アンソロジー「障害児教育」

[見出し]
2000.1〜2002.12
障害児教育のホームページをもっとつくろう

障害児教育にとって「宮沢賢治」とは、何ものか?

知的障害の生徒は今の生産様式になじまない?

「チャップリンでも流される」について

「バルコクバララゲ・宮沢賢治の授業」

理想は高く!

風がうれしい虔十

養護学校は生き残れるか?

「知的障害者」という言い方でいいのか?

知的障害児の高校進学ということ

「賢治先生がやってきた」は8つ星の星座?

大江健三郎の定義集

養護学校の教科書選びはむずかしい

再び「障害者」ということば

「これからどうなる21」

ボケとツッコミの構造(続)

障害者の職場が変わりつつある?

こんな保護者参観はどうですか?

よさこいピック(高知)に行って来ました

「うずのしゅげ通信」 バックナンバー

2000.4.1
障害児教育のホームページをもっとつくろう


インターネットをはじめて3カ月。わたしのホームページの来訪者は、これは想像ですが、 教育関係、宮沢賢治に興味をお持ちの方、さらに学校演劇の方ということになるでしょうか。
ところで、宮沢賢治関係や、学校演劇関係はリンクページがそれぞれに充実しています。 わたしのホームページもそれらにリンクさせてもらってもいます。 内容的にも充実したホームページがあって、リンクページも完備している。 だからホームページの全体を見通しやすいのです。
それに比べて障害児教育関係は、まず内容が充実しているとはいえない。 さらに障害児教育関係のホームページ自体の数が少ない。そのためもあるのでしょうが、 見識をもってジャンル分けをしたリンクページが完備していない、 そんなふうな感じをもっています。どなたか、 障害児教育関係のリンクページをつくってくれませんか。 そこにアクセスすれば、関係したホームページが一望できるといったリンクが欲しいのです。 それがひいては充実したホームページを増やすことになるのではないでしょうか。
教師だけではなくて、親がいろいろの情報を得ることができるようなホームページやリンクが できたらと、そんなふうに考えるのはわたしだけではないはずです。
自分自身が非力でできないので、どなたかの奮起を期待しているのです。
ここまで書いてきて、しかしこんなふうに断定的なものの言い方をしてもいいのか、 障害児教育関係のホームページについてどれだけ知っているのか、 という反省に捉えられました。もしかしたら、知らないだけなのかもしれない。しかし、 そうなら 知っておられる方、教えてください。


2000.4.1
障害児教育にとって「宮沢賢治」とは、何ものか?

障害児教育にとって「宮沢賢治」とは、何ものか?
わたしにとっては、「この人が生きていたからこの人生は生きるに値する」と思える人が何人かいて、 その一人が宮沢賢治なのです。賢治の思想、作品、生き方、対人関係、打ち込み方、 死に方、それらのすべてが渾然一体をなして一つのスタイルとしてわたしの前にある。 無批判に受け入れているわけではないのですが、やはり魅せられてしまうのです。
では、障害児教育にとって宮沢賢治とは、何ものなのでしょうか?
たしかに賢治には「虔十(けんじふ)公園林」という知的障害の少年を主人公にした作品があります。 もっともわたしはこの作品はあまりすきではありません。なぜだかわかりません。 それでもやはり賢治先生は養護学校にとてもふさわしい人物のように思われるのです。 それが賢治劇のもとになった発想です。
でも、賢治が養護学校の教師にふさわしいというのは、一つのひらめき、直観です。 なぜそうなのかを考えた軌跡が賢治劇だとも言えるわけですが、 それでも考え尽くされたわけではありません。 まだまだ考えなければならないことがいっぱいあります。どうしてそうなのか、 これから考えていきたいと思います。
「うずのしゅげ通信」は、とりあえずそんなものでも載せていくということでご了承ください。


2000.4.1
知的障害の生徒は今の生産様式になじまない?

わたしの勤務する養護学校ではかなりの割合の生徒が、 いろんな援護措置を使ってではありますが、就職していきます。 企業に就職できなかったものは、「福祉的就労」ということになります。 「福祉的就労」というのは聞き慣れないことばかもしれませんが、 作業所などに就労することをいうらしいのです。
なによりも、知的障害者というのは現在の生産様式になじめない人たちやなあ、 という話を友人としたことがあります。
その問題をあつかったのが、「チャップリンでも流される」という劇なのです。
生徒たちの作業を観察していると、作業それ自体への拘りが強いように思います。 やっていることは単純作業なので、そんなに楽しいはずはないのですが、生徒たちには、 われわれよりその作業を楽しんでいる(あるいは苦しんでいる?)かのような拘りが見られます。 単純作業それ自体を意味のあるものとして感じているかのようなのです。
今の社会では、労働者は、そんなふうな労働を労働のままに楽しむ楽しみを 奪われてきたとも言えるわけですね。むしろ労働はお金を得るための手段として我慢すべきもの になってしまっているのかも知れません。だから、その流れに逆らって 、作業それ自体に拘る知的障害者が現代の生産様式になじまないと 感じてしまうのかも知れません。
ちなみに就いている作業は、単純作業は単純作業なのですが、工場の製品の流れの中に 入ることはできなくて、流れからそれた浮島のような位置で、さらに単純な作業をしている、 といったところがおおまかな現状ではないでしょうか。工場の単純作業は、単純とはいっても、 パートさんが対応できるより以上には単純化されないのはあたりまえで、それでは知的障害者が ついていけないのは目に見えています。
まして、そこに製品に対する拘り(よりいいものを作りたいといった拘りとは別様のもの?)が あるのですから、現代の生産様式になじまないのは無理もないように思われます。
このことに関しても意見を聞かせていただきたいと思っています。


2000.7.1
「チャップリンでも流される」について

知的障害者の職場ということについて、以前から考えていました。卒業生はほとんどが製造業で、 それも単純作業に就いていきますので、それは現実的かつ緊急の問題でした。
そもそも、知的障害者は、考えようによってはもっとも産業資本主義の現代に不向きな、 生きづらい人間のように思います。その彼らに社会が準備した仕事は、 どのようなものなのでしょうか。想像されるように、その仕事はいい条件であるはずはありません。 効率優先の社会から疎外された彼らが追いやられる場所は、 いったいどんな場所なのでしょうか。
そのことをさらに考えるために、卒業生の就職先について統計をとってみたことがあります。 次に引用するのが、その考察です。
単純作業が生み出される過程については、中岡哲郎氏の本を参考にしています。 中岡哲郎氏の論考は、製造工場で熟練作業がどのようにしてパート労働者でも 担うことができる単純作業に変貌していくのかが詳しく分析されているのです。 熟練の作業工程が分析され、機械化、流れ作業化がなされます。 そこに導入される機械の入口、出口、あるいはライン作業として、単純作業が生まれます。 わたしが生徒の現場実習の巡回で訪ねた工場でもまさにそのようであったのです。 しかし、生徒たちはそんな単純作業にもついていけないようでした。 速さに、あるいは巧緻性についていけないのです。だから、養護学校の卒業生のほとんどのものは、 流れ作業に就くことはできず、流れ作業に繰り込まれている人の補助とか、 流れ作業とは切り離された内職的な作業に就くということが多いのです。
以下の文章は、「統計的にみた卒業生の就労実態」という題で、 研究紀要に発表したものです。
そこから、一部を引用してみます。
まず卒業生の進路先について業種別に統計をとった資料があり、 それをもとに分析を進めています。
「資料の表は業種別にとってあるが、職場の実態を具体的に把握するためには、 職場でどのような職種に就いているかをみていかねばならない。 例えば、プラスチック製品製造業にも金属製品製造業にもバリ取り作業があり、 幾分かの違いはあるものの、卒業生の職場の実態は『バリ取り作業』でくくるほうが より正確にとらえることができるからである。
本校の卒業生の場合、単純な作業が多い。工場の機械化がすすんだとき、単純作業は、 ベルトコンベアによる流れ作業の職場に、あるいは、縫製工場のように、 コンベアはなくても半製品は流れており、その分業として、また機械の入口出口、 といったところに生じるが、実際そのような製品の流れに乗れているものは、 どれほどいるのだろうか。流れ作業のスピードにはついていけず、 機械の入口出口の作業では採算のとれる早さで作業できないといったことも多い。 そうなると主な製品の流れにかかる作業工程からはじきだされることになる。 いわゆる補助作業に甘んじなければならなくなってしまう。このことは、 雇用の不安定さや低賃金とも関係している。しかし、おおざっぱにいえば、 機械化によって生じた単純作業に対応できるか、できないか、 といったところが本校の卒業生の実態である。そして、 そういった職場は主にパート労働者の職場である。 パート労働でも対応できるまでに仕事の単純化がなされており、 それについていけるものは、パートの女性労働者に囲まれ、 あるいはその指導のもとに働いている。パート労働者に支えられている。 労働密度の高い職場ではパート労働者とのトラブルもあるが、 ちょっとした善意で励まされることも多い。しかし、 作業の単純化もパート労働にたえられる程度の単純化であり、 本校の卒業生にとってはそれでもなお難しい。 平成2年度の卒業生についてざっとした統計をとってみると(厳密な作業の分類が難しいため)、 ベルトコンベアのあるなしにかかわらず、工場内の製品の流れのなかで作業をしているものが、 就職51名中14名(28%)(内訳は靴下のセット機も含めて電子部品製造等のコンベア作業9名、 縫製等の分業5名)、機械の入口出口の作業(例えば、プラスチック成型機の出口での製品 の箱詰め等)が7名(14%)、残りの30名(58%)が、主な製品の流れからそれた、 あるいは離れた、いわゆる補助作業である。このなかには、 例えばプラスチックや金属のバリ取り作業、製品をつめる箱作り、コンテナの洗浄、 縫製工場の糸きり、裏返し、靴下の揃え作業等がある。
製品の流れについていけるものはよいが、早さや、巧緻性においてついていけないものは、 補助作業となる。補助作業はどこにでもあるのかもしれないが、 同種の補助作業が持続してあることが雇用の条件といえる。 作業の流れをみて対応していくことは難しいからである。」

このような考えがあって、この劇「チャップリンでも流される」はできたのです。 チャップリンに登場してもらったのは、彼が宮沢賢治の同時代人であり、 賢治はチャップリンの映画を見ていましたし、 チャップリンが日本に来たとき、顔を合わせていたと想定してもなんら おかしくないということもあります。 また「モダンタイムス」の例の有名な場面、 チャップリンがベルトコンベアの作業で流されている演技が頭にあって、 宮沢賢治と労働について話をしてもらうとおもしろいかな、という発想が浮かんだからでした。
まだ、上演はしたことはありませんが、劇の難易度からいえば、上演可能な気がします。
もっとも能率主義からは遠い知的障害者にどのような職場を準備するかということで、 その社会の性格が分かるように思っています。
どういう場を設けるのが相応しいのか、いろいろな意見を聞きたいところです。


