリと頭をかきながら一言。
「まあ、徳行を忘れるなかれだよ。ベンジャミン・フランクリンも、幾度か財務的困難に立たされたが、最終的にはいくつもの偉業を成し遂げたのだ」
 そこで、ベンジャミン・フランクリンか! と芙毬は思ったが、さきほど「産業時代落ち」という言葉を使った由咲ちゃんが精一杯励ましの言葉を送ってくれたのだと思って、嬉しい気持ちになった。やはり、基本的には優しい人なのだ、由咲ちゃんは。
 三人の女性に励まされた三澄くんは、またさっきの教室の時みたいに視線を外しながら、「ありがとう」とだけ答えた。
 三人もの女性からの心からの鼓舞である。一種のハーレムだ。これでちょっとでも前向きになってくれたらいい。もっとも、三澄くんがこういうので喜ぶ人なのかどうか、よく分からなくはあったけれど。
 
 ◇

 学園長と別れた帰り際の廊下で、高島くんと出会った。長身に眼鏡なのはモダと同じだけど、こちらはモダのとは違ってオシャレじゃない普通の眼鏡。
「パープルタイに巫奈守くんか。いつの間にこういう組み合わせになったんだか」
 三澄くんへの「産業時代落ち」発言があったせいもあるけれど、何か、引っかかる物の言い方をする人だ。
「高島くん、あのね」
 三澄くんはいい人だから見下すようなマネはよしてと、そんなことを言おうと思ったのだけど、由咲ちゃんに片手を上げて制された。
「巫奈守くん、空手もいいかもしれないが、リディ生の本分として定期テストの方も忘れないことだね。パープルタイのお友達が『産業時代落ち』じゃ、笑い話にもならないだろう?」
 また、「産業時代落ち」って言った! それに、空手のことを何かせせら笑っているかのような態度も気にさわる。どうにも、好きになれない人だ、この人は。今日一日で、一気に芙毬の中での嫌な人ランキングの上位にランクインだ。
「ご忠告、痛み入るよ」
 なんで、由咲ちゃんが答えるのよ! と思いつつ、やっぱり何か言ってやろうと言葉を探しているうちに、またしても由咲ちゃんにジェスチャーで制された。
 憎らしげに肩をすくめて高島くんが言わなくてもいい言葉を置いていく。
「情報時代の文脈に生きる人間と、産業時代の文脈に生きる人間は決して相成れない。パープルタイも、せいぜい産業時代の人間に足を引っ張られないことだな。この定期テストを通じて俺もパープルタイになるつもりなのでね、くれぐれもパープルタイの品位を落とさないように心掛けてくれたまえ」
 そうして、言いたいことだけを言って高島くんは芙毬達とすれ違って去っていった。
 芙毬の中にたまった苛立ちの気持ちが、やり場が無くてお腹の辺りで沸騰する。
「もう、どうして何か言ってやらないの! あんな男、私、その気になったら一撃でノックアウトできるんだからね!」
「それは、産業時代どころか原始時代の人間の行為だ。勘違いしないでくれたまえ、君を制したことに他意はないんだ」
「どういうこと?」 
 由咲ちゃんが少し目を細めて言った。笑っているのだろうか。
「高島氏など、眼中に無かったということだよ。それに……」
 さらに少し意味深に言葉を紡ぐ。
「私の次のパープルタイは、彼じゃないさ」
 芙毬は煙に包まれたような気持ちになる。やはり、由咲ちゃんは独創的な物の言い方をするせいか、そのつぶらな口から出てくる言葉が、容易には理解できないことがしばしばあるのだった。
 
