アンソロジー「手話」

[見出し]
2000.1〜2002.12
山本おさむ著「どんぐりの家」を読んで

手話の記号化について

日本賞「音のない世界で」

「音のない世界で」(続)

チャップリンは手話を使うの?

「うずのしゅげ通信」 バックナンバー

2001.1.1
山本おさむ著「どんぐりの家」を読んで

障害者問題を取り上げたなかなかおもしろいマンガがあると、噂は聞いていたのです。 しかし、わざわざ探してまで読もうとは思わないまま、忘れていました。ある日、 古本屋で山本おさむ著「『どんぐりの家』のデッサン」(岩波書店) という本を見付けたのです。ふとマンガの書名がよみがえり、さっそく買い求めて、 読んでみると、これがなかなかおもしろいのです。
実はわたしは、いまの養護学校に来る前は、ろう学校に勤務していたのです。 だからよけい興味深く読みました。「どんぐりの家」は、ろう重複の生徒、親、 教師の物語だったのです。

第一巻の主人公はろう重複のハンディーをせおわされた田崎圭子さんとその両親と いうことになるでしょう。

最初に小さい活字で「この物語は事実に基づいたフィクションです。」という断り書きが ついていて、目次のページには参考文献まであげてある。
そして、活字で追うと次のような展開をします。

看護婦「おめでとう。田崎さん、女の子よ。」
母親の汗をにじませた顔。
難産だった。
母「赤ちゃんは……?」
そう聞いた時、看護婦の顔が一瞬曇った。
母親の不振な目。
泣き声もせず、隣の部屋からカチャカチャ…と不気味な器具の音がした。
昭和42年2月16日長女圭子誕生。
そこで、時間が跳んで、2歳くらいに成長した圭子が庭で水遊びをさせていて、 目を離したすきに引っ越してきたばかりの隣家に侵入してしまうという事件が描かれる。
そして、
あの日まで……私たちは、普通の幸せな家族だった。
夫も周りの人たちも圭子の誕生を心から喜んでくれた。
あくびをしても可愛い、ゲップをしても可愛い。圭子は笑いと喜びにつつまれていた。
そして3か月、6か月、1年。ミルクの飲みが悪い。50ccを一時間もかかり、 飲み疲れて寝入ってしまう事もある。
発育が悪く、首は半年くらい座らない。寝返りもできず、泣く事もほとんどない。 1歳8か月でようやく歩くようになるが、言葉らしきものは出ない。
夫が圭子をあやす、だっこする。
しかし目線は合わず、ニコリとはするが感情がともなっていないような気がする。 そういえば、この子は心から笑うという事がない。
人形のようにおとなしく座って、ひとりでブロック遊びに夢中になっている。 そして飽きると、ごろごろと寝ころがっている事が多い。
(同年齢の子ども集団に入れない。)
父「大きい病院で……きちんと診てもらったほうがいいんじゃないかな。
何だか違うよ。圭子は他の子と違う。」
そしてその日を迎えた。風の強い日だった。圭子は2歳3か月になっていた。
帝都大学付属病院。
医者「この子は耳が聞こえていません。そして知的障害もあるようです。 言葉を喋れるようにならないし、読み書きもできないでしょう。」
母「は……?」
医者「つまりですね。耳が聞こえないという事は、 お母さんの言葉が入らないという事です。」
(圭子のあどけない顔)医者「ですから、言葉を覚える事ができない。 喋る事もできません。」
医者「そのうえに知的障害もありますから、知能もよくて4歳程度以上には成長しないでしょう。 こういう子は普通の学校には行けませんから、それなりの準備を考えてください。」
医者は冷たく事務的に淡々と説明した。信じたくなかった。色々な病院で検査を受けたが、 結果は同じだった。
そして、家庭での日常生活にもどる。家の中は荒れほうだい、母は疲れ、 父は圭子と向き合おうとしない。
……………