2000.8.1
「バルコクバララゲ・宮沢賢治の授業」

NHKドラマDモードで「バルコクバララゲ・宮沢賢治の授業」 (脚本・畑山博)を見ました。1992年に放映されたドラマのリバイバル放映のようです。 当時見た記憶がないので、見過ごしたのでしょうか。 「宮沢賢治」という活字には特に敏感に反応するはずなんですが。 畑山博の「教師 宮沢賢治のしごと」という本を読んだことがあります。 花巻農学校時代の教え子の証言に基づいて、賢治の授業を再現するといった本で、 今回のドラマはその本をもとに制作されたようです。
畑山博は、わたしの好きな作家の一人なのですが、 賢治先生に対してはすこし偏執的ともいえる拘りをもっているようです。
「私が、この今の人生を全部投げ出してでも、生徒になって習いたかった先生でした。」 という入れ込みようです。だから、せめてものことに、彼は賢治の教え子に聞いて回り、 賢治の授業を再現したいようなのです。代数の授業、英語の授業、土壌学、肥料学、 音楽演劇教育、国語の授業。賢治先生、何でも教えていたんですね。今回のドラマは、 それらの授業からそれらしい内容を集めて植物学の一時間の授業を作り上げたようなものでした。 授業というものに主眼があって、ドラマとしてはできがよくなかったように思います。 賢治役の竹中直人も例の熱中演技の見せ場がなかったようです。 ドラマとしては、今一つといったものでしたが、 賢治の授業はよく再現されているように思いました。賢治の授業のどこがすごいのか? 養護学校の教師として学ぶべきはどんなところにあるのか?と、 いったことを考えてしまいました。というわけで、「教師 宮沢賢治のしごと」 (小学館)を探し出して来ました。
本の埃をはらって、さて開いて見ると、以前に読んだときの折り込みがあり、 傍線も引かれています。大正十年十二月三日、 稗貫農学校の生徒の前に賢治がはじめて登場したときのことです。
「『ただいまご紹介をいただいた宮沢です。』とだけ短く発言してひっこんだ。」 というところです。
この挨拶は「賢治先生がやってきた」を書くときにつかっているのです。
「賢治先生がやってきた」は、生徒たちが、賢治先生の授業の多彩さにふれて、 「いったい賢治先生は何の先生なのだろう、ふしぎな先生だな」 と追及していくという筋書きになっています。そして最後には、禁止を破って理科室を覗き、 銀河鉄道の秘密をかいま見てしまったために、「見るなの座敷」の伝で、 賢治先生は去っていくというパターンです。しかし、賢治先生の具体的な授業については、 再現とまではいきませんでした。養護学校ということもあるかもしれません。劇の中では、 園芸の授業にすこし工夫をこらしたり、「銀河鉄道の夜」に出てくる天体の授業を再現したり、 というにとどまりました。
そこで、あらためて賢治先生の授業のどこがすごいのか?
直観ですが、それはすべての知識があきらかに賢治先生の内面をくぐって 出てきているというところにあるのではないでしょうか。内面をくぐってきた知識には、 すべて命が吹き込まれているのです。
ドラマの中に(植物学の授業)、水が蒸発して、雲となり雨として降ってくるということを 説明する場面がありました。わたしも理科の授業で天気の話の中で同じような話をすることがあり 、自分に引きつけて見てしまいました。
ドラマではこうです。どんなふうに知識が命の息吹をおびるかを見てください。

賢治先生「降る、降る、降る、じべたにはげしく飛び降りた 雨はそのまま地表を流れていく。(中略)水の行く先はどこですか?中田くん」
中田「はい、それは、低いほう、低いほう」
賢治「そして?」
生徒「北上川に入って、石巻湾まで流れていくちゃ」
賢治「海ですね、行く先は海ですね。水たちはだれよりも一番の旅好きなんです。 そうやって海にでて、しばらくは波に乗ってまっています。 そしてある日又空がかんかんでり、熱せられた海の水は蒸発してどうなります?
生徒「くも」
生徒「透明水分」
賢治「そうそうそう、雲はやがてひえはじめます。 すると水の分子が凝縮して体が重くなっていきます。必死になにかにすがりつこうとします。 ところで、空気中には地上から吹き上がったいろんなごみの粒、ちりが浮いています。 人間たちには役に立ちそうもない目に見えない小さなちりです。」
ここで黒板消しを手にして、それを手ではたいてチョークの粉をとばします。
賢治「この丸顔のデクノボウみたいなちりたちにも実は存在することの意味があります。 このちりに水の分子はすがりつきます。そうしてできるのが雨です。 水の分子が彼らだけでいくらがんばっても雨にはなれないのです。」

これだけの引用でもわかります。賢治の内面をくぐることで、すべてのものが、 水も、水分の、ちりも命を与えられてくるのです。 そこにあらわれるのはアニミズムの世界ですね。しかし、科学的な知識はしっかりしています。 賢治は、科学的に裏打ちされたアニミズムの世界を生徒の前で展開している といったふうに見えるのです。そこから、かつての教え子のつぎのような証言が出てくる のかもしれません。
「頭で覚えず、いつでも身体でおぼえなさい。すると知識に感動出来るのですよ。 詰めこみでは何も理解出来ない、ただ感動せよ、と言われましたね。」
この手法は養護学校の生徒についても有効だとわたしは考えています。 もちろん水の分子といったものまで登場させるのはむりですが、 水やちりならわかってもらえると思います。アニミズムの世界に生徒たちは、 違和なく入り込めるのではないでしょうか。ただ、自閉的な傾向をもった生徒の中には、 アニミズムを極端に苦手にするものがいるようで、 それはまた別に考えていかなければならないと思います。
現在の教育の荒廃に対して、畑山博は「個性とルールの調和」という処方を提唱しています。 そして、その方向での教師の試み、「(個性とルールの調和を問いつづける) 教師たちの思索のルーツをたどると、必ずといっていいほど賢治にたどりつくいうことに、 私はある戦きをおぼえてきた。」とまで言っています。ここで畑山のいう個性とは、 まずは生徒の個性であり、ルールというのは社会的なルールのことでしょうか。 ルールが個性を抑圧するのではなく、調和するような授業ということでしょうか。 あるいは、個性とは教師の個性であり、ルールといいうのは、 科学的な法則といったものかもしれません。 教師の個性をくぐってきた知識こそが貴重なのであって、 たんなる知識など何も学校に行かなくても本を読めば足りるのですから。 個性というのは、知識への命の吹き込みかた、比喩のあたえかたなどにおのずとあらわれて くるものでしょうか。それが、科学的な知識に裏打ちされているとき、 それほど強いものはないように思います。もう一つは、個性というのは、 生徒個々がこれまでの成長のなかで蓄えてきた経験の総体であり、 学校で教える知識、ルールというのは、それを含み込むようなかたちの ものになっていなければならないということでもあるように思われます。
そのようなこともあって、畑山は「賢治こそ、今のこの荒廃した教育状況の中に 灯すことの出来る、唯一具体的でリスクの少ない教育ヴィジョンなのだと 私は確信するようになった。」というのです。かくいうわたしもまた、 養護学校の教師としてのもっともふさわしい人物像を賢治に見つけて、 そこから抜け出せないでいるのだから、畑山博の気持ちもたいへんよく分かるのです。
賢治は、結局四年と少しで教師を辞めます。 時代に先駆けた彼の創造的な教育が受け入れられなかったのでしょう。 辞めるに際して書いた「生徒諸君に寄せる」という詩の一部を 引用させてください。
この四ケ年が
    わたくしにどんなに楽しかったか
わたくしは毎日を
    鳥のように教室でうたってくらした
誓って言ふが
    わたくしはこの仕事で
    疲れをおぼえたことはない
    (後略)
教師たるもの、願わくばこうありたいものですが。
たまたまNHKドラマの「バルコクバララゲ・宮沢賢治の授業」に、 理科の教師として自分も教えている天気の話やら、 雨や雲の話やらが出てきていろいろ考えさせられることがあったので 「うずのしゅげ通信」で取り上げてみました。でも、出来上がってみると、 またまた今回も結構長い肩の凝る話になってしまいました。


2000.11.1
理想は高く!

「はじめに」で触れているように、わたしは養護学校の教師ですが、 生徒にどこまでの水準を要求するかということは、つねにこころに引っかかっている問題です。 そのことで考えさせられる記事を新聞に見つけました。
「知的障害者も大学でキラリ」という見出しです。
教科の内容を考えているとき、こんなことを教えても無理かな、 とつい考えてしまうことがあるのです。もっと要求水準をさげるべきか、という迷いです。 しかし、教師が要求水準をさげたとき、生徒はそのレベルまでしか伸びることができない。 それは明らかなのです。
普通校でも同じではないでしょうか。教師が理想水準をさげたとき、 生徒はそこまでしかのびない、という面もあるのではないのでしょうか。 もちろんそんな足枷などものともせずに、乗り越えていく生徒もいるでしょう。
しかし、知的障害の生徒はどうなのでしょうか。教師が理想を落としたとき、 もろにその影響を受けてしまうのではないでしょうか。 もっとも、理想が現実とかけ離れて高すぎてもまた問題でしょう。 その新聞記事はそのような迷いの参考になるものでした。
知的障害者が大学で学ぶ?大学の自由を味わいたい?さらに学問をしたい? でも、そんなことは無理ではないか、ついそう考えてしまいますね。 しかし、大学の学問はむずかしいからとはじめからあきらめるのではなく、 大学の学問を彼らにも理解できるように構成し直して、彼らなりに理解してもらう、 その試みが大事なのだということがわかります。 われわれもひごろそう考えて努力すべきなのだと、反省を迫られるものでした。

