アンソロジー「性教育」

[見出し]
2000.1〜2002.12
性教育について”ちゃんと”考えてみよう

「八日目」(96年ベルギー/仏)を衛星放送で見ました

性教育について”ちゃんと”考えてみよう U

産経新聞「性の権利もつ人間として」

性はどんなふうに話題にするの?

賢治先生のバーチャル授業「『性教育に人形劇を』LIVE」

近代家族というのは、障害者に性を許さない装置?

あかちゃんはおしりから生まれてくるの?

性教育はこころの教育?

付録「性教育、簡単手作りグッズ」

助走、性教育

性教育「顔の美人さがタイプなんです」

性教育は、砂糖が溶けるまで待って

「うずのしゅげ通信」 バックナンバー

2000.7.1
性教育について”ちゃんと”考えてみよう。

「イーハトーブへようこそ」は、性教育について”ちゃんと”考えるための 里程標のつもりで書いた脚本です。しかし、わたしの性教育に対する考えの甘さから 、脚本に曖昧で不満足な部分を残してしまいました。
高等養護学校の性教育で踏まえなければならないのはどういうところでしょうか。 先月号の「うずのしゅげ通信」にも書きましたが、 卒業生の将来の性生活が結婚というかたちで保障される場合はそんなに多くないということです。 これは一般の高校生や中学生を対象にした性教育と根本的に違うところです。 彼らには将来の男女の性生活がほぼ約束されているからです。
しかし、高等養護学校の卒業生で結婚する生徒は十人に一人、あるいはそれより 少ないかもしれません。 だとすると、男子生徒の場合、「一人のセックス」 も肯定的に考えていかなければならないということになります。
性教育においては、「二人のセックス」(いわゆる男女のセックス) と「一人のセックス」(男子の場合、マスターベーション)を並べて、 両者に優劣はないというふうに教えています。しかし、ほんとうにそうなのでしょうか。 やはり、「一人のセックス」は、本当のセックスができないから、 しかたなしに処理的にしている偽のセックスという感じが否めません。 生徒たちは、将来そういった引け目をもって生きていかなければならないのでしょうか。 それとも「一人のセックス」もりっぱなセックスのありようなのでしょうか。
養護学校の性教育はそんなふうなところから考えていかなければならないと 思っています。
まず、そのあたりが押さえておかなければならない基本であると考えます。
そのことを踏まえて、さらに考えを一歩進めるために、 最近読んだ本の引用からはじめたいとおもいます。
山本直英「私とあなたの『からだ』読本」(明石書店) に自慰にはどんなよいことがあるかが列挙されています。
第一に「だれにも迷惑をかけない性行動で」あること、 また「『自分のからだはいいものだ』と思えるようになること」。
さらに二つ。
「自慰によって『性はプライバシー』ということが身につきます。 (中略)人間はだれにも『秘密な世界』があっていいし、大人になることは、 自己の秘密をいっぱいもつことなのです。」
「自慰は親からの乳離れを進める行為です。 (中略)自慰は親に対して初めて持つ秘密ですから、 親の干渉から脱出する気持ちを育ててくれます。自分だけの時間と空間が多くなることが、 自立した大人になるためには必要なのです。」
「以上のようなメリットが自慰にはあります。」と山本直英氏はのべておられます。 これはなっとくできる考え方だと思います。しかし、われわれの問題は、そこからなのです。
知的障害者には、どうなのだろうか。このような考えがすべてあてはまるのだろうか、 というのが検証の手始めです。後ろの二つのメリットを検討してみます。
「自慰」ということに拘るのは、先ほども述べたように、 養護学校の場合卒業生の多くが独身のまま一生を過ごすという現実があり、 そこに基点を据えざるをえないからです。
それを前提に「自慰」というものを考えていきます。
そこで、まず取っ掛かり。
ここで問題になっている「秘密」を「秘密」たらしめる 「恥ずかしさ」が分かるものと分からないものが、養護学校の生徒には、 いるだろうということです。「性を恥ずかしいもの、隠さないといけないものと分からないもの」 にとっては、秘密は秘密でなくなるのではないでしょうか。 人前で性器いじりをしたりする生徒には、まず、 それが恥ずかしいことだと分かるようにすることが先決なようです。 それが文化を踏まえた手順のような気がします。
そのうえで、自慰がプライバシーであり、 秘密のものであることを話すべきなのではないでしょうか。 マスターベーションの仕方を指導する授業を展開、解説した性教育の本までありますが、 まず最初にしなければならないことは、 「恥ずかしさ」というものを分かってもらう授業といったもののような気がします。 「それがむずかしいからこそ、具体的に展開しているのだ。」という避難が聞こえてきそうです。 しかし、それを承知であえて原則に拘っています。
もちろん「性を恥ずかしいもの、隠さないといけないものと分かってい」れば、 もうしめたものです。彼は、立派に秘密を持つことができるからです。 その秘密を梃子に精神的な親離れをこころみていけばいいのでしょう。
しかし、と私はさらに考えてしまうのです。 秘密を持つことはそんなにたやすいことなのでしょうか。 たしかに秘密を作ることはやさしいことかもしれません。 「これは親にいわないほうがいい」といったことは、本能的にわかりそうだからです。 難しいのは、その秘密を保持することなのです。 「健常者」(あまり使いたくない変なことばですが……)では、 無意識に乗り越えていることが、知的障害者となるとちょっとした起伏にもひっかかります。 秘密の保持ということについてはもっと綿密に考えておかなければなりません。 本来、人にとって秘密というのは大切な役目を果たしているように思われます。 しかし、漫然と隠しているというだけでは、秘密本来の機能を果たしません。 こころの中に秘密の整理棚といったようなものがあって、そこで適切に分類、 保存されてはじめて秘密は生きていく上で大切な秘密なりのはたらきを するように思われるのです。
「自分が自慰をしている」という秘密は、自我が蝕まれるような嫌な秘密の棚ではなく、 恥ずかしいことでとても親には言えないが、本来はそう悪いことでもなさそうだ、 といった種類の秘密の整理棚にしまわれるのがふさわしいような気がします。 だから、「安心して秘密にしておく」という形をとらなくてはなりません。 こころの奥底に保存されているうちに、その秘密は丸みをおび、一端を取り出すときは、 ユーモラスな色調をおびているような、そんな保存の仕方をされていなければなりません。 そのような秘密の保持のありようを学んでいくことが大切なように思います。
そのために教師としてどのような手だてがあるか、何をどう配慮し、教え、考えていけばいいのか、 それらはこれからの課題なのです。
それができれば、性に傷つくことも少なくなるだろうし、 社会に出てからの性の話題にも余裕をもって対処できるのではないでしょうか。
ただ、はっきりしていることは、「自慰」という秘密の行為について、 秘密の持ち方を説明しようとする人は、ぜったいに信頼されていなければならないということです。 こころの深いありように触れていくのですから、 教えることがすなわち自分の生き方をを糺されるようなそんな微妙な問題だからです。 わたしは、それにもっともふさわしい人物として賢治先生を考えました。 人間関係のできた担任の教師が話をするのが理想でしょうが、 「性教育は人形劇で」という主張があって、脚本を構想しているとき、 賢治先生以外にはありえないという考えに達したのです。 「一人のセックス」というものについて賢治先生に大肯定をしてほしかったのです。
そして、その結果「自慰の秘密」が適切に保持されるようであれば、 「自慰のメリット」は、健常者となんらかわらないと思います。
山本直英氏の言われるように、「自慰によって、『性はプライバシー』ということが身につき」、 また、「自慰は親からの乳離れを進める行為」となるに違いありません。 だからこそ、養護学校での性教育は、できるだけ具体的な性教育であると同時にこころの秘密の 秘密に触れるカウンセリングでもなければならないと、そんなふうにも考えられますね。 むずかしくて、後込みしてしまいそうです。でも、性教育は生きるエネルギーの教育だから、 しないわけにはいきません。
性教育は、分からないことだらけ、まだまだ納得できないところがいっぱいあります。 さらに考え続けていかなければならないと思います。
つぎの性教育の時間に、秘密の持ち方について生徒に聞いてみることにしようと、 計画しています。問題は、そのあたりにありそうだからです。
だから、この「性教育をちゃんと考えてみよう」は、これで終わりというのではなく、 「そしてやはりこの項つづくのだ」(中野重治)としておきたいと思います。


2000.7.1
「八日目」(96年ベルギー/仏)を衛星放送で見ました。

たいへんよくできた映画で感動もし、またいろいろ考えさせられました。
あらすじは、朝日新聞テレビ覧の紹介を引用すれば、つぎのようなものです。
「家族に見放された仕事人間がダウン症の青年との出会いで人間性を取り戻す。 ダニエル・オートゥイユと現実にもダウン症の俳優パスカル・デュケンヌが カンヌ映画祭で男優賞をダブる受賞した秀作。ミウ・ミウほか。」
障害をもった人たち、この映画の場合はダウン症の青年、の存在感の意味は何なのかということ、 また彼らが発する雰囲気が周りのものに及ぼす安心感とはどういうものなのかということ、 ダウン症の青年の現実感覚はどんなものなのか、 また障害を持つことで差別されている青年は世界とどのように和解していくのかなど、 映画を見た結果抱え込まされた問題は多いのです。
人間はいったい何が幸せなのかということも考えてしまいます。
極端な仕事人間、マニュアル人間アリーが、ジョルジュと出会うことで、 はじめは煩わしく思っていたかかわりによって、癒されていく不思議さがよく描かれています。 といっても、障害者を美化するのではなく、ダウン症の人がもっている陽気さ、 歌好き、ダンス好き、頑固さ、みがって、誰にでも言い寄っていく移り気、 白昼夢をないまぜたような現実感覚、 他をおもんばかることがすくないことからくる性格のまろやかさなど、 わたしの経験に照らしてもほんとうにリアルというしかありません。
そんななかで、わたしが拘ったのはつぎのような場面です。 今回のテーマである性教育にも関係するからです。
ダウン症のジョルジュが、以前から好きだった同じダウン症の少女と結ばれる場面です。 ジョルジュは施設の仲間とマイクロバスを盗んで、 仕事人間アリーの別れた妻子が住む海岸の小さな遊園地に乗り付けます。 子どもの誕生日を祝おうというのです。すでに閉まっていた夜の遊園地は、 かってに電源を入れられて、おもわぬにぎわいとなります。仲間たちが、はしゃいで遊び回る中、 マイクロバスの中にジョルジュは少女ナタリーを誘い込みます。
二人はベッドに入ります。
ナタリー「できないの」
ジョルジュ「どうして?」
ナタリー「セックスはだめだって……」
ジョルジュ「だれが?」
ナタリー「私のパパよ」
ジョルジュ「お父さんもしてる」
ナタリー「パパは別よ、普通だし、仕事もしている。部長だし車も持っているわ」
ジョルジュ(ちょっと考えて)「部長とは寝たくないな」
ジョルジュの言いぐさに少女が笑い出し、結局二人は笑いながら頭を抱き合います。 そのときナタリーはふとまぶしそうな表情をするのです。まぶしいのか、人目を避けたいのか。ジョルジュがその表情に気づいて扉の窓のシェイドを閉めに立ちます。シェイドを閉めて戻ろうとすると、シェイドはぱたんをはね上がってしまう。また閉めて、ベッドに戻って、さて抱き合おうとすると、またシェイドがはね上がる。閉めること三回、そっともどって、さてというときについにシェイドははね上がった勢いではずれてとんでしまいます。それで二人は大笑いになって、そこでほんの少し場面が変わります。花火が上がって、ベッドが照らし出されるとすでに二人は結ばれたあとのようすです。
しばらくして警察がやってきます。お祭りもここまでです。 ナタリーは、警察と前後して駆けつけてきた両親に連れ戻されてしまいます。
問題点を取り出してみます。
ナタリー「セックスはだめだって……」
本当に障害者はセックスをしてはだめなのでしょうか?
子どもをつくることになるからなのでしょうか?
ジョルジュ「お父さんもしてる」
ジョルジュの反論は当然なのです。しかし、ナタリーは、すでに許容の気配をみせつつ、 なお世俗の論理を言い募ります。
ナタリー「パパは別よ、普通だし、仕事もしている。部長だし車も持っているわ」
「パパは、普通。」「健常」だということでしょうか?
「健常者」というのも変なことばですね。
「パパは、仕事をしている。」仕事に就いていないジョルジュに セックスをする資格はないのでしょうか?
「部長」という社会的な役割があって、「車」に象徴される財産があって、 妻を購うことも可能なのだということでしょうか?
しかし、ジョルジュは「部長とは寝たくないな」の一言で一蹴し、 笑いに紛らせて人間としてナタリーを求めているということを押し出すのです。
そして、いざ結ばれようとして、ナタリーが気づいて、 ジョルジュが外部から二人を遮断するためにシェイドを閉めに立ちます。 ナタリーの方が社会性が高いのでしょうか。
ジョルジュは、結局ナタリーと結ばれるのですが、お祭りの後で、 彼女は両親に連れ戻されてしまいます。ジョルジュは深く傷つきます。ディスコで荒れ狂います。 しかし自暴自棄もそれまで。それで気が済んだのか、 ダウン症の青年らしく白昼夢を見ているような雰囲気の中で、 一人ダンスにのめり込むことでたちまち現実と和解していきます。 映画の中では、亡き母を追慕する歌によって象徴的に世界との和解があらわされています。 障害者だということで彼を忌避したウエイトレスまでがその合唱に加わってまさに全世界との 和解がなったかのようなのです。 しかし、それにもかかわらず彼は死に向かって踏み込んでいくのです。 ビルの屋上で、アレルギーのために禁止されているチョコレートをたらふく食べてから、 いかにも、現実感を喪失したまま浮遊していくような感じでそこから飛び降りてしまうのです。 どうしてなのか?これは分かりにくいところです。
これらの細部は映画を鑑賞していただくしかありません。絶対にお奨めです。