難産での誕生、一瞬の不安、子育てに追われる毎日………、疑惑、検査、 誕生日の不安に思い当たる、無我夢中の子育て、子どもとの格闘、夫婦の間の亀裂、 子どもとの共生の確認、夫婦の亀裂の修復、協力……

「どんぐりの家」をマンガ論として論じることはできません。内容については、 参考文献としてあげられているように、実話にもとづいてフィクションとして 描いているわけですが、それにしてもマンガでよくここまで踏み込んで描けたと 感心せずにはおれませんでした。
障害をもった子どもを授かった親、あるいは家族がそのことをどのように受容し、 立ち向かっていくのかをいろいろ考えさせられました。 家族がなんらかのかたちで外に開いていくことが大切なのかと、 そんなことにも思いをめぐらせました。「どんぐりの家」においても、 主人公の圭子さんがろう学校の幼稚部に通いだすところから色調が明るくかわっています。
そんなふうに家族が外に開き、そのことで障害を受容していく、そんな段階を経て、 子どもがその家の「ざしきぼっこ(ざしきわらし)」になってくれれば……、 そんな祈りのような気持ちにもなったのです。
それはともかくマンガでここまで踏み込んで描けるのかという驚きを感じました。 しかし、山本おさむ氏は、単に原作を得て、それをマンガ化したのではなく、 障害者の問題、差別表現、ろう教育や手話の問題など、大変よく調べ、 また手話サークル活動に加わるなど精力的に活動されていることを 、「『どんぐりの家』のデッサン」を読んで知りました。
とりわけ、ろう教育の歴史に関わる手話の位置づけなどの問題についても深い理解を 持っておられることをしりました。氏には「わが指のオーケストラ」という、 昭和のはじめのころに大阪市立ろう学校校長だった高橋潔を主人公にしたマンガもあるのです。 高橋校長は、昭和初期にアメリカから口話法が導入され、 ほとんどのろう学校がそちらになびく中にあって、手話をまもりとおしたのです。
手話の問題については、わたしも以前から興味を持っていました。
わたしがろう学校に赴任したのは、1981年でした。当時は、 キュードスピーチ法が全盛の時代で、幼稚部や小学部でキュードスピーチで コミュニケーションしてきた生徒たちが中学部に入学してきた年でした。 それまでは口話法で教育がなされていたのですが、キュードスピーチというものが、 発話の練習をするなかで開発され、画期的な方法として称揚されていたのです。
口話法というのは、フィードバックがかからないために矯正しにくいのですが、 なんとか練習して音声で話をし、また話し手の口を読みとるやりかたで話を聞き、 健聴者と同じように会話するという方法です。しかし、くちの形を読むといっても、 たとえば「あ」も「か」も口の開き具合は同じなので、 よほど練達してもうまくいかないのでした。話している内容が分かっている場合には 読みとりやすいとしても、話題が変わるとついていけないという風だったのです。 それにたいして、キュードスピーチというのは、読唇のむずかしさを補う方法として、 たとえば、「あ行」は、胸に開いた手をあてて表し、「か行」は、 人差し指で喉を指さすという手の動きでkaの子音部分(k)を 表すという方法で読唇の不足を補うというものです。口話法にしろ、 キュードスピーチにしろ、日本語環境のなかで生活しているのだから、 日本語を身につける必要があるという考え方が基本になっているのです。 日本語を身につけさせるということにおいてキュードスピーチは 画期的な成果をあげたように思われました。中学部に進学してきた生徒たちは、 それまでの学年にくらべて格段に日本語が使えたのです。
当時も中学部や高等部での授業は、手話を使ってなされていました。 もちろん教師がすべてそんなに手話に堪能ではなかったので、 手話やら板書やら口話やらを総動員しての授業というのが実態だったと思います。
しかし、それでも以前に比べれば、手話が容認されるようになってきた、 という話を聞きました。以前は、手を動かしただけで、ピシャリとやられたりして いたということでした。
わたしは、ろう学校に転勤が決まったとき、手話の本を買い込んでにわかづくりの 手話勉強をしていきました。高等部三年生の担任ということになり、 はじめての顔合わせの時、「私の名前は、浅田です。」と手話でして、 「わかりますか?」と聞いたら「わかる」という返事、とてもうれしかったのを覚えています。 以来生徒たちに、手話の日常会話を教えてもらいながら身につけていきました。 高等部三年生は、まだ幼稚部や小学部を口話法で過ごしてきた生徒たちでした。 それでも手話は、寮や先輩との付き合いで自然に身につけていました。しかし、 正式に習ったものではないので、少々あらっぱい(?)手話のように思われました。 卒業式の送辞や答辞も生徒が文章を読み上げて、同時にOHPで、 別に書いた文章を映し出すといったやり方でした。
そのうちに「手話でやったら」という話が出てきて、 試みがなされたという風な状況だったのです。そのうちにろう学校から転勤になりました。

