†催眠恋愛†


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  ◇

 私は聡子。けれども私は桔梗。二つの自己認識が混ざり合って、私が一体どっちなのか判別が付かない。
 けれども、眼前に広がる光景は私の記憶にはない。だからこれは桔梗の記憶なのだと漠然と理解する。

 アフリカという、この国に住む者にとっては何だか遠くてその実体が想像できないような地域に存在する、E1国とE2国。紛争と呼ぶには規模が拡大し過ぎた対立を続ける二つの国。空爆が解禁され、もはや戦争と呼ぶべき状態に突入した争いを幾数年も重ねてきたそれらの国に、桔梗の姿はあった。聡子が知る桔梗の姿よりもさらに若い。幼女と少女の境目とでも呼べるような外見。女性としてはあまりに未成熟なその外見に、それでも凛とした現在の桔梗らしさが既に滲み出ていた。

 はじめの光景はE1国。この国の名前は私も知っている。もっとも名前だけでその国の詳細な情報は分からない。この国に住む人間にとって、そこは、その程度の認識しか存在しない国だった。
 桔梗は、そのE1国の国家元首と向かい合っている。幼い桔梗は、催眠術のエキスパートとして認知された一種の国際エージェントとして時間を重ねてきたのだということを、桔梗の記憶から私は知る。
 桔梗の依頼主はE1国とは対立する小国、E2国の外交官だった。和平の交渉人(ネゴシエイター)としてE1国の国家元首と面談し、その際に国家元首にE2国をそれ以上空爆しないとの強制催眠をかける。それが、その時の桔梗に与えられた使命だった。
 しかし、E1国の国家元首は尊大な理想主義者だった。
 国家元首と対話を重ねるうちに、桔梗の考えは改められた。国家元首は「対話による理解の可能性」「恒久の平和は人類共通の理想である」といった趣旨の自説を熱心に桔梗に聞かせた。桔梗は思った。この人は立派な人間だ。私が彼の自立意志を奪わなくても、やがて対話の末にE1国とE2国の和平はなるだろうと。
 桔梗は、E1国の国家元首に強制催眠をかけないまま、その国を後にした。

 次の光景はE2国。桔梗は、E1国の国家元首に強制催眠をかけなかった旨をクライアントに伝えるためにその国に立ち寄った。勿論、エージェントとしての報酬は全額返金するつもりだった。
 国境を越えて自動車で数時間移動した頃だった。市街地に向けて、何機もの爆撃機が飛んで行くのが見えた。運転手に自動車をとめさせて地面に降り立った桔梗は恟然(きょうぜん)とした。爆撃機は、間違いなく、E1国から飛んできたものだった。あの、対話による和平を熱心に語っていた国家元首が何故?
 やがて、市街地の方向は炎の紅に染まっていく。人が沢山死んでいるのだと、ただそれだけを理解した。

 爆撃機の編隊がE1国へ向かって帰還した後、桔梗は爆撃を受けた市街地へと向かって駆け出していた。自動車の運転手は安全上の理由から市街地に向かうことを拒んだ。幼い、小さな足で、ただ、桔梗は市街地へ向かって走り続けた。

 灼熱の太陽が深く記憶に残留している。
 その場は地獄だった。爆撃によって瓦解した町と、そこかしこに散らばる瓦解した身体。悲鳴と痛みを訴える声だけが音楽として流れる。蹂躙された町。
 崩れた煉瓦造りの家の脇に横たわった夫婦らしい瓦解した死体にそっと近づき、桔梗は涙を流した。
 私が依頼を無視して彼の国家元首に催眠をかけなかったから?
 怒りと後悔と。その時の桔梗の気持ちを、私は経験したことが無いので言い表す言葉を知らない。
 その時、かすかな声を聞いた。瓦礫の下からだ。E2国の言葉だったので理解はできなかったが、助けを求めていることだけは分かった。
「何処だ、何処にいる?」
 この国で通じる可能性がもっとも高いであろう英語で、ありったけの声で桔梗は叫んだ。
 助けて。
 助けて。
 やがて、声の方も英語でそう呼びかけてきた。
 耳に全神経を集中させて声の位置をさぐり出し、駆け付ける。
瓦礫の隙間から、澄んだ瞳が見えた。