 ◇

 翌、三連休の初日は、芙毬はこれまた由咲ちゃんと過ごすことになった。場所は、芙毬が通わせて貰ってる空手道場の道場内である。
 道場のオーナー(普段は「学院長」と呼んでいるのだけど)とは随分と親しい間柄なので、稽古が無い祝日に個人的に鍵を借りて道場を使わせてもらうことができた。というのも、由咲ちゃんが芙毬の空手を見てみたいと言い出したからだ。
「すまないね。付き合わせてしまって。茂田くんや翔田さんと何か予定があったのではないのかね?」
「ううん。あの二人、ああ見えて結構忙しいの。モダはパソコン教室のバイトやってるし、セッチャンは英会話スクールのアシスタントやってる。二人がやりたいと思ってるビジネスも、そっちの方向みたい。定期テストも告知されたし、ますます自分達の活動に集中することになって、学園の外で会うのは稀になっていくんじゃないかな。寂しいけどね」
「そして芙毬の個人活動は空手というわけか」
「うーん。あんまり、モダやセッチャンのとは違ってビジネスには結びつきそうにないんだけどね」
 そこで一つ気になった。というか、あまりにも自然にこうしてここに二人でいるので、考えが及ばなかった。
「由咲ちゃんは、定期テストどうするの?」
 モダやセッチャンが忙しくなるということなのなら、芙毬に限らず、その条件は由咲ちゃんにも当てはまる。
「リンガーラップの特許収益で、既に定期テストのボーダーはクリアしてしまったよ。まあ、さらにマーケティングやらセールスやらはやるし、キャッシュポイントを増やす作業をやったりはするけど、基本的に定期テストだからといって特別に新しくやることは無いんだ」
 なんと。それでは由咲ちゃんはリディの一年生が頭を悩ませている定期テストが最初から免除されているようなものということか。さすがはパープルタイ。ひょっとして、空手が見たいなんて言うのも勝者の余裕というやつなのかしら。一般生の芙毬がそれに付き合っていていいのだろうかなどといった考えが頭を過ぎる。
「さあ、空手、見せてくれ。芙毬にとって、重要なものなんだろう?」
 そういえば、そんなこと言ったっけ。
 そうだね。とりあえず定期テストのことはいい。見たいと言ってくれたことは嬉しいから。それくらい、小さい頃から積み重ねてきた時間が、想いが、一挙手一投足に宿ってるのが芙毬にとっての空手なのだから。
 
 ◇

 純白の白と言うには経年で少しくすんだ白色の自前の道着に身を包み、幼少の頃には既に取得していた黒い帯を腰に結んで道場に入る。この装束は好きだ。リディの制服とはまた違った、着慣れているがゆえに心が引き締まる不思議な感覚がある。
 由咲ちゃんが道場の隅に天井からぶら下がってるサンドバッグをポンポンとグーで叩いていた。ああ、そんな握り方じゃ、指を痛めるよ。
「いや、重厚なものだね。とても動かないよ。女性はこういうのはやらないのかね?」
「うーん。もっと、こう、体全体を使うんだよ」
 芙毬が由咲ちゃんを後方に下がるように言いやって、サンドバッグの前で構える。立ち方は後屈(こうくつ)立ち。距離をはかるように右手を前にかざし、左手を拳の形に固め、脇の下に引き絞る。芙毬が幾千回繰り返してきた、得意の構えだ。
 後方の左足を滑らせるように前方の右足に近づけバネを作り、一気に瞬発させる。そのまま関節という関節の稼働域を加速させ、腰の捻りも加える。そうして、全ての力を伝導させた左拳を一つの完成された流れの終着点として突き出す。結果、サンドバッグは勢いよく宙を舞う。
「――――」
 言葉を失った、由咲ちゃんがそこにいた。
 まあ、これを最初に見た人って、大抵驚くんだけどね。芙毬のような小柄な少女が、この重々しい質量を宿したサンドバッグを跳ね上げる拳撃を繰り出すというのが、普通の人にはにわかに信じがたいものらしい。
「――――」
 由咲ちゃんが言葉を失ったままなので、そのまま始めることにする。
 本日のメインイベント、芙毬の空手の型の披露だ。もっと難しい、壱百零八(スーパーリンペイ)の型も芙毬には出来たけど、今回は一番好きで馴染みの深い三十六(サンセイル)の型を披露することにする。
「サンセイル」
 内八の字立ちの形に移行すると同時に掌を切った瞬間から、外界の雑音が途切れ、芙毬の芙毬なりに作り上げてきた型の世界に没入する。終わるまで、積み重ねてきた動きを、いつものようになぞり続ける。空手の歴史の中で幾千の人が繰り返してきた動きを、先人への敬意と誠意を持って自分自身が繰り返す。時に掌を返し、時に蹴りを繰り出し……。芙毬にとってはそれだけ。
 だから、型を終えて由咲ちゃんを見た時、泣いていたので驚いた。
 型の最中の、自分の世界から外の世界へと戻ってきた最初の瞬間に目に入ったのが、そんな由咲ちゃんの顔だった。ハラハラと頬を伝う涙をぬぐいもせずに芙毬を見つめながら、由咲ちゃんはこう言った。 「芙毬、強くて、綺麗だ」
 と。
 
