Purple Eyes

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在庫のない同人誌の中から、許可をいただいたものを掲載しています。
オリジナル
まほろば123
スラムダンク
準備中
炎の蜃気楼
準備中

まほろば

「……平仮名が何とか読める程度、です」
漢字チャイニーズ・キャラクターは?」
「……まだ……全然……」
「そう……じゃあモダンジャパニーズ(口語)でもクラシカルジャパニーズ(文語)でも意味はわからないのね?」
「……はい」
 シャルルは悪いわけでもないのに、申し訳なさそうに言った。この時代に、専門家でもない限り日本語ジャパニーズを完全にマスターしている者は皆無に近い。英語、独語、仏語といったアルファベット表記のものならばまだしも、漢語文化圏に属する日本語やら中国語は既に学界においてさえ死語になりつつあるのだ。だから素人が読めなくたってそんなことは当り前、ちっとも恥ずべきことではない――とはシャルルは決して思わない。人一倍プライドが高い上に凝り性でもある彼は、まず日本語を完全にマスターすることから始めるだろう。
「……まあいいわ。その方が教えがいがあるというものよ。まして相手があなたならばね」
 サラは意味ありげに、艶然とほほえんだ。シャルルはくすぐったそうに苦笑して小さく頷く。さながらディアーヌ・ド・ポワチエか和泉式部か――類稀るいきに美しい年上の女。
「よろしくお願いします。プロフェッサー・イツキ」
 シャルルはかしこまって頭を下げた。とたんに彼女は少女のようにきゅっと眉を吊り上げ、シャルルを軽く睨む。
「まあ、やめてちょうだい! そんな堅苦しい呼び方は……私は大学に講義に来ているわけじゃないんだから。そうね、サラと呼んでちょうだい。いいこと、ただのサラよ」
「は……はい、あの、プロ……」
 咄嵯とっさのことに対応しきれず、また彼はサラに睨まれる。
「い、いえ……サラ……」
「そう。それでよろしい」
 彼女はにっこりと微笑んで頷いた。そしてシャルルにむかって改めて手をさし出す。
「ではあらためて……よろしくね、シャルル」
「……こちらこそ、サラ」
 白くなめらかな彼女の手を握り返しながら――今だかつて感じたことのない優しい時間の中を漂っていた。

 サラ・イツキ――彼女の故国の古い文字で表記するならば、樹沙羅いつきさら――二十八才。テラ大学文理学部特別請師。学者。IQ一八七。専門は地球古典文学全般――殊に日本文学においては数種の博士号を有し、学界でも十指に入る。今は亡き夫君は同大学文理学部名誉教授、日本文学の第――人者であったマヒト・ルド・ギリス。名門イツキ家に生まれ、幼い頃より英才教育を受け、十五才でカレッジを卒業。以後各地の大学を転々として研究を続けるが、最終的にテラ大学に落ち着き、学生時代専攻していた日本文学をその専門とするようになる。女性らしい繊細な感受性でくり広げられる種々の文学論は、機械化された昨今の世の中にあって瑞々しく新鮮である――。
 シャルルがとりよせた調査書にはそんな文章が並んでいた。しかしそんな実務的な報告書などよりも、彼女とのふれあいは彼にずっと確かなデータを与えていた。彼女の涼やかな瞳は何よりもその聡明さを如実に語っていたし。春ののような微笑みは女らしい優しさを彼に感じさせた。柔らかな語り口で、しかしポイントをきっちり押えた彼女の的確な講義は否応なしにシャルルの向学心をそそる。水を得た魚のように、彼はサラさえ驚くほどのスピードで見る見るうちにプログラムをこなしてゆく。ものの半年もせぬうちに、彼は読み書きはもちろんのこと、原語を読みこなすことさえ出来るようになっていた。むろんそれは、望みうる限りの最高の教師であったサラ・イツキという女性の才と――二七五という並はずれたIQを持ちながら尚かつ繊細な心の襞を失わなかったシャルル・アジャンという、少年の才が、見事に合致したゆえに花開いたひとつの奇跡であろう。この少年の道が既に決められていることを、サラは残念に思わずにはいられなかった。望めば、彼は何にだってなれたろうに。これほどの才を持ちながら、もう他の何者にもなれない彼を――彼女は師として、そして女として――惜しまずにはいられない。彼の思うようにしてやれないことが、妙に悲しく苛だたしい。それがある種の愛情であると自覚するのに、さほどの手間はかからなかった。なぜなら最初から――あの初夏の陽光ふりそそぐ部屋で会った時から、彼女は彼に魅かれはじめていたのだから。この、妙に悟りきった瞳の影に、たぎほのおを隠した少年に。

