†パープルタイズ†


【出題編】


  4/

 連休が終了した翌日、その報は、一限目終了後の休み時間に進藤先生によりもたらされた。
「先日の学園長室荒らし事件に続き、遺憾だがまた悪いニュースを諸君に報告しなければならない。連休最終日、今度は学内のメインサーバー室に不審者が侵入し、いくつかのデータが学外に流出した」
 教室がどよめく。ラップトップPCをを学内LANに繋いでニュースをチェックしようとする生徒もいる。
「問題なのは、現在の所分かっている情報として、流出したデータには生徒の個人情報が含まれているという点だ。少し、大事になるかもしれないが、諸君は平常心を保って普段と変わらずに授業を受けるよう。以上が現時点での学園側から君たちに伝えられる全てだ。なお、新しい展開があり次第学内WEBにて情報は開示していく、各自、定期的にチェックしておくように。以上」
 個人情報。そういえば入学時にやたらと詳しく書かされたのを思い出した。あれが流出したわけか。いや、それだけじゃなく、タイムリーに更新されてる分の、個人の成績とか、それこそ生徒個人が所有してたり試みてたりするビジネスの情報とか、そういうのまで外部に流出してしまったということなのだろうか。それは、確かに大変なことかもしれない。
「おい、マスコミのWEBでもニュースになってるぜ」
 誰かが声をあげる。
 普段静かな教室が、不安をもらす声やら、糾弾の叫びやら、様々な主観の言葉に染まっていく。
「巫奈守、刹子が」
 そんな騒がしくなった教室の中で、聞き慣れたモダの声が少しの緊張感を宿して芙毬の耳に届いた。
 気が付いて左となりのセッチャンの机を見ると、セッチャンが何やらうずくまっている。最初は、眠ってでもいるのかと思ったけれど、すぐに状況が違うのだと気が付いた。
「ごめ……芙毬ちゃん。私、ちょっと気持ちが悪いねん。ちょっと、目眩が……」
 そう言って芙毬に向けられた顔が、随分と青ざめていたので、いよいよ芙毬は驚いた。
「ちょ、大丈夫? 保健室、保健室行こう。立てる? 歩ける?」
 リディの個人情報流出とか、とりあえずどうでもいい。セッチャンの体の方が大事だ。そう思って、芙毬は立ち上がった。モダと、由咲ちゃんも当然のように付き添ってくれた。
 こういう時に一人じゃないことが嬉しかった。けど、何故だろう。芙毬には、何だか悪いことが始まった予感が心から拭えないでいた。
 
 ◇

「茂田氏、ちょっと」
 保健室のドアの外で芙毬と由咲ちゃんとモダと、保健の先生がセッチャンを診てる間待たされていたのだけれど、由咲ちゃんが指をくいと動かしてモダだけを呼んだ。なんだろう、芙毬がいては都合が悪い話だとでも言うのだろうか。
「芙毬は、翔田さんについていてやってくれ。我々もすぐ戻る。こういう役は、我々より芙毬向きに思えるのでね。適材適所だよ」
 また、今ひとつ意味が取れないことを由咲ちゃんが言う。ただ、勿論、セッチャンの容態を聞くまで芙毬はここを動くつもりはなかったので同意する。
 そのまま、モダと廊下を歩いていってしまう由咲ちゃん。
 なんだろう、嫌な感じがつきまとう。
 
