まほろば
「……だって……彼らは愛しあえたのだから……」
なんという――せつない、瞳! 今にも泣き出してしまいそうな――それでいて決して涙せぬ、渇ききった荒涼とした瞳。恋に焦がれて鳴く蝉よりも、鳴かぬ蛍が身を焦がす――物思えば沢の蛍も我が身より、あくがれいずる
彼はもう子どもではなかった。つらい恋のために、過酷な運命のために――彼は人より早く大人になる。人よりずっと美しくなる。そしてそれゆえ
彼は、そういう恋をする男なのだ――。
「……シャルル……」
囁くように、サラは言った。そしてテーブルを挟んで向う側にいるシャルルに手をさしのぺる。
「……こっちへいらっしゃい」
優しくあやすように、彼女は言った。するとシャルルは――頬杖をついたまま舐め上げるようにサラを見て、低く答える。
「…子ども扱いはやめてください……」
怒っているわけでも背伸ぴしているわけでもなく、彼は確かめるようにそう言った。そう、彼はもう男だ。ちゃんと恋もできるし、女も抱ける――。
「……そうね……来て、シャルル」
自分と同等の男を誘惑する時のように――サラはソファーにゆったりと体を伸ばしてもう一度手をさしのべる。顎をつんとそらして、じっとシャルルを見つめる。その瞳は、今までの理知にあふれた涼やかなそれではなく――濡れて光って男を誘う成熟した女のものだった。シャルルはひるむこともたじろぐこともせず、悠々とその誘いに乗って立ち上がる。サラの前までゆっくりと歩を進め、その手を取って引きよせる。サラは女としては長身の方なので、まだ成長期の彼とこうして向き合うとちょうど額のあたりに彼の唇が来て少し上向いて口づけするにはちょうどいい。ほんの一瞬ためらった彼の首を抱きよせて、サラは唇を重ねる。
最初は少し緊張して固く結ばれていた唇も、甘噛みされ、舌で湿されるうちに――おずおずと、応えはじめる。慣れぬ性急さも、女の唇はやんわりと受けとめて倍にして返す。当惑するほどの快感にシャルルは深く嘆息し――サラは唇を離し、そこだけは少年の印象を残す輪郭をなぞりながら彼を見つめる。
「……素適よ……」
うウとりと嘆息して、サラはついばむように口づけする。
「……来て……」
導かれるままに、シャルルは――歩踏み出した。自分で選んだ夜の中へ。
――女の肌は暖かい……。
どこまでも優しく柔らかなサラのぬくもりに包まれて、うっとりとまどろみながらシャルルは思った。考えてみれば、自分は母のぬくもりさえ知らない。いや……実際は知っているはずだが、彼はそれを覚えてはいなかった。物心ついたときにはもう孤独で――よい匂いのする母の膝も、細いけれどよく通る声で歌われる子守歌も、何も知らない。気がついた時にはたったひとりで闇の中に放り出されていた。
――どんな
写真でしか知らぬ母。艶やかな漆黒の巻毛、牝鹿のような茶色の瞳、
――愛している……――
あふれる熱い思いにシャルルは胸をかきむしる。なぜ愛してしまったのだろう。こともあろうに実の妹を。報われるはずのない、報われてはならぬ相手を。ましてこの恋はまだ始まったばかり――年を重ね、どんどん美しくなってゆく少女を見つめながら、自分が今にもまして気も狂わんばかりに彼女を熱愛することを、彼は絶望的な確かさで
――……それは無理だ。きっと……――
不思議なほどの確かさで、彼は直感した。愚かな――と自廟する。きっとこのままずっと――もしかしたら死ぬまで、自分は報われるはずのない思いを引きずって惨めに生きてゆくのだ。いや、ことによると死んでも尚この熱く燃えくすぶる思いにとらわれたままさ迷い続けるのかも知れぬ。荒れ果てた
「……どうしたの?」
シャルルの柔らかなプラチナブロンドに手を差し入れながら、サラはそっと囁いた。母のように、姉のように、恋人のように――この女はどこまでも優しい。シャルルは小さく笑うと、女の胸に頬をすりよせて目を閉じた。
「……人の肌って……暖かいものだと思って……」
しっとりとした吐息が肌をすべって――サラはくすぐったさに低く忍び笑う。
「……そうよ……ふれあう肌は暖かいものなの……心臓が脈打つ音が、血の流れる音が聞えるでしょう? これが生きているということなのよ……」
顎をすくわれて、何度めかの口づけ。引きよせる手も唇も、彼女はすべてが暖かい。
「……愛することは……決して難しいことじゃないわ。愛されることも……ましてあなたはこんなに素敵でいい男で……恋しない女なんていないわ」
なめらかな頬を両手ではさみこんで、サラは噛んで含めるようにそう言った。
「それなのに……あなたは……誰の愛がそんなに欲しいの? 誰の愛が…そんなに必要なの?」
シャルルの体が硬直する。参ったな、しっかり見抜かれていたというわけか――彼が、初めてふれる女の肌に夢中になっているようなふりをしながら、実は心の奥底で別の何かを必死に探し求めていたことを――サラはちゃんと気づいていた。欲しいのはあの