朝日新聞10月1日「知的障害者も大学でキラリ」
「3年目のオープン・カレッジ
知的障害のある人たちに学んでもらう「オープン・カレッジ」が、今年で三年目を迎えた。 養護学校を卒業した後は教育を受ける機会が少ないため、 大阪府と兵庫県の大学で社会福祉を研究する教員・学生らが、学ぶ場を提供しようと始まった活動。 (中略)
九月二十三日、桃山学院大社会学部では、石田易司教授(社会福祉)のレクリエーション論で オープン・カレッジが始まった。石田教授が「レクリエーションの始まりは人との出会いです。 気に入った人がいたらまず握手をして、名刺を交換して下さい」と呼びかけた。 受講生らは手製の名刺三枚ずつを持って教室の中を回り、お互いに自己紹介。 教室のあちこちで笑い声が起きた。受講生の一人には「サポーター」という大学生が付きそう。 受講生らの活動を手助けし、時には相談相手になる同級生のような存在だ。 (中略)大阪府寝屋川市から参加した中山善之さん(31)は 「養護学校を卒業してから久しぶりに学校で学んだ。友だちもたくさんできた。 もっといろいろ勉強したい。」と話す。
知的障害のある人たちが、高校にあたる養護学校高等部を卒業した後、 進学を希望しても受け入れる大学や専門学校はほとんどない。 こうした人たちが教育を受ける機会をつくろうと大阪府立大(大阪府堺市)で、 社会福祉学部の安藤忠教授らが1998年8月に初めての夏季オープン・カレッジを開いた。 この時に参加した他大学の教員や学生らが中心になり、99年には武庫川女子大、 今年は桃山学院代が受け入れた。(中略)大阪府立大に通う二十四人の一期生は、 現在「三回生」だ。九月三十日の夏期講座では、これまで学習したテーマごとのゼミに分かれ。 研究発表をした。来年は卒業論文に取り組む。安藤教授は「障害の有無にかかわらず、 すべての人が自分の個性に応じた高等教育を受けられるべきだ。 将来は各大学間で「単位互換」や「交換留学」も実現したい」と話している。」


2000.12.1
風がうれしい虔十
賢治童話の知的障害者像

賢治の童話に登場する知的障害者は「虔十公園林」の虔十(けんじふ) だけではないかと思います。
しかし、残念なことに、数多い作品論の中でも、この「虔十公園林」は、 あまり触れられることがありません。
では、この作品のなかで知的障害を持っているらしい「虔十」はどのように 表現されているのでしょうか。

虔十はいつも縄の帯をしめてわらって杜の中や畑の間をゆっくりあるいてゐるのでした。
雨の中の青い薮を見てはよろこんで目をパチパチさせ青ぞらをどこまでも翔けて行く鷹を 見付けてははねあがって手をたゝいてみんなに知らせました。
けれどもあんまり子供らが虔十をばかにして笑ふものですから 虔十はだんだん笑はないふりをするやうになりました。
風がどうと吹いてぶなの葉がチラチラ光るときなどは虔十はもう うれしくてうれしくてひとりでに笑へて仕方ないのを、無理やり大きく口をあき、 はあはあ息だけついてごまかしながらいつまでもいつまでもそのぶなの木を 見上げて立っているのでした。

この箇所を読んでいると生徒の顔が浮かんできました。「いるいる」と思わず笑ってしまいました。 わたしの学校にもいるのです。たいした理由もなくあはあはとわらっているのです。 なにがおかしいのでしょうか。ふしぎな気がします。だからそんな生徒は教師から、 理由もなく笑うことを禁止されていたりするのです。
おっかさんに云いつけられると虔十は水を五百杯でも汲みました。一日一杯の草もとりました。 けれども虔十のおっかさんもおとうさんも仲々そんなことを虔十に云ひつけようとは しませんでした。

虔十は家族の中で幸せだったことがわかります。なにげない表現ではありますが、 家族の暖かさが伝わってきます。
さて、そんな虔十が、あることをねだります。

「お母(があ)、おらさ杉苗七百本、買って呉(け)ろ。」
「杉苗七百ど、どごさ植ゑらい。」
「家のうしろの野原さ。」
(兄が)「あそごは杉植ゑでも成長(おが)らない処だ。」 (と反対しますが、父が助け船をだします。)
「買ってやれ、買ってやれ。虔十ぁ今まで何一つだて頼んだごとぁ無ぃがったもの。 買ってやれ。」

虔十は、これまで何一つねだったことがなかったのです。あれが欲しい、 かれが欲しいという欲望から解放されているのです。まったくないとは言えませんが、 物的な欲望から比較的自由だということなのでしょう。
みんなはどう思っていたのでしょうか。

「あんな処に杉など育つものでもない、底は硬い粘土なんだ、 やっぱり馬鹿は馬鹿だとみんなが云って居りました。」
「それは全くその通りでした。杉は五年までは緑いろの心がまっすぐに空の方へ 延びて行きましたがもうそれからはだんだん頭が円く変って七年目も八年目も やっぱり丈が九尺ぐらゐでした。」

ところが、その杉の林が子供たちの遊び場になるのです。
「虔十もよろこんで杉のこっちにかくれながら口を大きくあいてはあはあ笑いました。」
畑が陰になるので杉を伐れといわれても頑なにいうことを聞こうとはしません。
そんなこんなで杉林をめぐる軋轢がいくつかあって、村人に殴られたりもするのですが、 物語はさりげなく展開していきます。筋を追って見ましょう。
「さて虔十はその秋チブスにかかって死にました。」
そして、その後鉄道が敷かれ、近くに停車場ができて村は町になり発展していきます。 ある日村から出て今アメリカのある大学の教授になってゐる若い博士が 十五年ぶりで故郷に帰って来」て、虔十の杉林を訪れます。そして、 彼の提案で「虔十公園林」として、保存されることになります。

「その虔十といふ人は少し足りないと私らは思ってゐたのです。 いつでもはあはあ笑ってゐる人でした。毎日丁度この辺に立って私らの遊ぶのを見てゐたのです。 この杉もみんなその人が植えたのださうです。あゝ全くたれがかしこくたれが賢くないかは わかりません。たゞどこまでも十力の作用は不思議です。」
(「十力」というのは、仏の力という意味ですね。)

そして、最後は次のように締めくくられています。

全く全くこの公園林の杉の黒い立派な緑、さはやかな匂、夏のすゞしい陰、 月光色の芝生がこれから何千人の人たちに本当のさいはひが何だかを教へるか 数へられませんでした。
そして林は虔十の居た時の通り雨が降ってはすき徹る冷たい雫をみじかい草にポタリポタリと 落としお日さまが輝いては新しい綺麗な空気をさはやかにはき出すのでした。

賢治がここで言いたかったことはこのあたりにありそうですね。「虔十公園林」の立派な緑、 さはやかな匂、木陰、月光色の芝生、これらが公園を訪れる人たちに 「本当のさいはひが何だかを教へる」というのです。「全く全く」共感してしまいます。 「虔十公園林」ばかりではありませんね。虔十の生き方そのものが、われわれに 「本当のさいはひが何だかを教へ」ているように思います。教えているというのは、 少々抵抗がありますね。わたしたちが虔十という澄んだ鏡に向かうとき 自然と考えさせられてしまうのです。われわれの欲望にまみれた消費、むだ、むなしさ、 それらに対して、虔十の寡欲さ、風が吹いただけでうれしい豊かさ、その対照は歴然としています。 地球環境のよごれをもたらしたわたしたちの欲望と断絶した彼らの寡欲、 そのような彼らが指し示す方向、歩みゆく方向が、じつはわたしたちの向かう方向なのではないか、 賢治はそんなことを伝えたかったというような気がします。 生徒たちに面していてもそんな気がすることもあるのです。いかがでしょうか。
「虔十公園林」において、賢治が言わんとしたことを現代の自分の問題に 引きつけるとどうなるでしょうか。
虔十ほど資本主義的人間から遠い存在はありません。現代の加速的な時間感覚が身に付きにくく、 作業能率というものとは縁遠い、そんな彼をもっとも資本主義的生産現場である単純作業、 流れ作業の職場に送り込んでいる、それが客観的に見て教師が果たしている役目のような 気がします。このことに違和を感じないではおれませんね。 (「うずのしゅげ通信」7月号「『チャップリンでも流される』について」で論じたように、 流れ作業にさえ入り込めない生徒もいます。彼らは、 流れから離れた浮島で孤立して単純作業に向かいます。)しかし、 「虔十公園林」の時代と違って、現在では虔十に許されている職場はそこにしかないのです。 どうすればいいのでしょうか。それが、知的障害者の労働の意味というものを考えようとした 賢治劇「チャップリンでも流される」のテーマなのですが……。


2000.12.1
養護学校は生き残れるか?