 ◇

 保健室のドアが開いて中に招き入れられ、ベッドの上のセッチャンと対面することになる。
「大丈夫、ちょっとした貧血やわ。うち、時々なんねん。心配かけちゃってゴメンね」
 と、これは開口一番のセッチャンの言葉である。
 いつもは芙毬の目線からは見上げる形になる、背が高めの大和撫子も、ベッドの上だと弱々しく感じる。その分いつも整ってる長い髪が乱れてるのが逆に綺麗だったりもするけれど。
「芙毬ちゃん、うち、バカやし。こうやって人に迷惑かけちゃうし。お金もちっとも稼げねんで。本当どうしようもないヤツやと思うんやわ。リディに来て一ヶ月やけど、もう疲れてしもうたとか、弱音吐きとうなる甘ちゃんなんやわ。リディの先生はよく二つの世界の住人の話をするけれど、情報時代とか産業時代とかじゃなくて、一番の世界の違いは、世の中にはどんな時も諦めないで前に進める人と、何もかも諦めながら生きるのが相応な人との二種類がいることのような気がしてんねん。そんで、芙毬ちゃんや香源司さんは前者の人、ウチは後者の人や。うちは、ダメなんやわ。何もかも、ダメなんやわ」
 思わず、ベッドの上のセッチャンの手を取った。
「そんなこと、言わないで」
 あの日、修学旅行の夜に聞いた、打ち明け話なんかもう聞きたくない。
 あれから一年経って、芙毬はリディにいる。また「もうダメだ」なんて言葉を聞いて、聞き過ごして、曖昧な笑顔を浮かべているわけにはもういかない。何ができるわけでもないけれど、セッチャンはダメじゃないって、それだけは伝えなきゃそれこそダメだ。
「セッチャンは可愛い。セッチャンは長い髪が綺麗。セッチャンは英語ができる。セッチャンは、話してると癒される。ううん。というより存在そのものが癒しって感じ。セッチャンが思ってるよりもずっとずっと、セッチャンは重要な存在なんだよ。だから、自分をダメだなんて言わないで」
 少し熱が入りすぎたか、気付いたらセッチャンの手をギュウギュウに握りしめていた。
 でも、そしたらセッチャンもちょっとだけ握り返してくれて、少し照れたような顔をしながらでも笑ってくれた。
「やっぱり、芙毬ちゃんは、熱いハートの人なんやなぁ。なんか、昔の少女アニメの主人公みたいや」
 何でもいいや。ハートが熱いなら、その熱が少しでもセッチャンに伝導すればいい。それでセッチャンのハートが少しでも温かくなるんなら、それはとても嬉しいことだと芙毬は思った。
 
