Purple Eyes

藤原万璃子先生の公式サイトです。

小説ページについて
在庫のない同人誌の中から、許可をいただいたものを掲載しています。
オリジナル
まほろば123
スラムダンク
準備中
炎の蜃気楼
準備中

まほろば

――君が往き け長くなりぬ 山たづの
                    迎えをゆかむ 待つには待たじ――

 つぶやくように彼は歌う。幾度も幾度もくりかえし。まるで、憑かれたように。言葉も響きも文字さえも、彼はすべて覚えていた。そして、そのひとつひとつにこめられた意味も心も――彼はすべて知っていた。
 それでも、繰り返し歌うたびに彼の胸はしめつけられた。
 歌うたびに切なくなる。歌うたびに苦しくなる。この歌を詠んだ女の思い、問われた男の思い。それにもまして――この歌に魅かれずにはいられなかった彼自身の偲い。いくつもの思いが逆巻き、うちよせ、砕け――彼はまた歌わずにはいられなくなる。どんなに苦しかろうと。初めて『万葉集』というものを知った――シャルルアジャン、十四才の春。

 ――十三の年に恋をした。切なく苦しい、初めての恋。ある日突然彼を訪れた嵐のような思い。そのあまりの唐突さに、そしてそのあまりの激しさに――彼はいつしか、戸惑うことも忘れて身を任せていた。
 人を恋する歓びが、初めて彼を訪れる。切なさもやるせなさも初めて知る感情だった。ふれることはおろか、会うことすら叶わぬ絶望的な片思い――それでも恋い焦がれずにはいられない人の心の不思議。何もかも初めてづくしの、自分でも訳のわからぬ感情の波に翻弄されながら、彼は闇の中に浮かぶ青い宝石だけを見つめていた。年齢に不似合いなほど冷徹で明晰な頭脳をもったこの自分でさえままならぬ思い――これが恋なのか、と少年は嘆息する。だとしたらあまりにも甘やかで切なくて――抗うことすら出来ない。あの蠱惑こわく的ですらある命のきらめき……。
 彼のもとに託されたのはたった――葉の写真。さらりと風になびく烏羽玉ぬばたまの黒髪。たゆとう水のように優しい、しかし勝気そうな光をたたえてきらきらと輝く瞳。桜色に紅潮した頬、あどけなさの残るふっくらとした唇、そして生命力に満ち溢れた輝くばかりの笑顔。それらすべてが――彼をとらえ、魅了してやまなかった。彼女はその淀みない真夏の空色の瞳をまっすぐに見すえ、その心のさし示すままに迷うことなく歩いてゆくだろう。悩み、惑い、苦しむこともきっとある。思うままにゆかず絶望することもあるだろう。だが、彼女は決して後悔しない。自らの心の命ずるままに、幾度となく試行錯誤を繰り返しながら――それでも目をそらさず、おのれの選んだ道をまっすぐに歩いてゆく。その姿はなんと神々しく、美しいのだろう。己の好むと好まざるとに関らず、自分を押えることだけを覚え、そうでなくては生きられぬ道を選ばざるをえなかったシャルルにとつて――それはあまりにまぶしすぎた。眩しすぎて虜にならずにはいられない。無意識のうちにも、自分がこうであったらと――こうありたいと憧れ続けた姿そのままに生きるあざやかな少女。シャルルが知らず知らずのうちに彼女を愛していったとて、誰が彼を責められようか。たとえそれが天にも地にもたったひとりの――彼にとって唯――無二の肉親、妹だったとしても。
 それが悲劇の始まりだった。決して報われぬ――報われてはならぬ恋に身を投じた彼は、どうしたって恋の勝利者になれるはずはなく――どの道、おのが身を切りさかれんばかりの苦しみしか待っておらぬ恋は悲劇でしかなかった。しかしわかっていたところでどうして諦められよう思い切れよう。あのまばゆいばかりの笑顔、強くて優しい誇り高き小さな女神。何故ひとりの男として、彼女の前に立つことが許されなかったのだろう。それが許されるのなら、悪魔にこの魂を売り渡したって構わないのに。
 しかしそれは叶わぬ願い――彼は後年、血を吐くような思いで愛する少女が他の男のものになるのを見なければならなくなる。彼が悪いわけではない。彼女が悪いわけでもない。ただ、運命のいたずら――ほんの一瞬の歯車の食い違いはいつも間違いなく悲劇を生む。最も無垢なものこそをその犠牲として。

