「うずのしゅげ通信」
2019年4月号
【近つ飛鳥博物館、河南町、太子町百景】
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2019.4.1
何がむずかしいか?
脚本を書くとき何がむずかしいのか、を考えています。
井上ひさしさんが脚本を書かれるときのモットーとして、につぎのような言葉があります。
『むずかしいことをやさしく,やさしいことをふかく,ふかいことをおもしろく,
おもしろいことをまじめに,まじめなことをゆかいに,ゆかいなことをいっそうゆかいに』
私もまた、この言葉を知ってからは、脚本を書くときつねに念頭にありました。
しかし、最初の頃はまったくそういったことは考えずに書いてきたように思います。
それで、そのころに書いた「ぼくたちはざしきぼっこ」という脚本を材料に、学校演劇の脚本を書くとき、
何がむずかしいかを考えてみたいのです。
「うずのしゅげ通信」去年(2018年)の11月号で、このホームページにある脚本の上演数ランキングを調査してみました。結果は、ほぼ予想通り次のようになりました。
1位 「賢治先生がやってきた」 上演12回
2位 「ぼくたちはざしきぼっこ」 上演 8回
3位 「パンプキンが降ってきた」 上演 3回
「地球でクラムボンが二度ひかったよ」 上演 3回
この内、「賢治先生がやってきた」と「ぼくたちはざしきぼっこ」は、私が脚本を書き始めた頃に書いた初期の作品です。いまでは、小学校でも上演されることが多いのですが、もともとは当時勤めていた養護学校高等部の生徒を想定して書いたものです。先輩教員に聞いてみると、その頃養護学校の生徒が文化祭で演じる劇の多くは童話を元にしたもの
でした。高校生が童話劇を演じていたのです。もう少しちゃんとしたものができないか、というのが
書き始めた動機です。
「賢治先生がやってきた」は、題名の通り、現代の学校に賢治先生が赴任してくるところから劇がはじまります。賢治先生は国語も美術も音楽も理科の農作業も、何でも教えるので、生徒は賢治先生はいったいなんの先生なんだろうと不思議に思います。その不思議が賢治先生というのはいったい誰なんだろうという疑問に発展し、
その正体を探ろうとしたために賢治先生が去ってゆかざるを得なくなるというのが話の大筋になっています。
昔話の「見るなの座敷」に沿った展開です。体育館の天井に針金を張り渡して、そこを賢治先生の乗った銀河鉄道が去ってゆくという結末でした。
次に書いたのが、「ぼくたちはざしきぼっこ」です。この劇のテーマははっきりしていて、地球に住んでいる
ざしきぼっこが、地球の環境汚染に腹をたてて、地球脱出を企てるというストーリーになっています。
賢治先生が銀河鉄道で地球にやってくる、という噂を聞いて、車掌をしている賢治先生に頼んで、
銀河鉄道に乗せてもらい、地球を脱出しようというのです。出ていかれると地球がビンボーになってしまいます。それは大変と、子どもたちはざしきぼっこを止めるためにいろんな強い人物を呼んできます。
アメリカの大統領や水戸黄門さまのご一行、吉本新喜劇のパチパチパンチやらアニメの孫悟空などが駆り出されます。しかし、ざしきぼっこを引き止めようと戦いを挑んだ彼らはすべてやられてしまいます。狂言の「唐相撲」のパロディです。最後に子どもたちの哀願によってざしきぼっこは地球脱出をあきらめます。
この戦いの場面ははちゃめちゃで、練習段階から大受けでした。もちろん、上演の当日も大喝采だったのです。
では、このようなストーリーの「ぼくたちはざしきぼっこ」を俎上に載せて、井上ひさしさんの言葉を読んでみた場合、その段階の何がむずかしかったかを考えてみます。
この劇のメッセージは「地球の環境汚染」です。その汚染というむずかしい内容を、ざしきぼっこが地球を出てゆこうと思うまでにひどくなってきているということで表そうというのです。
