「うずのしゅげ通信」
2024年3月号
【近つ飛鳥博物館にて】
今月の特集
白き山茶花
フェイスブック
俳句
「うずのしゅげ通信」バックナンバー
2024.3.1
白き山茶花
〈2024年2月25日にフェイスブックに投稿したものです〉
「今日の拙句です。
老残も春の戯れレノン眼鏡
千有余年火をもて駈くる二月堂
(母が存命のころ)
白き山茶花見ては座敷を母の試歩
止まるまえに止まる雀や春の雨
生け垣の山茶花が盛りを過ぎてピンクの花を散らしています。
以前住んでいた家には前栽に白い山茶花が植わっていて、ちょうど今頃になると大ぶりの花をつけました。
母の晩年、歩行が頼りなくなったので歩く練習をしたらと勧めたことがあります。
母は畳に杖をついて、ゆっくり歩を進め、座敷机を巡り、休むたびに白い山茶花の花を眺めたりしていました。」
2024.3.1
フェイスブック
〈2024年2月にフェイスブックに投稿した俳句と文章を合わせたものです〉
「今日の拙句です。
(SNS文末の句点)
丸つけぬなら候ふとでもつくづくし
(朝日新聞に谷川俊太郎さんの詩「二月の午後」)
斜め切りして詩の字傾く二月尽
朧夜に迷ふ月忌の般若心経
昨日(2月16日)の「天声人語」はSNSのメッセージで句点をどうしているかをテーマにした文章でした。
「若者世代はSNSのメッセージで句点を「冷たい」と感じるという。
「大丈夫です。」のように付けると「マルハラスメント」だとネットで話題になっていた」らしい。」
マルハラスメントといった感じ方が面白いですね。
それで、古いラインを確かめてみると、たしかに私の文章にはマルがつけてあり、若ものの文章にはマルがなく、
かわりにいろんな記号で閉じられています。
似たような傾向は欧州とか東南アジアでも見られるようです。
これをきっかけに考えていてできたのだ冒頭の句です。候文にはマルはつけませんから。」
〈2024年2月4日にフェイスブックに投稿したものです〉
「今日の拙句です。
立春のさかしまに立つ月の舟
平の容器に立春の生牡蠣光る
(豆撒きはテトラパックの炒り豆で)
どうころんでも角立つ軍(いくさ)鬼遣らひ
立春の二句と節分の句。
節分の句はこれで三句目の挑戦です。少しは落ち着いてきたのかどうか。」
2024.3.1
俳句
〈2024年2月にフェイスブックへ投稿した拙句です。〉
(かつて豆撒きはテトラパックの炒り豆で)
どうころんでも年豆角立ち戦火はやまず
(子どものころ、年豆を氏神に)
数への一つ増やし年豆おひねりに
賽銭箱の昏きに年の豆のおひねり
鰯喰ふやむかしのならひ卑しからず
立春のさかしまに立つ月の舟
平の容器に立春の生牡蠣光る
(豆撒きはテトラパックの炒り豆で)
どうころんでも角立つ軍(いくさ)鬼遣らひ
浮遊写真の男女ちぐはぐ春浅し
庵主さまも求む門前のいちご大福
色失ふ民脱色の街冴返る
(散歩道の桜が何本も伐採されました)
春の雪伐られし桜昇天ス
貫きて薄氷(うすらひ)とどむる蓮一本
色失ひし中に色なす芽ぐみかな
目薬をあやまつ妻や春三日月
繊細を晒して怖ぢぬ二月の欅
(SNS文末の句点)
丸つけぬなら候ふとでもバレンタイン
(放射性廃棄物の半減期)
弥勒の世汚して近し涅槃西風
五臓六腑まつたき頃も朧かな
蕗味噌の家香りごと毀ちけり
(SNSの文末の句点)
バレンタイン丸つけぬ文(ふみ)候とでも
(理由、分かってはいるのですが)
「あふげばたふとし」歌ひ歌はれず雨水かな
(輪島市の記事(朝日新聞))
墓石にブルーシートの雨水かな
(SNS文末の句点)
丸つけぬなら候ふとでもつくづくし
(朝日新聞に谷川俊太郎さんの詩「二月の午後」)
斜め切りして詩の字傾く二月尽
朧夜に迷ふ月忌の般若心経
老残も春の戯れレノン眼鏡
千有余年火をもて駈くる二月堂
(母が存命のころ)
白き山茶花見ては座敷を母の試歩
止まるまえに止まる雀や春の雨
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