2000.9.1
性教育について”ちゃんと”考えてみよう U

ふたたび性教育について考えてみることにします。
賢治劇「イーハトーブへ、ようこそ」は、ある危うさをもっているようです。 それはどんなものか、というところから考えていきたいと思っています。
まず、「イーハトーブへ、ようこそ」は、男子生徒にたいする性教育を想定した脚本である という事実があります。性教育を、男女で分けること自体がおかしい、と考える向きには、 納得できない内容があると思います。しかし、わたしが最初にこの劇を発想したのは、 男子生徒の性的な成熟につれて、それがさまざまな問題行動になってあらわれるのを見るにつけ、 そこをなんとかしなければならないという実際的な、緊急な必要に迫られていたからです。 高等養護の生徒たちを見ていると、性的には十分に成長しています。 男子は性的な欲求に悩まされることになります。 その性的な欲求を何とかなだめつつ一生つきあっていかなければなりません。 言葉をかえれば、(こんな表現がいいかどうかは問題ですが) それをうまく「処理」しなければならないということです。 しかし、そこに「処理」という実際的ではあるのですが、 ちょっとひっかかる発想を滑り込ませてきたとき、 うっかりするとつぎのような考えさえ出てくるのです。

処理的な発想はつぎの引用にも見られます。 はじめてこのパンフレットを読んだときは考え込んでしまいました。 もっともこのパンフレットの発行は1992年であり、 現在は改訂(絶版?)されているかもしれません。
パンフレット「結婚と性」(手をつなぐ親の会)に、 つぎのような質問が載っていたのです。
「男として性の体験をさせたい
そろそろ三十歳になろうとする長男は、通所授産施設に通っています。 まじめ一方で、ほとんど休むことはありません。しかし、一つだけ気になるのは、 若い女性に対する関心です。時々雑誌のグラビアのヌード写真を、 食い入るように見ていることがあり、ドキッとさせられます。 若い男性として当然のことかと思いますが、複雑な気持ちです。 結婚ができればもっとも良いのでしょうが、今の収入や障害の重さを考えると 、とても不可能だと思います。
そこで、せめて男として経験だけでも、と考えています。街には、 男の人を相手にする商売の人がいる、と聞きます。そのような女性にお願いすることは、 極端な話でしょうか。また、不道徳な発想でしょうか。」
それに対する処方として、三つの意見が並列されています。
意見1は、「とんでもない」説。
 その一部を引用します。
「まさに、女性を性欲の対象とする、あるいは性の商品と認める、男中心社会の発想を、 障害者の問題にもそのまま無批判に持ち込んだことだと言えましょう。 性による差別的発想(行為)そのものであり、そのような人に、 障害による差別を批判する資格はありません。
またそれは、犯罪行為(売春防止法違反)でもあります。法律を犯してまで、 性欲を処理しなければならないのでしょうか。もっと仕事に打ち込んだり、 スポーツや創造的な文化活動に参加する中で、 健康的な青春が送れるはずです。」
意見2は、「その道の人にお願いする」説
 この意見の本質はつぎのところにあります。
「グッドアイデアと思います。いや、それしか方法はないでしょう。 確かに、結婚という公認された性の解消の方法が良いでしょうが、じっさいはなかなか難しい。 それでも、男の性欲は否定できません。スポーツに打ち込めとか、仕事に励めというのは、 男のことをよく知らない人の空理空論です。実際は、そうすればするだけ、 元気になるものです。
また、雑誌やビデオなど、刺激的な物が街には溢れています。聖人君子ではあるまいし、 それらと無縁の生活をしろ、と言うことほど非現実的なことはありません。」
意見3は、「本人の気持ちしだい」説
「親や家族は、固定された結婚観に支配され、 特に知的な障害のある人の結婚を初めから諦めている場合が多いようです。 果たして不可能なのか、と再度問い直すことが必要です。その後で、 さて現実的な性欲の解消をどうするか。また、異性との体験はいかがか、ということです。 (中略)観念的に言えば、ボランティアの存在が望ましいのですが、 現実的には考えられません。近親相姦は論外として、「誰かにお願いする」というのは、 よく耳にすることです。マスターベーションでの処理も、それはそれだけですし……。 しかし、本人の率直な気持ちはどうでしょうか。」

とりあえずの意見とすれば、まあ、こんなものですかね。
しかし、これらの意見の中にも「『ふたりのセックス』信仰」が見て取れます。
どうして「ふたりのセックス」のみがほんもののセックスといえるのでしょうか?
「ふたりのセックス」を経験しないとどうして心残りなのか?それも人生の心残りなのか? それはどうしてなのでしょうか?
セックスを経験することと人生の価値とは、そんなに深い関係があるものなのか、 と考えてしまいます。(何も私がその考えから免れていると言っているのではありません。 自分の中にもそんな気配があるから、問題にしているのです。)
この問題はしかし、健常者の価値観の障害者への投影でしかない、という気がします。
知的障害者にとっては、セックスの欲望はたしかにあるものの、 それによって人生の価値が決まるようなものだとは本人たちは 思っていないのではないでしょうか?
欲望の解消のためならマスターベーションがある。 女性に相手をしてもらうことを希望するということは、 つまり「ふたりのセックス」信仰が変形して現れているように思われます。
こんなとんでもない意見がまかり通りかねない素地は、そこにあります。 処理という発想が含む人間蔑視が女性蔑視の形をとって現れてきているようです。 処理という考えでは、どうしてもこんな発想に帰結してしまうのでしょうか。
それとも、処理も選択肢の一つだからと寛容に構えて、処理のレベルと、 人間関係としての性とを分けた方がいいのかもしれないとも考えてしまうのです。
「イーハトーブへようこそ」はまだまだこの段階ですね。 そこから、どういう方向に一歩を踏み出していけばいいのでしょうか。 理想論ではなくて、現実的な問題として。
「そしてやはりこの項つづくのだ」としておきたいと思います。


2000.11.1
産経新聞「性の権利もつ人間として」より

産経新聞が障害者の性の問題を特集している。
現在も連載中だがその記事からこころに残った箇所のいくつかを引用をする。

10月4日
大阪・キタの書店である日、 「障害をもつ人たちの性ー性のノーマライゼーションをめざして」(明石書店刊) という本を見かけた。手にとってペラペラとめくっていくと、 ハッとさせられる一文が目にとまった。何度も読み返した。
「障害をもつ人は、障害の種類や重軽に関係することなく、 彼らが紛れもなく人間であり、人間が動物であるという明白な理由で、 性をもつ人たちとして自らが認識し、他の人々にも認識させていく必要があります」
序章の中にある一文。障害者にも「男性」「女性」の「性」がある。当たり前のことだ。 しかし、わたしたちは無意識のうちに、障害者を男性でもない、女性でもない、 ある種「無性」の存在のように思っているのではないか。

障害をもった人たちも「性」がある、これは言うまでもないことだと思います。 彼らが紛れもなく「性をもつ人たちとして自らが認識し、 他の人々にも認識させていく」ということについては、わたしもそういうふうに考えています。 さて、そこからが問題です。

10月5日
「生殖と快楽、コミュニケーション。この三つの性に関する権利は、 障害をもつ人においても認められるべきこと」。 自立生活問題研究所所長の谷口明広さん(44)はこう問題提起し、 さらに「障害があったら、スキンシップという性的なコミュニケーションすら認められないのか」 と続けた。
谷口さんは、性を自分自身の問題でもあるととらえ、桃山学院大や同志社大大学院で研究するが、 米国・バークレーへ留学をきっかけに、 障害者の性への関心の度合いがより大きなものとなっていった。 「(向こうでは)障害をもつ人たちが伸び伸びと性を語っていた。 また、個人のプライバシーが第一に考えられ、障害者もみんな個室を持ち、性に関して抑圧されることはなかったと思う。日本では考えられないことだ」と振り返る。
日本では、障害者が子供のころから一人になることが少なく、 介助するために親たちがそばを離れないことが多いという。「帰国して再認識した。 日本では障害者のプライバシーが当たり前のように制限される。 もっと自由にふるまえるようにすべきと思う。これでは出会いも少なく、 恋愛もしにくいだろうし、性の話もできない」。
こうした環境も影響してか、障害者の多くが自分の意志で行動することを苦手とし、 依存的な生き方になりがちであるというのが、谷口さんの考えだ。
「障害者が周囲の人から服装や髪形を決められ、 恋愛や性に対しても個人的規制や社会的制限を受けるならば、 人間が持つ本能までもが危険にさらされていることになる」。極論にも聞こえるが、 障害を持つというだけで、スキンシップなど性を表現する権利が阻まれるのであれば、 正論なのかもしれない。
が、谷口さんはこうも言う。「私に賛同する人と同じ数だけ反対する人がいるのも事実。 障害者を性に関心を示さない者として、『寝た子を起こすな』という親も多い。 だから障害者の性を語るのは難しい」。

「生殖と快楽、コミュニケーション。この三つの性に関する権利は、 障害をもつ人においても認められるべきこと」。このことはどうでしょうか。 わたしはその抑圧に教師として荷担していないだろうか、ということです。 そんなふうに自問自答して、はっきりそんなことはないと打ち消すことができないのです。 「寝た子を起こすな」とは思いません。しかし、 「生殖と快楽、コミュニケーション」を権利として認めているでしょうか。 わたしは「快楽」としての性を否定しようとは思いません。だから、 「イーハトーブへようこそ」でも述べたようにマスターベーションを「一人の性」として 肯定しています。しかし、「生殖とコミュニケーション」に関係する「二人の性」は、 どうでしょうか。「イーハトーブへようこそ」では、結婚を前提にしているのです。 なぜそうなのか?それは、安易に肯定したとき生じるかもしれない問題を恐れているからです。 自分が好きだとなると相手の思惑には関係なくつきまとったり、 性の欲求をコントロールできなくて軽犯罪的なことに及んだり、 ついそんな心配をしてしまうからです。杞憂でしょうか、しかし、 それらしい話を耳にすることもあるのです。だから、生徒を相手にしたとき、 どちらかというと保守的な無難な形で言い切ってしまうことが多いのです。 生徒に向き合う教師のそのへんが限界でしょうか。 そんなふうに言ってしまってはいけないのでしょう。 それは生の尊厳にかかわっているのですから。しかし、そのジレンマも深いのです。 その点を分かってもらえるでしょうか。もっと先進的なこころみのあることは知っています。 しかし、制度的に完備していない現在において、 どうすればそんなふうに言い切れるのか分かりません。

10月11日
(脳性マヒの池田)まり子さんは「養護学校時代の障害者の友人の多くが、 私のように恋愛を楽しみたかったと思う。すべてがそうではないと思うけれども、 両親や先生たちが恋愛や性に対して、ストップをかけているような雰囲気があった」 と当時を振り返る。
さらに、こう続けた。「私たちが性や恋愛に目覚めないように、 親や先生が抑圧していたような気がする。目覚めても先がない。 将来がない。恋愛なんかより、自分のことは自分でできるようにしろとでも言いたげだった。 そう言われると、みんなあきらめちゃうんです。発展がなく、新たな出会いもないのです」。

「親や先生が抑圧していた」といわれる教師のひとりで、わたしもあるのでしょうか。
しかし、教師として、「生殖と快楽、コミュニケーション。この三つの性に関する権利は、 障害をもつ人においても認められるべきこと」という信念を、 ストレートに実践するのはなかなか難しいのです。杞憂に縛られているからでしょうか。 卒業生を信じればいいのでしょうか。これらのことについて意見を聞かせてください。


2001.2.1
性はどんなふうに話題にするの?