文化祭の劇の発表などは、幼稚部から小学部、中・高部、全部がそろって見るのですが、 小学部の劇はキュードスピーチで、中学部、高等部の劇ではやはり手話が使われていて、 それを見て、まあだいだい分かるという状況だったように思います。
当時ふしぎに思ったのが手話の辞書がないということでした。理由は簡単です。 イラストや写真で(いまなら動画)しか手話を表示する方法がないのです。 手話の記号表示ができなければ、辞書などつくりようがないはあたりまえです。 ある手話単語がどのような文脈の中で使われているか、例文を採取することさえまま ならないからです。いちいちイラストや写真で表現するのは煩雑です。 結局、たいていの本では、「私」「好き」「あなた」といった形で、 それらの日本語に対応する手話を表してきたのです。しかし、日本語と手話では、 意味のひろがりもちがいます。それをむりやり日本語であらわすなど、無謀ですね。 手話の辞書など夢のまた夢です。 そこで、なんとか手話を記号で表せないものかと考えたことがあるのです。 もちろんこれまでにも試みられたことはあるのです。しかし、 みなさん用心深くて実際に記号化されたものにはお目にかかったことはありませんでした。 しかし、それももっともで、実際に自分で考えるとなるとなかなかむずかしいのです。 手話の位置、手の形、動きを記号化するのですが、すべてのパターンを覆うとなると大変です。 1年くらいそのことを考えて、手話を記号化する試案を手話の研究会で発表したことがあります。 2年目からは、パソコンの得意なH先生にも加わっていただいて、 記号を打ち込んで並べ替えもしてみました。同じ指の手話が並んでくるのは なかなか壮観だったのですが、それも結果を発表しただけで、 転勤のためにそれも中途半端なままになってしまいました。 以来手話の記号表示ということは興味をもって待ち望んでいるのですが、いまだに、 記号化が完成していないのはなかなかむずかしいということでしょうか。 いまだにちゃんとした辞書がないのも同様です。手話の研究自体が遅れています。 米川明彦著「手話言語の記述的研究」、が、ほとんど唯一の研究書であり、 それ以外には数えるほどしかちゃんとした研究がなされていないというのが実状です。
そんなふうに手話には当時から興味がありました。そして、現在、 ろう学校では手話が幼稚部から導入されていると聞いています。
聴覚障害者にとって手話は母国語だという認識があり、 その母国語をなによりも大切にという考えからなのでしょう。 分からないことはないのですが、あのキュードスピーチの威力を目の当たりにしてきたものに とっては、もったいない気もするのです。ここらあたりのこと、 意見があれば聞かせてください。