地球に帰ってきた賢治先生に千年樟が次のように訴えます。
千年の樟 「(大木の幹に顔がある)百歳の賢治先生、 あなたにはほんとうのことを言おう。私が生きてきた千年で水や空気がこんなにまずかった ことはなかった。すべて人間がはびこっているからだ。 バオバブの木が小さな星を壊してしまうように、人間が地球を壊そうとしている。」
ざしきぼっこについては、生徒はあまり苦もなく理解して
くれたように思います。ざしきぼっこがいなくなると地球が貧しくなるというのもわかりやすかったのではないかと思います。「むずかしいことをやさしく」という段階は一応クリアできているのではないでしょうか。
しかし、つぎの「やさしいことをふかく」、これがむずかしい。上の千年樟の言葉以上に深めることはかなり
むすかしい問題です。どうすればいいか、暗中模索が続きます。
次の段階の「ふかいことをおもしろく」というのは、吉本風ギャグで
けっこうおもしろくなっていると思います。この場面ほど演じる方も観る方も喜んでくれたことはありません。しかし、その大受けは諸刃の剣でした。おもしろさゆえに、その場面が独り歩きしてしまって、ストーリーの理解を妨げているようなところもありました。そこがむずかしいところです。
それに続く、ゆかいの段階は略します。おもしろい筋書きを役者も楽しんでやればゆかいな劇になるはずだからです。
そうなると、「やさしいことをふかく」という要請がいっとうむずかしいということになります。
私はずっとそう考えてきました。やさしく表現したものでふかみを探ってゆくというのは至難の技ということ
になります。といって、その努力を放棄するわけではありません。
いまのところは、その「やさしいことをふかく」がむずかしいとしても、私なりに
「やさしいことをそこそこふかく」はできているのではないかと考えています。そこそこふかくがどの程度の
深さに達しているかはむずかしいところです。それは観客に誰を想定しているかでも変わってくると思います。この深さのレベルをあまりに浅く設定すると、演じる生徒や観客をなめたような内容になってしまいかねません。
そこらあたりの塩梅をもっとも理解されているのは、演出をされる先生のように思います。
「ぼくたちはざしきぼっこ」の脚本をもう少し深くすることも、またもう少し浅くすることも可能です。それは先生方の判断とさじ加減にかかっています。
しかし、ここで言っておかなければならないことは、生徒にすんなりと理解できるレベルまで易しくする必要はないということです。
私はいつもその判断の瀬戸際に立たされてきました。演出していると、養護学校の生徒たちにはちょっと難しすぎるのではないか、という意見もどこかから聞こえてきます。しかし、それはどんな脚本を上演する場合にも
ありえることと割り切るしかありません。
少しぐらいわからなくてもいいと押し切ることだと思うのです。自分を信じて強行突破するしかありません。
そのことが正しかったかどうかは、事後の生徒たちを見ていればわかります。
十分に理解できていない、ということは事実かもしれません。しかし、そのハードルを無理にでも乗り越えると、演じた生徒たちに、劇の理解は断片的であったとしても、確かなものが残るのです。観客の前で演じたという舞台経験からくる自信のようなものが、生徒たちの言葉の端々から伺い知れます。少しおおげさに言えば、一言のセリフが彼らの生き様に何らかの痕跡を残したのです。
ちょっと抽象的な言い方になってしまいましたが、小学校で上演する場合も同じことが言えるのではないかと考えています。少しくらいむずかしくてもいいのです。そのハードルを飛び越して上演することによって、
生徒が学べるものが確かにあるのではないでしょうか。
このあたりのこと、何かご意見がありましたら聞かせていただければと思います。
追伸
次には、支援学校や小学校の劇が、何故現代劇でなければならないのか?といったことを考えてみたいと思います。