最近、「障害児の授業研究」という雑誌にほんの短文ですが「わが校自慢」 という題で文章を書く機会が与えられました。そこで、 わたしがいま勤務している高等養護学校のことを考えてみたのです。 高等養護学校の存在価値はどんなところにあるのでしょうか。
最近新聞で障害者を普通校にという記事を読みました。 身体に障害をもった子供たちを地元の小学校にという内容でした。もうひとつは、 普通高校でも知的障害者を受け入れるというものでした。もちろん人数を制限してのものですが、 検討されているようです。
それでは、障害児校といわれている学校の存在意義はどこにあるのでしょうか。障害児校は、 完璧に否定されるのでしょうか。
子どもが障害をもっていると分かったとき、地域の学校か養護学校かという 選択をせまられる機会が何度かあるように思われます。まず決断を迫られるのが、 小学校に入学するときです。地域の小学校か養護学校か、どちらを選ぶか。 ここで親の生き方が試されているようなところがあります。たとえば、 地域の小学校を選ぶとします。子どもは元気に地元の小学校に通い出す。 養護学校を選択した子どもは地域の小学校と交流があります。だから、 まったく地域の子どもたちと切れるわけではありません。 年に4、5回の交流で顔は覚えてもらえる。そして、この交流も年々盛んになってきているので、 うまくすれば、養護学校を選択しても地域とのつながりは保てるかも知れません。 ここの風通しをよくすることがとても大切ですね。小学校3年生くらいで、 もう一度決断を迫られます。このまま地域の小学校に行き続けるかどうか。 9歳の壁と言われる年齢に近づくと、他の子どもたちとの格差も顕著になってきます。 友だちや教師とほんとうにコミュニケーションができているのでしょうか。 いじめの問題が出てきたりすることもあります。そこで、さてどうするか。 ここらで、養護学校に転校して、子どもにあった授業を受けさせるか。 しかし、地域の小学校の障害児学級という手もあります。 ここでも地域の学校を選択したとします。中学に進学するときは、 また迷ってしまいますね。地域の中学が荒れているという噂を聞いたりすると、 いじめられはしないかと、養護学校に傾くこころが出てきます。 養護学校に見学にいったりもします。それでも地元の中学をえらんだとします。 つぎに中学校の3年生になると、進学をどうするか。
高等養護学校か、養護学校の高等部か、それとも思い切って高校を受けてみるか。 こうして、最後に高等養護学校を選択して入ってくるようです。
高等養護学校は、県内の中学校の障害児学級を出たものがほとんどです。 そこに普通学級の出身者と養護学校の中学部出身者が少し混じる程度です。
彼らは、高等養護学校に入学すると、まず対等の人間関係に曝される。 友だちになりたければ自分から口を利かなければならないし、 教室移動や着替えの段取りも自分で考えないとだれも手を取って 教えてくれるわけではありません。恋愛ももちろん対等です。 片思いや憧れだけではありません。本当に恋愛もできるのです。 この対等の関係に放り込まれることによって生徒たちはいちじるしい成長をとげます。 これは教師が介入できない集団の力学のようなものです。 もっとも教師との人間関係もそこに含めて考えておいた方がいいかも知れません。 しかし、とくに自閉傾向をもった生徒など、集団に入り込めない、 対等の人間関係が苦手な生徒は、その機会を捕らえることができなくて、 置き去りにされます。ここに教師が援助しなければならないところがあります。 対等な人間関係の場を保障することと、対等な人間関係になじめない生徒を援助すること、 これがとりあえず教師に課せられた仕事となります。対等の集団というのは、 人間の発達にとっていかに必要かということを痛感させられますが、 そこに問題がないわけではありません。放っておくと、そこに対等ではない、 かまい、かまわれる序列ができたりするからです。生徒の中に教師をまねるものが 出てくるのです。
人間関係が、対等な関係、先輩・後輩の関係、対教師の関係といったふうに分節化してくると、 それにともなって言葉遣いといったものも分節化しなければならなりません。 それがなかなかむずかしいようなのです。教師に対しても友だちに対するのと 同じような言葉遣いをする習慣がなかなか抜けません。
慣れない対等な人間関係でぎくしゃくします。けんかもあります。 慣れてくると異性を好きになるということもできてきます。 これまでのような夢のような片思いとは手応えがちがいます。 平等な人間関係があってこそ、けんかも恋愛感情も育つのでしょうが、 どこかぎこちないのです。恋愛もそれなりの訓練が必要です。 人は思うようにはならないということを思い知るべきなのです。 しかし、彼ら、彼女らは、自分の恋愛を何を手本にしているのでしょうか。
ここまで書いてきて、「イーハトーブへ、ようこそ」に欠けていたものに 気がつきました。それは人を好きになるときその前提となる対等な人間関係の要素でした。 なんだ、結局性教育はコミュニケーションといった論か、ということになってしまった。
しかし、それも必要かも知れない。生徒たちは、生徒たち同士の、 また対教師の人間関係をキャスティングボードにして、2、3年になると段階を追って実習し、 就職に向けて歩み始めます。もちろん、みんながみんな就労できるわけではありません。 卒業生の80%ぐらいが就労、残りが福祉施設(入所、通所)や家庭療養や 家事手伝いといいうことになります。
高等養護学校はこのようなところに意義を見いだして行くしかないように思われます。 どんなものでしょうか。
一連の賢治劇は、そのような状況の中で発想されているのです。そのへんの事情、 養護学校関係者以外の方たちにも分かっていただけるでしょうか。
こんなふうに考えていて、やはり「イーハトーブへ、ようこそ」を改稿しないといけないという 気になりました。それですこし手を入れてみました。新たにラブラブのカップルが登場しています。 気になる点がありましたら、聞かせてください。これからも手を入れていきたいと考えています。


2000.12.1
「知的障害者」という言い方でいいのか?

知的障害者を呼ぶのにどう呼べばいいのか、模索されているがなかなかいいことばが 見つからないようです。
まずは、「知的障害者」とカッコ付きで書くことによって、 ほんとうはこんなことばは使いたくないのだが、 しようがなくて使っているという違和を表している者。 しかし、少々わざとらしいようなきがしますし、つねに徴がついっていてかえって 意識してしまうようなところもあります。
「知的障がい者」こんなふうに表現する人もいます。「障害」の「害」の字、 あるいは「障碍」の「碍」の字を忌んでのことでしょうか。しかし、 では「障」の字に問題はないのかといえば、そうでもないように思えるのです。
ほん最近までは「精神薄弱」ということばが使われていました。 先日も学校の運動会で古いテントが張り出されたとき、 そこに「精神薄弱」の文字があってどきっとさせられました。
でも、つい4、5年前までは、「精神薄弱者」ということばは公式のことばだったのです。 たとえば「精神薄弱者養護学校」「精神薄弱者問題」等々。
わたしが現在校に赴任してきたころは、「精神薄弱者スポーツ大会」というものが 県単位であって、生徒に参加を募るプリントを配付していました。しかし、 さすがに面と向かっては「『精神薄弱者スポーツ大会』の参加願をもってきたかな」 とは言えませんでした。「スポーツ大会」ということでことばを濁していたのです。 いまは、「ゆうあいスポーツ大会」とか「ゆうあいピック」とか呼ばれています。 「ハンディキャップサッカー大会」とかいう言い方もあるようです。
わたしは、いまの学校に赴任する前は、ろう学校に勤務していたことがあり、 「身体障害者」とか、「聴覚障害者」ということばはほとんどなにげなく使っていました。 (完璧になにげなくということはありませんが。)生徒に面と向かって、 手話で「聴覚障害者」ということばで話しかけていたのです。
しかし、現在校で、生徒に面と向かって「知的障害者」ということばは使えません。 やはり、「聴覚障害者」とくらべると、わるいイメージが纏い付いているのでしょうか。
では、どういうことばであらわせばいいのか、これがなかなか難しいようです。 これといった案が出ていないようです。

今年の7月にNHKの「にんげんドキュメント」、「カーネギーに響け・歓喜の歌」 という番組が放映されました。副題が「感動の第九ともに生きた障害者と家族の10年」 というものです。
民間の福祉団体「ゆきわりそう」が作った合唱団が、「健常者」も、 「障害者」もその家族も一緒にずっと第九だけを歌い続けて、 これまで七回のコンサートを開いてきたのです。その合唱団が、今回、 カーネギーホールでのコンサートに挑戦し成功させるという内容でした。 これまでの歩みの中で、合唱技術の詳細はあまりわかりませんが、障害者たちが、 第九の合唱をそのままでは歌うことにはやはりむりがあったようで、 テノール、バス、アルト、ソプラノの四つのパートにたいして、 第5パートという新たなパートを作られたのでした。
ナレーションではこうなっています。
「障害者にも高い目標に挑戦することで生きる歓びをあじわってほしいと 11年前第九の合唱を呼びかけました。第九は音の高さがいきなり 一オクターブかわるところがあるなど、合唱の中でもむずかしい曲です。 歌える音域が限られている障害者のために、ソプラノ、アルト、テノール、バス、 という四つのパートとは別の第五パートという新たなパートが作られました。 第五パートは四つのパートの音程の変化が少ない部分をつなぎあわせました。 音域の狭い障害者にも歌いやすいように考えられたのです。」

ここで言いたいのはその内容についてではありません。ここで使われている 「第五パート」ということばについてです。「第五パート」とは、 合唱の分担を表しても居ますが、同時に障害者の人たちも表しているようです。 しかし、わたしはそのことばに違和感を持ちませんでした。そのことにふと気づいたのです。 これまで耳にした知的障害者を表すことばのなかで、もっとも抵抗の少ないものでした。
しかし、時間をおいて考えて見ますと、これでもやはり区別は残っていますね。 そもそも命名というのは区別なのですからね。区別はすぐに差別になります。 「第五パート」ということばもすぐに差別の意識に纏いつかれて 薄汚れてしまうかもしれません。
結論、やはり命名をやめるしかありませんね。福祉的な援護だけが、 問題ならば手帳Aを持っている人、Bを持っている人、これで十分な気もしますが。