 ほどなく講義は古典文学にまで及んだ。文学史の概要から始まってひとつひとつの作品の講義に至るまで、すべての文献は原書であった。シャルルは七転八倒しながらも辞書と首っぴきで懸命に書物を読みあさり、専門家並みの知識を得るまでに至った。これには、さすがのサラも驚かされた。彼女が半年と踏んだところを、彼は三カ月もかけずにクリアしてゆく。頭がいいだけでなく、一を聞けば十を知る勘のよさと集中力はやはり並大抵のものではない。そしてこの感性――彼女は思わず武者震いする。学者として、人間として、この才能に出会えたことが嬉しくて。
 そうしてそれから暫くの間、教材には万葉集が続く。少年があれほど執着し、好んだ日本最古にして最大の歌集。彼のこれまでのあらゆる努力が、すべてこれだけのためといっても過言でないほどの。ついにシャルルはそれを手に入れた。今の彼にとっては世界よりも価値のあるもの――三十一文字に凝縮された歴史と人生。彼が強張った固い表情の陰で歓びの涙にむせぶのを、確かにサラは見たと思った。しかしそれとてほんの一瞬のことで――すぐに彼はいつもの冷めた瞳に戻ってしまったけれど。
 だからサラは――持てるかぎりのすべての知識を動員して、ひとつひとつ丁寧に説いていった。悲劇の歌、よろこびの歌、宮廷歌人たちの華麗なる競演……順こそ不同であったが、その時々の歴史的背景をおりまぜ、解説しながら四五〇〇首すべてを。そのたびにシャルルは、的を得た質問や奥深い理解に裏付けられた感想を述べる。時には夜を徹しての討論がくり広げられることもあり、サラ自身も久しぶりに充実した日々を送った。
 悲劇の運命を背負った万葉集最大の宮廷歌人のこと、あるいは、云われのない罪に問われて権力者たちの悲しい犠牲となった優れた皇子らのことを。またある時には障害ゆえにひき離された恋人たちのこと……農民たちの辛い暮し、防人さきもりの妻たちの不安、東人あずまびとたちの細やかな心遣い――ありとあらゆる人々の心の叫びをシャルルは聞いた。そして、それらにどうしようもなく魅かれた。のままの、とり繕いようのない人の心の本当の姿――目分の心が自分でままならぬゆえに、彼は正直な人間にすこぶる弱かった。しかし中でもとりわけシャルルを引きつけたのは、報われぬ恋に身を灼く男女の哀しい心のほとばしりだった。また、やがて来る自らの運命を予感してか――同時にひとりの女を愛してしまった二人の男たちの苦悩にも、彼は釘付けになる。たった十五で、彼はもう辛い恋を知っていた。そして、世の中にはどんなに思いつめてもどうしようもないことがあるということにも気づいていた。年齢に不似合いな賢さ、冷静さ、勘の良さ――それらがいつも彼を不幸にする。恋に焦がれて切なく嘆息するたびに――彼の琉珀色の瞳に、自嘲にも似た影が通りすぎていった。それでもこの恋を、思い切ることすらできなかったけれど。

