「うずのしゅげ通信」

 2017年11月号
【近つ飛鳥博物館、河南町、太子町百景】
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2017.11.1
フォースターの「私の信条」

ひさしぶりに『フォースター評論集』(岩波文庫)を読み返しました。
E.M.フォースターは、十九世紀のイギリスの評論家、小説家です。
最初にフォースターを知ったのは、大学に入学してまもなくの頃、 当時の教養部の英語の授業でした。 いまでも、そのときのテキストを持っています。蔵書のほとんどを処分したのですが、 このテキストと後に買った岩波文庫の「フォースター評論集」(小野寺健編訳)の二冊だけは、 一生ものとして大切にしています。
ということで、E.M.フォースターの著書について、です。
「フォースター評論集」の中の「私の信条」につぎのような一節があります。

「民主主義は、個人は重要なもので、ひとつの文明を形成するにはあらゆるタイプの人間が 必要だいうことを大前提にしている。民主主義は、能率優先の体制によくあるように、国民を いばる人間といばられる人間に分けたりはしない。私が憧れる民衆とは、感受性がゆたかで 新しいものを創り出したり何かを発見したりはしても、権力の有無など考えない人びとである。 そしてこういう人びとに活躍の場があたえられるのは、どこよりも民主主義国なのだ。こういう人びと のなかには、大小の新たな宗教を興す人もいれば、文学・芸術をつくる人も、利害を離れた科学的研究に 従事する人もいる。あるいはただの「庶民」で、子供を立派に育てたり近所の人たちを助けたりして、 私生活のなかで創造的才能を発揮するばあいもある。こういう人たちが一人の例外もなく 自己を表現しなくてはいけないのだが、それには社会がそうすることを許してくれなければならない。 そしてそのための最大の自由を許すのが、民主主義的社会なのである。
民主主義には、もうひとつ長所がある。 それは批判を許すことであって、もし公然と批判ができなければスキャンダルはかならずもみ消される。 だからこそ、嘘をつくこともあれば卑俗な面もあるにせよ、私はマスコミの価値も議会の価値も信じる。」

この文章は、第二次世界大戦の直前(1938年)に書かれたものですが、驚くべきことに いまだに古びていません。 古びていないというより、いまだにそこから現在の状況に応じた何かをくみ出すことができる 文章だと言えると思います。
自民党の、というより安倍首相の、強権的な支配が続いているいま、フォースターの「私の信条」を読み返してみて、考えさせられるところが多々あります。
「もし公然と批判ができなければスキャンダルはかならずもみ消される。」とあります。 これはまさに、現代の 日本の状況そのものではないでしょうか。
現政権は、以前より、マスコミを支配下に置こうと画策しているようです。また、つい最近も国会の委員会審議における 質問時間を野党に不利なように減らそうとしています。これらのことは、一世紀前に発表された フォースターの言説にも悖ることではないでしょうか。

トランプ政権の騒動が続いているアメリカに目を転じてみます。
トランプ大統領はメディアを敵扱いして毛嫌いしています。その確執に対して、共和党のマケイン議員が つぎのような発言をしたと報じられています。

「民主主義を守りたいなら、報道の自由、多くの場合は、敵対的な報道が必要だ。それがなければ、いずれ個人の自由もかなり失われるのではないか。独裁者への第一歩となる。」

トランプ大統領を支えてきた共和党にさえ、このような意見があるのです。
今の自民党の政治家からこのような発言を聞いたことがありません。
国民を、支持不支持で峻別して敵視するのではなく、不支持者もまた国民であり、日本にとっては 必要な人たちであると考える寛容さをどれだけの政治家が持っているのでしょうか。
また、政権に敵対的な報道も必要だ、という認識、たとえ建て前であったとしても、そういった発言をする 度量をどれだけの政治家がわれわれに示してくれたでしょうか。


2017.11.1
フェイスブック

〈10月2日にフェイスブックに投稿したものです。〉

「今日の拙句です。

 (ブリューゲルの「バベルの塔」)
待宵やバベルの塔の雀蜂

自灯明金木犀が花降らす

花芒風なき堂に風入るる

焼け焦げて月夜の電柱彼岸花

蛍草十一年の忌が過ぎて

近つ飛鳥博物館の駐車場の少し手前に栗林があります。栗はいま収穫の時期ですが、そこの一本の栗の高枝に大きな雀蜂の巣があって、道からも雀蜂の唸りが聞こえてくるほどです。毎日眺めているうちに、その雀蜂の巣、なんだかバベルの塔のように見えてきました。というのは、今大阪の国立国際美術館でブリューゲルの「バベルの塔」展が開かれています。私は観ていませんが、この雀蜂の巣、ポスターなどで見かける「バベルの塔」とイメージがどこか似かよっているのです。
四句目、彼岸花、盛りを過ぎると花がねじれて黒ずみ、まるで焼け焦げたようです。原子野の幻想。
ということで、今日は待宵の句。

