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HISASHI君のことがあったときは”ありがとう”っていう感じだった(笑)。


----映画はレコーディングのスタジオから始まってるわけですが、そうやって考えるとこの”puresoul”プロジェクトというのは、かなり前から遡るということになりますね。
た:レコーディングね。思い出せないくらい前です(笑)。
ひ:アルバムが出たのが98年の7月。レコーディングは1月と2月だよね。『誘惑』の発売が4月29日だから。
じ:『誘惑』のレコーディングは1月だよ。1月末だった。
-着る物の感じが今と違ったりしてる。
じ:あどけないですよね。
ひ:太ってた(笑)。
た:最近って言えば最近だよね。
じ:めちゃめちゃ最近だよ。
ひ:変わるなぁ。
て:変わったというか・・・みんな苦労したねえ(笑)。
た:アクセサリージャラジャラだね、皆(笑)。
て:今じゃ全然しないけど。重くないのかっていう(笑)。
じ:はまってましたねえ、アクセサリーブームに(笑)。
-でもあのレコーディングの時は、ここまでのプロジェクトになるとは思ってなかったんでしょう。
て:非常に幸せな出会いでしたよね。自分達が思ってなかったこととか表現できなかったことが、作ってから見えてきたということもあったりね。普通やらないでしょ、1枚のアルバムで3回のツアーは(笑)。
じ:TAKURO君、あの時の方が今回の『HEAVY GAUGE』より煮詰まってたんじゃない。あの時の方が真面目だったっていうと変だけど(笑)。期日までにあげないといけないっていう。切羽詰ってた気がしたけど、どうなの。
た:そうだね。あの時は『REVIEW』以後っていうこともあって、どうあっても聞いてもらえるだろうなっていう状況にあったから、そっちほ方が大変だったかな。
-で、ツアーが4月17日の川口から始まってm前半戦のことはどう思い出しますか。hideさんの訃報とかがあったり。
じ:俺は煮詰まり放題煮詰まってたからな。ちょうどライブに対しての意識を変えようとしていた時期だったと思う。真剣ということと楽しむということの折り合いっていうのかな。それが空回りしてて。hideさんのことがあったり、東京に戻るたんびにキャンペーンというすごいスケジュールだったし。だじゃらHISASHI君のことがあった時は”ありがとう”っていう感じだった(笑)。
て:”puresoul”っていうテーマが最初は取っ付き難かったのかもしれない。それぞれの解釈とかあって、実際にステージに立ちながら、それがどういうものか捜してた前半戦だったかな。まあ、ツアーの最初模索するのは毎回のことですけど。
-でも、何と言っても5月の札幌。”ありがとう"事件と言いますか(笑)。
ひ:幸先悪かったですね、あのツアーは(笑)。始まってすぐでしたもんね。だから、俺はあそこから始まったような気がしますよ。三重苦を背負ったような立ち回りでしたから。明日は今日より悪いはずじゃないって気持ちが支えてましたね。
-まだ身体に残ってる感じですか。
ひ:うん。痛みというか、衝撃も覚えてるし。でも、今だったら多分同じ状態で飛んだとしても折らないようにも思う。あの時は何だろう、変にもっとロックバンドに見せたいっていうのかな。そういう意識も悪循環だったんでしょう。いまだと信じられない。
じ:TERUもすごいこと言ってたね。「心配したいなら心配しよ!アバヨ!」とか言ってステージ降りちゃった(笑)。その時は「HISASHI、演技うまいなあ」とか思ってた(笑)。スタッフのバツの合図がマルに見えたのね。あ、大丈夫なんだって思ったからまた煽ったんだけど、袖に行ったら折れたみたいなこと言われて、そこからはどうしていいか分からなかった。
-松葉杖でのリハーサル風景も写ってましたけど。
ひ:世田谷のスタジオだよね。あれが、その後最初に弾いた時だったんだ。自分じゃハンデなんてないつもりだったんだけど、あの時はショックだったな。
-ギブスには色々書いてあったでしょう。”休みをくれてありがとう”とか(笑)。
ひ:TAKUROの誕生日に書いたんですよ(笑)。リハの前だったし、札幌の後久しぶりに皆に会う感じだったんですよ。
じ:ラーメンとかカレーライスの絵とか描かれてなかった?(笑)
ひ:ラーメン、誰描いたんだっけ。何のために描いたのかなぁ(笑)。
-あのギブスは、まだあるの?
ひ:家にありますよ。いやあ、今と全然足の太さが違うの。たまにしてみるんだけど、もう入らない(笑)。でも、怪我はするもんじゃないですよ、すごい嫌だった。
-ハッピーなことといえば、ステージ上の誕生日パーティーでしょう。
じ:デビューして最初の何年かは、「誰かのチャン常備だからってステージ上でやるのはやめようね」って話してたと思う。それは他人に見られてどうというより、ステージとは別と思ってたんだろうね。でも、自分たちがステージで楽しもうというようになったからじゃないかな、それで楽になったと思う。
-お客と楽しむという。
じ:というか、わざわざ「どうですか」っていうんじゃなくて、俺らが楽しんでそれを皆が喜んでくれればっていう変わり方になってるんじゃないかな。

