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【荒川区域町村名変遷】 【東京区部行政区画変遷】
 
A東京市荒川区成立まで(明治22年〜昭和7年)

▲現在の荒川区の行政区画を重ねてみる。


 明治22年(1889)、町村制が敷かれましたが、荒川区域内ではかろうじて、南千住町が「町制」の規模でした。古くから水運に恵まれ、宿場町としても繁栄し、市域(下谷区・浅草区)に隣接しているといった地理的条件からも、比較的人口密度が高く、郡区境界変更の際には、東京市が市域編入を画策したほどです。その南千住町及び下谷区に隣接する旧金杉村を含む新制日暮里村が次に町への昇格を果たしたのは自然な流れであったのでしょう。
 日暮里の町制施行3か月前の大正2年(1913)4月、王子電車の飛鳥山下(現・栄町)〜三ノ輪間が開通し、尾久・三河島域の人口増加への橋頭堡となりました。また、尾久村では、大正3年(1914)にラジウム温泉が発見され、歓楽街が形成されるといった、まさに発展期を大正年間に迎えたのでした。但し、大正10年刊の大東京鳥瞰図(ちょうかんず=bird’s view)を見ると、市域隣接の南千住町・日暮里町は市街地化されているものの、尾久・三河島附近は緑が目立つ状態です。荒川区域の人口を爆発的に増やした要素は、大正12年(1923)の関東大震災でした。東京市部に壊滅的な被害を与え、再興計画において、工業などの郊外移転の圧力が高まるにつれ、荒川区域への人口流入は著しくなりました。そして、市街地化とともに、東京市隣接町村の東京市編入(市域拡大)が検討され、昭和7年、5郡82町村の編入がなされ、従来の東京市15区に新設区20区を加えた大東京市35区制がスタートしました。
 しかし、新設区域に対するさまざまな施策が、旧区にとっての負担増とする観点からの大反対や、新区を構成する各町村の合併案・区域案に対する、それぞれの町村の賛否、市と府の対立など、実現までの道のりは長かったのです。
 
【荒川区域合併案】
 
●東京市案=南千住町・三河島町・尾久町・日暮里町⇒三河島区
 ●東京府案=南千住町・三河島町・尾久町⇒荒川区、日暮里町⇒滝野川区へ
 
●決定事項=南千住町・三河島町・尾久町・日暮里町⇒荒川区
 
→南千住町は隣接の浅草区編入を希望。あるいは、日暮里・三河島とともに荒川区。
 →日暮里町は滝野川区案は反対。下谷区編入希望。次に荒川区。

 
※特に日暮里では、多くが校区・氏神を下谷区と共通とするため、下谷日暮里併合案は根強く、東京市庁舎
の煙突を占拠し、併合を主張する「煙突男」までが登場した。
 
 
【町界・町名整備】
 
昭和7年10月1日、南千住・三河島・尾久・日暮里4町合併により荒川区が発足しました。これに先がけ、町界・町名整備の準備が進められ新しい行政区画に移行しました。
(大字・小字の廃止)

旧南千住町1〜10丁目
※昭和3年及び4年の東京府告示によって、それまでの大字を廃止している。
荒川区南千住町1〜10丁目
旧三河島町(大字三河島・大字三ノ輪・大字千住南) 三河島町1〜9丁目
旧三河島町(大字町屋) 町屋1〜3丁目
旧尾久町 尾久町1〜10丁目
旧日暮里町 日暮里町1〜9丁目・日暮里渡辺町(後、9丁目)


【東京区部人口第1位】
 
今では想像もつきませんが、荒川区は新旧35区で最大の人口を擁する区として誕生したのです。最盛期の昭和18年には、現在の倍の35万人に達していました。その後、旧市域を中心とした他区の合併、郊外型区部の人口増加、荒川区の人口流出により相対的な人口順位が低下しています。
(2000.9現在で第18位、人口18万弱程度となっています。一、二年前には、一時、16万人台まで減少しましたが、南千住・白鬚西地区などへの転入が相次ぎ、若干回復しています。)
 


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