「……哀しい
サラはもう一度少年に口づけする。哀しい瞳をして報われぬ恋に身を灼き、決して自分を哀れまない少年――いや、男。悲しいほどの強さと激しさで、一切の同情を受けつけない孤高の殉教者。どうして愛さずにいられるだろう。こんな、夢みたいな男を。そう、彼女にはわかっていた。あの初夏の陽光ふりそそぐ部屋で初めて彼にあった時から、いつかこんな日が来ることを――この
それでも、彼女はただ優しく男を抱きしめただけだった。彼を煩わせることがないように、彼の負担にならないように――少なくとも今は彼より大人である彼女は、何も言わなかった。シャルルはそんな彼女の心を知ってか知らずか――柔らかなサラの胸に顔を埋め、囁くように言った。
「初めてふれた女性が……あなたのような人でよかった……」
サラはくしゃっと顔を歪めて――彼をかき抱く。そして一言だけ、本音を吐露する。
「……私も……あなたの最初の女で……嬉しいわ……」
シャルルが顔を上げ、艶やかに微笑む。どちらからともなく唇が重なり――ふたりは再ぴ、甘い闇に落ちていった。
それから八年――冷めた瞳の少年が氷の微笑の青年へと成長し、〈赤い彗星〉の名でそのプラチナの髪をなぴかせて大宇宙を白虎さながらに駆けめぐるようになった頃――サラは彼と再会した。
それは奇しくも八年前の出会いと同じ、初夏の陽光ふり注ぐスレッガーの書斎であった。サラはひとめで彼がわかった。瞳の色こそ違っていたけれど――あの直後からカラーコンタクトを使うようになったのだと後から聞いた――陽の光の中、たてがみのようなプラチナブロンドをきらめかせて
「……まあ……」
八年の月日が思わず彼女に溜息をつかせる。彼女の予言通り、恋しない女なんていないほどのいい男に彼はなっていた。サラとほとんど変わらなかった背は、いつの間にかたっぷり頭ひとつ分彼女を追いこしていた。ふっくらとそこだけ少年の面影を残していた頬はすっきりとそげ落ち、翳りを帯びた男の顔に変わっている。夜の闇のようなスペーススーツの上からでも見てとれる見事に引き締まった美しい筋肉質の身体。氷のような、それでいて何か熱を帯ぴたようにゆらめく瞳――そう、瞳。紫水晶のひんやりとしたぬめりは確実に彼の熱く燃え
青年はサラを見てうっすらと微笑んだ。――昔のように。
「……大きくなって……」
「……参ったな。あなたにとっていつまでも私は子どものままですか」
言外にそんなはずはなかろうと――あれはとても子ども相手の行為ではないだろうといって、彼は艶然と口もとを歪める。
「そんな意味で言ったんじゃないわ。昔からいい男だったけど……ますます格好よくなったわねってことよ」
さらりと
「……あなたこそ。相変わらずお綺麗だ」
まるで口説かれているみたい。綺麗な
「随分上手くなったわね。こんな年増女つかまえて、そんなセリフが吐けるようになるなんて」
「何をおっしゃるんです。八年前とちっとも変りませんよ。むしろ、いちだんと美しくおなりだ」
「ふふ……お世辞でも嬉しいわ」
「お世辞じゃありません。だってあなたは……」
私の最初の女だ――と目で言って、シャルルはじっと彼女を見つめる。サラはうっとりとする。まるで目で犯されているような――これで感じなかったら女じゃない、というほどの圧倒的なセックスアピール。
「……今も『万葉集』、読んでて?」
サラはそんな空気を楽しむように――しかしきっぱりとある一線まで引いてそういった。
「ええ。今、
気分を書した様子もなく、さらりとシャルルは言った
「ああ、『
シャルルの
「……
シャルルはしかし、すぐに何もなかったかのようになめらかに歌う。
――
予想した答えを待つように、サラはそれを聞いていた。今も変わらず、つらい恋をしているのね――彼女は黙って彼の横顔を見つめ続ける。岩を噛んで
「……今日はお先に失礼します。そのうちにゆっくり食事もいかがですか?」
「いいわね。ぜひ……待ってるわ」
「では」
軽く会釈するとシャルルは足早に部屋を出ていったサラはしばらく言葉もなく、彼の出ていったドアを見つめていた
〃もの
愚かだと、惨めだと自嘲し憐れみつつもこの恋を思い切ることはできない。押えようとすれぱするほど熱くわだかまる思い自分を欺き、ごまかすほどに思いはふくれあがり、いつの日か抑えられなくなるのではあるまいか。どんなに冷静だ氷のようだといわれようと、彼はとても若く、そして本当は恐ろしく激しい男なのだから。いつの日か、そのたわめられた激しさが
サラの胸にわけもない不安が去来する。それをつとめてふり払いながらも――サラは心の底から彼の幸せを祈らずにはいられなかった。彼への叶わぬ恋ゆえに
シャルル.アジャン、十五才。愛も狂気も、
――Fin.