まほろば
「……平仮名が何とか読める程度、です」
「
「……まだ……全然……」
「そう……じゃあモダンジャパニーズ(口語)でもクラシカルジャパニーズ(文語)でも意味はわからないのね?」
「……はい」
シャルルは悪いわけでもないのに、申し訳なさそうに言った。この時代に、専門家でもない限り
「……まあいいわ。その方が教えがいがあるというものよ。まして相手があなたならばね」
サラは意味ありげに、艶然とほほえんだ。シャルルは
「よろしくお願いします。プロフェッサー・イツキ」
シャルルはかしこまって頭を下げた。とたんに彼女は少女のようにきゅっと眉を吊り上げ、シャルルを軽く睨む。
「まあ、やめてちょうだい! そんな堅苦しい呼び方は……私は大学に講義に来ているわけじゃないんだから。そうね、サラと呼んでちょうだい。いいこと、ただのサラよ」
「は……はい、あの、プロ……」
「い、いえ……サラ……」
「そう。それでよろしい」
彼女はにっこりと微笑んで頷いた。そしてシャルルにむかって改めて手をさし出す。
「ではあらためて……よろしくね、シャルル」
「……こちらこそ、サラ」
白くなめらかな彼女の手を握り返しながら――今だかつて感じたことのない優しい時間の中を漂っていた。
サラ・イツキ――彼女の故国の古い文字で表記するならば、
シャルルがとりよせた調査書にはそんな文章が並んでいた。しかしそんな実務的な報告書などよりも、彼女とのふれあいは彼にずっと確かなデータを与えていた。彼女の涼やかな瞳は何よりもその聡明さを如実に語っていたし。春の
ほどなく講義は古典文学にまで及んだ。文学史の概要から始まってひとつひとつの作品の講義に至るまで、すべての文献は原書であった。シャルルは七転八倒しながらも辞書と首っぴきで懸命に書物を読みあさり、専門家並みの知識を得るまでに至った。これには、さすがのサラも驚かされた。彼女が半年と踏んだところを、彼は三カ月もかけずにクリアしてゆく。頭がいいだけでなく、一を聞けば十を知る勘のよさと集中力はやはり並大抵のものではない。そしてこの感性――彼女は思わず武者震いする。学者として、人間として、この才能に出会えたことが嬉しくて。
そうしてそれから暫くの間、教材には万葉集が続く。少年があれほど執着し、好んだ日本最古にして最大の歌集。彼のこれまでのあらゆる努力が、すべてこれだけのためといっても過言でないほどの。ついにシャルルはそれを手に入れた。今の彼にとっては世界よりも価値のあるもの――三十一文字に凝縮された歴史と人生。彼が強張った固い表情の陰で歓びの涙にむせぶのを、確かにサラは見たと思った。しかしそれとてほんの一瞬のことで――すぐに彼はいつもの冷めた瞳に戻ってしまったけれど。
だからサラは――持てるかぎりのすべての知識を動員して、ひとつひとつ丁寧に説いていった。悲劇の歌、よろこびの歌、宮廷歌人たちの華麗なる競演……順こそ不同であったが、その時々の歴史的背景をおりまぜ、解説しながら四五〇〇首すべてを。そのたびにシャルルは、的を得た質問や奥深い理解に裏付けられた感想を述べる。時には夜を徹しての討論がくり広げられることもあり、サラ自身も久しぶりに充実した日々を送った。
悲劇の運命を背負った万葉集最大の宮廷歌人のこと、あるいは、云われのない罪に問われて権力者たちの悲しい犠牲となった優れた皇子らのことを。またある時には障害ゆえにひき離された恋人たちのこと……農民たちの辛い暮し、
「さあて……次はどの歌にしましょうか」
もう三分の二はこなしたろうか。季節は移り、パチパチと火のはぜる音を聞きながら、ふたりは暖炉の前のソファーに寛いでいた。
「ああサラ、これがいいな。巻二の頭のあたり……。この辺の五、六首はまだまったく手をつけていないでしょう? 何か理由でも?」
「うーん、この辺の歌はねえ……作者の年代がきわめて古いのよ。
サラはそう答え、目についた――首をシャルルに指し示す。
――君が
迎えをゆかむ 待つには待たじ――
サラがなめらかに発音し、続いてシャルルがそれをなぞる。それはサラの優美な発音と寸分たがわぬもので、彼女は満足そうにシャルルに頷いた。
「では通釈……あなたが行ってしまってから、もう随分と日がたってしまいました。さあ、今こそ私は
「この時代の女性というのは、後世の女性よりよほど情熱的ですね。平安に入ると、もう女は家にありて待つものになってしまうのに。作者は……ソトホシノオオキミ……?」
シャルルは目を細めてその名を何とか読み取った。実際この歌には非常に長い
「そうね、ほんとに。でもそれにしても、この場合は少し勝手が違うのよ……これから説明するけれど」
そう言って、サラは手近の資料の山から瞬く間に一冊を選び出し、パラパラとぺージをめくる。
「
シャルルは膝の上に広げた本と、サラの顔を交互に見る。
「それでね……その絶世の美女たる衣通姫、彼女はあろうことか実の兄と恋に落ちてしまうの」
サラは相変わらずぺージに目を落していたので、気づかなかったが――その時、シャルルの肩がぴくりとふるえた。
「知ってるだろうけど……この時代、ことに皇族の間ではけっこう近親結婚が多かったのよ。叔父と姪、従兄妹同志の結婚なんてザラだったし、たとえ兄妹でも母親さえ違えば、つまり異母兄妹であればフリーパスだった。けれど、同腹の――同父、同母の兄妹の場合は……これは禁忌だったのよ。この時代ですら絶対的なね。この
シャルルは呆然と――した。性に対して一定のモラルはあったものの、まったく自由奔放とさえ言ってもよいあの時代でさえ、母を同じくする兄妹が通じることは許されてはならぬ罪悪であった。その婚姻は不倫の恋として忌み嫌われるばかりか、重く罰せられる。ふたりは引き裂かれ、男は都を追われて
「……シャルル?」
サラの声に彼はにわかに現実に引き戻され、あてどなく漂わせていた視線を彼女へ向けた。
「……どう……」
サラは喉もとまで出かかった声を思わず呑みこんだ。あまりにもうつろな、あまりにも哀しい、あまりにもやるせない瞳に胸を突かれて。この少年は――働哭している。あの冷めた瞳に隠された
「……でも……彼らは幸せですね……」
目をそらし、彼は泣き笑うような寂しい微笑みを口もとに張りつかせてぽつりと言った。
「……なぜ……?」
サラはシャルルの整いすぎた白い横顔を見つめながら、反射的に問い返した。それは本当に紙のように白く、何の表情も浮かべてはいなかった。シャルルはゆっくりとふり返り、その凍りついた表情のまま、サラに視線を戻した。