「オープン・エンド 再考」への反論  横藤雅人

 いつもながらの骨太な野口論文を,いつにも増して大変興味深く読んだ。私は,生活科と総合的な学習を中心に研究・実践をしている。その中で,「オープン・エンド」についても積極的に取り入れるべきだという主張とささやかな実践をもっている。
 心から尊敬申し上げる野口先生のご主張には,いつも大きな示唆を受け,励まされている私であるが,今回は野口先生の胸をお借りして,反論を試みようと思う。

1.オープンエンドの定義と原理
 野口先生は,「オープン・エンド」の定義を次のように述べられている。

「オープン・エンド」というのは,「後で変更可能な。自由形式の」というのが原義らしいが,教育界では一般には,「明確な結論を出さない」「各自の判断に任せる」というような意味で用いられている。そのことによって,多様な考えを生産させ, 子どもの個々の主体性を尊重するのだという主張である。

 広辞苑には,残念ながら「オープン・エンド」の項目はない。現代用語事典を引くと,投資信託などで,野口先生が前半部分で定義されたような説明がされている。
 さて,問題は後半である。教育で「オープン・エンド」は,「明確な結論を出さない」「各自の判断に任せる」と形態論でとらえて良いのだろうか。
 例えば「オープンエンド」という題名を冠した著作を複数出している片上宗二氏は,

オープンエンドとは,簡潔に言えば,考えることを閉ざさない,という意味である。

と述べている。(片上宗二『オープンエンド化による道徳授業の創造』明治図書)
 また,「授業のオープンエンド化」を定義して,

「形態的に言えば,授業を開いて終われるようにする」「内容的に言うと,授業の終了時点で,子どもの学習意欲が持続発展しうるように,また彼らの知識が成長しうるように」すること,それによって授業の終末段階で子どもにとっての切実な課題を成立させることをしている。

と述べている。(片上宗二『オープンエンド化による社会科授業の創造』明治図書)
 氏の著作で重要なのは,「形態」的な部分でなく「原理(片上氏は内容という)」の部分である。つまり,原理として,意欲と思考の連続性をねらっているがゆえに,授業の終末部分を閉じないということなのである。
(ただし,算数科においては,また少し違うようである。例えば「3+5はいくつか」というような解が一つである問題に対し,「答えが8になる足し算をたくさん作れ」というような課題の与え方を,オープンエンドと呼んでいる実践も多く目にする。これだと,野口先生のおっしゃる「各自の判断に任せる」にあたるであろうが,このような算数の場合は,いずれそれらをきちんと拾い上げて,法則性を発見することをねらっているのでここでは割愛する。)
 野口先生の定義づけではこの原理まで十分に踏み込んではおらず,「多く目にする形態からの類推」に留まっているのではないだろうか。

2.オープンエンドの原理に則った実践の例
 私も,自分の実践の中にオープンエンドを取り入れている。そのねらうところは,ただ一つ,「考えることを閉ざさない」ところにある。
 例えば,1年生活科でアサガオの観察をさせる場合,私は子供たちの様々な気付きを引き出しても,その時間内で「今日は本葉を見ましたね。本葉はこれこれだったね。」とクローズしないことが多い。6月の時期なら,本葉が増え,つるが伸びる時期である。子供たちは,様々な気付きをもち,それを教師に報告したり友達同士で交流したりする。
・本葉は,双葉の間から生えてくること
・本葉には,毛が生えていること
・本葉の色は,双葉と違って濃いこと
・本葉の数がどんどん増えること
・つるは左巻きに巻くこと
・つるは枝分かれすること
・双葉がだんだんと枯れていくこと などなどである。

 こうした気付きを,その時間の終末に閉じないのは,主に次の2つの理由による。
(1)アサガオの生長は,その子その子の鉢によって違うので,また子供の着眼点や気付  きの深さは個々で違うので,一律にたばねるわけにはいかない。
(2)往々にして,「本葉はこうなのだね」と教師や他の子と確認をした段階で,その子  の中に「本葉」にたいする概念が形成される。すると,以降はその概念のフィルター  を通して見るようになるため,新たな気付きが得られにくくなる。いわゆる「概念的  な見方」に陥ってしまう。子供にはアサガオをできるだけ長く見つめさせ続けたいか  らである。

 しかし,では絶対にどこまでもたばねないのかというとそうではなく,ほとんどの子が双葉と本葉の違いをはっきりと見つけ,「毛の生えた方の葉っぱがね」「最初の葉っぱがね」などのように,自分の話を展開できるようになった頃には,「双葉・本葉」というような用語と共に,対比表なども使ってきちんとクローズし,節目を形成することは大切なことである。そのような節目をきちんと共有することで,子供の認識はどんどんのびていく。
 しかし,1単位時間の中でクローズさせることを優先すると,子供の自然な学びから遊離したり,概念的になったりしがちなので,オープンエンドを基本として,潮時にはきちんと,適度にクローズする,というのが私の考えるオープンエンドの原理を生かした授業像である。