2001.2.1
手話の記号化について

先月の「うずのしゅげ通信」の「どんぐりの家」についての章で、 手話の記号化について触れたところ、どのようなものかと質問してこられた方がおられました。
わたしがろう学校に勤めていたころにくらべて現在は手話ブームということで、 手話の記号化というような問題にも興味をもってくださる方もいるようで、 手話の話題を続けさせていただきます。
手話の記号化ということになりますと、詳しくは、 「手話の記号化についての試み」(日本手話学術研究会論文集( 昭和58年度号)@)、「手話の記号化についての試みU」 (日本手話学術研究会論文集(昭和59年度号)A)を参照していただくしかないのですが、 おそらく手に入りにくいとおもわれますので、その概要だけでも紹介させていただきます。 すこしは、手話を使える方を想定しての説明になります。
「手話を記号化できれば、言語としての基本的な要件である満足な 辞書さえないという状況を幾分かは打開できるかもしれない。 様々な試みがなされてきたが、いまだに確立した方式といったものはないようである。 それを阻んできた要因は、考えるまでもなく、手話の写像性からくる身振り表現の 多様性にある。これまでの試みに共通しているのは、手話を、位置、手の形、動き、 という3つの枠組みに分けて考える傾向である。その枠組みを踏襲し、 さらに多様な表現に対応するするための方法を考えるとして、 ではその記号化に要請される条件としてどんなものがあるだろうか。 手話の記号化の意味というあたらいから考えてみる必要がある。
現在のところ手話を表示しようとすれば、絵(イラスト)、あるいは写真、 VTR等でその身振りをあらわすしかない。しかし、 これは言語表現としては大変能率が悪いうえ、日本語−手話(日−手)辞典はできても、 手話−日本語(手−日)辞典は原理的に出来ないことになる。 手話を規則的にならべる方法がないためである。もちろん大雑把なものなら可能であり、 事実試みられたこともあるが。手−日辞典ができないことから (日−手辞典にも満足なものはないが)、本来多義的な、 つまりひとつの手話が多くの日本語に対応する手話言語の研究そのものが 行きづまっているように思われる。もちろん、手話の意味だけならカードで 収集できないこともないが、カードの整理が難しい。……(中略)…… また手話をコンピューター処理するためにも、記号化が必須の条件となり。」
としたうえで、記号化の条件をつぎのようなものとしている。
「規則的にならべられるように、記号の要素として、カナ、アルファベット、 数字を用いること。手話の微細な表現、ニュアンスにまでは拘らず、 記号の要諦である他の記号との差異性があらわせれば充分と考え、 できるだけ簡便なものとし、慣れれば、漢字又は英単語なみの手間で書けること (できるだけ桁数がすくないこと)、見ればそれに対応する手話が思い浮かぶ ような意味のある表現になっていること、等が記号化の条件となる。」(@の1、序)
「序で述べた記号化の要請を念頭に、具体的に考えてみる。
まず、はじめに手話をふたつの型にわける。
手話の位置、手の形、動き、という枠組みで表現できるものをT型、 左右の手を別々の主体と見立てて、それらが関係しあう(多くは右手が左手に働きかける) ものをU型とする。
厳密に言うとどちらに属するのか判断しかねる場合もあるが、 そんな事例はそう多くはない。」(@の2、手話の記号化)
いじょうの分類にしたがって、いくつかの例示があります。
(1)T型手話の記号化
たとえば、手話「いろいろ、さまざま」の記号は、 Aムb3(Amub3)となります。
Aは、手話の位置が胸の前であることを、
ムは、右手の形が指文字のムの形であることを、
b3は、動きが回転をともなった右向きの動きであることを表しています。

両手が動く場合は、左右の手の関係はパターン(対称性)が決まっているので、 鏡の関係、ちぐはぐの関係などが記号で後ろにつけ加えられるようになっています。

(2)U型手話の記号化 たとえば、手話「かわいい」の記号は、Rデmデ (またはRデmLデ)となります。
この手話の動作は、「左手を子供の頭か何かに見立てて、 右手で撫でている様子をあらわしています。Rは右手の意味で、 U型の場合の最初の文字になります。本当は左手の形をあらわしている後ろのデの前に、 左手をあらわすLが来るべきであるが、桁数を少なくするために省略した。 mは、左右の手の関係、働きかけ(撫でる)をあらわしている。