 小さい体を精一杯使って瓦礫をどかし、桔梗よりもさらに小さい少年を地上に連れ出した。
 桔梗は少年を横たえ、長い髪を少年に向かって垂らしながら、瞳と瞳を合わせた。
「お母さんは?」
 消え入りそうな声で少年はそう尋ねた。
 少年の両親は、家の前に倒れていた瓦解した死体であることを桔梗は理解していた。
 だから桔梗は少年の言葉を同じ口調でそのままくり返した。
「お母さんは?」
 対象の言葉、素振りを真似ることから同調を開始し、そのまま内面を同調させるのは桔梗が身につけている催眠の手順だった。少年が右を向けば桔梗も右を向き、瞬きをすれば桔梗も瞬きをした。
 やがて少年との間にラポールが形成されたことを確認すると、そっと桔梗は呟いた。

――幸せになろう。

 そうして、少年に催眠をかけた。
「両親のことは忘れて、これからは私を愛せ」
 と。

 その日から数年。国際エージェントとしての活動を停止して、恋愛カウンセラーとしてネットを通じて世界中から尊敬の眼差しを集める桔梗の姿があった。
 誰にも知られていないことだが、恋愛事業で得た収入の大部分はその後高度な投資に回されて拡大し、最終的にはNGOを始め、世界から争いを根絶するための慈善団体に寄付されている。
 桔梗の傍らには、あの日、E2国の市街地で救った褐色の少年がいつも同伴している。その時の少年に、桔梗はレンという名前を付けていた。

  ◇

 とても遠い場所から意識が戻ってくる。桔梗でもあり、聡子でもあった曖昧な時間。長いような短いような不思議な時間を終えて、今、聡子は薄暗がりの天井を見ている。格子柄。そんなどうでもいいことが気になった。
「ここは?」
 誰に問うわけでもなく、そう呟いた。
「私の店だよ」
 しかし、その問いかけには明確な回答が返ってくる。あの不思議な時間の間、聡子自身でもあった桔梗の声だ。
(私、どうして?)
 そう口にしようとした瞬間、頭に鈍い痛みが走る。
「痛い……」
「私の形成するラポールに割り込むなんて無茶をするからだ」
 桔梗が顔をのぞき込んでくる。その角度で、自分が今、横長のソファのようなものに寝かされているのだと理解する。
「あ、大丈夫です」
 そう言って上体を起こす。確かに軽い頭痛と全身に疲労感があるが、そう大事では無さそうだと自分で判断する。
 身体を起こして視界が広がると、部屋の隅で椅子に座っている直樹くんが目に入った。鼻には湿布をしており、殴られた箇所に関しては応急処置を受けた後だということが分かる。
 直樹くんと目が合うと、直樹くんは軽く右手だけをあげて答えてくれた。その仕草で、もう桔梗は直樹くんにことの子細を話しているのかもしれないと聡子は思い至った。
「何を見た?」
 桔梗が腕を組んだまま問う。
「桔梗の過去です」
 正直に答える。桔梗は「そうか」とだけ返答する。
「レンさんのこと、後悔してますか?」
 聡子は立ち上がると、そう、一つだけ確かめたいことを口にした。
「している」
 桔梗は腕を組んで聡子を真っ正面から見つめたまま、迷いの無い口調でそう答える。この短い間付き合った時間の中で、桔梗の言葉にはいつも偽りが無かった。本当に、自分にとっての真実だけを桔梗は口にする。そんな桔梗だから聡子は美しいと感じたのだと思う。
 だから、そんな桔梗だからこそ聡子はこう伝えた。
――でも、後悔しないで欲しい。
 と。

 よろよろとした足取りで出口に向かう。
「ミッションは失敗で、返金保証適用ということでいいかな?」
 後ろから、桔梗の声が聞こえてくる。
「ええ、それで。本当はお金なんか返して貰わなくて結構ですってカッコつけたい所ですけど、私のやりたいことをやるのにも、お金が必要ですから」
 あまりにまだよろけていたからだろうか、途中で、直樹くんが近付いてきて肩をかしてくれた。小声で、「ありがとう」とだけ伝える。
「これからどうするのかね?」
 桔梗の問いに、歯を食いしばりながら答える。もう、桔梗の美しさを確かめるために振り返ることはしない。
「自分を磨きます。私は、まだ桔梗には遠く及ばないから。そして、直樹くんとイヴの日を迎えたとしても、私が幸せかどうかなんて分からないってことが分かったから。いつか本当の幸せを手に入れるために、自分を磨きます」
 カウンターに繋がる出口にさしかかった所で、桔梗がそっと声をかけてくれた。
「その先には、『過酷な幸せ』しかないかもしれないぞ」
 自分でそう感じただけかもしれないけれど、いつになくその桔梗の声が優しかったので、聡子はこう答えて店を後にした。
「それでも、追い求めます」

