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【荒川区域町村名変遷】 【東京区部行政区画変遷】
 
@北豊島郡の4町(村)成立まで<明治11年〜明治22年>

▲現在の荒川区の行政区画を重ねてみる。


 明治11年(1878)、郡区町村編成法により、東京府は、明治以降幾多の変遷を経て導入された大区小区制を廃して、15区+6郡の構成となりました。現在の荒川区が存在するエリアは、郡部(北豊島郡)に属する農村地帯で10を超える町村が存在していました。これら郡部の町村では、明治11年の郡部創設の際、各町村に戸長・戸長役場を設けました。しかし、これは、必ずしも一町村ごとではなく、2・3の町村を連合して設置(町村会=議会も同様)しています。
 この時期に、公立の小学校が各地域で開設されました。尾久小や峡田小・日暮小・瑞光小がそれで、現在の荒川区域の小学校のルーツとなっています。これらルーツ校は、町立や村立ではなく、同一戸長役場下の町村連合により運営されたため、「公立〜小」と称されています。
 明治22年(1889)、区部と郡部の境界が入り組み複雑であったのを是正する郡区境界の変更が行われ、同時に区部の市制施行により東京市が誕生しました。また、郡部には町村制が敷かれることとなりましたが、自治を遂行する体力をもたせるために、町村合併が全国的に画策されています。(その結果、全国で町村数が約5分の1となっています。)
 荒川区域でも、郡区境界の変更や町村合併案が進められましたが、地域社会や府・内務省の見解の相違などで混乱し、結局、同一戸長役場下の町村連合を主体とした合併が行われ4町村(南千住のみ町で、他は村として出発)が成立しています。合併した旧村名は大字名として残りました。(荒川区設立の際に、大字・小字は廃止)
 

●明治22年の町村合併
旧町村名 新町村名 町への昇格
地方橋場町の大部分(残りは浅草区へ)
千住南組の大部分
(残りは新制三河島村へ)
三ノ輪村の大部分
(残りは新制三河島村・下谷区へ)
千束村の一部
(残りは下谷区・浅草区へ)
三河島村の一部
(残りは新制三河島村へ)
下谷区通新町、下谷区三ノ輪町の飛地
南千住町  -----------
三河島村の大部分(残りは南千住町へ)
千住南組
の一部(残りは南千住町へ)
三ノ輪村の一部(残りは南千住町・下谷区へ)
町屋村
三河島村 大正9年2月11日
下尾久村
上尾久村
船方村の東半分
(残りは新制王子村へ)
尾久村 大正12年4月1日
谷中本村
金杉村の半分
(残りは下谷区へ)
日暮里村
の大部分(残りは本郷区・下谷区へ)
日暮里村 大正2年7月11日
*昭和13年刊の「東京市町名沿革史」(東京市役所編)では、明治22年の町村合併に際して、新堀から日暮里に変更したとあるが、実際は、明治10年7月12日、現在の江戸川区内に同名の村との区別のため、新堀村から改称している。・・・郵便の行き違いが主たる理由であることが、府知事から内務卿・大久保利通代理、内務小輔・前島密に宛てた文書に記載されている。

郡区境界変更
 
旧15区と郊外の郡部の境界線は非常に入りくんでいました。これを整理するために、結果として、郡部から旧15区に編入されるされる地域が出てきました。その逆もありますが、市域拡大となっています。当初、東京府は、現在の南千住や東日暮里附近まで編入しようとしましたが、内務省の反対にあい、大幅な縮小を余儀なくされました。妥協のラインは音無川。これによって、地方橋場や千束・三ノ輪・金杉が分割されてしまい、旧日暮里村と結びつきの強かった谷中村も市側に編入されています。日暮小に学び、諏方神社を信奉した旧日暮里村と谷中村(現・荒川区西日暮里と台東区谷中)、根岸小に学び、元三島神社を信奉した金杉村の音無川北部と南部(現・荒川区東日暮里と台東区根岸)は、行政区こそ分かれてしまいましたが、今でも祭礼などの地域的な結びつきは強いようです。


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