 ◇

 セッチャンを帰ってきたモダに任せ、一転芙毬は由咲ちゃんと共にリディの地下サーバー室の扉の前にいた。警備員のおじさんが同行者として一人。重厚な、横にスライドして開閉する仕組みの、いかにも高度なコンピュータで制御されていますといった感じの白い扉がそこにある。
「それで、まず、警備員の方は殴打されて気を失ったと?」
 由咲ちゃんが説明役を引き受けてくれた警備員さんに質問する。
「ええ、そうですね。私の同僚なんですが。金属バッドのようなもので一撃。幸い大事には至りませんでしたがね。それにしても非道い話です」
「犯人の顔は?」
 絶え間なくメモを取り続けながら由咲ちゃんが質問を続ける。
「覆面でしたね。襲われたそいつの証言にもありますし、扉の前の監視カメラにも写っています。映像まではお見せすることはできませんが。よく、報道特別番組なんかでやってるコンビニ強盗みたいな。いかにも犯罪者といった装いでしたよ」
 警備員さんが天井隅に設置されてるカメラを指しながら答える。
「となると、やはり、問題となるのはこれか」
 由咲ちゃんが、扉横の壁に付いている音声認識端末に目をやる。
 「音声照合式パスワード」。この技術こそが、このリディのメインサーバールームを守っていた技術であった。
「金属バッドで強行突破できるのは警備員さんまでだ。これをどうやって破ったか……だな」
 そこで芙毬が挙手する。
「これ、いわゆる静脈認証とか、瞳孔認証とかと一緒で、あらかじめ扉を開ける権限を持ってる人の声を登録しておいて認証するってことでしょ? 人の声って、そういうのに使えるほど特有なものなの? 私、似た声をしている人にって結構会ったことあるんだけど?」
「それはいい質問だ」
 由咲ちゃんがメモを取っていたペンをくるりと回して芙毬の問いに解説を返してくれる。
「人の声のスペクトログラム、まあ声紋と言ってしまってもいいか。こいつは指紋なんかと同様に個々人で異なっていると言われているが、実はそれほど厳密に特有のものではないとする説もある」
「く、詳しいんだね、由咲ちゃん」
「私の領分だよ。何やら化学(ばけがく)と勘違いしてる人もいるようだが、本来私の専門は理論言語学と言われる分野だ。言語音も一種の音だからね。これは理論言語学の中でも音声学と言われる分野の話だ」
 そうなんだ。芙毬としても漠然とフラスコなんかを片手に化学をやってるイメージを持っていた。イメージ優先の人物観は時に事実と異なる。気をつけねば。
「とまあ、ここで音声照合の科学的妥当性を長々と論じることも可能だが、問題はそこじゃない。仮に芙毬の言う似た声の人がいたとして、パスワードまで知っているとは限らない。もう一度確認しよう。この扉は、本人の声で、かつパスワードとなってる言語音を認証しないと開かないんだ。つまり、まあ、なんでもいいが、『たけやぶやけた』がパスワードだったとして、本人の声でその通り『たけやぶやけた』という言語音を入力しないと開かないわけだ。そうですね?」
 由咲ちゃんが警備員さんに確認する。
「その通りです」
「そうか。声が似てる人でも、パスワードが何かまで知ってるわけではないのか」
「『本人の声』と『パスワード』という二重のロックだよ。芙毬の言う開閉権限のある本人と声が非常に似ているというハードルを越えるだけでも相当に大変なのに、パスワードまで盗み出さなければならないとなればことは簡単ではない」
「うーん? 権限者が開閉する所に張りついてて、こっそりパスワードを盗み聞きしちゃうとか?」
 由咲ちゃんがサーバールームの扉へと続く廊下に目をやる。
「ざっと、警備員さんのチェックが入る場所からこの音声認証装置の場所まで、三十メートルから五十メートルある。そして、警備員さんのチェックの後は、サーバールームまで踏み入れられるのは権限者のみ。仮に怪しまれずに権限者に同行して警備員さんのチェックの場所まで行けたとして、そこから耳をすましてパスワードを盗み聞きできる距離とは思えないね。どうですか?」
 再び警備員さんに確認を求める。
「確かに私どもが待機している場所から、音声照合中の権限者の方のパスワードを盗み聞きできるということはありません。我々も、サーバー室の中には入れないことになってるんですから。監視カメラすら音声はOFFになっています」
「監視カメラの映像で、実際の所、今回のその覆面の男はどうやって扉を開けていたのですか?」
 なるほど、それは重要な情報だ。扉を破ったトリックも何も、破られた瞬間は監視カメラで録画されているのだ。