だいたいこのようにして記号化してあります。
手話の位置、手の形、T型の動きや左右の手の関係、U型の動き(左右の手の相関関係) 等については、アルファベットや指文字に収まる範囲内で分類されています。
そして、「手話の記号化についての試みU」においては「わたしたちの手話」1〜4巻を記号化して、 アルファベット順に並べ替えをした表も添付されています。 おそらく、手話を記号化したのは、これがはじめてではないでしょうか。もちろん、 まだまだ不満足なものなのですが。


2001.12.1
日本賞「音のない世界で」

教育番組国際コンクール”日本賞2001”に、 アメリカのドキュメンタリー「音のない世界で」が選ばれました。 聴覚障害者の問題をあつかったものです。教育放送で放映されていたので、 さっそく見てみました。
聴覚障害をもって生まれてきた子どもに人工内耳の手術を受けさせるかどうかという 選択をめぐる両親の葛藤を主題にした真摯なドキュメンタリーでした。 そこでは、聴覚障害者の文化、アイデンティティーの問題、 聴覚障害者の家族の問題などさまざまな要素が錯綜して議論されていきます。 生きたかたちで障害を論じるとはどういうことか、障害がどのように文化となるのか、 等々、子どもに人工内耳の手術を受けさせるかどうかという応用問題を考える中で提示され、 また深く考えさせられました。
機会があればぜひ見てもらいたくて、ここで取り上げました。

