2011年4月号
【近つ飛鳥博物館、風土記の丘百景】
今月の特集

東日本大震災について(賢治に聞く)

万能書き出し(続)

文庫本「賢治先生がやってきた」

「うずのしゅげ通信」バックナンバー

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2011.4.1
東日本大震災について(賢治に聞く)

このたびの東日本大震災(東北地方太平洋沖地震)は、東北から関東にかけての広い地域を襲いました。
宮沢賢治のふるさとである岩手県もまた多大な被害を被りました。
この大震災について賢治さんのご意見をお聞きするために、銀河鉄道地球ステーションを訪ねて、 インタビューを試みました。
筆者が訪ねあてた車掌室には、賢治さんとともに(風の精)風野又三郎さんもおられて、 いっしょにインタビューに応じていただきました。

−− 「賢治さん、あなたの故郷の岩手県がひどいことになっています。」
賢治 「はい、そのことで、私も心を痛めています。地震、津波、そして原発……、 私が生まれる半年ばかり前にも地震があって、その津波でたくさんの人々が犠牲になりました。 また、私が亡くなる少し前にも同じように地震があって、津波で犠牲者が出ました。」
−− 「そうですね。年譜を調べていておどろきました。たまたまそうだったというだけの話ですが、 ふしぎな感じがします。その昭和八年の地震の四日後、あなたは、 詩人の大木実さんあてのはがきに『被害は津波によるもの数多く海岸は実に悲惨です』(※1)と 書いておられます。花巻の実家で自宅療養中のあなたのもとにも、津波の悲惨さは充分届いていたのですね。 ……それにしても、あなたの作品の中に地震や津波がまったく登場しないのはどうしてなのでしょうか。 冷害や飢饉といった自然災害は取り上げられていますが……。」
賢治 「そうですか……、そうかもしれません。自分の全集は見たことがないので、……」
−− 「今回の災害については、どこで知られたのですか?」
賢治 「地震と津波は、風野又三郎が知らせにきてくれました。」
−− 「又三郎さんが、……」
又三郎 「はい、賢治先生のふるさとがたいへんなことになったのでとんできました。」
−− 「又三郎さんは、どうしてお知りになったのですか?」
又三郎 「そのとき、僕はタスカロラ海床(※2)の上空で遊んでいました。」
−− 「タスカロラ海床……。」
賢治 「タスカロラ海床というのは、三陸沖合の日本海溝のあたりで、今回の震源はそのあたりです。」
又三郎 「僕たちは、冬は大抵シベリアに行って、そこから南にさがってきます。 日本が近づいて少し温かくなってきたので、気分がうきうきして、 上空からぐるぐると螺旋を描いて降りてくるサイクルホールの遊びをしていたときです。 一瞬、海が湖のように静かになりました。波がならされてつるっとしてひかっていました。 そして、突然海がゴーという音を出しながら、盛り上がってきたのです。 凪いだような一枚の海面が 膨れあがってきたのです。しばらくすると海の色が緑から白っぽく変わり、沸きたつように海面が泡立ってきました。 僕はすぐに地震だと気がつきました。いままでに見たことがないほどすごい地震だ。体がぶるぶると震えました。 とっさに津波という言葉がうかびました。上空から見下ろすと、 盛り上がっていた海面がへこみはじめています。そして、また底から盛り上がってきます。 僕は陸地に向けて馳けました。馳けて馳けて、やっと三陸の海岸にたどりつきました。」
賢治 「そこは、あとで詳しく聞いてみるとどうも石巻のあたりだったらしい。 あの町は、私もいったことがある。きれいな町だ。」