「それがですね。先ほどおっしゃったように覆面をかぶっていたので詳しい口の動きなどまでは分からないのですが、ごく自然に音声認証装置に向かって何かの言葉を発し、普通に入っていったのですわ」
 ええと、つまり。
「犯人は『権限者の声』と『パスワード』の両条件を既にクリアしていたというわけですね。必死で声真似をしたとか、必死でパスワード候補を何度も発声したとか、そういうのではないと」
 芙毬の頭は混乱し始めていた。いったいどうやって犯人は扉を開けたのか、段々途方に暮れてくる。
「それで、肝心な点ですが、このサーバールームに出入りできる権限者というのはいったい誰々です?」
 頭がいっぱいいっぱいになりつつあった芙毬をよそに、由咲ちゃんは淡々と情報を集めていく。
「学園長と、数人のサーバールーム内職員だけです。ただ、職員といいましても、厳しい審査で選ばれたモラル意識の高い人物達ですし、何より守秘義務が一大事項として盛り込まれている契約を交わした上で務めている職員です。私と同じく、彼らもリディで言う所のビジネスオーナーではなく一般的な従業員ではありますが、待遇も、一般の会社従業員よりはすこぶるいい。これは私の私見ですが、個人情報を漏洩(ろうえい)させたとなってはそれこそ身の破滅というレベルですので、そこまでのリスクを冒して職員がそんな暴挙に出るとは……」
「分かっています。となると……」
「ちょっと待って」
 頭の回転が追い付かないなりに聞いていた芙毬が、その話は理解できたので、話の腰を折る。由咲ちゃんまさか。
「学園長を疑ってるんじゃないでしょうね?」
「確かに、現時点での情報からすると、学園長は『権限者の声』と『パスワード』の二つの条件を最初からクリアしている人物だ。が、学園長が犯人である線は極めて薄い」
 なるほど、それならいいけれど。と芙毬は納得したけれど、一応その根拠も気にかかるので聞いてみる。
「簡単なことだよ。学園長が犯人だったとして、まあ、何かしら動機があってメインサーバー内の個人情報を盗み出したかったとしよう。学園長がやるなら、堂々と入っていって盗み出せばいいじゃないか。わざわざ、覆面を被って金属バッドを振りかざす意味が分からない。やはり、犯人は何らかの方法で『権限者の声』と『パスワード』を手に入れた第三者的人物なのだよ」
 なるほど、言われてみれば当たり前だ。学園長は盗もうと思えばいつでも盗めるのだ。という以前に、学園長こそがそういった個人情報に目を通せる立場にいる人なのだ。わざわざ盗み出して見るという発想そのものがおかしい。
 そこで芙毬が電撃的に思いつく。
「分かった! 由咲ちゃん。レコーダーだよ、レコーダー! 犯人は学園長の声を録音したレコーダーを持ってたんだよ。最近のは小さいから、ポケットか何かに入れて、それで認証装置に向かって声を出すふりをして再生ボタンを押したんだよ!」
 芙毬としてはこれで決まりだと思った。閃きが振ってくるとはこういうことか、この閃きがビジネスにも欲しいなどと考えるまでにテンションがあがった。
 けれど、由咲ちゃんが「いや……」と前起きしてやんわりと否定する。
「いい線だが、それは学園長の声、つまり『権限者の声』はクリアしているが、『パスワード』の方をクリアしていない。何だね、学園長に対して今から録音するからパスワードを喋って下さいとでもお願いするのかね?」
 そうか、ハードルは二つあるのだった。一つならなんとでもなりそうなのに。
 この音声照合装置の実用性に最初は懐疑的だった芙毬も、徐々に中々有用な認証装置なのではないかと見識を改め始める。いや、それでも現実に破られてしまったのだから称賛するわけにはいかないのだけれど。
「いや、待てよ」
 そこで由咲ちゃんが手持ちぶさたのようにクルクルと回してたメモ用のペンの回転を止める。
「レコーダー。学園長……」
 それだけを口にすると、急に警備員のおじさんの方に向き直って頭を下げる。
「色々教えて頂いてありがとうございました。職務、お疲れ様です」
 それだけを言って頭をあげると、何か目的地を遠くに定めたように細い目を見開きながら、地下サーバールームと地上とを繋ぐ廊下を地上に向かって駆け出してしまった。
 どうやら由咲ちゃんは、結局、芙毬には途方に暮れてしまうしかなくなってしまったこの認証装置の謎に関して、何かを掴んだらしい。やはりパープルタイの頭脳は凄いのだと、改めて親しくなった友人に、芙毬はこの時は敬意の感情を抱いたのだった。
 