 ◇

 続く、三連休の中日は、芙毬はこれまた由咲ちゃんと過ごしたが、今回は二人で街に出ることにした。由咲ちゃんが「街はビジネスのヒントに溢れている」と言うので、由咲ちゃんはともかく定期テストのために何らかのビジネスを立ち上げて稼がなければならない、芙毬のためのアイデア探しというのが名目だった。
 けれど、意外なことに、街の散策途中にモダとセッチャンに会った。リディのあるS市の駅前に広がる繁華街はリディ生御用達の休日スポットなので、まあそういうこともあるかと思った。けれど、芙毬には何の連絡もよこさずにモダとセッチャンのみのペアでこんな場所にいるというのが少しジェラシーだった。
「なんだい、香源司さんと二人かよ。美少女二人、つるんでると何かと得ですわ作戦きたよこれ」
 お互いがお互いに気付いた時、なんでか知らないけれどすぐに双方とも言葉が出てこなかったのだけれど、まずはモダが沈黙を破った。そうか、向こうからすれば、芙毬も何の連絡もせずに由咲ちゃんと二人で遊んでるみたいに見えるのか。
「そう、美少女二人、これでパトロンでも捕まえて定期テストを切り抜けよう作戦……っじゃなくて! ガンガンビジネスアンテナ張り巡らせながら、いいネタないかと街を闊歩(かっぽ)してたんだよー。なぁに? お二人はデート?」
 芙毬がちょっと若いカップルに絡むオジサンのような趣で尋ねる。
「ち、ちゃうねん。芙毬ちゃん、そんなんちゃうねん。ちょっと、私の方からモダくんに用事あって頼んで来てもらったんよ」
 何故か大いに顔を赤らめてあたふたと手を振りながらセッチャンが返答する。
 と、そこで芙毬はモダとセッチャンの二人が出てきたビルディングの外看板に気付く。一階が携帯ショップ、二階がメンタルクリニック、そして三階が……アニメショップ!
 そこで芙毬は、少女アニメ、『ユメもアイも磨けば光る』をこっそりモダにダビングしてもらった芙毬同様、セッチャンも何かしらそっち系でゲットしたいものがあってモダに白羽の矢を立てたのだと解釈する。
「香源司さん、すまなんだな。バームクーヘンのお礼遅れちまって。すぐに俺らも会いに行こうと思ってたんだけど、これでも色々あってさ。おかげで巫奈守に仲良しフラグ、随分先を越されちまったぜ」
 モダが、芙毬に言うよりは幾分礼儀正しく由咲ちゃんに向かって改めてバームクーヘンのお礼を述べる。
「ふむ」
 由咲ちゃんは何やら先ほどの芙毬と同様に二人が出てきたビルディングの外看板の方を眺めていたが、やんわりとモダに向き直る。
「茂田氏。どうやら君は、随分と信用に足る男だと思われているようだな」
 一瞬、言葉の意味が分からなくて、由咲ちゃんとモダの顔を思わず交互に見つめる。これも、これまで何回か経験してきた由咲ちゃん言語だろうか。
「はは、何だよ。確かに俺は信用に足る男だが……って照れるよこれ。何、パープルタイの中で俺の株急上昇中?」
 モダがいつもの飄々とした態度で答える。
「ああ、その受け答えといい、謙虚だ。急上昇だよ。パープルタイのファンダメンタル分析において、君の株は買いだ」
「そいつはどうも」
 モダが何故か少し肩をすくめながら答える。
「翔田さん」
「あ、うん」
 今度は由咲ちゃんから急にふられたセッチャンが驚く。
「甘いものは好きかね?」
「はやや、人並に好きやけど?」
「それならば、よければこれから四人でパフェでも食べにいかないかね。いい店を知ってるよ」
 由咲ちゃんからこんなことを言い出すのは意外だった。由咲ちゃんはいつものままの静かな切り目でセッチャンを見つめている。いや、いつもより心持ち優しい印象すら受ける。
「光栄やわ。是非ともご一緒させてな。うちらの用事も終わったことやし」
 と、セッチャンがモダの方をみやる。
「親睦会といきますか。敢えて、テスト告知後にやるってのが熱いね」
 なんだろう、この芙毬を置いてけぼりにして皆が解り合ってる感じ。芙毬はキョロキョロと三人の顔を順番に見やる。
 結局、この日は四人で美味しくパフェを頂きながら歓談して暮れていくことになった。まあ、友だち同士が仲良くなってくれるのはいいことだけど、まさか、由咲ちゃん、モダみたいなのが好みってことは無いよね? などと言うことを芙毬は考えていた。
 