「世界には音が溢れているって知ってる?あなたには聞こえないわね。 でも音はどこにでもあるのよ。ドアを開けると音がするの」
5歳のヘザーとヘザーの祖母マリアンヌの会話から番組ははじまります。
ヘザーは聴覚障害者であり、マリアンヌは人工内耳を埋め込むことを望んでいるらしい。
「もし、人工内耳の手術を受ければあなたも電話で話せるようになると言ったでしょう。」 と手術を勧めている。
しかし、ともに聴覚障害者であるヘザーの両親(ピーターとニタ)は手術に反対なのです。
ピーター(手話)「ぼくは耳が聞こえないんだ。 聞こえるようになりたいとは思ったこともないよ。聴覚障害者であることは幸せなんだ。 それを変えようとは思わない。自分にはありのままの自分が分かっているからね。 耳が聞こえるようになる薬をもらってもぜったいに飲まないね。飲まされても薬を吐き出して、 聴覚障害者に戻るよ。このままがいいんだ。だから3人のこどもたちの耳が聞こえないと 分かったときは自分と同じでうれしかった。長女にヘザーには赤ん坊の内から 手話を教えはじめたんだ。いまのあの子は本当にすばらしいよ。 5歳で手話を使いこなしている。だから人工内耳をつけたいと言ってきたときには、 ほんとうにショックだった。わたしと妻が拒絶されたきがしたんだ。 あの子は変わりたがってた。音を聞きたいんだ。」
ニタ(手話)「聴覚障害者のこどもが5歳になったばかりで音を聞きたがったり、 電話を使いたがったりするのは、とてもめずらしいことなの。 きっと近所に耳の悪い人がいないからだと思うわ。ヘザーはコミュニケーションがとりたいの。 気持ちはわかるけど、ありのままのあの子に幸せになってもらいたいわ。」
ピーター(手話)「耳が聞こえる人は聴覚障害者は幸せになれないと思ってる。 みんな聴覚障害者のことを知らないからさ。弟たちは双子が生まれて、 一人の耳が聞こえないと分かったときひどくショックを受けてた。」
クリスとマリは、ピーターの弟夫婦で二人とも耳が聞こえるのだが、 彼ら夫婦に双子が生まれて、その一人が聴覚障害者でした。
マリ「息子のピーターの耳が聞こえないと分かってひどく動揺したわ。 自分の両親が聴覚障害者なのに立ち上がれないほどショックだった。」
そして、クリスとマリ夫婦が、息子のピーターに人工内耳を埋め込む手術を受けさせる 決心をするのだが、そこでピーターとニタの兄夫婦、祖母のマリアンヌたちの 聴覚障害者の文化をめぐる議論が続くのです。
人工内耳センターの医師パリシエ博士の話「人工内耳の手術をすれば 聞こえるようになります。ほとんどなにも聞こえなくて補聴器も役にたたない子どももいました。 そういう子たちも人工内耳を埋め込めばかなり聞こえるようになります。」
ピーター(手話)「手術で人工内耳を埋め込むなんて恐ろしいよ。 何かに侵略されるみたいだ。ドリルで頭に穴をあけて奥深くに機械を入れるんだ。 ロボットを作っているだけじゃないかと思うね。私たちの言葉は手話なんだよ。 聴覚障害者は自分たちの世界にいることが正しいんだよ。(中略)ヘザーは手術をうけたら、 聴覚障害者の世界とは別の人工内耳をつけた人の世界で暮らすんだ。 耳の聞こえる子どもと遊べばジレンマを感じるはずだ。」
ピーターとニタの夫婦が、すでに人工内耳の手術をした子どもの家庭を たずねる場面もあります。
ニタ(手話)(相手の両親に)「わたしたちは聴覚障害者の世界にいるの。 あなたたちとは違うのね。聞いてもいいかしら?シェルビーの手術を決めたのは、 聴覚障害者の歴史や手話のことを研究した結果なの?それとももっと 簡単に決めてしまったのかしら?」
シェルビーの母「わたしたちは娘がより多くの選択肢を持てると思ったの。 耳が聞こえたほうがね。つまり、生きていくのが楽でしょう。 何の制約もない普通の生活が送れるわ。たとえば外科医のような特殊な仕事でもできるでしょう。 でも手話を使いながらじゃ手術はできないわ。」
ピーター(手話)「シェルビー自身はどっちだと思っているのかな?」
ニタ(手話)「そう人工内耳をつけていて、自分が聴覚障害者だという意識は あるのかしら?」
シェルビーの父「まったくないだろうね。まちがいなくそうだと思うよ。 聞こえないということを知らないんだ。」
このように人工内耳をめぐる議論がえんえんと50数分の番組を覆って続くのですが、 それぞれの議論が生活に裏打ちされていて、そのぶん新鮮で飽きるということがないのです。 それはふしぎなものです。人工内耳について、論じているのですが、 それぞれの主張を聞くうちにそこで論じられているのは、 じつは聴覚障害者の文化というものなのだと分かってくるのです。 聴覚障害をありのままに受け入れて生きていくという生き方があざやかに クローズアップされてくるのです。
原題は「SOUND AND FURY」となっています。
FURYというのは、狂暴なものです。つまり人工内耳というものを 聴覚障害者にとって狂暴なものとしてとらえているわけです。これ、考えさせられますね。
さらに新鮮なのは、この人工内耳を埋めたいという主張が5歳のヘザーの 要求に発しているということなのです。彼女の要求をまわりの人たちはまともに 受けとめているのです。
すばらしい作品でした。アメリカは単に合理主義の国ではないようです。 障害というものを考えるとき、何を大切にしなければならないか、 障害をどうとらえていくべきなのか、そんなことについていろいろと考えさせられました。 日本においてもろう文化というものを主張する論調がありますが、もっと自然な、 個性的なものになったとき、もっと広がりをもつものになるように思います。
聴覚障害者の場合はなるほどそうなのか、では、知的障害者の場合はどうなのでしょうか。 そんなふうに考えてしまいます。
何か意見を聞かせてください。


2002.1.1
「音のない世界で」(続)