養護学校の生徒が、日常生活の中で、性というものの位置づけをどうしているのか、 というのが分かりません。セックスというものが、むき出しで日常生活に顔をだしたら、 それこそたいへんなことになるので、人間は文化というものでカバーしてきたのでしょう。 しかし、その機微は成長の過程で知らないうちに身につけているようなのです。では、 その隠微なルールを理解できない養護学校の生徒はどうして、 それをマスターすることができるのでしょうか。
性教育を劇化した「イーハトーブへようこそ」に、つぎのような場面があります。

賢治先生と卒業生たちが、遊園地で「注文の多い料理店」に入って、 いろいろの注文を聞いているうちにおかしいことに気がつきます。

卒業生 おかしいな。賢治先生、おかしいですよ。
卒業生 ぼくもおかしいと思う。
卒業生 たくさんの注文というのは、向こうがこっちへ注文しているんだ。
卒業生 賢治先生、いったい、この料理店はなにをするところなんですか
賢治先生 やっと気がついたね。君達のいうとおり。こここはね、 料理店なんかじゃない。じつはね、ひとりのセックスをするところなんだよ
卒業生 ひとりのセックス?
賢治先生 そうだ。マスターベーションのルールを分かってもらうための料理店なんだ
卒業生 なんだ、そうか
卒業生 それで、ひとりのお方でも大歓迎って書いてあったんだ
卒業生 まだ書いてあるよ。「いろいろ注文が多くてうるさかったでしょう。 お気の毒でした。もうこれだけです。自分探検をお楽しみください。では、ごゆっくり。 ティッシュも週刊誌もあります。ただ、まちがっても、人には見られないように」
賢治先生 そうだな、「まちがっても人には見られないように」 というところが大切だな。セックスは楽しめばいいんだけれど、 人にみせるもんじゃないからね。ここを触ればこうなる、あれを見ればこんなになる、 ということを探検するんだ。何も悪いことはないんだよ。では、つぎに行こうか
卒業生 まだ、あるんですか

そして、つぎの部屋にすすんでいきます。

卒業生 「からかいの談話室」って書いてある
卒業生 また、看板があるよ。「ここでコーヒーでも飲みながら食後のお話しを おたのしみください。ワイ談もあります」
卒業生 ワイ談って何ですか
賢治先生 エッチな話だよ。では行こう
卒業生 えー、入るんですか
賢治先生 入るよ。なれるためにね
(扉を開けてはいる。何人かの人がいる)
やあ、賢治先生、お元気ですか。
賢治先生 元気ですよ
あいかわらずセロを、弾いてますか、百姓の人達を集めて
賢治先生 ああ、弾いています、一度来てください
 おなごをだかんと、セロを抱いて、どこがええのか
賢治先生 セロも抱き心地はいいですよ。
(生徒に向かって) こんなふうにからかいは無視するか、わらってすましてしまう
 きみたちも若いからがまんできないでしょう。どんなふうにしてるのかな
卒業生 えー、ぼくは……
賢治先生 まじめにかんがえんでいいよ。そんなことは知らないという顔をしてたらいい
卒業生 だまってるんですか
賢治先生 そうだ、人間は、普段は、セックスなんかしません、 という顔をしましょうというのが約束なんだ、では、出ようか
(みんな、外に出る)

この「セックスなんか知らないという顔」をしなければならない約束事、 それは文化といってもいいのでしょうか。そのあたりの機微を論じた本に、 橋爪大三郎の「性愛論」があります。そこから、「性愛の分離公理」の節を引用します。

「ワイセツという観念が成立するためには、一方でワイセツ視される側の社会関係 −具体的には性愛関係−、もう一方でワイセツ視する側の社会関係が、それぞれ成立し、 しかも互いの別個のものとして分離しているのでなければならない。 ワイセツ現象が人類に普遍的に見出されるのはなぜかというと、 人間社会において、このような分離が普遍的に生じているからなのです。 性愛関係−性愛行為によて形成される社会関係−は、たしかに人間社会の重要な一部分である。 ところがある段階から、性愛関係は、それ意外の社会関係から分離され、 それらによって囲繞されるようになった。」


イーハトーブの劇でも書きましたが、一方に厳然と性愛関係というものがあり、 他方にセックスなんか知らないよ という顔をする社会関係があります。それらは、はっきりと分けられていなければならないのですが、 その分離の構造からワイセツ罪という罪が派生してくるようなのです。もともと性にかかわるものは 猥褻でなどないはずなのですが、セックスなんかしらないという顔を決め込んだ社会にうかつにも 顔を出したりすると猥褻物陳列とかいうことで弾劾されるはめになってしまうのです。 でも、その分離がはっきりとはわかっていないものだってあるかもしれません。 その境界を越境してくるのが養護学校の生徒であれば、その行為はワイセツとは言えないように 思います。 まして罰するわけにはいきません。確信犯ではないからです。しかし、 その行為自体は「恥ずべきこと」として打擲されてもおかしくないし、 厳しく禁止されるに違いないのです。その辺りの機微ははっきりとわかってほしいのですが、 ほんとうにわかってもらうのはなかなかに難しいことのように思います。 性教育でももっとも教えにくい、話にのぼせにくいことではないでしょうか。
まだまだ考えが煮詰まっていないので、「この稿続く」としておきます。


2001.6.1
賢治先生のバーチャル授業「『性教育に人形劇を』LIVE」
−−未完の創作ノート−−

性教育は人形劇でやりたい、という気持ちがつねにあって、その一つの試みが 「イーハトーブへ、ようこそ」なのです。
しかし、「イーハトーブへ、ようこそ」は、上演するとなるとかなり大がかりであり、 また、高等養護の生徒たちにとってもすこしむずかしくもあるのです。 (一番進んでいるグループでやっと理解できる程度でしょうか。もうすこし削らないといけませんね。) そこで、もっと手軽に性教育を人形劇で やれないものかと考えてみました。
性教育の導入に人形劇を使って、内容は生徒の参加型で(理想は「しゃべり場」)、 というものです。 生徒の発言のない性教育など考えられないのではないでしょうか。 人形劇で引き込んで、しゃべり場をつくれないか、というのです。
以下は、その試みの創作ノートです。バーチャル授業が延々と続いてるので退屈かもしれませんが、 内容は筆者がこれまでやった性教育を考慮して、いかにもありそうなしゃべり場になっていればと 願っています。未完なので、読みづらいかもしれまでんが、 「真実は細部に宿る」ということわざもあります。 高等養護学校2年生を想定すると、実際の性教育はこんなものではないか、 という感じは出ていると思い、あえて「うずのしゅげ通信」に載せることにしました。

「性教育は人形劇で」

登場人物 賢治先生、生徒(男)、生徒(女)
(三人とも教師が人形を操り、セリフを言う。)
(人形は三体、棒串で胴体を支え二本の棒で手を操る三点人形。)