 ◇

「今年は暦が五月に入ったわりには確かに寒いですが、学園長、私がお見受けするに、そのコートをここ一週間あまりずっと着続けていますね?」
 由咲ちゃんは、いつかの様に学園長室の扉の前に佇んでいた学園長の前に赴くや否や、そう学園長に問いつめた。そう、「問いつめた」という表現が適切なほど、ややきつい印象を受ける聞き方だった。
「ええ、確かに着てるけど。お気に入りなのよ?」
 一方で学園長の方は、由咲ちゃんの様子に一瞬だけ驚いた様子を見せたものの、すぐにいつもの穏やかな表情に戻って優しい声で答えた。急に分からないことを言い出した子供の本意を優しく確かめようとするお母さんのような様子だった。
「部屋に、学園長室にコートを置いて外出することは? いや、もっと具体的に、学園長室に『荒らし』が入ったあの日、学園長はコートを部屋に置いたままでしたか?」
 由咲ちゃんがさらに詰問の調子を強める。ここで学園長室荒らし事件のことを持ち出してきたのが意外だった。どういうことなのだろうか、メインサーバールーム侵入事件と、学園長室の事件は繋がっているのだろうか。それよりも何よりも由咲ちゃんのこの様子。まさか、やっぱり学園長を疑ってるとか?
「置いてなかったわよ。ここの所、部屋から出る時はずっと着ていたし。それが何か?」
 しばし、学園長と由咲ちゃんが見つめ合う。由咲ちゃんの意図をはかりかねているような学園長と、何かに逡巡(しゅんじゅん)してるような由咲ちゃんという絵ができあがる。芙毬はもちろん学園長の立場に近い。サーバー室前の扉から駆けだした後、由咲ちゃんの様子は何やらおかしい。けれどその理由が分からない。
 膠着(こうちゃく)状況を先に破ったのは由咲ちゃんの方だった。
「失礼」
 驚いたことに、そう一言だけ言って由咲ちゃんは学園長に抱きついたのだ。
 否、抱きついた様に見えた。動体視力がいい芙毬は、その瞬間、由咲ちゃんが学園長のコートのポケットに手を差し入れたのを確かに見た。そして、何かを「握った」動作をしたことも芙毬には知覚できた。
 数瞬、学園長を抱きしめる形を取った由咲ちゃんは、やがて学園長を解き放つと、何やら虚ろな表情で芙毬を見つめた。
「由咲ちゃん、今……」
 それが何を意味しているのかは分からない。だけど芙毬は、今、芙毬には見えた由咲ちゃんが取った行動を事実として確認しようとせずにはいられなかった。
「すまないが、何も言わないでくれないか」
 しかし、どう言葉を紡いだものか思案しているうちに、先に由咲ちゃんの方から釘を刺される。
「芙毬、そして学園長、申し訳ないのですが、やることができました。一週間ほど、学園を休ませて頂きます」
 そして、いきなりの由咲ちゃんの宣言が耳をつく。
 それだけを言い切ると、由咲ちゃんはくるりと背を向けて歩き出した。芙毬についてくるようには言わなかった。むしろ、その背中は芙毬がついてくることを拒んでいるように見えた。
「香源司さん」
 何でもいいから声をかけようと芙毬が口を開きかけた所で、いきなり抱きつかれては放され、そして生徒に自主休校を宣言されたもう一人の渦中の人物である学園長が先に口を開いた。
「よく分からないけれど、あなたが探偵の真似事をすることは無いのよ? 誰にでも自分の領分というものがあります。もしかして、あなたがやろうとしていることは警察の領分なのではなくて?」
「今はまだ何も言えません。申し訳ありません。ただ、私は、ビジネスは自己責任の上に成り立っていると思っているのです」
 由咲ちゃんは振り返ると、学園長に向かってそれだけを言った。
 そして、最後に芙毬の方にも向き直り、笑顔のかけらも無い顔でこんなことを言った。
「芙毬、すまないね。一週間だ。集中したい。電話もメールもしないでくれ。君は、定期テストに備えるといいよ。一週間あれば、ビジネスの一つや二つ立ち上がる。それと……」
 少し間を置いて、こう続ける。
「くれぐれも、翔田さんに優しくしてやってくれ」
 そう言い残して、本当に立ち去っていってしまった。教室の方角ではない。本当に宿舎に帰るのかもしれない。
 結局、芙毬は何も言えないまま見送るしかなかった。セッチャン? セッチャンに優しくすることに何の異論も無いけれど、どうしてこのタイミングで言付ける必要があるのだろうか? なんだか、芙毬には分からないことだらけだった。メインサーバー室に何者かが侵入したというニュースを聞いた今日の朝から、セッチャンが不調を訴えた今日の朝から、芙毬の回りで何かが変わり始めてしまったような漠然とした不安が芙毬の胸を過ぎった。
 