・・・・・TAKUROさんの言葉が読めないので(××)夜に本物見て打ち直しマス・・・。

-D.I..E.さんが抜けるというドラマもありましたよね。あのことはどう思い出しますか。
た:すごい決意を持ってお別れしたという。「別々の所で頑張っていこうよ」となったけど、出来れば一緒にやりたかったよ。でも、今度の12月のライブが終われば、またお互いにフラットになるんじゃないかな。
ひ:最初、聞いたときは嫌で辛かったですよ。でも、D.I..E.さんは自分で作品も作るし、その時には当然だよと思えましたけどね。
じ:でも、そのことを理解してから「自分たちは甘えてたんだな」と思ったけどね。これは『HEAVY GAUGE』に繋がって行くんだけど、シンセ一本入れるんだったらギターの音を太くとかバンドのアンサンブルを固めようとか、そういう意識になったのはあの時からだし。D.I..E.さんのことは俺らの中でも大きいことだった。前向きにさせた感じがします。
-喉のことはどうですか。
て:強い。自分でそう思いますね。その前のツアーが36本くらい。これで限界だなって思ってたんだけど、”puresoulツアー”で50本越えたくらいから自信ついた。スタジアムとか色々入れると100本以上ですからね。その間にテレビとかガンガンに入ってましtらし。それを考えると、並大抵のツアーでは潰れないでしょうね。鍛えられましたね。声質が変わりましたから。
-HISASHI君がプラモデル屋さんに行ってる映像も結構入ってましたね。
ひ:ツアー中って、自分の中のブームが必要なんですよ。皆の心の中にある幼い心を引き出してあげようとかもあったり。
て:ライブ中ならいいんだけど移動がね、結構煮詰まりましたね。
-ファンがホテルに取り巻いて外に出られなくて、宴会場を借りて食事したり。あの時の映像も入ってますけど色々ありましたね。
た:懐かしい思い出だよ。今思うとそんなに嫌でもないけど、あの頃は嫌だったな。
て:ヤだよ(笑)。
ひ:今あったら、ヤだと思うよ。
た:ノド元過ぎればっていう奴ですかね(笑)。それって何だか悲しい(笑)。

 

 


 


そういう意味では、この映画ってバンドの絵日記みたいなものだと思う。

 


 ホールツアーで僕が撮影したのはNHKホールと大阪ですね。NHKホールみたいに大きい所だけじゃなくて、ライブハウスみたいな絵も欲しいねって大阪を撮ったんだと思う。殆どのカメラをハンディーにしてライブハウスみたいにやりました。NHKの間の日はレコーディングで、それも撮ってたんだけど、スタジオが寒かったんだよね。次の日JIROが遅れてくるって言うんで心配してたら、点滴打ってるって聞かされて。別室で点滴打ってる所を「撮っていい?」って聞いたら「いいよ」って言ってくれた。それが、NHKホールで忘れられないエピソードでしたね。
 レコーディングは『I'm in love』や『ビリビリクラッシュメン』とか色々回してたんだけど、今まで殆ど外に出てなかった映像ですし、その時の様子も見て貰えると思う。ライブの時とは違いますよね。どんな風に受け止められるか楽しみですよね。そういう意味では、この映画ってバンドの絵日記みたいなものだと思う。俺が撮らして貰ってるけど、お互いの絵日記かもしれないですよね。
 大阪の時は、HISASHIが骨折した後のリハから撮ってますね。松葉杖ついてて「どう?」って聞いたら「大丈夫、ギター弾けますから」って。大変だったと思うよ。僕は、その時はいなかったけど、3月に北海道シリーズで札幌に行った時、同じ会館だったんで「ここから飛び降りたんですよ」って教えてくれたんです。その様子は撮ってますね。

Hiro Ito/Derector og Photography

 

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