9/8 Sat. 住民その2 --郷土を愛する女性
終日ブドヴァで過ごしたこの日、住民たちとの一風変わった出会いが3つあり、これは第2弾だ。
休憩を終えて、さらにさまよい歩くうち、彫刻を施した柱の残骸みたいなものが無造作に転がっている広場に出た。
古代遺跡でよく見かけるコリント式の柱。まるでその柱頭のように見えるのだが・・・

  これは本物???

じーっと見つめていたら、私の疑問を察知したのか、ひとりのマダムが英語で声を掛けてきた。
今しがた広場に面した建物から出てきた人だ。

「説明しましょうか?」
12:21 ピアッツァ・ロマーナ跡
おお、それは有り難い! もちろんお願いする。

「ここは古代ブドヴァで、ピアッツァ・ロマーナ (ローマ広場) と呼ばれた中心地よ。現在の町は古代ブドヴァの上に造られたの。ほら、ここにラインがあるでしょう? それが当時の広場の境界線」
  ※写真ではよく判らないが、私の足下あたりの石畳の色が微妙に違っていた。

「ここにある石はその広場に使われていたものなのよ。だけど、ほとんどがローマ人に運び去られてしまって、残ったのはこれだけ。当時の人々がどこに行ったのかは、私たちにも分からない。私たちは古くからこの町の住人だけど、彼らのあとに移ってきたの」
「英語がよくわからないから、私が英語で説明できるのはここまで」
「ありがとう。そりゃ長い歴史をお持ちで、説明が難しいでしょう」
そう言うと、彼女は
「そうなの! 長い歴史があって、本当は言いたいことがいっぱい!
    だけどこれだけしか話せなくてごめんなさいね」

そして私の肩をたたき、「チャオ!」 と微笑むと、
首に巻いたシフォンの花柄スカーフをなびかせ去っていった。

きっと自分の生まれ育った町を愛しているんだろうな~。
なんだか、ほんわかした爽快感に包まれて、しばしこの広場に立ち尽くしていた。
   旧市街マップ
※この広場はオレンジ、元のマップにはヴィラ・ウルバーナ
の中心 (Kapiteli "Vila Urbana") と記されている→
夕方、広場を再訪問したときの写真。たしかマダムは右の建物から出てきたはず。
ここでちょっとだけ町の歴史を補足しておこう。
紀元前5世紀にはギリシャ悲劇の作家、ソフォクレスがこの地に言及していたというから、たしかにブドヴァの歴史は長い。
アドリア海沿岸の定住地としては最古とも言われる。
そんな古代イリュリア※1 からギリシャ文明の時代を経て、古代ローマ時代にはすでにここを中心に都市が形成されていたわけだ。城壁外にはネクロポリス(墓地)※2もあった。
※1イリュリア人はバルカン半島西部の先住民
※2 ネクロポリスについてはブドヴァ旧市街 [5]でもちょっと触れます
ローマ帝国が東西に分裂したときには、ちょうどブドヴァの中心に国境が引かれたという。マダムが指し示した境界線って、そのことだったのかな!? 西ローマ滅亡後は全域がビザンチン帝国となったが、その後はスラブ系民族が移住。統治者はドゥクリャ諸侯、中世セルビア王国(ネマニッチ朝)・・・と入れ替わり、1442年から1797年まではベネチアに帰属した。城壁や城塞も含め、現在残る建物の多くはベネチア時代のものだそうだ。そしてオーストリア領時代を経て、1918年にモンテネグロに編入する。
めっちゃアバウトだけど、観光客なので許してね (^^ゞ

12:28 ピザ
ピザ屋の外観
コトルやドゥブロヴニクでもお馴染みの、P字型ドア+窓
ランチは街角にあったテイクアウト専門のピザ屋で調達。すでに一切れを残して売り切れだったので、選択の余地はなかった。具はチーズ、シャンピニオンとミートとのことだ。(たしか1.50€)
ピザ屋の店内
歩きながら食べ、ベンチに腰掛けて食べ・・・

昨夜と同じスーパーで生ハム (1.99€) を買い、
一旦ホテルに帰った。
生ハム
城壁外、スーパー近くのパーキング
この一帯はパーキングだらけだ
14:13 ホテルにてランチ、パート2
夜、ワインのつまみにする予定だったのに、さっそく開封。昨日のパンと一緒に食べる。もちろんワインも・・・w
ブドヴァ旧市街 [4] モンテネグロ
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ブルーフラッグ指定のビーチ [1]


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