「うずのしゅげ通信」の前月号で、教育番組国際コンクール”日本賞2001” を受賞した「音のない世界で」について書きました。
聴覚障害を持つ子どもに人工内耳の手術を受けさせるかどうかをめぐって、 聴覚障害の両親が悩む姿を描いたみごたえのある番組でした。
人工内耳を挿入することで、聴覚障害の両親が属する文化になじまなくなるのではないか、 聴覚障害者のアイデンティティーの問題などを真摯に考えていく姿は胸を打つものでした。
そのことを考えていて、自分自身でも反省することがあったのです。
わたしの前任校はろう学校でした。はじめてろう学校に赴任したのは、 いまから二十年くらい前ですが、当時キュードスピーチという方法が 教育現場で用いられていました。教育相談から幼稚部にかけてキュードスピーチ という手指をつかったコミュニケーション手段が導入されていました。日本語の発音で、 たとえば「か」という音は、「KA」ですが、その子音部分「K」を 人差し指で喉を指すことで表し、「A」を口の形で読みとるという方法でした。 読唇の補助に手指を使ったものでした。キュードの威力は抜群で、 それまでの唇だけを読む「口話法」では、なかなか身に付かなかった日本語が 「生徒にかなり入る」と「評価」されていました。わたしがいたのは中・高部で 、当時キュードスピーチ世代が、ちょうど中学部に進学してきたのです。 彼らの学力を見たとき、キュードスピーチの威力は歴然としていました。 それから十年くらいはキュードの時代だったように思います。 わたしが転勤してからしばらくして、手話が導入されたと聞きました。 キュードの威力を見せつけられたものとして、どうしてだろうと、ふしぎな感じがしました。 手話にもどして、はたして日本語が入るのだろうか、そんな気がかりがあったことはたしかです。 キュードスピーチの時代以前は口話法の時代で、手話は日本語獲得に有害だと 禁止されていたのです。山本おさむ氏のまんが「わが指のオーケストラ」にも 手話と口話の確執がくわしく出ていましたね。
しかし、「音のない世界で」を反芻しながら考えていて、気がつきました。 キュードスピーチはたしかに威力があったけれど、あれは教育現場から導入されたものだ ということです。人工内耳が医学の場から侵入してきたFURY(狂暴なもの)であるように。 だからろう者自身から、キュードスピーチは、自分たちの文化を壊すものだと 拒否する人が出てきてもよかったのではないか、ということです。親がたとえばろう者で、 手話がろう者の文化だとしたら、キュードスピーチを身につけた子どもと話しが 通じなくなることだってあるのですから。
そのことに思い当たったのです。
「音のない世界で」は、そんなことを反省させてくれたのでした。


2002.11.1
チャップリンは手話を使うの?

10月11日のNHK教育「きらっと生きる」 「いつも心にチャップリン 〜聴覚障害のパントマイム名人 芳本光司さん〜」は とてもよかった。
奈良県桜井市在住で、大阪パントマイムグループ代表の芳本光司さんは、 チャップリンの姿で出演していました。それほど、チャップリンに打ち込んでいて、 家はチャップリングッズであふれています。パントマイムもチャップリンの影響を 受けているらしいのです。一番印象に残っているのは、1990年にイギリスで 開催されたろうあ者大会で、ダイアナ妃の前でパントマイムを披露したときのことだと言います。 テーマは「シャワー」。芳本さんは、女性になって、衣服を脱いでシャワーをあびます。 これは二人のパントマイムで、もう一人がシャワーを演じます。女性の裸を見て興奮する シャワーの気持ちをあらわすのです。いやらしいシャワー。アンコールまであったという舞台、 それは放映されていませんでしたが、芳本さんの説明を聞いただけで、 本物を見てみたいものだと思わされました。芳本さんは、聴覚障害者なので、 彼のパントマイムは手話と連続したところもあるように思いました。
彼がアメリカ村でチャップリングッズを買っている場面があったりして、 同じようにチャップリンに心酔しているわたしもポスターがほしくなってしまいました。 あまりものにこだわりはないほうなのですが、チャップリンのポスター、欲しくなってきました。 で、いちどアメ村をぶらついてみようっと……。