 「……え?」
 いつものように訓練の合間を縫ってスレッガーの書斎に篭っていたシャルルはボーイソプラノの余韻の残るくぐもった声でそう聞き返した。
「……アシスタント?」
 手にしていた本を閉じて、シャルルはもう一度聞き返す。本の背には黒地に金で複雑な造作の文字が三つ並んでいた。
「そうだ。助手みたいなものだ。気楽に考えていい」
 張りのあるバリトンがゆったりと答える。力ール・スレッガー・ロウ、三十九才。ヘイゼルプロンドの髪、深いかげりを帯ぴるダークブルーの瞳。しかし、普段は容赦ない厳しさを映すその瞳も、今はかすかな微笑みを浮かべて柔らかく和んでいた。
「特別な任務のためのそれではなくて……まあ、事務処理みたいなことだけすればいい」
「それだけで……いいんですか?」
 シャルルはいささか面食らって聞いた。文字通り朝から晩まで血のにじむような訓練を重ねているシャルルにとって、それは息抜きとした言いようのない行為であった。いまかつて、シャルルはそのような時間をスレッガーから与えられたことはない。
「そう。それでいいんだ。コードネームは〈ヴェガ〉……いや、サラ・イツキ」
「え……!」
 その名を聞いてシャルルはまた驚いた。明らかに女名前だ。むろんこのスレッガー機関にだって女のエージェントはいるだろう。しかし、何故スレッガーはこともあろうにこの自分を――思春期の少年であるこの自分を、年上の女スパイのアシスタントにつかせるのだろう。まして、特別な任務のためではないという。となれば……目的は、やはりひとつか。
「彼女は……オールドテラのジャパニーズの血をひいている。それも百パーセントの直系だ」
 スレッガーの言葉にシャルルは思わずふり返る。その昔、地球が多くの国に分れていた頃――極東の地の小さな島国、日本。古い歴史と伝統と文化をもつ美しい国。シャルルが今、とりわけ魅かれている国。
「オールドジャパンでも非常に由緒ある家柄の出だそうだ。おまけに当機関きっての才媛でな。故国の古典文学に関しては完壁なスペシャリストで、博士号を五つか六つ持っている」
 スレッガーは調書を読み上げるようにすらすらとそう言った。しかしその瞳はかすかに優しく――息子を見つめる父親のように、ある種の慈愛に満ちていた。
「わかったか」
「は……はい!」
 念を押すようにスレッガーに見つめられ、シャルルは多少声をうわずらせながら慌てて答えた。スレッガーはかすかに口もとを歪ませ、デスクの上のインターフォンのスイッチを入れる。
「ヴェガを通せ」
 それだけ言うとスレッガーは窓際にたち、くるりと背を向けてもはやシャルルなど気にも止めず、じっとカリフォルニアの陽光ふり注ぐ庭を見つめていた。シャルルは本を抱えたまま不安げな視線を漂わせる。
 ほどなく、オーク調のドアを軽く叩く音がした。しかしスレッガーは相変わらず背を向けたまま、声だけかける。
「入れ」
 ギイ、とかすかにドアがきしみ――ひとりの女が姿を現わした。
「失礼いたします」
 しっとりしたアルトの声が折からの風に乗ってシャルルの耳に届いた。シャルルがかすかに目を見はり、女を見つめる。
 ――美しい女だった。年の頃は恐らく二十七、八……しかし実際は女が物理的に――番美しく見えるという年齢ほどにしか見えなかった。ゆったりとウェーブのかかった漆黒の――優しくシャルルを抱きとめる闇の色の――長い髪。ほとんど黒に近い、時おり銀をはじくダークグレイの瞳。牡丹色に染められた、その花そのもののような豊かな唇。そしてそれらをとりまとめる――オールドテラのジャパニーズの血を何よりも如実に物語る――透きとおるような象牙色の肌。やはりスレッガーの書斎で見つけた本に載っていた日本人形そのままの、さながら白椿を思わせるその美貌。気高くも艶っぽいその美しさにシャルルはひとめで魅了された。何より彼女の黒髪は――烏羽玉ぬばたま色のつややかな闇は――彼の憧れのひとつの象徴だったから。
「……彼がそうだ」
 スレッガーはやっとふり返り、女と手短かに挨拶を交わすと言葉少なにシャルルを示した。女はその理知的な瞳でシャルルをふり返り、ゆったりと微笑んだ。
「あなたがシャルルアジャン? よろしくね。サラ・イツキよ」
「あ……よろしく」
 シャルルはさし出された白い手を一瞬の躊躇ためらいののちに握り返した。その不思議な暖かさと信じられぬほどの柔らかさに、彼は戸惑う。正直なところ、十五になろうというこの年まで彼はほとんど女性と接触する機会を持たなかった。母のぬくもりさえ彼は知らない。それゆえこの姉とも母とも違う肌合いの――それがどんなものかすら彼にはわからなかったけれど――女性との出会いは、彼ほどの少年をさえ戸惑わせ、逡巡させた。
 サラはシャルルと握手を交わしながら、ふと彼が大事そうに抱えた本に目を止める。
「……『万葉集』……好きなの?」
「え? あ……はい、好きです」
 女の突然の問いかけに面食らいながらも、シャルルはようよう答える。するとサラは嬉しかったのか――にっこりとほほえんで、彼をまっすぐに見つめる。
「まあ、珍しいわね。あなたみたいな若い子が『万葉集』が好きだなんて。…最近懐古プームで、源氏とか枕草子なんかはけっこう人気があるんだけれど、和歌はまだまだなのよ。なかなか玄人くろうと好みじゃないの。教えがいがありそうだわ」
「え?」
 シャルルはまた、問い返していた。
「あら、聞いてなかった? 大佐から直々に頼まれたのよ、私。あなたが日本古典に興味を持っているようだから、色々と教えてやってほしいって。もちろん建前たてまえは助手ってことだけど」
 教えてやってほしいことは、それだけ?――ふっとシャルルはスレッガーをふり返る。彼の養父は相変わらずつかみどころのない表情でたたずむばかりだ。
「まあ、そういうことだ。堅苦しく考えずに気楽にやってくれ。こいつは知識欲だけは旺盛だ……きっといい生徒になると思う」
「ええ……そうですね。楽しみですわ」
 男ふたりの会話を知ってか知らずか――サラはしろい歯を見せてにっこりと笑った。それはかたくなに閉ざされたシャルルの心をさえ溶かしてしまえるほどの不思議な微笑みだった。