「さあて……次はどの歌にしましょうか」
 もう三分の二はこなしたろうか。季節は移り、パチパチと火のはぜる音を聞きながら、ふたりは暖炉の前のソファーに寛いでいた。
「ああサラ、これがいいな。巻二の頭のあたり……。この辺の五、六首はまだまったく手をつけていないでしょう? 何か理由でも?」
「うーん、この辺の歌はねえ……作者の年代がきわめて古いのよ。磐之姫いわのひめとか衣通姫そとおりひめとか……どちらかといえば神話の時代に近いほうだし、本当に彼らの歌なのか今ひとつはっきりしないところもあるし、まだまだ専門家にも闇の領域でね。だからあなたにはまだ早いかとも思ったんだけれど……まあいいでしょう。純粋に歌を鑑賞すればいいわ。……ええと、じゃあこれにしましょう。まき二の九十……」
 サラはそう答え、目についた――首をシャルルに指し示す。
 ――君がき け長くなりぬ 山たづの
                       迎えをゆかむ 待つには待たじ――
 サラがなめらかに発音し、続いてシャルルがそれをなぞる。それはサラの優美な発音と寸分たがわぬもので、彼女は満足そうにシャルルに頷いた。
「では通釈……あなたが行ってしまってから、もう随分と日がたってしまいました。さあ、今こそ私は山田鶴やまたづになってあなたを迎えにいきましょう。もうひとり待つことはとても耐えられないのですから――こんなところね。罪を犯して流されてしまった男を追ってゆこうとする女の歌よ」
「この時代の女性というのは、後世の女性よりよほど情熱的ですね。平安に入ると、もう女は家にありて待つものになってしまうのに。作者は……ソトホシノオオキミ……?」
 シャルルは目を細めてその名を何とか読み取った。実際この歌には非常に長い詞書ことばがきが添えられているのだが、漢字仮名交じりの書下し文とは言え、文語表記ではさすがのシャルルも手が出ない。
「そうね、ほんとに。でもそれにしても、この場合は少し勝手が違うのよ……これから説明するけれど」
 そう言って、サラは手近の資料の山から瞬く間に一冊を選び出し、パラパラとぺージをめくる。
衣通王そとほしのおおきみまたは衣通姫そとほりひめ。本名は軽太郎女かるのおおいらつめ允恭帝いんきょうていの第五皇女。さきの通称の由来はね、その美しさが衣を通して光り輝くようだったからなんですって。とにかくもう比類ないほどの……絶世の美女だったというわけ」
 シャルルは膝の上に広げた本と、サラの顔を交互に見る。
「それでね……その絶世の美女たる衣通姫、彼女はあろうことか実の兄と恋に落ちてしまうの」
 サラは相変わらずぺージに目を落していたので、気づかなかったが――その時、シャルルの肩がぴくりとふるえた。
「知ってるだろうけど……この時代、ことに皇族の間ではけっこう近親結婚が多かったのよ。叔父と姪、従兄妹同志の結婚なんてザラだったし、たとえ兄妹でも母親さえ違えば、つまり異母兄妹であればフリーパスだった。けれど、同腹の――同父、同母の兄妹の場合は……これは禁忌だったのよ。この時代ですら絶対的なね。この詞書ことばがきのところにはこう書いてあるわ……天皇の食前の汁が夏だというのに凍ってしまったと。当時の人々にはこれは紛れもなく凶兆、そこで占ってみると、肉親同志が通じている、というがでたの。そして彼ら――軽太郎女かるのおおいらつめと兄の軽太子かるのみこは罪に問われるわけだけど、この辺の記述は古事記に詳しいわ。口語訳でいいから読んでごらんなさい。何しろふたりとも皇族で、おまけに絶世の美男美女だったものだから、世人の関心も並大抵ではなかったようよ。悲恋説話の代表的なもののひとつね」
 シャルルは呆然と――した。性に対して一定のモラルはあったものの、まったく自由奔放とさえ言ってもよいあの時代でさえ、母を同じくする兄妹が通じることは許されてはならぬ罪悪であった。その婚姻は不倫の恋として忌み嫌われるばかりか、重く罰せられる。ふたりは引き裂かれ、男は都を追われて伊予いよの国へ流された。そして女は――会いたさ見たさに怖さを忘れ――あふれる思いを一首の歌にする――。シャルルの脳裏に幻影が浮かぶ。駆ける嬢子おとめ――光の、愛する夫のあとを追い、遥か伊予の国までも駆けてゆこうとするおとめ。しとやかでたおやかな少女のようだった彼女は、初めての恋によってあでやかな女に変わる。裾を乱し、息を切らし、髪をなびかせ――いつしかその姿は一羽の白い鶴になり、愛する男を求めて翔び立つ――。
「……シャルル?」
 サラの声に彼はにわかに現実に引き戻され、あてどなく漂わせていた視線を彼女へ向けた。
「……どう……」
 サラは喉もとまで出かかった声を思わず呑みこんだ。あまりにもうつろな、あまりにも哀しい、あまりにもやるせない瞳に胸を突かれて。この少年は――働哭している。あの冷めた瞳に隠されたたぎる炎も、妙に大人びた諦観のかげりも自嘲の色も――すべてはその身をもみしぼるような苦しみの――つらい恋、の所為なのだ。
「……でも……彼らは幸せですね……」
 目をそらし、彼は泣き笑うような寂しい微笑みを口もとに張りつかせてぽつりと言った。
「……なぜ……?」
 サラはシャルルの整いすぎた白い横顔を見つめながら、反射的に問い返した。それは本当に紙のように白く、何の表情も浮かべてはいなかった。シャルルはゆっくりとふり返り、その凍りついた表情のまま、サラに視線を戻した。

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