又三郎 「僕には、街並みを見下ろしている暇なんてなかった。 津波は、僕と同じくらいの速さで追いかけてきた。いや、僕より速かったかも知れない。 僕は夢中で叫んだ。『つなみが来るぞー、つなみが来るぞー』、声の限り叫んだ。叫んでまわった。 でも、僕の声は、津波の轟音にかき消されて、下のみんなには聞こえなかった。 たくさんの人たちが逃げまどっていた。車が浮いて流され、家も根こそぎに倒されていきました。 僕は涙もでなかった。喉がかれて、声が出なくなるまで叫んだがむなしかった。 たくさんの人々が津波にのみこまれていった。」
(又三郎さんはそこまで説明して、鼠色のマントで顔を隠して嗚咽をもらしました。)
賢治 「又三郎は、そんなふうに私に報告してくれて、その日は、泣いて泣いて、泣き明かしました。 私たちは自然の前では、まったく無力だ。又三郎の話を聞きながら、私はそのことを考えていました。」
又三郎 「津波にくらべて風なんてやさしいものだ。風野姓の乱暴者が二百十日あたりに たまに暴れることもあるが、 津波ほどの狼藉はしない。 津波はすごい、水に浸かった町全体が巨人の箒でかき回されたようにぐちゃぐちゃに破戒されてしまった。」
−− 「そうですか、又三郎さんは、空から、あの津波を見ておられたのですね。 そして、賢治さんに報告を……。でも、今回の災害はそれだけでは ありません。原発のこともあります。」
賢治 「たしかにそうだ。福島の原発が地震と津波のために故障してたいへんなことになっている。」
−− 「はい、おそろしいことです。地震と津波に誘発された原発のトラブルというのは前代未聞です。 そもそも、原発など賢治さんの時代にはなかったものだ。賢治さんは、原発の事故はどうして知られたのですか?」
賢治 「私は、銀河鉄道の土星駅から、コイン式の双眼鏡を覗いていて、原発の事故を知りました。 原子炉の熾き火が燃えているのが見えたのです。」
−− 「原子炉の熾き火が……そんなことがあるんでしょうか?」
賢治 「ほんとうです。銀河鉄道は単線なのですれ違いのために土星駅で停車するのですが、 その待ち時間、退屈なので放射線双眼鏡をのぞいていると、……プラットホームの端にコイン式のやつがあるんです、 それに硬貨を入れてね、のぞいていたら、おどろきました。 福島の原発から原子炉の熾き火が火の粉を散らしているのがはっきりと見えたのです。夢中で覗いていると、三分なんてアッという間 ですね。カシャンとシャッターが閉まって、硬貨がなかったので、もうどうしようもなかった。…… まったくの偶然ですが、おなじ土星駅で……もう半世紀にもなるでしょうか、いや、それ以上になりますか、 まっくらな地球がピカッと小さいひかりを発したのを 目にしたこともあります。そのときは何のひかりかわかりませんでしたが、業務連絡で 原爆の閃光だと知りました。そして、二日置いてもう一度、(※3)…… そうです、おなじ土星駅のコイン式双眼鏡でした。 ……あのときも悲しかったが、今回の原発の熾き火も悲しいきらめきでした。 それから毎日、土星駅で時間待ちをするたびに双眼鏡をのぞいていますが、原子炉の熾き火はなかなか消えないようです。 多くのグスコーブドリが身を犠牲にして働いてはいるが、原発をなだめるのはむずかしい。 原発の建物から火の粉を散らし、排水はどこかから海に漏れ出ている。 火の粉はさらにどうしようもなく広がるかもしれない、もし、そんなことになれば、散らかった放射性物質は 気が遠くなるほどの永さ、放射線を出し続けるでしょう。……」
−− 「それでも、未来はあるのでしょうか?」
賢治 「原爆をうけてなお復興したヒロシマやナガサキの人々もおられるんですから、空襲の焼け野原から 立ちあがった人々の子や孫なんですから、…… どうにかなるだろう、と信じてはいますが、……」
