九九を習ったのは、確か小学生の低学年でした。誰がどの段まで暗記できたか、壁に掲示されたため、みんな頑張って覚えようとしていた記憶があります。今の教育では、こういうことはやるのでしょうか。もしかしたら、できないのかもしれません。「競争意識を煽る」とかで。
競争はあまり好きではありません。将来は世捨て人志望。でも、お互いを向上させるための競争なら、ええじゃないかええじゃないか、とは思います。
桓公(かんこう)という人が、斉(せい)の国を治めていた時代のことです。
桓公は、非常に人材を愛していました。
この人自身には、さほど才能がありませんでした。それを知ってか知らずか、とにかく優秀な人材を求めるのに熱心でした。人は、自分に無いものを求めるものですから。
以前、自分を殺害しようとした管仲(かんちゅう)すら登用したほどです(第二十回)。
その桓公は、夜になると自分の家の庭にかがり火をたかせていました。眠らないどこかの街のように明るくしていたのです。深夜に訪問してきた人が、迷わないようにとの心憎い配慮からでした。
それほどまでに人材を待ち望んでいるのに、さしたる人材はやって来ません。どうしたもんか、と頭を悩ませていた頃、一人の男が現れました。
「貴殿はどのようなことができるのか」
桓公は問います。
「私は九九が得意です」
と、訪問者は答えました。
あまりのバカバカしさに唖然としている桓公に、訪問者は言いました。
「左様、九九など人に自慢できるほどの特技ではありません。そんな九九しか特技のない私ですが、何故、あなたのところに人材がやって来ないのかは分かります」
「ほう」
「賢君と評判の高いあなたの下で働いて私に何ができようか、と皆思っているからです。だから優秀な者はやって来ないのです」
なるほど! お世辞はこういうふうに言えばいいという歴史の教え・・・じゃないじゃない。
まぁ、これが事実かどうかはわかりません。このごますりには、桓公も胡散臭いものを感じたのではないでしょうか。
訪問者の本題はこれからです。
「ですから、私のような九九しか特技のないような者を登用したという話が広まれば・・・?」
訪問者は、おもむろに尋ねました。桓公はうつむいて考えます。やがて、
「もっと優秀な人材が登用を求めてやって来る!」と、答える桓公。
「ファイナルアンサー?」と、しつこいみの・・・もとい、訪問者。
「ファイナルファンタジー!」と、そんなあいつに一度言ってやりたい私。
──九九しか能のない者を厚遇したという情報が広まると、玉石混淆、多くの人材が桓公を訪ねました。その中から有能な人材を発見し、国政に参加させました。
九九のような、特技と言えない特技も使い方次第ではこんなに使える・・・ことも稀にあります。要は、いかに自分の持っている知識を応用するか、ということでしょうか。
春秋時代のお話です。
実はこの話、ウソの可能性が高いそうです。このページは「演義」と銘打っていますから、別にウソでも面白ければいいんですけどね。
昔から、歴史は、政治に影響されてきました。勝者が、敗者を貶め自らを正当化する道具として利用してきた一面が歴史にはあります。「歴史を鑑に」と格好いいことを言っても、そういう一面を知らなければ、歴史は未来の指針とはなりません。
そんなわけで、歴史にはホントもあればウソもあります。明らかなホントやウソ以外は、人によってどれを信じ、どれを偽りとするかは違います。人や国によって、歴史観は違うのです。
この九九が得意の訪問者は、その後どうなったのでしょうか。本当に九九しか特技がなかったのでしょうか。いや、そうは思えません。本当に九九しか能がなかったら、桓公の所へ行ってないでしょう。
はっ! もしかしたら、これも管仲の先を見越した策略、その名も「オペレーション・桓公名君化」の一環なのでは? と空想してしまう、管仲好きの私でした。