待宵のひとりに開くエレベーター  八田マサ子

あべのハルカスの展望台から見上げる中秋の名月を想像してしまいました。」


〈10月5日にフェイスブックに投稿したものです。〉

「今日の拙句です。

神獣鏡の伏せ置かれたる良夜かな

比喩でしか触れ得ぬものも良夜かな

いつよりか邪鬼ばかり見て蚯蚓鳴く

 (道明寺の聖徳太子立像)
厩戸(うまやど)ノ皇子十六の秋思かな

人の世と和解せぬまま吾亦紅

近つ飛鳥博物館の特別展示で何度か神獣鏡が並べられていたことがあります。紋様が見えるようにすべて伏せて(鏡面(表)を下にして)展示されていました。
三句目、いつよりか邪鬼に心惹かれるようになりました。どうしてか分かりませんが、肝心の仏像より、その足元に踏みつけられている邪鬼についつい目が行ってしまうのです。
四句目、聖徳太子孝養像と呼ばれ、十六歳の太子が、父の病気快癒を祈願しておられる像です。
ということで、今日は良夜の句。

戒名は忘れて妻に良夜かな  神蔵器

亡くなったことを忘れるくらい身近に妻の気配を感じながら眺め入る今宵の名月。」


〈10月26日にフェイスブックに投稿したものです。〉

「今日の拙句です。

秋霖の漏れきて妻の華やげる

帰郷とはさかしまに着く花野かな

耳を掘る秋思穴なき仁王像

阿修羅像虹差し渡す手の形

影なき子金木犀の花の暈

一週間前まで、秋雨前線が居座っていて、そこに台風が来て、と雨が降り続きました。とくにひどい降りの日、突然雨が漏ってきたのです。以前からその気配があってので、築七十年の瓦があちこち傷んでいるにちがいありません。大慌てで処置しました。
二句目、幼い頃、出かけて夜になると、帰る電車が逆向きに走っているような錯覚にとらわれたものです。そのことを、故郷への屈折する思いに重ねて。
四句目、虹は夏の季語ですが。
ということで、今日は秋霖の句。

秋霖に紙の飛行機出てゆきぬ  安部健二郎

この作者、どうして紙飛行機を折ったのでしょうか、いろいろと想像させてくれる句です。子どもにせがまれたのか、何か鬱屈するものがあって手慰みに折ってみたのか。
最近知ったAKB48の『365日の紙飛行機』という歌、
秋元康さん作詞の曲を思い浮かべてしまいました。

人生は紙飛行機
願い乗せて飛んで行くよ
・・・・・・・・・・

この歌詞、若ければこその軽やかさなのですが、歳をとるとなかなかそうはいかないようです。」


2017.11.1
俳句

〈10月のフェイスブックに投稿した拙句です。〉


 (ブリューゲルの「バベルの塔」)
待宵やバベルの塔の雀蜂

自灯明金木犀が花降らす

花芒風なき堂に風入るる

焼け焦げて月夜の電柱彼岸花

蛍草十一年の忌が過ぎて

神獣鏡の伏せ置かれたる良夜かな

比喩でしか触れ得ぬものも良夜かな

いつよりか邪鬼ばかり見て蚯蚓鳴く

 (道明寺の聖徳太子立像)
厩戸(うまやど)ノ皇子十六の秋思かな

人の世と和解せぬまま吾亦紅

鵙鋭声一日(ひとひ)遊ぶはわればかり

憤怒像文机に敷き秋灯

  (聖徳太子御廟のある叡福寺)
親鸞も訪ひ一遍も訪ふ秋暑かな

  (叡福寺から當麻寺への道標)
右たゑまそれより読めぬ萩の道

  (西方院)
花筒を洗ふ媼の秋暑かな

 (賢治の詩「青森挽歌」より)
夜寒さの客車の窓の魚族かな

星座には直線ばかり捨案山子

故郷にさかしまに着く秋の夜半

左腎取られ灯りし秋蛍

亡き父の貫通銃創蝉の穴

楔形文字まだ解けずいのこづち

秋蒔きの濡れ土浴みて蟇蛙

  (ギュツラフ訳ヨハネ福音書)
「ハジマリニ カシコイモノゴザル」露の玉

憤怒の茶髪路上に跳ねて月ライブ

 (猪撃ちの猟師の語る)
水桶の月に猪より真ダニ落つ

秋霖の漏れきて妻の華やげる

帰郷とはさかしまに着く花野かな

耳を掘る秋思穴なき仁王像

阿修羅像虹差し渡す手の形

影なき子金木犀の花の暈



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