「どうして『万葉集』が好きなの?」
 スレッガー大佐の私邸にほど近い、ロサンゼルスのビバリーヒルズにサラの自宅はあった。北米でもとりわけて高級住宅地と呼びならわされているこの地に、彼女は多くのエージェントがそうであるようにたったひとりで暮らしていた。しかし、女ひとりで暮らすにはその家はあまりに広く立派であり――いくら由緒正しい家の出自とは言え、不相応とさえ見えた。
「どうしてと言われても……何て言えばいいんでしょうね、その……」
 初夏の陽光ふり注ぐサンルームでくつろぎながら、サラにそう問われたシャルルは口ごもった。
「うた……というものに魅かれます。どうしようもなく。のままの魂の叫び、喜怒哀楽の感情がそのまま言葉に結実したあの……言霊ことだまに。ですからむろん万葉集に限らず、後世の和歌や俳句、川柳のたぐいも好きです。ただ、なぜ万葉集なのかと言われると……たぶん、あれ自体がひとつの壮大なドラマを形成しているから……だと思います」
 遠慮がちに――しかしこの時ばかりは年相応の少年らしく、シャルルは目を輝かせて語った。
「あの身分制度の厳しかった時代に、天皇から名もない――庶民まですべてがひとつの歌集に載っているだけで凄いことだし……それに、当時の天皇の勅名で編纂されたっていう……ええと……ニホン……」
「日本書記、続日本紀しょくにほんぎ?」
 サラは話の腰を折ることなく、するりと正解をすべりこませる。
「そう、それです。それらは正史とはいえ支配者側を正当化するための……いわば歪められた歴史でしょう。当然そのために隠蔽いんぺいされた史実は山ほどあるその真実が――あるいは真実に肉薄するためのヒントが、万葉集にはあるんです。たとえば、歌聖と崇められたにも関らず、正史にはその名すら見えない柿本人麻呂かきのもとひとまろのような。……凄いですよね、人間って……いつの時代でも必死に生きている。あの歴史という、大いなるうねりの中でさえ」
 サラはその時気づいた。熱っぽく力強く語ってはいても、この少年の瞳にはなぜか冷めた光があった。妙に大人びた締観のかげりさえ感じさせる――サラがその理由を知るのには、さほどの時間を要さなかったが。
「……日本語ジャパニーズはどの程度できて?」
 シャルルから視線をそらし、空になった清涼飲料のグラスを弄びながらサラは言った。カラン、と音をたてて角氷が揺れる。

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