−− 「たくさんの人が亡くなられました。身内の人の多くがつらい思いをしておられます。」
賢治 「悲しみに身を苛まれている人もたくさんいる、それはたしかです。 避難所の通路を歩いていてもふわふわと現実感がない、泣きたくても涙もでない、 カンパネルラの父親のように(※4)……、 しかし、そんな日々もやがて気がつくと少しずつ踏みしめられるようになっている。 日にち薬ということばもあるように、 むりやりにでも日々の暮らしにまぎらせて、 悲しみの時をやりすごす、それしかありません。 私が妹のトシを亡くしてわかったことは、人は悲しみをかかえても生きていける ということです。」
−− 「私も息子を亡くしたあとしばらくはそうでした。どうすればこころを保つことができるのかも わかりませんでした。呆然とした一時期がすぎて、それからはただもうがむしゃらに宮沢賢治を読みました。 詩とか童話にただ没頭して、それでどうにか最初の危機を乗り切れたのかもしれないという思いが あります。その点、私は賢治さんにたいへん感謝しています。」
賢治 「ひとりをうしなった悲しみは、その人に親しんだ人しか持ち続けることができません。 そのためにも生きてほしい。 悲しみはやがて懐かしい悲しみになります。…… いや、悲しい懐かしさというほうがいいかもしれませんが、ともかくそんなものになる、 というか、そこにもっていくのです……」
−− 「わかるような気がします。」
賢治 「また、復興も大切です。私が、妹を亡くしたあと、 その面影と出会ったのが『柳沢洋服店のガラスの前』(※5)でした。 亡くなった人の面影は、やはりかつてその人の生きた風景が似つかわしい。 だから、なんとか美しい街並みを、村を、復興しなければならないと、そんなふうに考えて……」
賢治さんは、そこで一つ吐息をついて、遠くを見るような目をしました。
−− 「……まだ、その段階ではないとは思いますが、 賢治さんは、これからの復興について、原発の存廃について、どのように考えておられますか……。」
賢治 「私には、何もできません。何もできないものが、何かを言うべきではないでしょう。 ただ、私が作品にこめたメッセージの一つでも被災者のこころに届くものが あればと、それだけを願っています。……いまは正直言って、 このたびの震災をどうとらえればいいのかといったふうなことは、まだまだ考えあぐねています。 ただ、……みなさんが、東北の復興に心を添わせてくれることを祈っています。 被災者たちには、とても長い苦難の旅路になるでしょう。他の地方のみなさん達には、 自分たちの生活レベルを犠牲にしてでも、被災した人々を支えていってほしいと思います。」
賢治さんは、そこで、ちょっとことばを詰まらせて、苦しそうな表情を浮かべました。 車掌室のどこかでベルがチンと鳴りました。
賢治 「もう、時間です。銀河鉄道の発車時刻ですので、申し訳ありませんが、 インタビューはここまでということに……。では、また。」
賢治さんは、車掌の帽子を被ってから私に軽く敬礼しました。そして、 どこか思い詰めたようなきびしい横顔を見せて車掌室を出ていきました。
又三郎さんもそそくさと立ちあがりました。
−− 「又三郎さん、最後に何か……」
又三郎 「えっ、僕? えーと、僕はいま、震災にあった子どもたちや 家族を亡くした子どもたちがたくさんいるでしょう、そんな子どもたちの 耳もとにどんな風のささやきをとどければいいのかなあって、悩んでいて…… 賢治先生に聞くわけにもいかないし、そんなとこ。 ……じゃあ、僕は、えーと、避難所は朝晩寒さに凍えているというし、そろそろ春の風を吹かせて来……」
しゃべりおわらないうちに、もう又三郎の姿がふっと消えてしまいました。 そして、賢治さんが開けっ放した扉から一陣の風が吹き抜けていきました。