  ◇

「そうです。今教えた彼女のサインを見落とさないで下さい。今夜、肉体関係までOKか、そのサインを見極めることが大事です。くれぐれも、サインを発見できないまま強要したりしないように。下手をすると犯罪になります。ええ、はい、では健闘をお祈りしていますよ」
 クリスマス・イヴの日は雪に恵まれ、今年はホワイトクリスマスとなった。恋人達のロマンスの記号であるその白い明滅を身体に浴びながら、あいも変わらず冷たいビルディングの屋上でローブを纏いながら顧客に指示を送っている桔梗の姿があった。
「ご主人、首尾は上々かい?」
 後ろから聞き慣れた声がしたので振り向く。勿論、声の主はレンだ。
「ああ、上々だよ。毎年のことだが、今日は、私の手で何組ものカップルが生まれる記念すべき日だ」
 すると桔梗の言葉に、レンは「ケケケ」といつもの笑いを返す。
「そりゃ結構なことだな。結局今年のイヴに成就させそこなったのは例の女子高生のお嬢ちゃんの依頼だけか。その後、どうなんだい。メールはまだ届いているんだろ?」
 そう言いながら、レンは桔梗にむかってコーヒーカップを差し出す。
「ああ、なんでも、島田直樹と一緒に勉強しているそうだよ。英語だけじゃなくて、国際関係学とか投資のこととか色々と。『今は傍観者だけど、やれることをやっていつか当事者としての幸せを目指す』とか何とか。まあ、結構なことだ」
 ローブに覆われて顔こそ見えないが、桔梗は微かに微笑んでいるらしい。
「なんだ、上手くやってるんじゃねえか。それ、カップルになっちまったようなもんだよな。さすが、ご主人だな」
「フフ、私としても珍しい客だったよ。ラポールに割り込まれた時は本当にどうしようかと思ったものだ」
 桔梗は「フフフ」と、レンは「ケケケ」と笑い合う。
「所でご主人、今日はコーヒーの他にもう一つ土産があるんだ」
「ほう、それは嬉しいね」
 そう言って桔梗はビルの外回りを覆っている金網によりかかる。
 レンは手にした四角形の箱を少しだけ開いてみせると、いつものようにケケケと笑った。
「クリスマスケーキさ。よく分からないからイチゴのショートってヤツを選んで買ってきたんだけどな。ご主人も女だ、こういうの、好きなんだろ?」
 金網から外界を俯瞰するように眺めていた桔梗は、「悪くない」と呟いた後、こう続けた。
「普通の幸せの象徴だね」
 桔梗はそっとレンの肩を抱き寄せ、金網から二人が同じ光景が見えるようにと、レンを自分に近づけた。
(「後悔しないで欲しい」か)
「レン、私は君の記憶を……」
 そう口にしかけた桔梗に対して、レンは口の前に人差し指でバッテンを作って見せた。
「言いっこ無しだぜ、ご主人。オレは、ご主人が好きさ。催眠にかかっていようと、かかっていまいとね」
 そう言って町を見下ろしているレンの内面にいる自分に、桔梗は想像を巡らせた。できるなら、その姿は美しいものであって欲しいと思う。
「ご主人、ローブとってくれよ。クリスマス・イヴくらい、存分に顔を見せてくれ」
 素直に、ローブのフードを取る。中から、あの日からレンにとっては変わらない長い髪と漆黒の瞳をたたえた美しい少女の顔が現れる。
「衆愚の国とかご主人言ってたけどな。オレは結構この国ぁ好きだぜ。肌の色が違うオレにも、ケーキを売ってくれるもんな」
 そう言って純朴な視線を送ってくるこの少年の手を、桔梗はそっと握りしめる。
 寒月の寒さの中、手を媒介にして体温が伝わり合い、いつしか胸の中まで温かくなる。その心地よい温かさに身をまかせて、そっと雪が降り続ける天空に二人で視線を送る。何故だろう。催眠をかけたわけでもないのに、沸き起こったその心の温かさが、自分のものなのか、レンのものなのか、その時、桔梗には判別がつかなかった。

    <完>



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