第十一回  決して王にならなかった男

 

「今日からあなたは王様です」ということになったらどうします?
 中国史上には「なぜ、そなたは私の娘として生まれたのだ」と言って、愛する娘を自ら刺した(彼女は一命をとりとめました)皇帝がいます。幸せなことばかりではありませんね。
 一日王様、なんて体験版があれば便利かも・・・。

 ある国の王には、4人の息子がいました。
 4人、いずれもが優れた人物でした。しかし、その中でも四男の季札(きさつ)が白眉でした。国王が死ねば、長男が王位を継ぐのが普通ですが、この王は「季札に王位を継がせたい」と考えていました。王は、その気持ちを長男に話しました。普通なら王になるべき長男に黙っておいては、後々やっかいになると思って正直に言ったのです。
「ワシは、季札に王位を継がせたいと思う」
 当然王になれると思っていた長男は烈火の如く怒り出す──なんてことはしません。にっこりと笑って答えました。
「私も、我ら兄弟の中で最も優れているのは、季札だと思っておりました。まことにけっこうなことと存じます」
「ワシは、本当に子に恵まれた」
 王は、涙を流して喜びました。

 いつの日か、王は病床の人となっていました。枕元に季札を呼びました。
「ワシが死んだら、お前が王になれ」
 思いもよらぬ父王の言葉に、季札は仰天しました。
 季札が、現代日本人なら「父さん、ぼけたのかい?」なんて言うかもしれません。それほど、季札にとっては、突拍子もない言葉だったのです。
「私の上には、兄上が三人もおられます。なぜ、私が王になるのですか」
「三人の兄は、皆、お前が王になることを承知している」
 季札は、首を横に振ります。
「私を王にしたい、というのは父上の私事でございます。国家のことは公事であります。王自らが、私事を公事に優先させては、家臣に示しがつかぬばかりか、国家の面目が立ちません。それに、私が兄上たちをさしおいて王になったら、他国の人々がなんと申しましょう。我が国は、弟が兄をさしおいて王になる野蛮な国、と噂されましょう。父上は、やはり野蛮な国の王だ、とバカにされましょう。私は、親不孝者、兄に対して礼を知らぬ無礼者と言われましょう。そのようなこと、私には耐えられません」
と、書くのが疲れるほどの長いセリフを、一気にまくし立てました。
「季札よ、父の命令が聞けぬのか」
「こればかりは父上のご命令といえども」
「・・・まぁ、よい。ゆっくりと考えよ」
 翌日、季札の姿は王城にはありません。決断が早い、あの後すぐさま王城を出て、農民になっていました。王族としての地位を捨てたのです。
 父と兄たちは、季札の決意を知りました。長男は、自分が王になるという条件で、季札に城に帰ってもらいました。
 やがて、王が死にました。長男が王になりました。その長男も、いつしか病に倒れました。長男は、死の間際に次男と三男に遺言を託しました。
「私が死んだら、次男が王になれ。次男が死んだら三男がなれ。そして、三男が死んだら季札に王位をゆずれ。そうすれば、季札も王になることにためらいをおぼえまい」
 王位を兄弟で継承せよ、と言うのです。次男と三男は、しかと承知しました。
 やがて、王になった次男が死に、三男が王になりました。そして、三男が死の床につきました。季札を呼んで言います。
「季札よ、私の死後、お前が王になれ」
 季札は、うんとは言いません。
「お前は、父上と二人の兄上と私の意志を無視するのか!」
 それでも、季札は王になることを承知しません。あろうことか、国外へ高飛びする準備を始めました。かつて王族の地位を捨てて農民になったほどの季札ですから、間違いなくマジです。三男は、季札を王にすることを諦めました。
 三男が死ぬと、長子の僚(りょう)が王になりました。

 今までスムーズにいっていた王位継承ですが、これには「ちょっと待った」コールがかかりました。言ったのは、長男(季札の長兄)の長子光(こう)です。
 そりゃそうです。普通なら、この人がとっくの昔に王になっているはずなのです。長男が死んだ後、王になれていたのですから。
 は、季札が王になるなら納得もできますが、三男の長子であるが王になるのは納得がいきません。最初は、に仕えていましたが、すきをつきクーデターを起こして僚を殺し、王位を簒奪しました。
 この事件は、季札がいないときに起こりました。季札は、友好使節として他国へ行っていたのです。季札が慌てて戻ってくると、新しく王になったは言いました。
「お祖父様や父上のご遺言通りならば、今、王になっているのは叔父上(の父の弟が季札です)でございます。そうでなければ、お祖父様の長孫である私が王であるはずです。ですから、私は王を殺しました。私が王になったのは、叔父上がお帰りになるまで、王位がカラではまずいと思ったからです。どうぞ、叔父上が王位についてください」
 いとこであるを殺してまで王になった男ですから、いまいち本心かどうかわかりません。
 そのへんは、季札にもわかっていたかもしれません。季札は答えます。
「いえ、王のおっしゃることはごもっともです。王は、私の父の長孫。一方の私は、父の四男であります。あなたこそ、王位にもっとも相応しいのです。それに・・・今ここで私が王になれば、無用の混乱が起こる恐れがあります。そうなれば、無辜の民が、無用の苦しみを味わうことになりましょう」
 新王との対面が終わると、季札は、死んだ三男の長子の墓参りに行ったのです。

「だぁー、うざってーな、季札、このヤロー! さっさと王になりやがれ」
と、思わなくもありません。ただ、季札のこの行動には、彼の生まれた国が呉(ご)だったことに関係があります。
 時は春秋時代です。呉は、辺境にあって野蛮な国とされていました(呉は、中国にある国ではない、とされていました)。当然、呉国の人は野蛮人だとされていたのです。それが、季札には我慢できませんでした。現代でいえば、田舎者のコンプレックスがあったのです。季札は、中国道徳や中国文化を学び、それに従おうとしました。都会の色の染まろうとした、というところでしょうか。
 王にならなかった、というより、なれなかった、といったほうが正しいかもしれません。
 孝悌(孝は親に尽くす。悌は兄や年長者に尽くす)が中国の根本道徳です。季札に、この孝悌や、王位は長子が継ぐという中国の常識を無視することはできません。
 辺境の国に生まれたからこそ、季札のような聖人といっていい人物が育ったのです。中央の国では、孝悌や常識を無視して王位を争い、凄まじい戦いがありましたから。
 ただ、勝手なことを言わせてもらえば、季札のような人間ばかりでは、歴史がおもしろくないですね。