※1、朝日新聞(2011.4.5)の記事「雨ニモマケズ 響く」より引用
上記の記事によって、昭和八年の津波に触れたはがきの存在を初めて知りました。 ちくま文庫版の全集には、載っていないように思います(?)。それにともない、 この文章の一部を修正しました。
※2、「風野又三郎」(ちくま文庫「宮沢賢治全集5」)
※3、二人芝居 「地球でクラムボンが二度ひかったよ」、短篇戯曲「人の目、鳥の目、宇宙の目」
※4、「銀河鉄道の夜」(ちくま文庫「宮沢賢治全集7」)
※5、『春と修羅』補遺「青森挽歌」(ちくま文庫「宮沢賢治全集1」)


2011.4.1
万能書き出し(続)

先月号の続きです。 以下、ちょっと戯作調で書いてみます。そのつもりでお読みください。 万能書き出しを発見したのです。万能細胞のように何にでもなりうる書き出しです。 それは、つぎのような一節です。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

ある日曜日の朝のことです。
トオルくんが起きてきました。もうかなり前に食事を終えたお父さんは、居間で新聞を読んでいます。
トオルくんは、お父さんが座っているソファの肘掛けにちょっと腰掛けて、いつになくまじめな顔でたずねました。
「お父さん、夢でかけられたナゾナゾはとけるのかな」

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
私は、さっそくこの書き出しが万能書き出しであることを証明するために、 詩「夢のなぞなぞ」短篇小説「夢の入口」(あるいは落語原案)を書いて先月号に掲載しました。
続いて、今月号には、童話「おじいちゃんのなぞなぞ」を載せています。
来月号には絵本を掲載する予定です。 脚本も予定しています。
ほんとうにそんなことが可能なのかどうかは、私にもわかりません。

今月号で、おなじ書き出しの三つの作品が揃いました。短いものですので、 興味のあるかたはお読みいただけたらありがたいです。

詩「夢のなぞなぞ」(先月号に掲載)
短篇小説「夢の入口」(あるいは落語原案)(先月号に掲載)
童話「おじいちゃんのなぞなぞ」 new
絵本(次号に掲載予定)
脚本(掲載未定)


2011.4.1
文庫本「賢治先生がやってきた」

2006年11月、「賢治先生がやってきた」を 自費出版しました。
脚本の他に短編小説を載せています。
収録作品は次のとおりです。
養護学校を舞台に、障害の受け入れをテーマにした『受容』、 生徒たちが醸し出すふしぎな時間感覚を描いた『百年』、 恋の不可能を問いかける『綾の鼓』など、小説三編。
 宮沢賢治が養護学校の先生に、そんな想定の劇『賢治先生がやってきた』、 また生徒たちをざしきぼっこになぞらえた『ぼくたちはざしきぼっこ』宮沢賢治が、地球から五十五光年離れた銀河鉄道の駅から望遠鏡で 広島のピカを見るという、原爆を扱った劇『地球でクラムボンが二度ひかったよ』など、 三本の脚本。
『賢治先生がやってきた』と『ぼくたちはざしきぼっこ』は、これまでに、高等養護学校や小学校、中学校、あるいは、 アメリカの日本人学校等で 上演されてきました。一方 『地球でクラムボンが二度ひかったよ』は、内容のむずかしさもあってか なかなか光を当ててもらえなくて、 はがゆい思いでいたのですが、 ようやく08年に北海道の、10年に岡山県の、それぞれ高校の演劇部によって舞台にかけられました。
脚本にとって、舞台化されるというのはたいへん貴重なことではあるのですが、 これら三本の脚本は、 読むだけでも楽しんでいただけるのではないかと思うのです。 脚本を本にする意味は、それにつきるのではないでしょうか。
興味のある方はご購入いただけるとありがたいです。
(同じ題名の脚本でも、文庫本収録のものとホームページで公開しているものでは、 一部異なるところがあります。本に収めるにあたって書き改めたためです。 手を入れた分上演しやすくなったと思います。『地球でクラムボンが二度ひかったよ』は、 出版後さらに少し改稿しました。いまホームページで公開しているものが、それです。)

追伸1
月刊誌「演劇と教育」2007年3月号「本棚」で、この本が紹介されました。
追伸2
2008年1月に出版社が倒産してしまい、本の注文ができなくなっています。
ご購入を希望される方はメールでご連絡ください。

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