オープン・エンド再考
●まずは「お詫び」から●
 横藤先生の誠実さと仕事の素早さにはいつも驚嘆している。それに引きかえ,私の仕事の手際の悪さと不誠実は何とも申し開きのできない低レベルである。四月からは定期的に投稿しますと言明しながら,早くも五月の半ばを過ぎてしまった。
「巧遅は拙速に如かず」という孫子の言葉がある。「できがよくても遅いのは,できが拙くても速いのには及ばない」という意味で,要するに「物事はすばやく決行すべきである」という兵法である。私の場合は,巧遅ならぬ拙遅だからお話にならない。
 とにかく,やはり行わなければ何も始まらないので,こうして机に向かうことになった。
 これまでの遅延を平にお許し願いたい。

1.オープン・エンド論が広まっている
 「オープン・エンド」というのは,「後で変更可能な。自由形式の」というのが原義らしいが,教育界では一般には,「明確な結論を出さない」「各自の判断に任せる」というような意味で用いられている。そのことによって,多様な考えを生産させ,子どもの個々の主体性を尊重するのだという主張である。
 クローズ・エンドは,はっきりと締めくくることであり,一つの明確な結論づけをするということである。日本の教育は,戦前戦中を通じ,また今日に至るまでその底流には「かくあるべし」「かくありたし」という理想,目的があって,子ども達をそこに至らしめることをもって良しとする風潮があった。オープン・エンドは,これに対する反論であり,否定的な主張である。
 自由・平等という考え方を良しとする現代の風潮に呼応する形でオープン・エンドという考え方は大きな反響を伴って迎えられ,広まった。国語科の授業でも,道徳の授業までも,授業の終末の落ちつきを曖昧にし,「あとは子どもの考えに任せる」という形がもてはやされている。生活科,総合的な学習などでは,特に「子ども主体」「子ども本位」が強調され,ともすると何を学んだのかさっぱりわからないような形が,かえって高い評価を受けたりしている。これは,本当に良い傾向なのだろうか。

2.オープン・エンドは時期尚早だ
 小・中学校というのは,基礎・基本を学んでしっかりと身につける時期である。物の善悪,正誤,真偽というものの基本をきちんと教わる時期である。そういうしっかりした土台を築いたその上で初めて,その人らしい考え方や発想が意味を持ってくるのである。
 高校や大学では,オープン・エンド方式の教育が尊重されてもよかろう。けれど,小学校や中学校ではまだ早すぎる。いわゆる「時期尚早」である,というのが私の考えである。教育界の思潮の流行はどうも「カッコよさ」に流されがちで歯痒い思いがする。小・中学校段階では,先生や親の考え方や教訓に対して「ハイ」という素直な心で受けとめ,受け入れるべきなのである。学級崩壊は,個々の自由と平等が保障された結果全員が結局は不幸になるという皮肉な状態を呈している。
 多数の人間が幸福になるためには,そこにある種の「不自由」を受け入れ,「不平等」を受け入れることが不可欠である。そういう人間社会の「生き方の基本」を,クローズ・エンドできちんと教育することが小,中学校時期の要諦ではなかろうか。

   このご論文に対して,私は「反論」を書きました。こちらをご覧下さい。

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