代参回  倫理学の思考(舌)

 

 ここまで読み進めてくれる人はいるのでしょうか・・・。

 やはり、素直に崖上のY美に助けてもらえる方法を考えましょう。
 二人の人間のどちらが好きか、という選択の場合、多くは相対的に二人の人間を見るものです。Aよりは、Bの方がいい。という具合です。もちろん、どちらかが自分のタイプの人間なら違いますが。
 つまり、自分の方が、ともに墜死しかけているF子よりも、Y美にとっていい人間であるということを証明すればいいのです。この場合、飽くまで、私はY美にとっていい人間であればいいのです。F子にいい人間だと思われる必要は全くありません。
 でっちあげます。・・・こう言うと人聞きが悪いですね。
 事実をねつ造します。・・・これでも、どうも後味が悪いという人、いますか。それなら。
 プロパガンダします。こう言えば、なんか格好いいですね。
「このF子は、あなたが給食当番の時、マスクを隠したのよ」
 と、Y美に言いましょう。公立小学、中学校に通った人であれば、一度くらいやられたことがあるでしょう。
「そう、あなたが隠したの」
 やっぱり、Y美にも経験があったようです。
 それも当然です。マスクを隠したのは、他ならぬ私なのですから。あのでっちあげ、もといプロパガンダは100パーセント偽りというわけではないのです。心苦しくなる必要はありません。人間、ウソをつくものです。ウソを、たまたまこういう状況で思わず、無意識のうちに言ってしまっただけなのですから。
 F子は突き落とされました。長かった死闘もこれで終わりです。
 Y美は、私を見下ろして言いました。
「あんたは、それを知ってて私に教えてくれなかったのね」
 これはマズイです。なんとかとぼけて切り抜けましょう。
「なに言ってるの。たかが、給食当番のマスクじゃない。心を大きく持ちなさいよ」




 一昔前、私の周囲では「究極の選択」というものが流行っていました。
 Aという行為と、Bという行為、どちらかしなければならないとしたら、どちらをやるか? というものです。これは大抵、A・Bともにやりたくない行為が選択の対象です。
 具体例として、ちょうどいいものがあります。アリストテレスという古代ギリシアの哲学者が、著書で次のような「究極の選択」を挙げています。
「ある人に対して、彼の親や子の生殺与奪の権利を持った愚かな君主が、なんらかの醜悪な行為を、その人に命ずるとする。そして、もしこの醜悪な行為を行うなら彼の親や子は救われる。だが、もしこの行為を行わないなら親や子が殺される・・・」
 中国史雑文演義の第六回第七回に登場した兄弟にも「究極の選択」が課せられました。
 今回の話のシチュエーションでは、どちらか一人しか助けられないという設定でした。これは、どっちもしたいけど両方はできない、ということで選択するのが難しいのです。

 このような問題には、どう考えても、算数的な解答はありません。正解もないし間違いもないのです。もしも、正誤を判断できる人がいるとしたら、それはずっと後世の人間だけでしょう。
 結局のところ、自分が正しいと信じる行動をとるしかないのです。問題は、後々まで、自分自身が、その行為は正しかった、と信じられることだけです。
 皆さんは、どのように考えますか。

 倫理学、なんて問題が難しすぎました。ですが、難しいからといって考えないのでは何もはじまりません。
 私の一番好きなゲーム『タクティスクオウガ』は、「究極の選択」をしなければならないのですが、選ぶのが非常に難しいです。私は、わざわざゲームを中断してじっくりと考えました。この思考が、倫理学ひいては哲学ではないか、と今の私は考えています。
 本当の哲学とは、考えることや想像することではないでしょうか。そう考えると、哲学という日本語訳は問題がありますね。というわけで『赤毛のアン』のアン・シャーリーほど「哲学する人」はいないのではないか、と私は思っています。