賢治先生 では、はじめに自己紹介しまーす。宮沢賢治です。 性教育だいすき先生です。よろすく。
生徒(男) 2年生5組のY(男性教師の姓)でーす。体育がとくいです。 とくに体力づくりがすきです。
生徒(女) Yくんとおなじ2年生5組のT(女性教師の姓)でーす。 わたしは音楽がすきです。
生徒(男) それで、きょうの性教育はなにをするんですか?
生徒(女) なにか歌でも歌いませんか?
賢治先生 これこれ、歌は音楽の時間にきまってる。きょうはね、 1年生のときにやった性教育の復習からはじめよう。
生徒(男) 1年のとき何したかな?わすれちゃったぜ。
生徒(女) なさけないわね。おふろの入り方とかやったでしょう。わすれたの……。
賢治先生 よく覚えていたね。そうです、おふろの入り方の勉強をしました。 おぼえているかな?入る前にどうするのかな?
生徒(男) お湯をかぶります。そして、あそこをきれいに洗います。
賢治先生 ちゃんとおぼえてるやないか。
生徒(女) お湯の中に、○○○をいれてはいないのよね。
生徒(男) その○○○というのは何?
賢治先生 みんなにきいてみようか?お湯の中に○○○をいれてはいけません。 はい、この○○○は、なにかな?
(これは、タオルという答がすぐに出てきました。)
賢治先生 ピン、ポーン、はい、そのとおり、タオルですね。 ちゃんとまもっているかな。(「まもってません。」という合いの手が入る。) タオルをいれてないかな。
(アドリブで「せっかく勉強したのにあかんやないか。」と入れると、 「すいません。」という返事が返ってきて、笑いが起こる。)
生徒(女) それから、からだのいろんなところの名前も勉強したわ。
生徒(男) そうそうそうでしたね。ひざとかひじとか、 それから何やったかな……いろいろやりましたね。
賢治先生 よく覚えているね。では、みんなに聞いてみよう。 ひざというのはどこかな?
(これは、すぐ正解がでた。)
 そうそう、では、ひじというのは、どこかな?
(これも、「ここ」ということで正解。)  そうです。よく覚えていました。
生徒(男) はい、はい、もうすこしはずかしいことも勉強しましたね。
生徒(女) はずかしいことって何?
生徒(男) からだがだんだん男らしくなってくるとか、 女らしくなってくるとか……。
賢治先生 そうだよね。1年生で勉強したように、小学校の上級学年になってくると、 男の子は男の子らしく、女の子は女の子らしくなってきますね。
生徒(男) それそれ……。ウーフッフー。
賢治先生 どうなったのかな?
生徒(男) 女の子はー、オッパイがふくれてくる。
賢治先生 そのとおり。おぼえてるかな。
生徒(女) いやらしいー。
賢治先生 なーんもいやらしくないぞ。
生徒(女) 男の子は毛がはえてくるんでしょう。
生徒(男) はずかしい。
賢治先生 なにもはずかしくないぞ。
生徒(男) ひげもはえてくる。
賢治先生 こんなふうに、男の子は男らしく、女の子は女らしくなってくるのは、 なんていうんだったかな?
 みんなに聞いてみようか?
(三人の手が挙がる。eくんに当てると「男の子は女の子はちがう。」という答え。 「ちがうんやで、男の子は男の子らしく、女の子は女の子らしくなることや。 むずかしいことばやで。」とヒントを与える。「知ってます。」ということで、 dくんを指名。「女性ホルモンと男性ホルモンです。」という答え。 思わず「ずっこけそうやね。」と応じてしまう。こんどは女の子が手を挙げる。 「女の子は腋とこらへんに毛がはえてくる。」という答え。 最後に語彙が豊富なiくんを当てる。しかし「成長期です。」という答え。 人形たち、「ありゃりゃ。」とずっこけること頻り。あきらめて、 「2年生5組のYくんに聞いてみよう。」と人形を操っている教師を指名する。)
生徒(男) それはね、第二次性徴っていうんだよ。覚えといてね。
賢治先生 そうです、第二次性徴っていうんだね。覚えてませんか?
 そうなってくると、はずかしいから、更衣も別々になってくるな。
生徒(男) のぞいたりすると、警察につかまっちゃうぞ。
生徒(女) そうよ。のぞいたりしちゃあだめよ。だめ、だめ。
生徒(男) だれがのぞくもんか。へーだ。
賢治先生 体はひみつにしないといけないんだよ。 まさか風呂に親といっしょにはいってないよね?(dくんが「たまには入ってます。」 という声。生徒の「おー」という驚きの声、教師は「おい、おい」と応じるしかないが……。) 風呂からでたとき、すっぱだかでへやを歩いてないかな……。 (これには、dくんも「歩いてません。」という返事。)
 これも聞いてみようか?お父さんやお母さんといっしょにふろに入っている人は dくんの他にいませんか?たまに入ってるのはdくんだけや。よかった、よかった。 そんな人たくさんいたらどうしようかと思ってた。高校生やろ……。
 では、風呂からでたらはだかで歩いている人はいませんか?よかった、 これもいなくてよかった。
 毛がはえてきたら、体をみせてはいけないんだよ。 体のことはひ・み・つにしないといけないんだ。
生徒(男) はい、はい、先生、体のことはなぜひみつにしないといけないんですか?
賢治先生 そうだね。それはね、体の大切なところは自分だけのもので、 人に見せるものじゃないからだよ。だからはずかしのかもしれないね。
 体のことをひみつにするって、とってもたいせつなことなんだよ。
生徒(男) でも、おとうさんが、家族でかくすのはよくないっていってましたよ。
生徒(女) うちでもそうよ。好きな人ができたら、ちゃんと言いなさいって……。 隠したらいけないって……。
賢治先生 それはわかるけどね、でも、ひみつってとってもだいじなことなんだよ。
 からだのひみつが大切な年頃になると、だんだんとじぶんのひみつをもつって いうこともとても大切になってくるんだよ。
 じぶんのはだかをみせてはいけない年頃になったら、じぶんのこころのひみつも大切に しなくてはいけないんだよ。お母さんやお父さんにこころのひみつを大切にしてって言っても いいんだよ。更衣をのぞいてはいけないように、こころのひみつものぞいてはいけないんだよ。
 君たちはお父さんや、お母さんに秘密をもっているかな?お父さんやお母さんに 見られたらまずいひみつが あるかな。ひみつがあってもいいんだよ。 高校生ならひみつがあってもあたりまえなんだよ。
 もっともっとひみつをもとうよ。
生徒(男) どんな秘密をもつんですか?
生徒(女) わたしは、秘密もってるわー。
生徒(男) えー、どんな秘密、教えて、ねえ、教えて……。
生徒(女) そんなの教えられないわよ。秘密なんだもの。
生徒(男) けちー、ぼくにだけないしょで教えてくれたっていいのに。
賢治先生 じゃあ、すこしだけ教えてよ。君はその秘密をどこにかくしているの?
生徒(女) わたしにはつくえに秘密のひきだしがあるんです。
生徒(男) ふーん、つくえのひきだしか……だいじょうぶかな? それで、親にはみられない?
生徒(女) お母さんにぜったいに見ないでねって約束しているの。だいじょうぶよ。
賢治先生 それは、うまいこと考えたな。お母さんにばればれではこまるからね。 ひみつのひきだしをつくって、お父さんやお母さんにぜったいに見てはだめと 、約束してもらうっていうのはいいな。
生徒(男) それがいいかも……。でも、約束をやぶって見ないかな?
賢治先生 だいじょうぶ。更衣をのぞかないという約束があるように、 ひみつのひきだしものぞかないって約束したら、それをまもってくれると思うよ。 秘密を持たないと、わたしはいつまでも子どものままになってしまいますっていうんだよ。 秘密のひきだしをつくって、ぜったいみてはだめと宣言しましょう。
生徒(男) まだよくわからないな。ぼくはそのひみつのひきだしに 何を入れたらいいのかなー。
賢治先生 よし、じゃあ、どんなものが秘密のひきだしにかくされているのか 分かってほしいので、ちょっとタイムマシーンで昔に還って、高校生のころの Y先生の秘密の箱とT先生の秘密の箱をとくべつに見せてもらいましょう。 みなさん見たいですか?(「見たいです」という答えが返ってくる。) 見たいですか。何が出てくるか、楽しみだな。
 では、ひとつクイズにして、箱の中にどんなものがかくされているのか、 みんなであててみましょう。
では、これで人形劇は一応終わりということで、拍手……。
(と、拍手を催促して劇を打ち切る。)

ここからは劇を受けての話し合いの創作ノートになります。よほど興味のある方は、 最後まで付き合ってみてください。かなり長いのでうんざりされそうですが、 どんなしゃべり場ができているか、雰囲気だけはじゅうぶん分かると思います。
(Tは教師の発言)

T「君らひみつの箱ってもってる?」
a「さあ、何のひみつ?」
d「たからものということですか?」
T「いやいや、ひみつのひきだしってある?お父さんやお母さんに 見られたらぜったいまずいものって……、まず見られたらまずいものってある?」
T「見られたくないなーっていうもの。」
a「みられたくないものやったらな、アメ、アメとか……」
b「えっ、アメ?」
T「女の子だけやな。」
T「あるよな。cさん、見られたくないものあるよな。hさんもあるよな。」
c「はい。」
T「男の子はないの?dくん、ありそうやな。eくんは、何かひみつのものない?」
e「ひみつのもんてないです。」
T「ないですか。」
d「おれ、ある。ひみついっぱいある。」
T「fくん、ひみつは?」
f「あんまりないです。」
T「あんまりない。そうか。ひみつなかったらこまるな。」
T「gくん、何かひみつのものある?お母ちゃんに見られたらまずいもの?」
g「いや、あんまりひみつない。」
T「ないの。jくんは?」
j「ちょっとある。なんかのパンフレット。」
T「パンフレット?ふーん、意外とひみつ持ってないんやな。」
g「みられたらまずい。」
T「hさんは、ひみつがあるって言ってたな。それは何?」
h「熊のぬいぐるみ」
T「それは大事にしているもんやな。何かひみつのものはないの?」
T「cさんは、ありそうやな。」
c「オーディションの申込書。」
T「それは、みられたらまずいな。」
T「dくんは、ひみつだらけいう気がするけどな。」
d「モーむすのファンクラブの会員権。」
T「お母さんは、そのことは知らなかったの?」
T「お母さんは、入るまで知らなかった。」
T「なるほど、みんなそういうこと考えてるのか。ひみつってそういうことかな。」  (こんなたわいもない話も多かったのです。)
T「高校生になったらひみつって持ってもええねんで。iくんはひみつないか?あんまり……。」
i「あんまりありません。」
T「お母さんみんな知ってはる?iくんがこんな持ってるってみんな知ってはる?」
i「ひみつなもの、はずかしいものはとくに持っていません。」
T「ふーん、すごいな。よし、それならね、Y先生はぜったいにいろんなものをもってはるで。 Y先生がね、高校時代にひみつのひきだしにもっていたものは何でしょうか? クイズで当ててもらいましょう。」
d「ビーダマ」
a「ヒントを言ってください。」
d「ビデオ」
T「うーん、残念やな。先生の時はね、今みたいなビデオというものがなかった。」 a「はい、はい、はい、絵の具」
T「絵の具なんか秘密にしてどうすんのや?」
T「お母さんに見られたらまずいかなーというものや。」
d「わかった。」
T「はい、dくん。」
d「0点のテストの答案。」(大笑い)
T「あのな、それもあってんけどな……。それもあった。」
a「先生、ヒント、ちょっとたけでも……。」
T「もうちょっと聞いてからにしよう。iくん。」
i「本です。」
T「本でもいろいろあるやろ。本、50%あたっています。」
T「本でもお母さんに見られたらまずいという本はどんな本でしょう。」
a「マンガの本。」
T「マンガの本か。dくん。」
d「エロ本」
T「はい、そうやな。あたりです。ピンポン。」
a「正解は?」
T「正解は、見られたらはずかしいけど、と言うたやろ。 はずかしいものがひみつになるんです。そういう本です。それがここに入っています。 見たいですか?」
T「見たいですって言わないと……。」
d「見たいです。」
j「なんか、見たいですっていってますけど……。」
T「見ると元気になっても困るからな。」
a「やめようぜ。」とか、いろいろの声があがる。
T「男の子はそういう本を見たことはありませんか?ある人?」
a「シーン」
(dくんが手を挙げる。)
T「dくんは、あるの?どこにあったん?」
d「小学校のときに落ちていたエロ本がありました。」
T「ああ、あの道とかに、捨ててるやつがあるわな。そうか。」
d「拾ったエロ本とかを家に持って帰って、お母さんに見つかったらまずいと思って 犬小屋の中に入れたんです。」
T「犬小屋?」(と、大笑い。)
T「やった。なかなかいいアイデアや、それはひきだしより見つからへんわ。」
T「そういえば、立ち読みもしてるというてたな。」
T「せやけど、エロ本を拾うのはやめたほうがええ。衛生的に悪い。汚い。 ちゃんと金だして買え。金だして買うてこっそりと持って帰れ。」
T「男子で、裸の写真……、このごろはマンガの本でも水着の写真とかのってるわな。 そんなの見ない?」
T「iくん、その笑いはどういう笑い?興味あるっている笑い?」
「笑っていません。」
T「いまなんか笑ってたよ。にやっと……。」
T「まずいなって思ったやろ。」
T「dくんは正直言うてるけどさ、iくんはそういう女の人の裸の水着の写真とかに興味ない?」
i「興味ありません。」
T「ほんま?言い切る?」
T「見たいと思わへん?」
i「別に思いません。」
T「ちょっとくらい思わへん?ちらっとみてみたいかなとか。」
i「どうすればいいか分かりません。そこまではわかりません。どうすればいいか。」
T「本屋さんでそういう本を見たことない?」
i「ありません。」
T「女の子に興味ないの?はだかとかじゃなくて。」
i「ふつうです。どうしたらいいか分からない。」
c「友だちがめっちゃ顔を赤くしてじーと本を見てた。」
T「それを横で見てた。」
c「べつに見てませんけど……。」
T「いやいや、姿を見てた?」
c「なんか、いやらしそう。」
T「表情でわかってんな。」
c「なんか、にやにやしてたから、そんな本を見てんねんなと分かってんな。」
T「それいつごろ?」
c「中学校。」
T「中学校?だれか学校に持ってきやはったんか?学校に?」
c「はい。」
T「大胆やな。いまはそうかもわからんな。」
c「男の子がにやにやしていました。」
T「ほかの男子は?そんな本は見たことありませんか?」
T「aくんは?」
a「なし。とくになし。」
T「iくんは?」
i「見ていません。」
a「ありません。」
i「見ていません。」
T「高校生ぐらいになったら、そんなん、見てええねんで。」
a「だめ。」
T「うーん、人の見ているところではあかんけどな。見たって悪いということはないねんで。 そういう話をいましてるねんけど……。」
T「いまでは、本屋さんとかコンビニとかで売ってはるやろ。」
a「売店でも……。」
T「うん、売店とかでも売ってはるやろ。あれは見るために売ってはねや。 だめなもんやったら売られへん。見てはだめということはありません。 君らくらいのとしなら興味があってもいいねん。あんな本見たいなとか……。 そういう気持ちがあっていいねんで。これはダメですって、思ってしまったらダメ。 もうそろそろこんな本を見たいなって思うようになってもええねんで。」
i「そういうのはちょっと興味ないんです。」
a「ぼくも。」
T「そう、興味ないときはまだ見なくてもいいけど、興味出てきたら、 これはダメなことじゃないから、みてもええねんで。」
a「きょうみありません。」
T「いやあ、これからでるかもわからん。」
a「ぜんぜん。」
T「さみしいな。」
T「さみしいで。」
T「Y先生な。きょうはもってこられなかったけど、ほんとうはこのくらい 女の子から来たラブレターひきだしに隠してあってん。」
d「いやらしい。」
T「なにがいやらしいねん。ラブレターっていやらしい?」
a「いやらしくない。」
d「ラブレターは、ほんまは、ひとりで付き合う……。」
T「付き合うとか、手紙に書いてお話するねんな。」
T「ラブレターっていやらしいというのはちょと変やで。 でもラブレターをもらったとき、お父さんやお母さんに見せますか?」
c「いいえ。見せない。」
T「見せないよね。あまり見られたくないよな。だから、 先生は見られないように机のひきだしに入れていました。先生のときは、 机に鍵をかけていました。そういうのがひみつやな。いやらしくないけど、 お父さんやお母さんに見られたくないなというのがひみつやな。」
T「好きになった人に手紙を書くのはなにもいやらしいことないよ。 好きになった人にぼくはあなたが好きですって、まじめに、ものすごくまじめに、 一生で一回くらいものすごくまじめに手紙を書くんやからぜんぜんいやらしくないで。 わかります。それにしても、ラブレターを書くような相手を捜さんなあかんで、 いっしょうけんめいな。」
授業はまだまだ続くのですが、きりがないのでこれくらいにしておきましょう。
今後の展開としては、ひみつということから、男子の場合はマスターベーションに 繋げていく道筋も考えられるし、また恋愛のひみつというところに行くこともできそうです。 あるいは、親にも言えない秘密を打ち明けられるのは友だちだけということで友情論にまで 話は及ぶかもしれません。
さらに付言しておく必要があるのは、このあたりの考え方は、山本直英氏の著作に ヒントを得ているということです。(「私とあなたの「からだ」読本」明石書店)
山本氏はその中でつぎのように書いておられます。
「自慰によって「性はプライバシー」ということが身につきます。 (中略)人間はだれにも「秘密な世界」があっていいし、大人になることは、 自己の秘密をいっぱいもつことなのです。自慰で実感してください。」
ここでは、体の性とこころのひみつが平行に発達してゆき、 やがて自慰にいたる道筋が示されているわけですが、高等養護の生徒たちには、 ことはそう単純ではないようです。おそらくは体の発達の方が先行しているようです。 だから、より詳細な段階をおって、何がひみつであり、それをいかにひみつにするか、 あるいはセックスもまたそのひみつに関係していて、と段階を追って、 肯定的な雰囲気で話し合っていかなければならない、そんなふうに思うのです。
性情報が制限されている(吸収しにくい)生徒たちには、ひみつを認める一方で、 そんなふうに性を肯定していかないと、性衝動がゆがんだり、 はずかしさがともなわなかったり、欲望の解消さえできないという困った 事態になりかねない、そんな危惧さえ抱いてしまうのです。