2001.4.1
知的障害児の高校進学ということ

2001年3月19日の朝日朝刊35面は、つぎのような記事で埋められていました。
知的障害児の高校進学 大阪府が特別枠で門戸
共に学び育つ場求めて
この春、大阪府立高校が特別枠で知的障害のある子どもの入学を認めた。 なぜ高校へといぶかる人もいるかもしれないが、同世代の仲間と共に学び共に育つことは 、子どもたちや親にとって切実な願いなのだ。知的障害児の高校進学運動は、 二十年前ごろから盛んとなり、ここ数年、全国で千八百人前後が入学している。 しかし入試の壁は厚く、募集定員に達しない場合に入学を許可された「定員内合格」がほとんどだ。 全国初の大阪の試みは、卒業後の進路も含め、受け入れ後のあり方を探るテストケースとなり、 将来の「制度化」も視野に入れている。実現の背景と課題を探ってみた。」
といった概説があり、企画報道室・五孝隆実記者の署名があります。
内容を全部引用することはできませんが、ほん一部を抜粋するとつぎのようなものです。
まず、府教委の新しい試み
「今回は、大阪府教委が学校教育審議会の提言を受け、知的障害のある子どもの 後期中等教育のあり方を探ることを目的に踏み切った。府内の四校で調査・研究(五年)のあと 、入学枠を正式な制度として発足させるか、協議する。(中略)調査・研究指定校には、 これまでに知的障害のある生徒の受け入れや交流の実績があり、地域の中学校との連携や 支援が期待される高校が決まった。西成(大阪市)、柴島(同)、松原(松原市) 阿武野(高槻市)の四校だ。特別枠には十六人が希望し、 三月初めまでに八人の入学が決まった。」
この試みに対する府教委の留意事項
「個々の要望にこたえる教育を志向するなか、『知的障害のある生徒が生涯にわたって 自立していくための教育』も検討対象になった。教委内部の検討委員会では、 @これまでの入学者選抜方法と異なる方法によるA個々の状況に応じたプログラムを提供する B可能な限り障害のない生徒と共に学ぶ−の『留意事項』をまとめた。」
こういった調査・研究の試みに至った背景、考え方
「障害のある子どもの教育については、1979年に養護学校が義務化されて以降、 養護学校入学を勧める教育委員会と地域の小中学校を希望する親とが対立するケースがあった。 しかし大阪府では、親の希望がほぼ通り、障害のある子の八割が地域の学校に進む。 全国でもず抜けて高い率だ。自然と高校へも一緒に通いたいとの願いが起こり、 中学・高校の教諭や人権教育をかかげる部落解放運動も後押しした。 知的障害以外の子どもたちには点字受検、時間延長、拡大問題用紙、 代読など受検上の配慮が整えられ、高校へ進む壁が全国的に取り除かれつつある。 高校進学率約96%のなかで、親たちには知的障害児だけが高校から排除されている との思いが強く、『0点でも高校へ』が運動のスローガンとなった。」
「高校はいま、教科を学ぶだけでなく、十五歳から十八歳の時間を過ごす『生活の場』でもある。 知的障害のある子どもや親も、同世代と一緒に過ごす『生活の場』として高校進学と望んでいる。 卒業後の地域での暮らしとも結びついている。」
堀智晴氏(大阪市立大助教授(障害児教育論))のコメント。 「知己障害のある子が高校に行っても、なんにもならないではないか、という声は出るだろう。 希望する親も子どもの学力を考えないわけではない。学力面では『お客さん』的にされるだろう。 それでも、行きたいのだ。同世代の友だちのなかで青春をすごしたい、学びたい、生活したい、 障害があるからといって別扱い(差別)されたくない、からだ。この気持ちは大切にしたい。 (中略)教師の姿勢に生徒は敏感だ。彼らと向き合い、問題が起きれば、 解決するためにすったもんだする。それでいい。いろいろあっても、 全体として受け入れていくクラスづくりに努めてほしい。教師の基本姿勢が問われている。 周りの生徒にとっても、いろいろな価値観をもった人とかかわり、もまれることは、 人を学ぶ基本だ。障害のある友だちと共に生活することで得難い経験をするだろう。 授業がわからないからという理由で、安易に場を分けないでほしい。 同じ場を共有することがいかに大切か、私は実践研究を通じて確認してきた。」
わたしの考え
たしかに、堀氏のいわれるように、「周りの生徒」にとっては、「得難い経験をするだろう」 ということは想像に難くありません。「授業がわからないからという理由で、 安易に場を分けないでほしい。」というのは、府教委の留意事項にある 「可能な限り障害のない生徒と共に学ぶ」ということであり、小・中学校の障害児学級の ような形態をとらないで一緒に、ということだろうと思います。
記事を書かれた五孝氏が訴えたいことや、コメントを寄せられた堀氏の考えは分からないでは ありません。また、大阪府教委の試みも、選択肢を増やしたという意味で評価しなければ ならないのでしょう。
しかし、高等養護学校の教師として、養護学校側からの風景を提示することにも何らかの 意味があるかもしれないと考えて、これを書いているわけです。高等養護の教師である私の 視点から府教委の試みはどのように見えているのか、新聞記事の内容をどのように 受けとめるのか。(ちなみに、私は大阪府の公務員ではありません。 大阪に高等養護学校はありません。)
以前にもこの「うずのしゅげ通信」で話題にしたことがありますが、 高等養護学校の存在価値はどのようなところにあるのでしょうか。 中学校の障害児学級から進学してきた生徒たちは、 どのような環境でどのように成長をしていくのでしょうか。 あるところにつぎのように書いたことがあります。
高等養護学校のメリットは、「まずなによりも生徒たちが自分たちの力で伸びてゆくことです。 彼らは入学してくると対等の人間関係の中に放り出されることになります。 つぎの授業場所はどこなのか、体操服に着替えるのかどうか、だれも教えてはくれません。 周囲を見回して、自分で考えなければなりません。友だちになるのもけんかも、 異性を好きになるのももちろん対等の関係です。対等の集団、それは何ものにもかえがたい 成長の環境なのではないでしょうか。だから教師としては、その場を保障することが 大切なように思われます。」
親友ができる、あるいは好きになったり、好きになられるかもしれないという 可能性が感じられる、そのような関係が本当の対等な人間関係なのではないでしょうか。 人間が生きていく上で、一時期であれ対等な人間関係は絶対必要なように思われるのです。 そのような関係の中で、社会自立を目指して勉強しているわけです。また、文化祭では、 ここのホームページにあるような劇をやったり、ホームルーム学習では吉本新喜劇を したりということもあるわけです。
どちらの環境を選ぶのか、難しい選択であるようにも思われます。
対等な人間関係ということでいえば、知的な障害をもたない生徒とだって対等ということはある、 と主張されるでしょう。本来の人間関係はそうあるべきだと。現実にそのような関係が無理なら、 記事にもあるように「差別されるために高校に行く」という意見だってありえます。 それが対等の最初の一歩だと。そして、人間の成長に対等の関係がどうしても必要なら 私生活の中でそういう人間関係を保障すればいい、と反論されるでしょう。 対等の人間関係を学校で保障するのか、それとも私生活で保障するのか、 という選択になるのでしょうか。
地域の学校と養護学校、同世代と一緒に過ごす高校と養護学校の高等部。 それらのどちらを選ぶか 、難しい選択だといいましたが、これは二律背反の選択肢ではないかもしれません。 二つの集団があってゆききできること、それが保障されることが、 一番大切なことなのではないでしょうか。そんなふうに考えたいような気がします。 とくに小・中学校のときは、地域の学校と養護学校との壁が取り払われてゆききできるように しておくことが必要なのではないでしょうか。
北欧の先進国においては、しかし、障害者も普通校に進学するのは当然なようです。 ということは、私の言っていることは、時代遅れな主張をしているのかもしれません。 しかし、上に述べた考えは掛け値なしに、現在私が身をもって感じ、 自分なりに考えてきたことなのです。
「異論、反論、オブジェクション」があることは承知しています。また、メールをいただくなり、 掲示板に書き込んでいただくなりしていただければ幸いです。


2001.5.1
「賢治先生がやってきた」は8つ星の星座?

「賢治先生がやってきた」のシリーズは、まずはじめに 「賢治先生がやってきた」が上演を想定して作られた。 つぎに、「イーハトーブへようこそ」「「銀河鉄道の夜」のことなら美しい」、 「チャップリンでも流される」が書き下ろされ、 最後に「賢治のイフはめんどうだ」ができあがりました。 それが、五年くらい前です。そして、火食鳥という同人誌に適宜掲載してきたのです。 さらに1999年秋、文化祭で上演するために「ぼくたちはざしきぼっこ」の脚本を 書きあげました。それら一連の劇をインターネットで公開しては、と勧められて ホームページを立ちあげたのが2000年当初。ホームページの開設が刺激になったのか 8月に落語「銀河鉄道 青春十七切符」を、また2001年正月に 二人芝居「地球でクラムボンが二度ひかったよ」の劇を上梓して、 すべてで8つの劇がそろったことになります。
これらの劇を作りはじめたときから、脚本をちりばめた星座のようなものを想像していました。 最初は5つ、「ざしきぼっこ」までいれても6つの星座で、養護学校での上演を めざしたものでした。七つなら北斗七星を名乗ることもできるのでしょうが、 さらに2つ加えたために、1つ余計に作り過ぎてしまいました。しかし、 これら賢治劇の8つの星が連なって賢治先生の星座(コンステレーション)となり、 宮沢賢治が現在の養護学校の先生になったら、あるいは小学校の、中学校の、 高等学校の先生になったら、生徒たちに話したいと願った内容のイメージを 浮かび上がらせているとしたら、わたしの想いがかなったということであり、 これほど幸せなことはありません。
養護学校において日々の生活において気にかかることは星の数ほどあります。 あれも知っておいてほしい、せめてこれができるようになってほしいと……。 しかし、夜空の無数の星の中からより明るい星を選んで星座をイメージすることは、 とても必要なことのように思います。日常の細部にとりまぎれてしまうと、 星座がなかなか見えてこなくなってしまうような気がします。そんなとき、 「賢治先生ならどうするか」と考えてみるのです。宮沢賢治が「ほー、ほー」と叫んで 飛び跳ねたように、その問いかけで床からちょっと足を浮かせて見ると、 またちがった展望があるかもしれないのではないでしょうか。
ところで、先ほどから注釈なしに使っているコンステレーションという考え方は 河合隼雄の著書で教えられたものです。 河合隼雄の著書「物語と人間の科学」の紹介文の中で中村雄二郎が、 河合のいうコンステレーションについてつぎのように解説しています。
「コンステレーションとはもっともふつうには〈星座〉を意味するが、 ユング派の心理学では、言語的に連想された各人の抱くイメージの総体 (私流にいえば内面のコスモロジー)を意味している。 そして、言語的に連想されたイメージの総体が心理療法において大きな役割を果たすのは、 そこに各人の抱く〈コンプレックス〉が表れているからである。」(中村雄二郎)
「賢治先生」一連の劇群には、「宮沢賢治が養護学校に先生になったら」と問うことで考えてきた、 私の教育にたいする「イメージの総体(内面のコスモロジー)」が 表れているはずなのです。宮沢賢治の「雨ニモマケズ」はぜひとも知ってほしいし、 こどもたちはそれぞれの家のざしきぼっことして大切に育てられなければならないということも、 あるいは人は死ぬものだということ、働く意味も、いじめ問題、 戦争や原爆のことも……知ってほしいのです。これらは、教師としては、 どんな学校でもどうにか工夫して教えなければならない内容なのではないでしょうか。 わたしの表現はまだまだつたないものかもしれません。しかし、コンステレーションは 普遍性をもっているように思うのです。重度の生徒たちが通う養護学校でも、 あるいは普通校でもこのような内容を教えなければならないというのは確かなような 気がするのですがどうでしょうか。
だから、「賢治先生がやってきた」のホームページのデザインを星座にして、 ある星をクリックすると「ぼくたちはざしきぼっこ」が立ち上がる、 というふうなあんばいにしようかとも考えているくらいなのです。
しかし、中村雄二郎さんも触れているように、一連の劇には、 わたしのコンプレックスが隠しようもなく表れているとしたら、恥じ入るしかありません。 そのコンプレックスが自分を創作に向かわせているということも分かっているのですが……。