 ◇

 三連休の最後の三日目は、リディの敷地内でこれまた由咲ちゃんと過ごした。昨日、街に繰り出してみて何のアイデアも沸いてこなかったのだからしょうがない。今日は学内でビジネスのネタを探すことにしたのだ。
 とは言え、既に時刻はお昼で、一般宿舎の区画にある共用棟と呼ばれる建物の脇のベンチに二人座って、持参したサンドイッチなどを食べている。共用棟は、学生向けのちょっとしたお店があったり、申請制で使えるミーティングルームがあったり、学内関係の掲示があったりする場所だ。
「難しいなぁ、ビジネス」
 別に誰かに聞いて欲しいということもなく、うつむき加減のまま芙毬がそうもらすと、誰か所ではなく、隣にいた由咲ちゃんでもない第三者から返事が来たので驚いた。
「難しく考えすぎなのよ。巫奈守さんは」
 誰? と思って顔を上げると、そこには学園長の顔があった。相変わらずのオーバーコート姿。確かにまだ寒いというのもあるけれど、きっとお気に入りのコートなのだろう。
「学園長、休日出勤ですか? リディの学園長ってそんなに忙しいんですか?」
「ううん。普段はお休みの日は子供達と遊んでるわよ。今日は、お休みの所に呼び出しが来てのご出勤。それもあんまり嬉しくない案件。明日学校に来れば、あなた達にも伝わることだけどね」
「はぁ」
 学園長兼ビジネスオーナーをしながら休日は子供と遊んでいられるものなのか、とか、「嬉しくない案件」というからにはあんまりそっちの方に話を振るのも失礼か、とか、色々な気持ちが学園長の言葉から芙毬の内部に生まれる。
「それよりもお悩みのような巫奈守さんに一つアドバイス、ビジネスの基本って何だと思う?」
 ビジネスの基本。確かに基本は大事だ。空手でも、人間関係でも、何でも。
「マーケティングとか? あ、それとも商品の品質?」
 思いつくままにビジネスのイメージを述べてみる。
「ほら、難しく考え過ぎよ! ビジネスの基本はね……」
「基本は?」
「人を楽しませることよ!」
 少し、もったいぶって学園長は言った。
「巫奈守さんが大好きなアニメのDVDを買うとする。それはそれを観ることによって楽しい気持ちになりたいからよ。パソコンがなんでこんなに普及したのか。沢山便利になって皆楽しくなれるからよ。ゴールドラッシュ時代のオーストラリアでどうしてツルハシが飛ぶように売れたのか。黄金ザクザクの夢への道具が手には入って、楽しくなったからよ。そして香源司さんのリンガーラップがどうして商品として認められたのか。面白かったからよ。皆が楽しい気分になれたからよ。どう? ビジネスって、買う側から見れば楽しいことを手に入れること、売る側から見れば楽しいことを送り届けること、そういうことでしょう?」
 アニメのDVDがどうとか、あげる例に何故にモダ的なものが混ざっているんだ? というような疑問もちょっと浮かんだけれど、その辺りは置いておいて芙毬は素直に感心する。
「なるほど! そう考えると、なんかハッピーですね!」
「そうよ、楽しくてハッピーなものなのよ、本来、ね」
 本来?
「学園長、その話は少々楽観的過ぎますよ」
 それまで黙っていた由咲ちゃんが口を挟む。
「そうね、香源司さんはきっとそう言うわね」
 学園長は、そう言ってしばらく由咲ちゃんの方に視線を向けたが、何やら、由咲ちゃんを見ているというよりは意識を遠くにやって何かを考えてるような感じだった。やがて改めて芙毬の方を見やって、こんなことを言う。
「ビジネスオーナーの先輩として、学園の先生として、そして、一介のお年寄りの独り言と思って聞いてね」
 結局どう思って聞けばいいのか、難しい前置きだ。
「ビジネスの世界には、こんな有名な故事があるわ」

――昔昔ね、ある所に、二人の仲の良い兄弟がいたんですって。
ある日、兄弟で仲良く、ロバをひいて歩いていたら、通りがかった人から、「無駄なことをしているんじゃない?」と言われたので、お兄さんの方がロバに乗ることにしたんですって。
でもね、そしたらしばらくして、また行き違った人から、「お兄さん、あなたは年少者に対する愛情がないの?」と非難されてしまったの。だから今度はお兄さんは、遠慮する弟さんを半ば無理やりに、ロバに乗せたんですって。
ところがところが、またしばらく歩いていたら、次に行き違った人から、今度は、「礼儀を知らない弟だな!」と叱られてしまったんですって。時代的に、弟は兄を敬うことが当たり前とされていたのね。
それではと、ちょっと二人で知恵を絞って、今度は二人仲良くロバに乗ってみることにしたんだけど、お次は、「人間が2人も乗るなんて、動物虐待だ!」と騒がれてしまったんですって。
そうしてこうして、兄弟は仕方なく、二人でロバをかついで帰ってきました。とさ。――