生徒たちが人形に興味を示していたので、この時間の最後に、 人形を使いながら性教育の感想を言ってもらうことにした。
最初の3人(これは、すべて生徒のアドリブです。)
i「aくん、性教育のこと勉強習ってどう思った?」(これ、教師のことばのようですが、 iくんが発したものです。)
a「うん、よかった。」
i「それぞれによってちがうだろうな。cさんは?」
(聞こえない。)
i「そうか、じつはぜんぜん分からないんだ、ぼくにも。」
a「わからんかもしれん。」
i「じゃあ、aくんは、たとえば、いろんなこととか色々興味ある?」
a「うん、ちょっとは興味ある。」
i「おれもないわ。おれはちょっと普通だけど。」
a「やっぱりぼくも普通です。」
i「そうか。」
c「うちも、ふつう。」
i「そうかな、いまの時期はそんなこと多いよな。」
a「そうかもしれねえぜ。」
i「むずかしいよな。」
a「これ、常識でしょう。」
i「いずれ歳になったら分かってくるでしょう。」
a「とうぜん分かってくるわいな。」

次の3人
d「何でもいいですか?おれは性教育好きだ。」
T「今日の授業はどうでしたか?」(教師が客席から声をかけました。)
j「今日の授業はまずまずでした。」
d「みんな性教育どうやった?」
T「答えたらんな。」
h「性教育は楽しかった。」
d「楽しかったけど、でも好きな人いたっていいんちゃう?」
j「うん、いいんちゃう。」
d「性教育っていうのはたいへんやねんぞ。」

最後の3人(女子はそのまま)
T「何か言いや。」(リーダーがいないので、教師が観客席から声をかけました。)
e「もう、名前は分かってる?」
T「何か言いや。きょうの性教育はどうでしたか?」
e「今日の性教育は人形劇がちょっとおもしろかったです。」
T「はい、はい、そう。それだけか、fくんも何か言いや」
e「性教育は人形劇がおもしろい。」
T「おんなじこといわんと、何か違うこといいよ。」
e「1年のときのビデオがおもしろい。」
T「ビデオの何がおもしろい?水着のやつか?」
e「水着をみたい。」
T「ほんまに?」
「………」
T「じゃあ、終わりの挨拶をしようか?」
h「これで、性教育の人形劇を終わります。礼。」(拍手)
T「はい、そこに置いといて。アドリブにしてはみんな上手やったな。」
a「思いついた、思いついた。」と出てきて、再び人形をもって、 a「本日はすごかったですね。OK、OK、全員今日はすごかったです。 今日の授業はどうでしたか?またいつかのお楽しみに……。ありがとうございました。」
a「はい、おわり。」とaくんが締めくくってくれたのでした。
T「そしたらな、せっかく人形を作ったので、また、つぎにね、 何か人形に言わしたらちょっと自分が恥ずかしいことでも言えるということがあるやろ。 そんなんまた一回やってみようかなと思います。2学期も楽しみにしておいてください。」
「キンコンカンコン、キンコンカンコン」(チャイムの音)

これで、賢治先生のバーチャル授業「性教育は人形劇でLIVE」は、おしまいです。
真実は細部に宿るということを信じて、とにかく詳細にしゃべり場を構成して見ましたが、 最後のあたりになると発言が混乱してきました。未完の所以です。 生徒たちの発言はある程度リアルにできていると思います。では、人形劇のレベルは、 はたして適切であったのかどうか。発達の観点から性教育を一度考え直してみる必要を感じています。 そんなことを含めて、 ご意見をお聞きしたいものです。

2001.7.1
近代家族というのは、障害者に性を許さない装置?
(ぜひ語尾上げ口調で言ってみてください。)

「上野千鶴子が文学を社会学する」(朝日新聞社)を読みました。 十数編の評論を集めてあるのですが、その中に佐江衆一「黄落」有吉佐和子「恍惚の人」を論じた「老人介護文学の誕生」という一編があります。 病身の老父を抱えるわたしとしては、「老人介護文学」という身につまされる表題だったので、 興味深く読み進むうちに、つぎの一節にぶつかって、考え込んでしまったのです。
「キンゼイ研究所の元所長、ポール・ベブハートは、近代社会では三つのカテゴリーの人々、 子ども、高齢者、障害者が性から排除されるという。七〇年代からの四半世紀は、 この三種類の人々が性的な存在であることを認知されるに至った時期だった。」
「黄落」の中に、「主人公の九十四歳もの父が人生の最後に心をときめかす八十の老婆に出合い、 目も耳も不自由な躯で嬉々として会いに行こうとしている。」のに対して、主人公の息子は、 それを止める。そのことに対して、「これがあかの他人だったら、 とわたしは考えないでいられない。」と上野氏は言うのです。
「もしわたしが施設の職員やボランティアだったら、見知らぬ九十四歳の老人のときめきを 応援してあげようと、動いたかもしれない。他人なら寛大になれることでも、 家族だから許せないこともある。近代家族とは、親が子に、子が親に、 性的な存在であることを許さない装置でもある。人生の最後に、 親が親であることから解放してあげるためには、他人の手が入ることもまたよしとしなければ ならない。」と。
ここでわたしが、どこに触発されたかというと、近代社会では、 「障害者が性から排除」されてきた、ということ。また、「近代家族は、親が子に、子が親に、 性的な存在であることを許さない装置でもある。」というところなのです。
障害者はたしかに性から排除されてきたように思います。それは高等養護学校の卒業生の 実態からもあきらかです。そして、そのことに家族が手を貸してきたのではないか、 ということなのです。親が障害をもった子どもを性的な存在であると認めようとしないで きたのではないでしょうか。たしかに、そんな気もするのです。
「ウチの子はオクテなので、まだまだ……」とか、高校の年齢になってもたまにではあるが まだ母親といっしょに風呂に入っていたりとか、そんなことを聞くに付けても、 これは、過保護、無頓着、客観視できていない、といったことではすまされない問題を はらんでいます。単に無知というよりも、むしろ「性的な存在であることを許さない」、 あるいは「認めたくない」といったこころの傾きが隠されていると考えた方がよさそうな 気がするのです。
そんなふうに家族、家庭が障害をもった子どもの性的な萌芽を排除しているとすれば、 それでもなおハンディーをもった子どもは、自力で、性的な存在として成長していける のでしょうか。性的な存在であることを認めないという無言の雰囲気が家庭の中にあるとして、 それでもなお、性的にゆがまないでいけるのでしょうか。
家族から拒否されたとしても、友だちからの情報で性的な欲求をひそかに育てることが できるものならまだしも、知的なハンディーをもった子どもに、それができるとは思えません。
そこで、「(障害のある子どもを)解放してあげるためには、 他人の手が入ることもまたよしとしなければならない。」ということになるのでしょうか。 そこでは、学校の役割、教師の役割がクローズアップされてくるはずなのです。 家族の中に性を否定する雰囲気があるとすれば、教師ががんばるしかないのではないでしょうか。 学校の性教育で、生徒に「性的な存在であってもいいんだよ。」と肯定することが、 とても必要なことのように思うのです。生徒たちに将来保証されているセックスのかたちが、 セックス本来のふたりのセックスではなく、ひとりのセックスであったとしても、 人間は性的な存在であるということは十分に肯定される必要があるように思うのです。
それが、「イーハトーブへ、ようこそ」を書いた理由なのです。宮沢賢治はきっと、 ハンディーをもった子どもたちもまた性的な存在であることを認めるだろうと、 それどころか大肯定するだろうと確信するのです。
しかし、だからといって親を、あるいは家族を攻めているのではありません。 「近代家族は、親が障害を持った子に性的な存在であることを許さない装置」、 こんなふうに言うときつい表現に聞こえるかもしれませんが、 その表現では言い尽くせない家族の悲しみというものを感じ取ることも大切だと思います。 性的な成長を願わない親が、あるいは家族がいるはずはないのです。 それをあえて許さないとつい考えざるをえない悲しみ……。
(このあたりの議論は「うずのしゅげ通信」のそこかしこでも触れています。 バックナンバーを参照してください。)


2001.8.1
あかちゃんはおしりから生まれてくるの?