 ◇

 次の日、やはり由咲ちゃんは学校に来なかった。いや、由咲ちゃんだけではない。セッチャンもだ。自然、休み時間はモダとつるんで過ごすことになる。
「そうか、香源司さんはそんなことを言ってたか」
 昼休み、いつもそこにいる女の子二人を欠いた風景の教室で、ラップトップパソコンのWEBブラウザを立ち上げたままメロンパンを食べているモダと向き合うことになる。
「正直、お近づきになってみてイメージ変わったね。香源司さんはめっちゃ優しい子だ。意外性にときめくよ、俺」
「ねえ、私、どうしたらいいかな。由咲ちゃんのこと、放っておけないんだけど。それにセッチャンのことも」
 そうだ、由咲ちゃんの件も気になるが、セッチャンの方も気になる。
「やっぱり、昨日の今日で何か具合悪かったりするのかな?」
 モダに聞いてもしょうがないかもしれないけれどと思いつつ、他に話す頼りも無いので聞いてみる。
「刹子のことはそんなに心配するな。調子今イチだから今日だけ休むってメール貰ってる。意外と、芙毬という名の精神安定剤が効いたんだよこれ。才能だな」
 精神安定剤? 普通に伝えたいことを伝えただけなんだけど。でもまあ、モダ経由でも心配ないと言われると安心する。少し、セッチャンは芙毬に伝えずにモダにだけ伝えることが最近多くなってきてることが気にかかったりはするけれど。
「問題は香源司さんの方だ。俺が思うに香源司さんの方にも安定剤が必要なんだが……こればかりは相手の方から手を差し伸べてくれないことにはね。電話もメールもしないでくれって言われたんだろう? 口を無理矢理こじ開けて薬をぶち込むわけにはいかないからなぁ」
 モダが語ってる精神安定剤の比喩がどうも気にかかるというかよく分からないのだけれど、どんな形にしろ由咲ちゃんに芙毬が一時的(と信じたい)に拒絶されているのは事実だ。勿論、理由は分からない。昨日から今日にかけて、芙毬には分からないことが格段に増えた。
「タイミングだ。香源司さんが手を差し伸べてくるタイミングをグッと待つことだな」
 やけに色々と分かったように語るモダに対して、芙毬は何だか頼もしさを感じはじめた。そういえばいつもセッチャンもいたのでモダと二人だけで話すというのは初めてかもしれない。意外に頼りになる男? そういえば、由咲ちゃんをして、「君の株は買いだ」と言わしめた男でもあったのだっけ。
「じゃあ、その、由咲ちゃんが手を差し伸べてくるまで、私は何をしてればいいわけ?」
「言われたんだろ? 定期テストに備えろって」
 モダが子供に正論を諭すお父さんのような口調で言う。
 それはモダの言う通りなのだけど、芙毬としては由咲ちゃんのことが引っかかったまま、何かに打ち込めるほど、自分は心が柔軟ではないと思った。結局、ビジネスのアイデアも思いつかないままだし。
「ところで巫奈守」
 急にモダがひそひそ声で顔を近づけてくる。教室に疎(まば)らにいる他の生徒には聞こえないようにと配慮してるようだ。
「おまえ、パープルタイになるつもりはあるのか?」
 モダのこの問いは唐突だった。「はぁ!?」と思わず大きい声を出してしまいそうになったが、何とか押さえてモダのひそひそ声に合わせる。
「なんで急にそんな話になるわけ?」
 お互いひそひそ声で顔を近づけ合う。
「おまえ、やっぱり無自覚だったんだな。確認だけど、ビジネスにおける人脈の重要性に異論はないか?」
 話しがあっちこっちに飛んでるような印象を受けて、よく分からないので、目前の問いにだけとりあえず「はあ、まあ」と答えておく。この前の何かの授業でも、人脈の重要性は強調されてた記憶もあるし。