「と、こんなお話よ。巫奈守さん、あなたなら、ロバをどうしたかしら?」
 これは難しい。深く考えれば考えるほど、やたらと教訓めいたオーラを発しているお話だけど、何がベストな解答かと考え始めたら相当頭を使う類のお話だ。
「ちょ、ちょっと分からないです。うーん、何やっても文句を言ってくる人って現実にもいるからなぁ」
 気の利いたことは何も言えなかった。当然、話の流れからビジネスのヒントとしてこの話を学園長はしてくれたのだとは思うのだけど。こんなんでは、自分はリディ生として落第生かもしれないと芙毬は思う。
「私なら、ロバを繁殖させて売りに出しますよ。ロバが一頭というのが問題の元凶のように感じましたのでね。お金も稼げて、それこそ楽しくてハッピーでしょう?」
 繁殖!? と、食いつく所が違うと思いながら、由咲ちゃんの解答に目を白黒させる。なるほどと思う反面、相変わらずどこかユニークな発想をする人だと思う。
「香源司さんらしい解答ね。香源司さんなら、あっという間にロバ専門サイトを立ち上げて、世界中のロバ好きを集めてロバ売りまくりね」
「ロバフェチビジネス!」
 由咲ちゃんが、また何を言い出すかとでも言いたそうに芙毬を見やる。
「君はもう少し考えながら発言したまえ。ロバはものの例えだろう。ロバフェチて」
 そんな二人を眺めながら、学園長がフフフと笑う。
「対照的な答えね」
 対照的? というか、芙毬の方は何も答えて無いような気がするのだけど。
「だけど、あなた達二人なら、無敵のコンビって感じね」
 そんなどこまで本気か分からないような学園長の言葉を、由咲ちゃんは相変わらず表情を変えずに聞き流してる様子で残りのサンドイッチを口に運び、芙毬は、ベンチに腰掛けたまま意味もなく空を見上げた。
 蒼いなぁ、今日も。
 梅雨に入る前の芙毬の好きな空を見上げながら、麗しの少女アニメを思い出した。
 学園長がどれほど自分の発言に責任を持ってるのかもよく分からないし、由咲ちゃんは淡々としてるけど、「無敵のコンビ」という響きはカッコいい。ユメとアイみたいな、無敵のコンビになれるようななれないような、由咲ちゃんという人と一緒にいると、芙毬はそんな不思議な期待を感じられるようになっていたから。
 