 高等部1年の性教育の時間に「あかちゃんはどこから生まれてくるのか?」 と聞いたことがありました。生徒たちの幾人かが「おしりの穴から」と答えました。
中学、高校と性教育を受けてきたはずの十五、六歳の生徒にして この答かと、かなしくて残念な気がしたのでした。
 せめて、あかちゃんがどこから生まれてくるのか、くらいは正しい認識がほしいと思います。
それで、あるグループにつぎのような性教育をしました。 担当者で打ち合わせをしたときの要項を載せておきます。

「人間の体の構造の話をして、あかちゃんがおしりの穴から生まれるわけがない、 ということを理解してもらおうというのです。
外部から見える体の部位の名称については、1年生のときに学んでいます。
今回はそれに引き続いて、目には見えない体の内部の構造を学びます。 (3年生の理科の授業では、内臓について学ぶ単元もあるのですが、 大切なことはなんど勉強してもいいはずです。)
教師の一人が紙のエプロンをつけて、そこに他の教師か、 あるいは生徒が、いろいろな内臓を張り付けていく、という趣向を考えました。
外から見ることができない体の内部の構造はつぎのように説明します。
口から肛門にいたるうんちのパイプ→うんちが出る道
(ウンチの旅の説明、うんち製造器としての人間)
膀胱のふくろからおしっこ→おしっこが出る道
(おしっこができる仕組みの説明、おしっこ製造器としての人間)
男の子は上のふたつの道(穴)しかありません。
女の子には、
セックスとあかちゃんのふくろがあります。→セックスとあかちゃんが生まれる道
(セックスをして、あかちゃんを育て、生む人間)
あかちゃんはこのふくろの中でどうしているのか?
生まれてくるのは、お母さんも赤ちゃんもしんどいぞー。
ここで、出産のビデオを見る。
教師が、自分の子どもが生まれてきたときの気持ち、母親の様子などの話をする。
生徒が親から聞いてきたあかちゃんのときの様子について発表をする。」
以上が計画していた授業の流れでした。
さて、実際にやってみて、だいたいは授業案のとおり進んだのですが、最後のあたり、 親に誕生のころの話を聞いてきて、発表するというところで、ハップニングがありました。 予想外のつぎのような発言がぽんぽんと飛び出てきたのです。
A(男)「お母さんのお腹から1カ月もはやく生まれた。体重2200gくらいで生まれてきた。 ミルクはあんまり飲まなくて、心臓が悪くて、あんまり泣かなくて、 1週間目で呼吸がとまりかけて、救急車で病院に行って、 1カ月ほど保育器にはいって元気になった。」
B(女)「股関節脱臼になりかかって、ことばが妹より遅かった。 妹よりほ乳瓶を離すのが遅かった。」
C(女)「わたしは、お母さんが大阪で働いているときに、途中で流産しかけて、 会社やめた。人見知りとかはあまりせずに笑ってばかりいて、 ……はじめは牛乳飲んでたけど、あとになって飲まなくなった。1カ月遅れて生まれた。」
D(女)「大阪の病院でうまれたけど、1カ月早く生まれた。 お母さんのお腹から出てきたとき、なかなか泣かなかった。 なんか破水したまま病院に運ばれて、赤ちゃんが生まれた。保育器にはいっていて、 体重が増えてなかって、ほんで、保育園のときはことばの発達があんまりはやくなくって、 小学校のときもあんまり早くなかった。」
ちょっと面食らってしまいました。
親がそのように包み隠さずに話しをし、生徒たちはそれをどのように 受容しているのでしょうか。とっさのことで、 私は十分に受けとめることができませんでした。
結局はあまり拘ることをせずに、そのまま聞き流したのですが、 他にどんなふうな受け答えのすべがあったのか。どう受けるべきだったのでしょうか。
あとで、反省会でその話を持ち出したのですが、 「それは性教育でやる内容かな?」といった意見がでたりして、 もちろん結論はでませんでした。しかし、あらためて「性教育」は障害者の人権に即 つながっていることを 痛感させられたのでした。というより、性教育は、人権についての教育そのもののような 気がしています。それは、教師としては、障害者としての人権、 アイデンティティーをどう保障してしていくのかという問題にも関係しています。 生徒たちが自分たちの「障害」をどうとらえているか、 ということ、あるいはどうとらえるべきか、ということは 教師として考えておかなければならないことではないかと、 そんなふうな反省をせまられたのでした。
高等養護学校にとって、自分たちの障害をどうとらえるかという、 この問題はかなり本質的な部分に触れているように思われます。 山田洋次監督の「学校U」にもありましたが、 高等養護学校に進学してくる生徒の中には、 なぜ自分が養護学校にこなければならなかったのか納得できないまま入学してくるものもいるのです。 とくに、中学校で普通学級にいた生徒の場合に意にそわない進学というのがたまにあります。 その悩みは、養護学校の生徒としては能力の高い生徒が持たざるをえない悩みであるようなのです。 中には3年間、悩み抜いて不適応をおこすものさえいるほどなのです。 しかし、そんな悩みとは無縁な生徒にとっても、今回の性教育ではからずも露呈したように、 普段は埋もれているけれども、いつ噴き出してくるかわからない本質的な 問題であることがわかります。 教師として、これは考えておかなければならない重要な問題であると思うのです。
どういうふうにすれば生徒とともに考え、ともに話し合って現実と 折り合いをつけていけるのでしょうか? 考えあぐねています。 ご意見をお聞かせください。
緊急
ええ、どうして……?、というニュースが今日の夕刊に。
ニュースステーションでも報じていました。
朝日新聞7月31日夕刊より
「「つくる会」教科書で都教委、一部養護学校で使用へ
「新しい教科書をつくる会」主導の歴史、公民の教科書(いずれも扶桑社発行)を、 東京都教育委員会が都立養護学校など一部で使うよう 事実上決定していたことが31日分かった。(中略) 扶桑社の教科書は中学校用で、採択の権限は主に市区町村の教育委員会にあるが、 都道府県立の盲・ろう・養護学校の中学部に限っては都道府県教委が決める。 東京都の場合、養護学校の3部門(知的障害、肢体不自由、病弱児)と盲、 ろうの各学校ごとに教科書を選ぶ。都立の養護、盲、ろう学校は56校2分校ある。 関係者によると、都教委は26日に開いた非公開の定例会で、 6人の教育委員が無記名投票で教科書を選んだ。一部の養護学校で使い歴史と公民で 扶桑社版を推す意見が多数を占めた。扶桑社と他社を推す意見が同数となった部門もあり、 8月初旬の臨時会で再協議することになた。都教委は採択期限日の8月15日までに正式決定し、 公表する見通し。(後略)」
これは、どういうことなのでしょうか?なぜ、養護学校が、扶桑社の教科書なんでしょうか? 納得できませんね。これからどうなるかわからないので、とりあえず事実だけにしておきますが、 注意深く経過を見ていく必要があると思います。
このことについても、ご意見をお聞かせください。

2002.4.1
性教育はこころの教育?

性はどのようにこころの問題と関わっているのでしょうか? わたしが勤務している高等養護学校で性教育をしつつそんなことを考えてしまいました。
以前、この欄で、山本直英氏の著書を引用しつつ秘密を持つことの大切さに 触れたことがあります。山本氏は自慰の効用として次のようなことを書いておられます。
「自慰によって『性はプライバシー』ということが身につきます。 (中略)人間はだれにも『秘密な世界』があっていいし、大人になることは、 自己の秘密をいっぱいもつことなのです。」
「自慰は親からの乳離れを進める行為です。(中略)自慰は親に対して 初めて持つ秘密ですから、親の干渉から脱出する気持ちを育ててくれます。 自分だけの時間と空間が多くなることが、自立した大人になるためには必要なのです。」
 たしかにわたしの勤務する高等養護学校では、意識的な自慰がなされていないためか、 十全に秘密を持ちえていないものがかなりいるように思われます。そのことがあってか、 いつまでも大人になりきれない、そんな雰囲気を感じるのです。 教師に何かと訴えにくる(いやな表現ですが、「ちくりにくる」)ものがいます。 高校生の常識としてあるはずの嫌悪されるものとしての「ちくり」の重大さを 十分に感じていないようなのです。そんなことは秘密としてもっていてもいいのに、 といったようなことまで訴えてくるのです。これは考えものだと思われます。 そしてこの性癖はいつまでも大人になれないという問題に直結しているように思われます。
日頃からそんなふうなことを感じていて、性よって育まれる秘密の抽斗といったものが 大人になっていくのに本当に大切なのだと考えるようになったのです。 それで、性教育でもこころの問題を、できるだけ単純な分かりやすいかたちで 取り扱えるようにと、以前にハート形のこころを作って、それをネタにして 性教育を試みたことがあるのです。ハート形の真ん中に一部切り込んだ 円盤を回転できるように取り付けて、それを回すと切り込みから「すき」、 「きらい」、「友だち」という文字が現れるような小道具を作ってみたのです。
そのときは、こんなふうでした。まずはじめにこころは目には見えないが、 どこにあると考えるか、あると思うところに、洗濯ばさみで、ハート形を付けてもらいました。 一人は腹に、他のものはみんな胸につけました。腹につけたものは、 その前に子宮の話などしていたので、何か勘違いしたのかもしれません。
そして、次に成長の話を受けて、乳幼児のころは親にたいして「すき」、 それ以外は「きらい」という二項しかなかったのが、幼稚園にいくころから、 「すき」、「きらい」以外に「友だち」という第三項が生まれてくる。 (この第三項を入れてくるというのが重要なのですね。)これによって、 画期的にこころの成長が図られることになります。さらに分節かが進みます。 おなじ「すき」でもいろんな「すき」が分化してきたり、 おなじ「きらい」でもいろんな「きらい」のニュアンスがあるということに気がつきます。 そんなふうなこころの成長の話をしたのです。
そして、いまはハート形でこころを目に見えるようにしているが、 ほんとうはこころは目に見えないのだから、他人にすべて話す必要はないことにも触れました。 たとえば、性にかからわること、初潮や精通のことなど、こころの中にしまっておいても いいということなどです。山本直英が言われるように秘密の部屋をもつことは、 おとなになるために必要なのですから。生徒たちにも「秘密をもってもいいんだよ」 とどこかで言っておきたかったのです。
そんな話をした上で、生徒たちがもっとも関心を持っている男女の問題に切り込んでいったのです。 自分が相手に「すきすき」サインをだし、相手もこちらに「すきすき」サインを出してきたとき、 「恋愛」が成り立ち、こちらが「すきすき」サインを出しているのに相手が「きらい」サインや、 「友だち」サインを出していれば「片思い」ということになります。
はなしは簡単に見えるのですが、こころは目には見えないため、 その「すきすき」サインを見分けるのが難しいということにも触れたのです。 でも、女生徒は分かるというのです。男の子の態度や目を見たらわかると言い切ったのでした。 男子の生徒の中には、いま付き合っている相手は、「ぼくが「すきすき」サインを出しているのに、 どうもこのごろは「友だち」サインを返してくる」とまで打ち明けました。 「なぜ?」と質問を返すと、「他にも友だちがいるからかな?」といった返事でした。
そのあとは、たとえば、片思いの話、「すきすき」サインを誤解した場合のトラブルについても 触れたのでした。
また社会にでたとき、きらいサインは出しにくいので、友だちサインを出してくる場合があり、 それを誤解してはいけないことなどにも触れたのでした。
こころのハート形という簡単な小道具一つでいろいろ面白い話を引き出せるものだと、 あらためて思ったのでした。


2002.5.1
付録「性教育、簡単手作りグッズ」


これまで性教育についてはいろいろ書いてきました。
今回、そのなかで紹介した性教育グッズを写真で紹介したいと思います。

まずは、「性教育は人形劇で」の実践?
リアルすぎず、個性的に、そこそこリアルに。「うずのしゅげ通信」2001.6.1号 「性教育は人形劇で」に登場した人形たちです。








つぎは、身体の内臓張り付け紙エプロン

「うずのしゅげ通信」2001.7.1号「あかちゃんはおしりから生まれてくるの?」で用いたものです。
「教師の一人が紙のエプロンをつけて、そこに他の教師か 、生徒がいろいろな内臓を張り付けていく、という趣向を考えました。
外から見ることができない体の内部の構造はつぎのように説明します。
口から肛門にいたるうんちのパイプ→うんちが出る道
(ウンチの旅の説明、うんち製造器としての人間)
膀胱のふくろからおしっこ→おしっこが出る道
(おしっこができる仕組みの説明、おしっこ製造器としての人間)
男の子は上のふたつの道(穴)しかありません。
女の子には、
セックスとあかちゃんのふくろがあります。→セックスとあかちゃんが生まれる道
(セックスをして、あかちゃんを育て、生む人間)
あかちゃんはこのふくろの中でどうしているのか?
生まれてくるのは、お母さんも赤ちゃんもしんどいぞー。
ここで、出産のビデオを見る。」