2001.6.1
大江健三郎の定義集

もともとわたしは理科の教師なのですが、養護学校では、理科をほとんど持たないで、 他の教科を担当したりすることもあります。 窯業を教えたこともあって、楽しませてもらったのです。
そんなふうですから、わたしが社会科を担当しても何の不思議もないのです。 で、数年前、わたしがほんとうに社会科を担当していたとき、 憲法を教えるために、河内弁日本国憲法という 私家版のテキストを使ったことがあるのです。そのプリントを いまだに使ってくださっているのを眼にして、まだまだちょっとむずかしすぎると、 また改訂版でも出すかと想いを巡らしているとき、ふと大江健三郎が、 そんなふうなことを書いていたということが思い浮かんだのです。 彼は、学生時代から同時代の作家として唯一読み続けてきた作家なのです。 だから、かなりの作品が揃っているのです。というわけで、 家中本の捜索をすること2時間あまり、ついに該当の個所を探し当てたのです。
連作短編集「新しい人よ眼ざめよ」中の「無垢の歌、経験の歌」の一節です。 引用してみます。
定義。この世界のなにもかもについての定義集。 (中略)憲法をわかりやすく語りなおすことからはじめるはずの、 この定義集を構想しはじめた段階で、(中略)この定義集を、 実際に絵本としてや童話のかたちで進めてゆこうとしながら、 なかなか実現することができなかったのである。七、八年前、 子供と想像力をめぐって公開の席でした話のなかで、 現に僕は次のようにいってもいる。(中略)
《この障害児学級の息子の同級生たちのために、そのような子供たちが 将来この世界で生きてゆくためのハンド・ブックというものを書きたいと、 私は考えるようになりました。そのような障害児学級の子供に理解できる言葉で、 この世界、社会、人間とはどういうものかをつたえ、それでは元気をだして これらの点に気をつけて生きていってくれ、といいたいと考えたのです。 たとえば生命とはどういうものかを、短くやさしく書く。私が全体を書く必要はない。 様ざまな友人たちが、たとえば音楽についてならTさんが私の息子にむけて 書いてくれるだろう。》」
そんなふうに書いていたのです。「憲法をわかりやすく語りなおすこと」は、 しかしそう簡単ではありません。
日本国憲法の文章は、たしかに難しすぎる。それを、河内弁にどう「翻訳」するか。 現物を見てもらいます。(教材として使ったプリントは憲法原文と河内弁との対訳 という体裁になっていました。)
河内弁 日本国憲法
憲法いうのは、まあ法律の親分でんな。
日本が戦争にまけて、まあ、国の出直しというんで、新しい憲法をつくりよったんですな。 これが親分になったんが、昭和22年5月3日、だから5月3日が憲法記念日になりましてん。
《前文》
これからは「民主主義」や。国会議員を選んで、何でも決めていくんや。 せやからなんというても国民が一番えらいんやで。
日本国民はずーと平和が続くように祈ってるねん。……一生懸命にそうなるように がんばることを誓うで。
第1章 天皇
第1条【天皇の地位・国民主権】
天皇は、日本の顔や、日本人の顔や。それはだれが決めたんでもない、 一番えらい国民がみんなで顔になってもらうようにまかせたんやな。
第2章 戦争の放棄
第9条【戦争の放棄、軍備及び交戦権の否認】
@日本国民は、世界の平和を願うとって、戦争をしたり、おどしたりすることを、 これからずっとせえへんということやな。
Aせやから、陸軍、海軍、空軍などの軍隊や武器はもたへん。戦争することは認めへんで。
第3章 国民の権利及び義務
第11条【基本的人権の享有】
国民は、一人ひとりが人間として大切にされる権利を持ってるんやで。
第12条【自由・権利の保持の責任とその濫用の禁止】
この憲法がしてもいいという自由は、国民がまもらんといかんのや。 また自由やからといってむちゃくちゃしたらあかん。 みんなのために何かええことするのにつかわんとあかんのや。
第13条【個人の尊重と公共の福祉】
すべての国民は、一人ひとり大事にされるんやで。命も大切やし、自由にしたり、 幸福になったりするのは、他の人にめいわくをかけへんかったら、 だれにもじゃまされへんねんで。
第14条【法の下の平等、貴族の禁止、栄典】
@すべての国民は、平等で、人種や考え方、男や女ということ、 世の中のえらさや生まれた家なんかで差別されへん。これは法律に書いてある。
第19条【思想及び良心の自由】
どんな考えをもってもええし、自分のこころのなかにどんなええこころをもとうとかってです。
第20条【信教の自由】
@どんな神さんや仏さんを信じてもかまいません。

まだまだ続くのですが、引用はこれくらいにしておきます。
そもそも河内弁とは何であるのか、ということから説明をはじめるのですが、 「吉本のことば」と言うとそれだけで納得してくれたのです。やはり吉本はたいしたもんです。
大江健三郎の定義ということで言えば、憲法の定義として、「憲法いうのは、 まあ法律の親分でんな。」というのは、どんなもんでしょうか。 「法律の親分」という言い方は、なんだか象徴的で我ながらあまり感心しないな、 と思っています。定義というのはなかなか難しいものです。
また、いちばん迷ったのが、第1条の「天皇の地位・国民主権」の箇所です。
「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって」というなんともお堅い条文を、 「天皇は、日本の顔や、日本人の顔や。」と河内弁に翻訳したわけです。しかし、 「天皇が日本の顔やてか、そういえば、あのうりざね顔はまぎれもない日本人を顔やわな」 というするどいつっこみの声が聞こえてくるのでした。だいぶん迷いましたが、 ほかにいい案も浮かばず、そのままにしてあります。ご意見をいただいて、 またできれば改訂版を出したいものです。


2001.9.1
養護学校の教科書選びはむずかしい

作る会の歴史教科書が養護学校で、というニュースにおどろいてしまいました。
先日NHKで、東京杉並区の教育委員が教科書を選定するにいたる経過がドキュメント番組で放映されていました。そもそも教科書を選定するに当たって教師を排除しようということで、いまの仕組みができあがったようです。
杉並区では、結局作る会の教科書は選定されませんでした。しかし、危ういものです。ひとつまちがうと燎原の火のように、作る会の教科書が広がっていく素地は十分にあると感じました。
杉並区では採用されませんでしたが、東京都は養護学校での採用を決めたのでした。どのような経緯で採用にいたったのかは分かりません。しかし、採用を決めた教育委員の方々は、養護学校でどのような授業がなされているか、ほんとうに現場で見られたのでしょうか。あるいは、現場の教師の意見を聞かれたのでしょうか。もちろん、調査されたと思います。だから、充分ご存じだとは思うのですが、養護学校の教科書を選ぶというのは、とても一律ではいかない面をもっています。どんな教科書を使うかはとてもむずかしい問題なのです。
わたしの勤務する高等養護学校でも、また以前勤務していたろう学校でも、ふさわしい教科書となるとなかなか見つかりません。結局は、一応教科書は選定はするものの、実際の授業では、ほとんどの場合、教師の手作りのテキストが使われているのです。そんな現状を考えるとき、作る会の教科書が、どうして養護学校の教科書としてふさわしいと判断されたのか、そのあたりの事情を知りたいものです。
杉並区の教科書選定の教育委員の方々の選定会議の様子が録音で流されていましたが、どうしてもそれぞれの教科書の印象批評めいた議論になる傾向があるように感じました。実際の授業の場に置いたとき、その教科書がどのような受け取りかたをされるのかは、読んだだけでは分からないのです。想像だけでは判断できないのではないでしょうか。そこのところをもっと謙虚に考えたほうがいいと思います。
また、印象批評ということで言えば、作る会が避けようとするような内容をはっきりと書いてある教科書が、印象批評の最初の議論の段階で切り捨てられる傾向があるということです。つぎの教科書の編集にそのことが影響を及ぼさないはずはないのです。まずは無難な内容ということで編集されることになってしまうのではないでしょうか。
 このことでは憤慨しておられるかたも多いと思います。ご意見をお待ちしています。


2001.12.1
再び「障害者」ということば

知的なハンディーをもつ生徒に向かって「障害者」ということばを使うことはできない、 ということを以前書いたことがあります。わたしは以前ろう学校に勤務したことがあり、 そのときは生徒にも面と向かって、手話で「聴覚障害者」ということができたのです。 しかし、知的なハンディーをもつ生徒に「知的障害者」ということはできないのです。 もっともいまの勤務校に赴任してきたころは、「精神薄弱養護学校」とか、 「精神薄弱者スポーツ大会」とかいうことばがまかりとおっていて、 生徒に「精神薄弱者スポーツ大会」の申込書を持ってくるようにとか連絡することもあったのです。 さすがに、「精神薄弱者」ということばは、「知的障害者」と改められたのですが、 それでも「知的障害者」とか、あるいは「障害者」ということばでさえ、 直接いうことには躊躇をおぼえざるをえないのです。 まして、生徒たちにどんな場面であれ自分たちを「障害者」と表現するように強制する ことなどとてもできない、 という気がするのです。でもことはそんなに単純ではないのです。 先日も身体障害者とともに知的障害者も 参加する全国規模の祭典として「全国障害者スポーツ大会」というのがあって、 その壮行会というのが行われたとき、生徒自身が、「障害者スポーツ大会で頑張ってきます。」 と挨拶しているのを聞くとやはりこころが穏やかではないのです。こころが痛むのです。
しかし、最近生徒の口から「障害者」ということばが発せられるのを実に安心して 聞いていられるという経験をしたのです。それは、前月号にもかいた文化祭の劇でなのです。 障害者問題を正面から取り上げた内容だったのですが、その劇の最後に生徒たちが 「自分たちは障害者なのかな?」と問いかけるところがあるのです。 「(療育)手帳を持っているしな、やっぱり障害者なのかな。」
「みんなと同じように働いているのに。」
と言ったセリフがありました。
脚本は問いかけだけで、安易な答を与えていなくて、 それもまた劇の内容を深くしていて、よかったのですが……。(もっともこんなことを書いても、 実際に見ないかぎり分かりにくいとは思うのですが、 それは作者に公表を期待するとして)ともかく、 その場面で障害者ということばを聞いても、ぼくはこころ穏やかではない、 ということにはならなかったのです。安心して聞けたのです。こんな経験は初めてでした。 どうしてなのか、それを明言することはやさしくないのですが、やはり生徒たちが、 それらのことばを劇のセリフにのぼせることで、 そのことばが孕んでいるいろんな差別感とかマイナスイメージを跳ね返す 端緒にしようとしているからではないでしょうか。そんなことを考えさせられた希有な 経験だったのです。


2002.1.1
「これからどうなる21」

「これからどうなる21」−予測・主張・夢−(岩波書店)を買いました。 いろんな分野の専門家に、二十一世紀、その分野がどうなっていくかを 予測させた文章を集めています。
さっそく、ざっと目を通してみたのですが、 そこに知的障害の問題は取り上げられていませんでした。 しかたがないので自分で考えることにしました。
知的障害者の問題を考えよとすれば、その基盤としていろいろ考えなければなりませんね。
社会はどうなっていくか?
家族はどうなっていくか?
科学はどうなっていくか?
しかし、いくら考えても迷路に迷い込んでいくばかりなのです。 そのうちに変な光景が浮かんできたのです。

西暦2020年12月
七十を越えた久米宏のニュースステーションに、 ゲストとして黒柳徹子(年齢まったく不詳?)が登場します。
例によって年末恒例のユニセフの絵はがきの売り込みです。
よる歳なみ、さすがの黒柳徹子も、早口がいささか遅くなってようです。 入れ歯を気にしながら、カメラに語りかけます。
「今年はこんな絵はがきを用意しました。一セット三千円です。一セット買っていただけると、 南の国の十人の女性の妊娠直後の遺伝子診断ができます。ご協力いただけるかたは、 インターネットで申し込んでください。アドレスは……」
おばさんになった渡辺マリさんが、テロップを掲げてアドレスをしめしてくれる。 後ろには、七枚の絵はがきセットが飾られている。