 ◇

 午後から再び学園内をふらふらと由咲ちゃんと歩いているうちに、夕暮れ時になり、いつの間にかベンジャミン・フランクリン像の前に辿り着いていた。
 辿り着くなり手を合わせる由咲ちゃん。夕日が紅く由咲ちゃんの髪を、頬を照らして、綺麗だ。せっかくなので、芙毬もベンジャミン・フランクリン氏に向かって手を合わせることにする。特定の宗教を重んじる家庭に育ったわけではないので、宗教的な意識が希薄な芙毬ではあるけれど、空手の道場にも神棚はあるから、神聖なものを前にした時の厳粛な気持ちは理解できる。ベンジャミン・フランクリン氏は様々な宗教を重んじていたと一般的なリディ生としての知識で知っていたから、芙毬が手を合わせた所でフランクリン氏も怒るまい。もっとも、自分が手を合わされる対象になろうとはフランクリン氏も思ってなかったかもしれないけれど。
 神聖な対象物に手を合わせる時はそうするものだと思って目を瞑(つむ)って心を澄ませていたのだけれど、一区切りついたと思って目を開けてみたら、由咲ちゃんが少し移動して、またベンジャミン・フランクリン像を見上げていた。
「この場所、この角度から見える感じが、またイイんだ」
 芙毬は思わず可笑しくなる。
「何それ、富嶽百景(ふがくひゃっけい)ならぬフランクリン百景?」
「笑ってくれるなよ」
 そう言いながら髪をかき上げるけれど、由咲ちゃんも笑っている。
 そうだね、由咲ちゃんにとっては重要なことなんだもんね。
「何だか、恋人の顔を見ているみたいだね。あ、彼、この角度で見るとちょっとカッコいいとか、つい、チェックしたくなるものだよね」
「私には分からないね。いたためしがないのだ。特定の男性というものが」
「ええ! 意外! こんなに美少女で頭もいいのに!」
 芙毬にとっては当たり前の経験則から口にした言葉も、どうやら由咲ちゃんには当てはまらなかったらしい。
「言ってくれるよ。美少女で頭も良くても、いなかったのだよ。そういう芙毬は?」
「え、私いたよ」
 これまた芙毬にとっては当たり前の経験だったし、特に隠蔽(いんぺい)することでもないので、素直に答えた。
「幼馴染みの公一郎(こういちろう)くん。中学に入った時から、二年くらい付き合ってた」
「公一郎くんと来たか」
 何故か笑う由咲ちゃん。別に、笑いを取る所ではなかったのだけど。
「それがまた、どうして別れて、君は今リディなんかにいるんだ?」
「うーん。彼に、別に好きな子ができちゃって。あと、色々大事なものがお互いに違ってきちゃってたし。あー、でも、別れた後にペアルックの腕時計見た時は切なかったなー。あれ、今でも捨てれてなくて実家に置いてあるわ」
 由咲ちゃんがあきれたような顔をする。ここも、別にあきれてもらう所じゃなかったんだけど。
「芙毬のペアルック発言の起源はそこか。私には理解できないね。同じものを身につけてないとダメなんて、縛られているみたいで窮屈ではないかね」
 その意見には反論させてもらう。
「そんなことないよ。縛られているからいいんだよ。由咲ちゃん、ペアルックはね、お互いがお互いを重要だって思ってる証(あかし)なんだよ」
 指をチチチと振って講釈してみる。ビジネススキルでは全然敵わないけれど、恋愛経験値は自分の方が上だと分かったので、ちょっとお姉さんモードになってみる。
「そういうものかね」
「そういうものなのだよ」
 無駄に由咲ちゃんの口調をマネして答えてみる。
 立っているのが疲れてきたので座ることにする。ベンジャミン・フランクリン像の回りは一段高い段差に囲まれているので、その段差の部分を椅子代わりにして座り込む。低い段差なので、端から見てると地べたに座ってるように見えてしまうかもしれない。
「ベンジャミン・フランクリンに会えたら、何を聞きたい?」
 お顔を角度を変えて眺めてしまうほどに好きなら、彼女が彼氏に会いたいように、由咲ちゃんも彼に会いたいんじゃないかと、そんな連想で何気なく聞いてみた。
「会えるものかね」
 由咲ちゃんも座り込んだらしい。由咲ちゃんは「またイイ」角度でフランクリン像が見える位置まで移動してるので、座ってしまうとお互いに顔が見えない状態になってしまった。しょうがないので芙毬はお空に登ってる夕日を見つめることにした。由咲ちゃんは相変わらずフランクリン像を見てるのかもしれない。
「そうだな」
 そう前置きしてから由咲ちゃんが言った。
「もし本当に会えるならば、一つは『お金とは何か』聞いてみたい」
 うーむ。それは難しい。リディに入った以上どこかで向かい合わなきゃならない哲学なのかもしれないけれど、ここでフランクリン氏の代わりに芙毬が答えるには荷が勝ち過ぎる命題だ。
「だが、それ以上に」
 さらにそう前置きして由咲ちゃんが続ける。

「『幸せとは何か』聞いてみたい」

 そう言った由咲ちゃんの声は、何かの楽器から紡ぎ出される音色のようだった。小学生の頃に皆で練習した、何だか分からないけど美しい音が出る楽器。練習してた頃、もの凄く楽しかったんだけど、何の楽器だったかは思い出せないような、そんな楽器から出される音色。
 温かいけどどこか遠いそんな音色の気持ち良さになんだか芙毬は夢見心地になって、楽器に合わせて歌う気持ちで心の内を言葉にしてみた。こういう気持ちの時は、心から思ってることを歌詞にするのがきっと誰もが気持ちいい。
 夕日のくせに温かいような光に照らされながら、同時にその温かさはちょっと離れて座ってる由咲ちゃんのものなんじゃないかなんて曖昧な感覚を覚えながら、芙毬は、リディに来る前のあの頃、そういえば、公一郎くんという一人の他者は、空手の他に、芙毬にとって重要な存在だったんだなと、そんなことを思い出していた。

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