つぎは「高養 青春スゴロク」です。

写真では詳細は分かりにくいと思いますが、遊びながら、高校生活と、 卒業してからの生活をシュミレーションしようというのが狙いです。 性教育にかかわることがらと、現場実習から就労にいたる社会にでてからの道筋が混在していて、 どうも中途半端なものになったように思います。
そのこともあって、「うずのしゅげ通信」では話題にしませんでした。

つぎは、こころの中をのぞいてみよう、という「ハート形のこころ」の試みです。

「ハート形の真ん中に一部切り込んだ円盤を回転できるように取り付けて、 それを回すと切り込みから「すき」、「きらい」、「友だち」という文字が現れるような こころの形を表現するしかけを作ってみたのです。
そのときは、こんなふうでした。まずはじめにこころは目には見えないが、 どこにあると考えるか、あると思うところに、洗濯ばさみで、 ハート形を付けてもらいました。一人は腹に、他のものはみんな胸につけました。
そして、次に成長の話を受けて、乳幼児のころは親にたいして「すき」、 それ以外は「きらい」という二項しかなかったのが、幼稚園にいくころから、「すき」、 「きらい」以外に「友だち」という第三項が生まれてくる。(この第三項を入れてくる というのが重要なのですね。)これによって、画期的にこころの成長が図られることになります。 さらに分節かが進みます。おなじ「すき」でもいろんな「すき」が分化してきたり、 おなじ「きらい」でもいろんな「きらい」のニュアンスがあるということに気がつきます。 そんなふうなこころの成長の話をしたのです。
そして、いまはハート形でこころを目に見えるようにしているが、ほんとうはこころは目に 見えないのだから、他人にすべて話す必要はないことにも触れました。たとえば 、性にかからわること、初潮や精通のことなど、こころの中にしまっておいてもいいという ことなどです。山本直英氏が言われるように秘密の部屋をもつことは、 おとなになるために必要なのですから。生徒たちにも「秘密をもってもいいんだよ」と どこかで言っておきたかったのです。
そんな話をした上で、生徒たちがもっとも関心を持っている男女の問題に切り込んで いったのです。 自分が相手に「すきすき」サインをだし、相手もこちらに 「すきすき」サインを出してきたとき、「恋愛」が成り立ち、 こちらが「すきすき」サインを出しているのに相手が「きらい」サインや、 「友だち」サインを出していれば「片思い」ということになります。」
まだまだいろんな使い方が考えられます。社会にでたら、なかなか「すきすきサイン」 を出しにくくなります。「きらいサイン」も出しにくくなりますね。そうすると 「きらいサイン」が出ないというだけで、「すきすきサイン」と勘違いする卒業生もいるのです。 そんな話をしているときりがありませんが、 いろんなバリエーションが考えられることは確かです。


2002.6.1
助走、性教育

わたしの勤務する高等養護学校の教育力はどんなところにあるかを考えたことがります。 (「うずのしゅげ通信」2000、12月号)
そこで、つきのように書いています。
「高等養護学校は、県内の中学校の障害児学級を出たものがほとんどです。 そこに普通学級の出身者と養護学校の中学部出身者が少し混じる程度です。
彼らは、高等養護学校に入学すると、まず対等の人間関係に曝されます。 友だちになりたければ自分から口を利かなければならないし、 教室移動や着替えの段取りも自分で考えないとだれも手を取って教えてくれる わけではありません。恋愛ももちろん対等です。片思いや憧れだけではありません。 本当に恋愛もできるのです。この対等の関係に放り込まれることによって 生徒たちはいちじるしい成長をとげます。これは教師が介入できない集団の力学のようなものです。 もっとも教師との人間関係もそこに含めて考えておいた方がいいかも知れません。 しかし、とくに自閉傾向をもった生徒など、集団に入り込めない、 対等の人間関係が苦手な生徒は、その機会を捕らえることができなくて、置き去りにされます。 ここに教師が援助しなければならないところがあります。対等な人間関係の場を保障することと、 対等な人間関係になじめない生徒を援助すること、これがとりあえず教師に課せられた 仕事となります。対等の集団というのは、人間の発達にとっていかに必要かということを 痛感させられますが、そこに問題がないわけではありません。(中略)
慣れない対等な人間関係でぎくしゃくします。けんかもあります。慣れてくると異性を 好きになるということもできてきます。これまでのような夢のような片思いとは 手応えがちがいます。平等な人間関係があってこそ、けんかも恋愛感情も育つのでしょうが、 どこかぎこちないのです。恋愛もそれなりの訓練が必要です。 人は思うようにはならないということを思い知るべきなのです。 しかし、彼ら、彼女らは、自分の恋愛を何を手本にしているのでしょうか。」

性教育をどうするかを考えるにあたっても、この分析からはじめるしかないように思います。
ある年など、性教育でわたしの担当した班のメンバーの約半数は、自閉的な傾向があったりして、 まだ充分対等な人間関係をつくりがたい、それを信じ切れていない、 といった段階にとどまっていました。 彼らは、まだ対等に人を好きになる段階に達していないようにみえました。
残りの半数は、 対等な人間関係を保障される中で、それなりに友だちをつくっていました。 この段階に達したのものは、おなじように対等な関係の中で友だちを好きになることができます。 そして、彼らには、具体的な性教育が必要です。健常児とかわるところはありません。
そんな彼らのようすを見ていると、恋愛感情を育てるのにも、あるいは、 片思いでさえ好きだという感情を育てるには、 対等の人間関係を保障する場があって、それを信じられるという条件が絶対の 要件だということがわかります。ひごろ、われわれは、あたりまえのように対等の 人間関係の保障された場にいるので、恋愛の条件として、 そのことを認識できていないだけのような気がします。
だから、性教育としては、対等な人間関係をつくることができている半数には 、恋愛や片思いの話をすることもできます。先月号に写真入りで紹介した ハートの「こころ」モデルを使って、恋愛やセックスの話をしても通じるのです。
でも、まだその段階に達していないものに対してはどうでしょうか。彼らの課題は、 対等な人間関係への信頼をもたせる。つまり友だちをつくれるように、 というのが課題ということになります。
しかし、彼らにも歌手やタレントにたいするあこがれはあります。 異性を好きになる話にはそっぽをむいていたものが、ひいきの歌手の話になると、 身を乗り出すということもあるのです。歌手やタレントにあこがれるという こころの飛翔もまた何か必要性があるのでしょうか。想像力をたくましくすれば、 芸能人にあこがれることで、肉親以外のものを好きになるという感情を 学んでいるのかもしれません。相手が夢の空間にいるだけに自分が傷つくことはなく、 安心して人を好きになれるのですから。恋愛をそんなふうに学習するというのも、 ありそうなことですね。恋愛なんて、たかが近代(?)の産物なのですから。 その飛翔が、対等の人間関係というところに着地したとき、 やっと対等の関係で好きになる恋愛の準備ができたということになるのかもしれませんね。
だから、この段階にある生徒には、たとえば、好きな歌手やタレントの ブロマイドでももってきてもらって、その人のどんなところが好きなのか、 といったことでも発表してもらうというのも一つの方法でしょうか。
彼らは、また、セックスに対する欲望が十分認識されていない、 あるいは発達していないようにも思われるのです。 だから、性にかかわるうさんくさい秘密をもつこともなくきたにちがいないのです。 畢竟、性の秘密を梃子にしたプライバシー感覚も身に付かないということになります。 ここでいうプライバシー感覚というのは自分自身というもの、 つまり自己と考えてもいいもののように思います。(「うずのしゅげ通信」2001、6月号)
対等な関係という段階を経ないでも、片思いとかしている障害者はいるよ、 と言われる向きもあるかもしれません。それも、わかるのですが、 しかし、その場合は、母性へのあこがれとか、父性へのあこがれ、 といったものとかわらないとも言えるのではないでしょうか。 とても、対等を踏まえた、傷つくことも覚悟の恋愛、片思いとは思えないのです。
以上をまとめますと、これまで述べたように、高等養護学校に入学し、徐々に対等の人間関係に慣れ、 友だちをつくることができるようになり、 さらにその対等な人間関係に対する充分な信頼を踏まえて、新たな一歩を踏み出す。つまり 同級生に恋愛感情を抱くようになれば、そこではじめて人間関係の基礎ができたといっても いいように思うのです。それは、「健常者」には、水や空気のように、あたりまえのものとして 保障されている環境なのですが、養護学校の生徒にとっては、 はじめてなじむものなのかもしれません。だから、 それを信頼するのに時間が必要なのは当然ではないでしょうか。 まして、人間関係が苦手な自閉的傾向をもつ生徒にとっては……。
そして、彼らに対等な人間関係への信頼を促すような学習もまた 性教育であるように思うのですが、いかがでしょうか。

2002.7.1
性教育「顔の美人さがタイプなんです」

自分が性教育をするグループが、セックスにもまた恋愛とか片思いなどの話にも あまり興味をしめさない生徒たちが半数をしめる、ということになれば方法も 考えなければならないことになります。
恋愛を想定して人をすきになるという段階に、彼らはまだ達していないのでしょうか。 自閉的な傾向といわれている生徒もいて、もともと人に対する興味が希薄なこともあって、 そのために人をすきになるところまでいかないのかとも考えてしまうのです。
そこで、こころの話をしたりするのです。以前に、目に見えないこころを、 目に見えるようにしようとハート形の「こころ」をつくった試みをここで 話題にしたことがあります。ハート形の「こころ」の上に重ねた円盤を回すと、 「すき」、「きらい」、「友だち」の文字が現れます。
(「友だち」というのは、変な表現ですが、第3項をあらわすうまいことばが思いつかなくて、 「友だち」にしています。いいことばがあれば教えてください。)
その「こころ」を使って、こころの成長の説明をしようというわけです。
赤ちゃんのときは、「すき」と「きらい」だけで、はっきりしています。 お乳をくれて満足をさせてくれる人に向かうこころが「すき」です。 それ以外の人がくれば「きらい」で泣くしかないでしょう。 生徒たちにもそれは分かります。「最初にすきになるのはだれ?」と聞くと、 「お母さん」という答がかえってきます。「じゃあ、つぎにすきになるのは、だれかな?」
「そのつぎにすきになるのはだれ?」
順番にかいてもらおうということになって書かせると、家族がならんできます。 お母さん、お父さん、おばあちゃん、おじいちゃんと家族がならびます。 妹とかいう答もあります。自分が生まれたとき、妹はいなかったというのは 思いつかないようなのですが、そんなのはかまいません。嫁舅の折り合いが悪くて 両親とうまくいっていない生徒のアンケートには、お母さんがありません。 「おじいちゃん、おばあちゃん」とあって、「お父さん(小さい頃の)」とあります。 生徒の後ろにいつも母親がいるようで父親の影が薄いなあと思っている家庭の子どもは、 たまたまなのか父親を書いていません。生徒の家族のことをいろいろ考えさせられますね。
幼稚園や学校に通うようになると友だちができてきます。 「友だち」というすきになりかたもあるということに気がつくわけですね。
そして、現在の養護学校では、友だちが何人いるかなということで、書いてもらいます。 相手が友だちだと思っていない友だちも列挙されていてなかなか興味深いリストです。
次の時間は、自分がすきな歌手やタレントのブロマイド、 あるいは写真の下敷きなどをもってきて、その歌手のどこがすきなのかみんなの前で 説明するという課題をあたえました。
さて、当日、ひごろ性教育にあまり興味をしめさない生徒もすきな歌手やタレントの 写真をもってきました。
黒板に写真を磁石でとめて、みんなの前で発表してくれました。
「どこがすきなの?」
と聞くと
「顔の美人さがタイプなんです」
とかいう返事がかえってきます。みょうないいまわしですが、意味するところはわかります。
「顔だけか?顔だけというちょっとさびしいな」
とちょっかいを入れると
「顔だけと……頭の色、茶髪の色」
とか、あくまでも外見にこだわっています。
「ふーん、顔の美人さと髪の色か……」
「それがタイプやったんです」
そこで、みんなに同じ質問をしてみました。
「ところでこの学校にあなたのタイプの人はいるのかな?」
と問いかけてみるのです。すると、いままであまりそんな話に乗ってこなかった生徒も 「いる」という答が多かったのです。名前さえあげたものもいます。
「それはまだ不明です」という答もありました。まだその段階にまで達していないようなのです。 でも、さらにつっこんでいくと、学校にもタイプの女の子がいそうなことも言うのです。 でも、彼のいうようにそこらか先はわたしには「不明」でした。 おそらく、彼自身にも「不明」なのかもしれません。そういう意味で彼の答は正直なのです。
しかし、「学校には、あなたのタイプの人はいないの?」と聞いていくと、 以外に名前がぽろっと出てくるのです。歌手やタレントのタイプが呼び水になって、 同級生のタイプが浮かび上がってくるのかもしれません。でも、その「タイプ」の異性を 彼らは歌手やタレントとおなじ距離感をもって見ているような気がします。 具体的にこころの「すきすきサイン」を発する対象とは見ていないようなのです。
そこで、考えました。彼らの多くは歌手やタレントを好きになることで、口では 「顔の美人さがタイプなんです。」とかいいますが、はじめに彼らの中にタイプがあって 歌手がそれにあてはまるんじゃなくて、いろんな歌手やタレントをテレビで見ることによって、 自分のタイプを発見しているんじゃないでしょうか。そんな気がしてきます。 そして、学校の異性にもそのタイプを探しているのです。未発達のものでもそんな 視線はもっているのではないでしょうか。まだまだすきすきサインを発する 段階ではないのでしょう。すきすきサインを発するには、もう一歩の現実感を 手に入れる必要があるのかもしれません。だから、彼や彼女は、 好きなタイプの異性を歌手を見るように遠目にみているだけなのでしょう。 どうもそんな気がするのです。小学校で日頃このような機微を見慣れている先生には 当たり前すぎることかもしれませんが、今回そのことをあらためて考えさせられたのでした。
生徒たちは、そのように段階を踏んで成長していくにちがいないのです。 焦っても無駄ということでしょうか。性教育でも先走りは厳禁ですね。