ブラックユーモアのしてもあまりセンスのいいものではありませんね。 いかに科学が進歩してもこんな光景は見たくないものです。

「これからどうなる21」を読んでいて、一カ所だけ、気になる記述にゆきあたりました。
芹沢俊介氏の「二十一世紀家族について」の中の記述です。
「家族の個別化がすみやかに進行していることは間違いなく、 家族の絆とう言葉を用いれば、家族の絆は確実に緩んで弱くなってきたという 結論に導かれるだろう。(中略)良くも悪くも家族が個別性の様相を深めてくるにつれて、 その向こうからもう一つの家族像がせりだしてきたように思われる。」
「もう一つの家族像とはじつは「グループホーム」のことである。 グループホームは福祉の観点からは、痴呆性老人や知的障害者などの、 自分だけで生活することが困難な人が数人集まって、地域の中の住宅を使い、 世話人と一緒に共同で生活する形態をいう。わたしの構想は、 この福祉の観点を一般の家族像にまで拡張しようというものである。」
「グループホームは福祉の従来の施設観を百八十度転倒させたところに出現した考え方である。 簡単にいうと、従来管理の対象であった知的障害者や痴呆性老人が、 生活の主体になるのである。グループホームには世話人が不可欠であるのだけれど 、世話人は管理者ではないのだ。管理的な眼差しでもってメンバーを見たり、 扱ったりするのではなく、いうなら主体であるメンバーの援助者の位置に立つ。」
「グループホームを知ったとき、私は直感的に古典的な家族像を超えられるかもしれないと思った。 個別性を尊重した、つまり個人であることの便宜を十分に設計図に書き入れた共同生活体、 愛情を絆とする共棲生活体、二つを統一した家族あるいは家族を超えた家族を 構想できるかもしれないと思った。」

もし、家族がこんなふうな緩やかな共同体になるのなら、 知的障害者のありようもまたそれに応じてかわってくるのだろうか。 現在のように家族があまりに強い絆で結ばれていることに起因する 知的障害をもった子どもたちのまわりに起こる悲劇、それらは避けることができるかもしれない。 障害をもった子どもは、共同体の支援のもとに育てられる可能性も考えられる。
考えて、考えて、その辺りで、迷路の先が霧の中に見えなくなった。また、迷路の霧が晴れたら、 そのことに触れることにしたいですが、いつ晴れることやら……。


2002.3.1
ボケとツッコミの構造(続)

卒業式が近づいてきました。例によって卒業生を送る会が開かれたのです。
いろんな演目が出されたのですが、その一つに恒例のマンザイがありました。 生徒が考えたドタバタのマンザイは、「不発弾」が多くて 、かえって苦笑してしまうほどなのです。去年、1年生だったHくんとKくんが コンビを組んでやったマンザイについては、ここでも取り上げたことがあります。 彼らは「ボケとツッコミの構造」を理解していて、 それを幾分かは使いこなしていたのです。中でもHくんは、 ギャグのノートを作っていてそこには思いついたギャグが書き込まれているのです。 去年もそのノートから採用したネタもありました。そのネタノートは1年のあいだに さらに書き加えられていたらしいのです。(マンザイはぼくが担当したのではないのですが、 想像はつきます。) 彼らは通学の電車が一緒で、車内での話からヒントを得ているのかもしれないと ぼくは睨んでいるのです。ことしもおそらくそのギャグノートから採用( そして、たぶん一部改作)した「寒いギャグ、5連発」のなかで、 一番できがよかったのはこんなふうでした。

「クロネコヤマトの会社はスポーツが強いらしいな。」
「何のスポーツや?バスケットか、サッカーか?」
「クロネコヤマトのたっきゅう部やがな。チャン、チャン。」

ボケとツッコミの構造がちゃんと使いこなせていますね。 この構造はかなりわかりやすいんですね。
これは十分授業に使えますね。吉本のビデオを教材にして……。 これ本気ですよ。いや、ジョウダンですよ。ジョウダン。
(ボケとツッコミの構造の普遍性については、一年前くらいのこの欄で書いています。)

話は変わって……。ある研究会で、自閉的傾向の生徒が一日中走り回っていて、 教師は後を追いかけているだけ、という悩みに対して、養護学校の教師の話。
「自分の担任している児は学校で行方不明になったり、 またほんまにいろいろいたずらをするんです。いろんなものをひっくりかえして おこられるのが楽しい。まったくそんなんを無視する先生には行かない。 ボケとツッコミということで言えば、 一日中ボケまくるんです。それに対してこっちがツッコミを入れてやると喜ぶ。 ツッコミしない先生には行かない。自分のボケが通じない先生とは、 学習を一生懸命するんですが、ある種コミュニケーションがとれないと あきらめているようなところもある。ときには無視することもいいけれど、 やっぱりずっとそういう関係であることはその子自身もさびしいしね。 向こうがきっちりボケたときには、こっちもきっちりツッコミを入れることが大切じゃないかな。 進路は吉本にしようかと言うてますけど(笑)……。」
と、これ、なかなかよくできた分析だと思うのですが。
なるほど、授業もまた、この構造で捉えることができるのか、というのが新鮮な発見でした。
これでも分かるように、ボケとツッコミの構造は、人間関係の本質をついていて、 かつ単純なことから、 利用価値も大きく、またその観点から捉えられるものはたくさんあるのですね。チャンチャンと。


2002.5.1
障害者の職場が変わりつつある?

以前、この「うずのしゅげ通信」に卒業生の職場についてつぎのように書いたことがある。 (「うずのしゅげ通信」2000年7月号、 興味のある方はバックナンバーをお読み下さい。)

「本校の卒業生の場合、単純な作業が多い。工場の機械化がすすんだとき、単純作業は、 ベルトコンベアによる流れ作業の職場に、あるいは、縫製工場のように、 コンベアはなくても半製品は流れており、その分業として、また機械の入口出口、 といったところに生じるが、実際そのような製品の流れに乗れているものは、 どれほどいるのだろうか。流れ作業のスピードにはついていけず、機械の入口出口の 作業では採算のとれる早さで作業できないといったことも多い。 そうなると主な製品の流れにかかる作業工程からはじきだされることになる。 いわゆる補助作業に甘んじなければならなくなってしまう(離れ小島、孤島)。 このことは、雇用の不安定さや低賃金とも関係している。しかし、おおざっぱにいえば、 機械化によって生じた単純作業に対応できるか、できないか、 といったところが本校の卒業生の実態である。そして、そういった職場は 主にパート労働者の職場である。パート労働でも対応できるまでに仕事の単純化がなされており、 それについていけるものは、パートの女性労働者に囲まれ、あるいはその指導のもとに働いている。 パート労働者に支えられている。(中略)平成2年度の卒業生についてざっとした 統計をとってみると(厳密な作業の分類が難しいため)、ベルトコンベアのあるなしにかかわらず、 工場内の製品の流れのなかで作業をしているものが、就職51名中14名(28%) (内訳は靴下のセット機も含めて電子部品製造等のコンベア作業9名、縫製等の分業5名)、 機械の入口出口の作業(例えば、プラスチック成型機の出口での製品の箱詰め等)が 7名(14%)、残りの30名(58%)が、主な製品の流れからそれた、あるいは離れた、 いわゆる補助作業である(孤島の作業)。このなかには、例えばプラスチックや 金属のバリ取り作業、製品をつめる箱作り、コンテナの洗浄、縫製工場の糸きり、 裏返し、靴下の揃え作業等がある。」

かつて本校のような養護学校の場合、卒業生の就労先はほとんどが製造業でした。 先に引用したのは、彼らが就業している工場で、どのような仕事をしているかを分析した ものです。
しかし、本年度の卒業生を見ていると、その様相が変わってきつつあるような気がします。 スーパー、生協、ファーストフード店、衣料や日常品のチェーン店など、 いわゆるサービス産業に就職するものが増えてきたのです。内実は、正規採用もあり、 またパート労働もあるのですが、両方を含めるとり、本年度の卒業生のサービス産業に 就労していったものの、全就労者に対する割合は、25%です。 ちなみに製造業の割合は57%です。事例数がそんなに多くない(28例)ので 一概には言えませんが、およそ4人に一人がサービス業に就いているということになります。 もちろん世の中の傾向がそうなりつつあり、必然的に知的障害者の就労の機会も またサービス業に偏って多くなりつつあるというのが事実なのでしょう。しかし、 知的障害者の就労がサービス業のどこに準備されていて、それが彼らに向いているかどうか という分析をするには、その風潮は風潮としていったんは切り放して、 考えて見なければならないと思われるのです。
かつて彼らが主に就労していた製造業の工場の中で彼らに準備されていたのは、 製造ラインの流れ作業、機械の入口、出口の単純作業、あるいは工場の製品の流れから 離れた孤島の内職まがいの単純作業でした。
では、今回、サービス業が彼らに準備したのはどのような作業なのでしょうか。 わたしの聞くところでは、一つはスーパーや衣料品や日用品のチェーン店で、 品物を出して陳列する作業。また、ファーストフード店では、チキンを揚げたりするマニュアルに 沿った単純作業などです。ファーストフード店の単純作業は、工場の機械の入口、 出口の作業に似ています。油鍋にチキンを入れ、取り出す、まさに機械の入口、 出口そのものです。これは、製造業で実証済みで、十分彼らはこなしていけるはずです。 では、品出しの作業は、どうでしょうか。いくつかのむずかしい局面が考えられます。 どの品物を棚出しするのか。それはしかし、上司の命令に従っていればいけるのでしょうか。 自分で判断する必要はないのでしょうか。また、陳列の仕方は、むずかしくないのでしょうか。 品番を読んで、間違いなくその場所に陳列する、これはなかなかむずかしそうです。 衣料品など形を崩すことなくならべるだけでも技術がいりそうな気がします。しかし、 考えてみると、シャツの工場でたたみの仕事をしているものは、厚紙を挟んでシャツを畳んで 、ビニールの袋に入れて、出荷しているものもいるのです。その逆の作業をしているだけだとも いえるわけです。そんなふうに考えると、サービス業の中にも単純作業はいろいろあることが 分かります。いつなにを補充するか、客への対応などむずかしい局面は考えられますが、 慣れれば何とかなるような気がするのですが、楽天的すぎるでしょうか。
概していえば、サービス業でも、パートタイマーを想定したマニュアルが用意されているような 単純作業は、障害者もまた就ける可能性があるということでしょうか。 パートタイマーを雇うためのマニュアルがあるような仕事となると、 それは衣料、ファーストフードなどのチェーン店ということになります。
この程度の分析でいいのかどうか自信がありませんが、とりあえずは、 サービス産業への障害者の就労ということを、仕事の内容から考えてみました。


2002.7.1
こんな保護者参観はどうですか?