「うずのしゅげ通信」 バックナンバー

2002年 12月号 よさこいピック(高知)、 「イーハトーブへ、ようこそ」改訂版、 SS「賢治先生御用達、出前プラネタリウム」
2002年 11月号 「抱きしめたい」賛、 祭りのあと、 チャップリンは手話を?
2002年 10月号 「ホームレス、賢治先生」(続)、 「アートママ」賛歌、 SS「小惑星が地球に?」(続)
2002年 9月号 「ホームレス、賢治先生」、虫、二題、 SS「小惑星が地球に?」
2002年 8月号 竹山広の短歌、性教育は砂糖が溶けるまで、 父の俳句
2002年 7月号 性教育「顔の美人さがタイプ」、保護者参観、 演劇の時代?
2002年 6月号 母の声、助走、性教育、 SS「百年たったら……」
2002年 5月号 総合学習に演劇を、障害者の職場、 性教育グッズ
2002年 4月号 花だより、性教育はこころの教育?、 SS「プラネタリウム」
2002年 3月号 1万アクセス、ボケとツッコミの構造(続)、 SS「訴訟」 
2002年 2月号 一人芝居「水仙の咲かない水仙月の四日」、 SS「わたしキスをしたんよ。」、「本害」? 
2002年 1月号 「音のない世界で」(続)、 SS「流星をとばして」、「これからどうなる21」 
2001年 12月号 「チャップリン」上演、 「障害者」ということば、「音のない世界で」 
2001年 11月号 誰が、誰を励ますの?、本人たちの劇を、 沖縄への修学旅行が中止
2001年 10月号 畑山博さん追悼、「モダン・タイムス」、 糸井重里「インターネット的」
2001年 9月号 養護学校の教科書 、YAHOOで本を、 時間の化石
2001年 8月号 あかちゃんはおしりから?、 高明浅太詩集「学校はおせっかい」、 遺品の中に「軍人勅諭」
2001年 7月号 嵐山光三郎「多摩の細道」、 近代家族と障害者の性、 科学の進歩はもうたくさん
2001年 6月号 大江健三郎の定義集、まど・みちお、 「性教育に人形劇を」LIVE
2001年 5月号 原爆を板にのせる、井上陽水はすごい、 賢治劇は星座?
2001年 4月号 HRで「吉本新喜劇」、アイボが我が家に、 知的障害児の高校進学
2001年 3月号 「Access denied」、 生徒のお笑いのレベル、ウォーキングのひそかな楽しみ
2001年 2月号 「地球でクラムボンが二度ひかったよ」、 性はどんなふうに話題に?、手話の記号化
2001年 1月号 新年の挨拶、賢治童話は“いじめ”でいっぱい、 山本おさむ著「どんぐりの家」
2000年 12月号 風がうれしい虔十、 養護学校は生き残れるか?、「知的障害者」という言い方
2000年 11月号 理想は高く! 高木仁三郎さん 追悼、  障害者の性
2000年 10月号 落語「銀河鉄道 青春十七切符」(続々)、 インターネット感想、十代の犯罪
2000年 9月号 性教育U、 落語「銀河鉄道 青春十七切符」(続)、歌集「椿の海」
2000年 8月号 性教育T、 落語「銀河鉄道 青春十七切符」、短歌
2000年 7月号 性教育、 「チャップリンでも流される」、映画「八日目」
2000年 6月号 演出秘話「賢治先生」、 「ざしきぼっこ」、「イーハトーブ」他
2000年 5月号 「うずのしゅげ」の小耳、演劇の癒し、 賢治は喜劇は?
2000年 4月号 障害児教育のHPを、 障害児教育にとっての「宮沢賢治」、知的障害者はなじまない
2000年 3月号 かしわ哲著「あったかさん」他
読者サービス映画券
「寅さんの『実習生、諸君!!戦後五十年だよ』」
2000年 春 準備号 短歌からの出発


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