「なら話は早い。皆、巫奈守が香源司さんと人脈を築いたんだって認識してる。ビジネスのパートナーとして、リディの一年で最も強力なのは言わずもがな、パープルタイの香源司さんだ。あの孤高チックな香源司さんがここ数日巫奈守とつるんでるって言うんで、リディ的な世評としては当然そうなる。まだ、表だってお前に絡んできたりするヤツはいないか?」
 そこまで聞いて、この前、高島くんが次のパープルタイがどうこうと言っていたのを思い出す。あの時、そういえば何かしらの負の感情を感じたのだけど、もしかして、あれも、今モダが言ったような意識からなわけ?
「だから俺も、実際、巫奈守はどう思ってるのかなって」
 モダがやけにまっすぐと正面から目を見て言ってくる。
 それは……。
 芙毬は由咲ちゃんが芙毬の部屋に来た時に話した、自分がリディに来た理由を少し思いだした。それは、モダにもセッチャンにも話したことが無い話だった。そういえば、あの時自分はどうして由咲ちゃんにあんな話をしてしまったのかと不思議になる。
「私は、私はパープルタイにはならないよ。私がリディに来た理由って、別にお金のためじゃないっていうか。ちょっと、色んなことがダメじゃないって証明したかっただけというか。うん、個人的な理由なんだよね。頑張らなきゃとは思うけど、パープルタイクラスを貪欲に目指す気持ちは別に……」
 それよりも何よりも、由咲ちゃんとの仲を「人脈」という言葉で括られたのに、言いようのない哀しさを感じていた。「人脈」だなんて、そんな。由咲ちゃんと芙毬は、ビジネスの能力や稼ぐお金の額に違いがあっても、友だちなんだと、芙毬自身はここ数日でそう思えるだけでの気持ちになっていたのに。
「分かった、じゃあ俺と組め」
 また、モダは唐突に言った。 「分からないか? 貪欲にパープルタイを目指すんだったら、そりゃ勿論、拝み倒してでも今度の定期テスト、香源司さんと組むべきだ。だけど、パープルタイクラスを目指す気がないって言うんなら、巫奈守は俺と組むのがベストだ」
 何故か、ニヤリと笑うモダ。
「俺に、いいアイデアがある」
 定期テストにあたって、誰かと組んでビジネスをやるという発想が今まで芙毬には無かった。しかし、ここにきてモダの提案である。確かに、ビジネスをチームプレーでやっていけないという法はない。いや、ビジネスにしろスポーツにしろ、一人より二人というのは世の真理のような気がする。
「俺じゃダメか?」
 なんだか、愛の告白をされてるような会話の流れになってきた。顔を近づけてひそひそ声で話しているので、端から見てたら尚更かもしれない。
「俺は、香源司さんに認められた男だぜ?」
 ここで、モダがパープルタイと呼ばずに香源司さんと呼んでくれたのが芙毬としては気に入った。モダとしても、由咲ちゃんのことは一緒にパフェを食べた一人の友だちとして思ってくれているのかもしれない。
「分かった」
 由咲ちゃんといることを、ビジネス抜きの関係として認めてくれているモダという存在は確かに今の芙毬には愛しい。
「定期テスト、一緒にビジネスをやろう」
 そう言って右手を差し出す。
「よし」と、すかさずモダが握り返してくる。
 同盟は成立した。
 由咲ちゃんのことは気になるけれど、モダの言う通り、もう少ししたら由咲ちゃんの方から手を差し伸べてきてくれるとして、その時の自分が不甲斐なくてはダメだろう。
 ここは由咲ちゃんが言ってた通り、ビジネスの一つや二つやってのけてみて、次に会う時堂々していられる自分になっていよう。芙毬はそんなことを思って、きつくモダの手をさらに握り返した。
「スゲー力。巫奈守、握力いくつ?」
 誕生したばかりの友人件ビジネスパートナーだったが、さっそく少し余計なことを言ってくれた。
 いい、頑張るんだから。
 芙毬はそう決心して、握り潰さんという勢いでさらに右手に力を込めるのだった。

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