鶴見俊輔と中学生たち著 「みんなで考えよう」シリーズは、 なかなかおもしろい企画です。鶴見俊輔の寺子屋に集まった中学生との 「しゃべりば」の実況中継といったようなものでしょうか。ざっくばらんで本質的。 たいへん勉強になりました。とくに「大人になるって何?」(晶文社)は、 おもしろかったのです。
そのなかの一節。
「実際に80歳まで生きてみると(これは鶴見俊輔のことば)、自分の子どもっていうのは、 生涯で自分に大きな影響を与えた人なんだね。」
これには、不意をつかれました。夏目漱石や大江健三郎の影響を受けた、 とかいうのならわかりますね。子どもが「生涯で自分に大きな影響を与えた人」だというのです。 でも、考えてみると、自分にとってもこれはあたっているような気がするのです。 いままで、考えたことがなかったので、虚をつかれたような感じでした。 子どもに関連していえば、自分が子どもにどのような影響を与えたか、 与えられなかったか、という方向でしか考えてこなかった。 でも、たしかに自分のことを振り返ってみても、子育ての中で、 自分が子どもから影響を受けるといったことがしょっちゅうだったということに思い当たるのです。 子どもが大人になってからは、なおさらです。だからこの一節に出くわしたとき、 思わず「うーん」と唸ってしまいました。
さらに、こんな一節があります。
鶴見「だけど、自分の親にむかって、『あなたは、わたしから何を学んだ』ときくのは、 ものすごく恐ろしい質問だ。何をいわれるかわからないしね。」
「親に『あなたは、わたしから何を学んだ』と聞く。」というのです。 親として、子どもからこんな質問を突きつけられたら、どう答えればいいのでしょうか。 実際に質問されたわけではないのですが、思わず戸惑ってしまったのです。
そこでこんなイメージが浮かんだのです。
養護学校の生徒が、親に、「あなたは、わたしから何を学んだ」という質問をする場面。
健常の子どもでさえ学ぶことは大いにあるはずです。まして、いわんやこの子たちならばこそ、 学ぶことはもっと多かったはず。
実際の場面としては、子どもたちはこんな質問をつき付けはしないでしょう。
だから、そんな場面を教師が準備するのです。 あらかじめアンケートを配っておいて、保護者参観のとき、 親御さんたちに自分の子どもから何を学んだかを 子どもたちを前に発表してもらう、という企画を夢想してしまったのです。 いま、わたしは担任ではありません。この企画を実施することはできないのですが、 担任をされている養護学校の先生方、どうでしょうか。もちろん、同時に教師もまた このクラスを担任して、子どもたちから何を学んだかを話さなければなりませんが……。


2002.12.1
よさこいピック(高知)に行って来ました

障害というものをスポーツを通して見る いい機会になりました。
よさこいピック(高知)と呼ばれていましたが、正式には、 第2回全国障害者スポーツ大会といいます。身体障害者が集う身体障害者スポーツ大会と 知的障害者のゆうあいピックが合同して2年目の大会ということです。
国体に引き続いて、11月9日から11日にかけて、高知県で開催されました。
奈良県からは、卓球、陸上、バスケットボール、フリスビー、 水泳などがエントリーされていました。
宿舎は、坂本龍馬が生まれた屋敷跡に建てられたというホテル。
高知県での滞在初日は練習があって、そのあと高知城の見学にでかけました。
開会式は、とても冷えていて、あまりこころのたかまりをおぼえませんでした。
わたしは卓球のスタッフとしての参加でした。メンバーは、 サウンドテーブルテニス(STT)に参加された視覚障害の方が2名、 一般卓球に難聴の中3の生徒が1名とわたしの勤務する学校の生徒が2名ということで、 総勢5人の参加でした。
一般卓球に参加した若い三人はあまりいい結果を残せませんでしたが、 大きい試合に参加したことでとてもいい経験になったと思います。 それぞれに試合を前に自分なりに自分の心の中で葛藤しているようすが印象的でした。 試合に向けて集中し、葛藤する、それは彼らにすばらしい経験になったと思います。 また、それを間近に見たわたしとしては、彼らの集中、葛藤する力をあらためて 認識させられたといったところです。
チームとしては、STTに参加されたTさんが優勝されて、みんなで祝福もできたのです。
卓球の全試合が終了して、体育館の玄関でぬいぐるみの黒潮くんといっしょに写真を 撮ったりもしました。育成会の炊き出しうどんもおいしかったのです。
最終日の天気は朝から快晴でした。天気予報では閉会式の時間帯は雨の確率が高いので ビニールカッパを準備するようにというお達しがあったのですが、 それが信じられないほどでした。
ところがなんと、閉会式が近づくにつれて、雲が空を覆いはじめたのです。 天気予報はたいしたものでした。そして、まるで何かの予言が実現されるように入場の隊形で 並んでいると雨が降ってきたのです。毛布まで準備しはじめる県までありました。 しかし、幸いなことに入場行進がはじまってからは雨は小止みになってくれたのです。
閉会式では、綾戸智絵さんのコンサートがありました。いろんな曲が歌われましたが、 とりわけ印象にのこっているのが、ビートルズLet it beでした。 大画面に映し出された白いスーツの綾戸さん、そして、その歌詞。
「Speaking words of wisdom
Let it be
Let it be,Let it be
Let it be,Let it be
Whisper words of wisdom
Let it be」

雨はすでに小止みになっていましたが、濡れた雨合羽に蒸れながら聞くビートルズはまた 身に沁みたのです。
歌に聞き入りながら、この歌詞はどう訳せばいいのだろうかと、そんなことを考えていました。
「口にされた ちえのことば
いまあるままがいい
いまあるままがいい、と
ちえのささやき
いまあるままがいい、と」

5千人を超える障害者アスリートとともに聞くこの詩句はある意味あいをもってわたしに 迫ってきたのでした。
「障害者もふくめて、いまあるままがいいと、それが聖母マリアのことば、 かしこい考えだと……」
合唱隊を加えたゴスペルの「Oh,happy day」もなかなかのものでした。 閉会式の場が「happy day」そのものであったからです。
「追伸」
月並みな表現になりますが、この文章が高知県の方の目に触れる可能性もあるということで一言。 ボランティア、あるいはパートナーとしてお世話いただいた方々、 ほんとうにありがとうございました。誠実な応対はけっして忘れることができないものでした。


「うずのしゅげ通信」 バックナンバー

2002年 12月号 よさこいピック(高知)、 「イーハトーブへ、ようこそ」改訂版、 SS「賢治先生御用達、出前プラネタリウム」
2002年 11月号 「抱きしめたい」賛、 祭りのあと、 チャップリンは手話を?
2002年 10月号 「ホームレス、賢治先生」(続)、 「アートママ」賛歌、 SS「小惑星が地球に?」(続)
2002年 9月号 「ホームレス、賢治先生」、虫、二題、 SS「小惑星が地球に?」
2002年 8月号 竹山広の短歌、性教育は砂糖が溶けるまで、 父の俳句
2002年 7月号 性教育「顔の美人さがタイプ」、保護者参観、 演劇の時代?
2002年 6月号 母の声、助走、性教育、 SS「百年たったら……」
2002年 5月号 総合学習に演劇を、障害者の職場、 性教育グッズ
2002年 4月号 花だより、性教育はこころの教育?、 SS「プラネタリウム」
2002年 3月号 1万アクセス、ボケとツッコミの構造(続)、 SS「訴訟」 
2002年 2月号 一人芝居「水仙の咲かない水仙月の四日」、 SS「わたしキスをしたんよ。」、「本害」? 
2002年 1月号 「音のない世界で」(続)、 SS「流星をとばして」、「これからどうなる21」 
2001年 12月号 「チャップリン」上演、 「障害者」ということば、「音のない世界で」 
2001年 11月号 誰が、誰を励ますの?、本人たちの劇を、 沖縄への修学旅行が中止
2001年 10月号 畑山博さん追悼、「モダン・タイムス」、 糸井重里「インターネット的」
2001年 9月号 養護学校の教科書 、YAHOOで本を、 時間の化石
2001年 8月号 あかちゃんはおしりから?、 高明浅太詩集「学校はおせっかい」、 遺品の中に「軍人勅諭」
2001年 7月号 嵐山光三郎「多摩の細道」、 近代家族と障害者の性、 科学の進歩はもうたくさん
2001年 6月号 大江健三郎の定義集、まど・みちお、 「性教育に人形劇を」LIVE
2001年 5月号 原爆を板にのせる、井上陽水はすごい、 賢治劇は星座?
2001年 4月号 HRで「吉本新喜劇」、アイボが我が家に、 知的障害児の高校進学
2001年 3月号 「Access denied」、 生徒のお笑いのレベル、ウォーキングのひそかな楽しみ
2001年 2月号 「地球でクラムボンが二度ひかったよ」、 性はどんなふうに話題に?、手話の記号化
2001年 1月号 新年の挨拶、賢治童話は“いじめ”でいっぱい、 山本おさむ著「どんぐりの家」
2000年 12月号 風がうれしい虔十、 養護学校は生き残れるか?、「知的障害者」という言い方
2000年 11月号 理想は高く! 高木仁三郎さん 追悼、  障害者の性
2000年 10月号 落語「銀河鉄道 青春十七切符」(続々)、 インターネット感想、十代の犯罪
2000年 9月号 性教育U、 落語「銀河鉄道 青春十七切符」(続)、歌集「椿の海」
2000年 8月号 性教育T、 落語「銀河鉄道 青春十七切符」、短歌
2000年 7月号 性教育、 「チャップリンでも流される」、映画「八日目」
2000年 6月号 演出秘話「賢治先生」、 「ざしきぼっこ」、「イーハトーブ」他
2000年 5月号 「うずのしゅげ」の小耳、演劇の癒し、 賢治は喜劇は?
2000年 4月号 障害児教育のHPを、 障害児教育にとっての「宮沢賢治」、知的障害者はなじまない
2000年 3月号 かしわ哲著「あったかさん」他
読者サービス映画券
「寅さんの『実習生、諸君!!戦後五十年だよ』」
2000年 春 準備号 短歌からの出発


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