2019.4.1
フェイスブック
〈2019年3月10日にフェイスブックに投稿したものです。〉
「明日で東日本大震災から8年。ということで、詠んでみました。
をらぬこと子どもに重し鴨かへる
家族を失った悲しみ、そこからの辛い日々、それらは大人よりも子どもたちにより重かったはずです。おそらくは、今も。
今日は古墳群の句会でした。
以下拙句です。
盲学校に春の羽音や花ミモザ
嚔ひとつして土筆の卵とじ
春興の飛翔写真に息合はず
春泥や父のをしへし匍匐(ほふく)の字
二分の一の貸しバイオリン春休み
車椅子のフレンチブルも花菜雨
花のはざかひ近つ飛鳥の霞けり
下のふたつが席題の句です。
後の議論で分かりにくいと言われたところを補っておきます。
四句目、私が小学生の頃、兵隊経験のある父が「匍匐前進」という言葉を教えてくれました。
六句目、フレンチブルはフレンチ・ブルドッグのことです。」
〈2019年3月13日にフェイスブックに投稿したものです。〉
「今日の拙句です。
(8年目の3.11に、三句)
逃げ水追うて1Fのシャトルバス
(日本人は)
半減期を逃げ水追うて老いゆくか
(NHKの番組を観て)
風の電話に老人がゐて風光る
遺されし岐阜蝶のこと長電話
水琴窟の音聞き飽きて蕗の薹
野遊びの嬰児(ややこ)立つだけ座るだけ
近つ飛鳥風土記の丘の梅園はもう盛りを過ぎて、散り始めています。しかし、あいかわらず目白をはじめいろんな鳥たちが梅の木にやってきます。カメラを抱えた人たちも多く見かけます。梅林を散歩していると、うぐいすの鳴き声がどこかから聞こえてきます。リハビリで歩いているのですが、そんなときは、ほんとうに散歩の充実を感じます。
東日本大震災から8年目の3.11、新聞やテレビを観て、いろいろ考えさせられました。考えたことを詠んでみました。1Fというのは福島第一原子力発電所のことです。
ということで、今日は逃げ水の句。
逃水や一途ときには疎ましき 田代民子
たしかに一途が疎ましく思われるときがありますね。といって、何かをなしとげるには、逃げ水を一途に追いかけるしかないのかもしれませんが。」
2019.4.1
俳句
〈2019年3月のフェイスブックに投稿した拙句です。〉
ひとりゐのおすわりゆれて雛の前
あとひとつ句ができぬ日の初音かな
秘すべきものの小さくゆかしきいぬふぐり
啓蟄やわがむらぎもに虚(うろ)ふたつ
ひとりゐのおすわりゆるる雛の前
をらぬこと子どもに重し鴨かへる
盲学校に春の羽音や花ミモザ
嚔ひとつして土筆の卵とじ
春興の飛翔写真に息合はず
春泥や父のをしへし匍匐(ほふく)の字
二分の一の貸しバイオリン春休み
車椅子のフレンチブルも花菜雨
花のはざかひ近つ飛鳥の霞けり
(8年目の3.11に、三句)
逃げ水追うて1Fのシャトルバス
(日本人は)
半減期を逃げ水追うて老いゆくか
(NHKの番組を観て)
風の電話に老人がゐて風光る
遺されし岐阜蝶のこと長電話
水琴窟の音聞き飽きて蕗の薹
野遊びの嬰児(ややこ)立つだけ座るだけ
卒業歌おのづと口に教師辞す
ラップなら思ひも吐けて卒業子
(車椅子のフレンチブルドッグ)
たんぽぽ踏みてブル後足の車椅子
蛍の目穴に残して蛇出づる
リハビリとや軍手にボール梅の道
他所者ならまだ赦される鳥雲に
マジックハンドで掴みしデブリ冴返る
無声映画はよく跳びあがる春一番
人体模型の臓器は旧字黄沙降る
歯のレントゲン春の飛行機ほど被曝
納税の列プラネタリウムの客過る
背なと座を間違ふ座椅子春炬燵
有相に無相寄り添ひて指す初桜
夫婦して雑煮が好きで初桜
初花やシンギュラリティと云ふらしい
(統一地方選挙)
おのづとひらく投票用紙万愚節
折りて継ぐ土筆の遊びをさなゆび
(1986年4月26日の三日後)
チェルノブイリの日や飛火野に松花粉
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