2002.8.1
性教育は、砂糖が溶けるまで待って

性教育というのは、実際のところ何を教えるのか、と考え込んでしまうことがあります。
以前、この「うずのしゅげ通信」でも、苦しまぎれに「性教育はこころの教育?」 などというテーマで取り上げたこともあります。たしかに性は、さまざまの裏情報があって、 それによって歪められて入ってくるので、そうではない、人間の生そのものともいえる 大切なものであるということを知ってもらいたいということに発しているようにも思えるのです。
そのために、性教育が陥りがちな弊害として、性教育が、生徒の成長にくらべて 先走ってしまうということがあります。性教育の先走りの危うさ、ということを感じられたことは ありませんか。性情報に汚される前にということもあるのでしょうが、また教師の性(さが) とでもいうのでしょうか、ついつい性を先走って教えてしまうのです。
先走ってしまうということと、性教育は何を教えるのか、ということに関して、 おもしろい文章があったので、取り上げて、考えてみたいと思います。 加藤典洋著「言語表現講義」(岩波書店)の中に見つけました。 そこで加藤氏は小浜逸郎氏の文章(「消費文化のエロス」)を素材に おもしろい議論を展開しています。
(だから小浜氏の文章は孫引きということになります。)

小浜逸郎「消費文化のエロス」「先日、ある酒の席で、 話がたまたま学校教育のことになった。(中略)私が、そういえば何年か前に ある小学校の女の先生が、生身もブタを一頭教室のなかに持ち込んでみんなで解剖し、 それを料理して食べるという授業を行ったという話をした。」
それに対して、「一人の若者が聞きとがめ、猛然と異を唱えた」らしいのです。
「そういう授業をするのは、子どもにポルノを無理に見せようとするようなものだ。 必要もないのになぜそんなことをするのか。自分は身に着けたり口に入れたりする目の前の商品が、 どういう流通経路をたどってきたかなどを知らなくても一向に困らないし、 自分の生活や問題意識に直接関係のないことを、あえて知ろうとは思わない。」
これが若者の言い分です。
そして、それについて、加藤典洋氏は、つぎのように述べています。
「僕の考えをいうと、僕はほとんど、この若者と同意見です。このブタの解剖の授業に、 どこかあやういものがるとすると、それは、これが子どもにポルノを見せるか、 それに類したことをするのと似たような危険があるということに、この先生が気づいていたかどうか、非常に心もとない、という点だと思うからです。
ポルノ、というのは、こういうことです。これはブタの解剖ですが、 性教育で、教室に二人の男女を連れてきて、今日は子どもがどんなふうにできるか、 教室で考えてみましょう、とやったら、どうか。
みなさんの誰もが、これは、ちょっとまずいんじゃないか、と思うでしょう。」 (ここで、「みなさん」というのは、講義を聴いている大学生のことです。)
なぜ、「ちょっとまずい」と感じるのか、その理由を加藤氏はつぎのように述べています。
「皆さんは二○歳ですから、いまでは、子どもがどうして生まれるかをみんな知っているでしょう。 いつ、どんなふうにして自分が知ったのだったか、ちょっと考えてご覧なさい。 ここにいる四○人が四○人、みんな違う道筋をたどって、そのことを、最初はうすうす、 それから、びっくり、ドキドキしながら、知ったのじゃありませんか。もちろん、 そんなのは面倒だから、一気に小学校の一年の最初の授業で教える、 という考え方もあるでしょう。」
しかし、この「一人一人が自分の手で、それぞれに暗中模索してそのことを知る、 という時期」、「びっくり、ドキドキ」の時期が思春期であり、 省いたりすることができない時期なのにもかかわらず、そこをとばして、 一気に大人になることにしよう、となれば「それはまずい、そう誰もが感じる。」 その「まずい」が、さきほどの「『ちょっとまずい』という感想の理由」だというのです。
「能率的に無駄を省く、というわけにはいかないことが、 この生きるということのなかにはあります。」というのが加藤氏の結論です。

「しかし、ちょっとまってください。」と、ぼくは考えてしまったのです。
「能率的に無駄を省く、というわけにいかない」から、性行為は 、あるいはポルノは見せるわけにはいかないのでしょうか。 「『ちょっとまずい』という感想の理由」は、ほんとうにそこにあるのでしょうか。 「それは、ちょっとちがうんじゃないか」というつぶやきがどこかから聞こえてくるのです。

人生には、自分でどうしようもないことがらがあります。たとえば、生き死にの問題。 これは自分でどうこうしようがありませんね。だから、何かにその決定を預けて しまっているようなところがあります。自分が、いつ、どのように死ぬかは、 知ることができませんね。そもそも自分がなぜいまここに生きて存在しているのかもわかりません。 生き死にのことは知りようがないのです。
学校で教える分野にはいろいろありますが、その中にはこれらの生き死にも問題に触れる 分野もありますね。その分野のことにはあまり近づかないようにしているのではないでしょうか。 たとえば、科学的な知識を教えるといったことなら可能でしょうが (事実避妊の方法なども教えていますね。)、しかし、一歩間違うと、その生き死にの、 生きのほうの問題に触れてしまうのではないでしょうか。死に抵触する内容もあるでしょう。 医学部を除いて、人間の本当の死を学校で扱うわけにはいかないのです。 ブタの解剖の授業はかなり禁忌に近づいているのです。それがカエルだったら その禁忌に触れる心配はなかったのに。しかし、最近は果敢にホスピスなどを訪問するといった 授業の試みもありますが、最新の注意がいるのではないでしょうか。
そういうふうに考えると、性行為やポルノを見せるというのは、人間の死にざまをみせるのと 同様の禁忌に触れるおそれがあって、それで、「これは、ちょっとまずいんじゃないか」 と感じてしまうのでしょう。

でも、養護学校の場合、拭いがたく本物志向があります。性教育でも、 ぎりぎりまで本物で教育したいという気持ちがあるよう思います。 本物に向けてのせめぎあい、それが養護学校の教育というものの方向性のような気がします。
もしかすると、普通学校の教育より養護学校の教育の方がその傾向は強いかもしれません。
そのために内容の普遍性がそこなわれるようでも、あえて具体性、本物志向でいこうと。 それが、養護学校の性教育にどんな影響をもたらすか、 もうすこし考えてみたいと思います。


「うずのしゅげ通信」 バックナンバー

2002年 12月号 よさこいピック(高知)、 「イーハトーブへ、ようこそ」改訂版、 SS「賢治先生御用達、出前プラネタリウム」
2002年 11月号 「抱きしめたい」賛、 祭りのあと、 チャップリンは手話を?
2002年 10月号 「ホームレス、賢治先生」(続)、 「アートママ」賛歌、 SS「小惑星が地球に?」(続)
2002年 9月号 「ホームレス、賢治先生」、虫、二題、 SS「小惑星が地球に?」
2002年 8月号 竹山広の短歌、性教育は砂糖が溶けるまで、 父の俳句
2002年 7月号 性教育「顔の美人さがタイプ」、保護者参観、 演劇の時代?
2002年 6月号 母の声、助走、性教育、 SS「百年たったら……」
2002年 5月号 総合学習に演劇を、障害者の職場、 性教育グッズ
2002年 4月号 花だより、性教育はこころの教育?、 SS「プラネタリウム」
2002年 3月号 1万アクセス、ボケとツッコミの構造(続)、 SS「訴訟」 
2002年 2月号 一人芝居「水仙の咲かない水仙月の四日」、 SS「わたしキスをしたんよ。」、「本害」? 
2002年 1月号 「音のない世界で」(続)、 SS「流星をとばして」、「これからどうなる21」 
2001年 12月号 「チャップリン」上演、 「障害者」ということば、「音のない世界で」 
2001年 11月号 誰が、誰を励ますの?、本人たちの劇を、 沖縄への修学旅行が中止
2001年 10月号 畑山博さん追悼、「モダン・タイムス」、 糸井重里「インターネット的」
2001年 9月号 養護学校の教科書 、YAHOOで本を、 時間の化石
2001年 8月号 あかちゃんはおしりから?、 高明浅太詩集「学校はおせっかい」、 遺品の中に「軍人勅諭」
2001年 7月号 嵐山光三郎「多摩の細道」、 近代家族と障害者の性、 科学の進歩はもうたくさん
2001年 6月号 大江健三郎の定義集、まど・みちお、 「性教育に人形劇を」LIVE
2001年 5月号 原爆を板にのせる、井上陽水はすごい、 賢治劇は星座?
2001年 4月号 HRで「吉本新喜劇」、アイボが我が家に、 知的障害児の高校進学
2001年 3月号 「Access denied」、 生徒のお笑いのレベル、ウォーキングのひそかな楽しみ
2001年 2月号 「地球でクラムボンが二度ひかったよ」、 性はどんなふうに話題に?、手話の記号化
2001年 1月号 新年の挨拶、賢治童話は“いじめ”でいっぱい、 山本おさむ著「どんぐりの家」
2000年 12月号 風がうれしい虔十、 養護学校は生き残れるか?、「知的障害者」という言い方
2000年 11月号 理想は高く! 高木仁三郎さん 追悼、  障害者の性
2000年 10月号 落語「銀河鉄道 青春十七切符」(続々)、 インターネット感想、十代の犯罪
2000年 9月号 性教育U、 落語「銀河鉄道 青春十七切符」(続)、歌集「椿の海」
2000年 8月号 性教育T、 落語「銀河鉄道 青春十七切符」、短歌
2000年 7月号 性教育、 「チャップリンでも流される」、映画「八日目」
2000年 6月号 演出秘話「賢治先生」、 「ざしきぼっこ」、「イーハトーブ」他
2000年 5月号 「うずのしゅげ」の小耳、演劇の癒し、 賢治は喜劇は?
2000年 4月号 障害児教育のHPを、 障害児教育にとっての「宮沢賢治」、知的障害者はなじまない
2000年 3月号 かしわ哲著「あったかさん」他
読者サービス映画券
「寅さんの『実習生、諸君!!戦後五十年だよ』」
2000年 春 準備号 短歌からの出発


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