3.オープンエンドと子供本位,子供主体

 自由・平等という考え方を良しとする現代の風潮に呼応する形でオープン・エンドという考え方は大きな反響を伴って迎えられ,広まった。国語科の授業でも,道徳の授業までも,授業の終末の落ちつきを曖昧にし,「あとは子どもの考えに任せる」という形がもてはやされている。生活科,総合的な学習などでは,特に「子ども主体」「子ども本位」が強調され,ともすると何を学んだのかさっぱりわからないような形が,かえって高い評価を受けたりしている。これは,本当に良い傾向なのだろうか。

 「何を学んだのかさっぱりわからないような形」は,国語でも道徳でも,そしてもちろん生活科や総合でもいけない。問題外である。
 生活科の授業では,よく「子供たちの思いを大切にして」ということが言われる。しかし,本当に子供の内面を見抜き,思いを高め,あふれさせている実践は希である。多くは,教師が単に退いて,あるいは手をこまねいて,もっと言えば指導から逃げて肝腎なところを曖昧にしていることの言い訳に「子供の思い」が使われており,苦々しく思っている。
 しかし,見た目は同じように「子供の考えに任せる」ように見え,またその意図を「子供たちの思いを大切にして」と説明する人でも,実によく子供の内面を見抜き,思いをあふれさせている場合もある。そういう授業では,子供は「言葉にはうまくできないけれど,目や体が引きつけられて,離れがたい」というような体験をしている。あるいは,それぞれの言葉で,「何を学んだのか」を懸命に表現しようとするのである。その姿や言葉はたどたどしかったり,もどかしかったりするが同時にとても美しいと私は思う。
 なぜ美しいと感じるかといえば,そこには確かに子供の育つ「原理」が見えるからなのではないか,と私は考える。

4.オープン・エンドは時期尚早か

 小・中学校というのは,基礎・基本を学んでしっかりと身につける時期である。
物の善悪,正誤,真偽というものの基本をきちんと教わる時期である。そういうしっかりした土台を築いたその上で初めて,その人らしい考え方や発想が意味を持ってくるのである。 (以下,一部引用の順を入れ替える)
 教育界の思潮の流行はどうも「カッコよさ」に流されがちで歯痒い思いがする。
 小・中学校段階では,先生や親の考え方や教訓に対して「ハイ」という素直な心で受けとめ,受け入れるべきなのである。学級崩壊は,個々の自由と平等が保障された結果全員が結局は不幸になるという皮肉な状態を呈している。

 これに関しては,まったく同感である。安易な個性尊重は,子供を増長させる。前述の「子供の思いを大切にして」と逃げを打つ教師は,往々にして国語や算数などの基礎・基本を習得させることに弱い。学級がきちんとしていないことも多い。
 過日の野口塾で,私は鉛筆の持ち方の模擬授業を提案した。正しい鉛筆の持ち方をきちんと教えることは,学校教育のいろはであると私は考えている。ところが,きちんと教えようという構えそのものが,すでに学校には希薄になっている。教材研究は全くされておらず,日々の点検も矯正もない。「まあ,いいじゃないか」「鉛筆の持ち方も個性なんじゃないか」などという曖昧さ,安易さが蔓延している。
 ことほどさように,だらしないことに憤りを感じる私であるが,ことオープンエンドに関しても「きちんと」「逃げずに」どんどんすべきだと思うのである。

 高校や大学では,オープン・エンド方式の教育が尊重されてもよかろう。けれど,小学校や中学校ではまだ早すぎる。いわゆる「時期尚早」である,というのが私の考えである。(中略)
 多数の人間が幸福になるためには,そこにある種の「不自由」を受け入れ,「不平等」を受け入れることが不可欠である。そういう人間社会の「生き方の基本」を,クローズ・エンドできちんと教育することが小,中学校時期の要諦ではなかろうか。

 というわけで,私は小学校や中学校でのオープンエンドを時期尚早とは思わない。これからの「生き方の基本」には,「一人になってもきちんと自分の考えを主張し,適切に選択できること」こそが求められるからである。素直に「ハイ」と返事をすることや,姿勢やしぐさを美しくするといった部分と同時に,ボーダーレスな時代に確固たる「自分の見方」でもってたくましく生きていく力をこそ育てたい。
 そのためにも,きちんとクローズエンドで知識や技能を積み上げて育てるべき部分と,オープンエンドでねばり強く問題を追求し続ける部分とをバランスよく配していくことが求められると,私は考えている。

 野口先生の鋭い反論に期待いたします。

  この拙論に対する野口先生の言葉

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