■■■Diary ■■■
切手b9.SEP.Thu.


ヴァレッタと

騎士団最初の街ヴィットリオーザ
本日のスケジュール
午前 ゴゾ島1日
エクスカーション

午後
ヴァレッタ 夕食
Castille Hotel(Valletta)泊
※ これは旅行前の計画で、実際の
行動とは全く異なっています。

小雨の
中の
マー
ケット
今朝は5時ごろ目が覚めた。じわりじわりとマルタ・タイムににじり寄っている。旅も中盤、もう合わせないほうがいいような気もしてきたんだけどなぁ。
小さな窓のカーテンを開けた。"‥‥あらら、なんだか雲行きが怪しいぞ‥‥" 回復することを祈りながら朝の日課を済ませたころには雨になっていた。しかもシトシトと降ってるじゃない!! これはおいそれとは止まないかもよぉ〜。
そもそも、今日はどうしよう。当初の予定 [ゴゾ島ツアー] は明後日(9/11) になった。だから明日・明後日の予定(古代遺跡・市内でまだ見ていないところ)のいずれかへ行くつもりではいたけど、傘をさしながら遺跡を見たくはないし‥‥。その程度のスケジュール調整に頭を巡らすばかりで、どうも腰が重い。昨晩のヘビーな食事がまだ胃に残っているようで、とても朝食をとる気にもなれない。

とうとう9時、やっぱり雨は止んでくれない。傘を持って出掛けるとするか。まずは朝8時から開いているはずの騎士団長の宮殿から。
ホテル脇の通りから最初の角を曲がると、昨日の午後、散歩したマーチャント通りには市がたっていた。衣類、キッチン用品、日用雑貨‥‥といった地元の人向けの品々を並べたテントが続く。それを覗きつつ水たまりを避けつつ歩いて、宮殿脇に出る通りへ折れた。
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VALLETTA
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騎士団長の宮殿 (Grand Master's Palace)
open:夏期は月〜金8:00am−0:45pm(冬期は月〜金8:30am−3:45pm)。土日祭日は休館。入館料:LM1
この宮殿はヴァレッタ一の高台にある首相官邸の場所に建てるはずの計画が変更され、この街の中心に置かれたのだそうだ。既存の建物を利用して、カッサール(1520-1586/ヴァレッタの街を完成させた建築家)の設計により1571年着工、1574年完成。18世紀中頃に2つのバロック様式の入口とファサードの木製バルコニーが付け加えられ現在の姿となる。1798年まで歴代騎士団長が居住し、英国統治時代には総督官邸だった。現在はマルタの国会会議場と大統領公邸として使われ、一部公開されている。
兵器庫 (Palace Armoury)
open:夏期は毎日7:45am−2:00pm,(冬期は月〜土8:15am−5:00pm, 日8:15am−4:15pm)。祭日休館。入館料:LM1
1976年から宮殿奥の元・馬屋に置かれている博物館。1555年の法令で騎士の武器・甲冑がその死後、騎士団の資産になると定められてから、騎士団は幾万人分もの兵器を装備するようになった。現在、兵器庫に納められているのは5800の兵器・甲冑のみだが、ヨーロッパ各国のものはもとよりトルコ軍からの戦利品の兵器や楯などもある。

リパブリック通りに面した左側入口から入ると目の前は中庭(Neptune's Court)だ。まだ昨日の舞台が完全には撤去されていないので回廊を一巡してみた。名前の由来であるネプチューン像が立っているのが見える。これは騎士団長Aloph de Wignacourt(アロ・ド・ウィニャクール/フランス人/在任1601-22)の時代にフィッシュマーケットに設置され、1861年この中庭に移されたもの。壁面の泉は "かいば桶" の役目をしていたというが、今も価値あるものといった扱いはされていないようだ。
右手にもうひとつの中庭(Prince Alfred's Court)がある。これはヴィクトリア女王の次男、アルフレッド王子(1858年にマルタを訪問)にちなんで命名されたもの。手入れがされているようには見えない庭で中には入らなかったが、騎士団長Manuel Pinto de Fonseca (マヌエル・ピント・デ・フォンセカ/ポルトガル人/在任1741-73)が設置した時計があるらしい。
騎士団長の宮殿
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奥の兵器庫の看板が目に入った。"でも宮殿見学はどこから入るんだろう?" デスクのお姉さんに尋ねると 「兵器庫も見ますか? 今日は宮殿のほうはまだ入れませんがそろそろ開きますから、兵器庫を先に見てここで待ったら如何? 宮殿が開いたらお教えしますよ」 と言ってくれた。「では、お願いします」 と入場券を買って中に入った。まず、ガラスケースに収まった高級な甲冑に出迎えられ、さらにその後ろに何人もの甲冑姿が並ぶ。まるで今にも金属音を立てて行進を始めそう!! ただ中世の武器類は戦争博物館の展示物より現実味を帯びていないのが救いかもしれない。積み重ねられた砲弾なんてまるで砂遊びのダンゴに見えちゃったりして‥‥。

2室を見終えて通路で待っていたら、デスクのお姉さんが宮殿のオープンを知らせてくれた。
「この先、左手の階段を上がって下さい」 という言葉に従って狭い階段を上りきると、大理石の床に騎士たちが並ぶ、階下からはとても想像できない重厚にして絢爛豪華な廊下に出た。その廊下沿いには数部屋の大広間。今でも大統領のレセプションや公式行事に使われ、何もないときに一般公開しているのだ‥‥そう、アメリカのホワイトハウスみたいに。あちらはあちらでTVでお馴染みの場所があったりして一見の価値はあるけど、長〜い歴史ではマルタの勝ちよね(競ってどうする)? そんなことはさておき、入れる部屋を手前から順に見学した。いずれも騎士団最盛期を彷彿とさせる見事な部屋ばかり。ところが、どうもガイドブックに出ていた 『大使の間』 に行きようがない。"なんでかな〜" と誰もいない廊下でキョロキョロしていた。そこへ何処からか現れた制服姿の人(警備員?)。尋ねてみたら、その部屋は非公開だと言われてしまった。公式行事の準備でもしていたのかな‥‥ちょっと残念。
カーサロッカ
ピッコラ
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カーサ・ロッカ・ピッコラ (Casa Rocca Piccola)
open:月〜土10:00am−1:00pm。土日祭日は休館。見学料:LM2
リパブリック通りをさらに先へ進むと右手にある16世紀からの貴族の邸宅。現在のオーナーのガイドで見学することができる。また、同家の地下室も別途、無料で案内してくれる。
それぞれのスタート時刻は入口に表示されているが、私が到着したときはちょうどお屋敷のほうのツアーが出ていくところだった。次の予約をしていると、近くにいた高校生ぐらいに見える若い女の子(お嬢さんかな?)が「地下室のほう、私が案内していい?」 と受付(レジ)のおばさんに聞いている。他にもギリギリ部屋のツアーに間に合わなかった人たちがいたのだ。そして私を含めて5〜6人、臨時のツアーをやってもらった。防空壕だったらしいが、個人宅としてはなかなか広い。いくつかの部屋の用途など聞きながら回って中庭に出る。それからしばらくは1階奥のおみやげ売場をウロウロして時間つぶし。5分前にはこの辺にいてくださいと言われるからだろう、ショップは徐々に賑わってくる。
ツアーの呼び出しがかかり、集まった10人ほどの参加者は、ガイド役のオーナー夫人に続いて2階へ進む。最初の階段室からステキなシャンデリアや絵画で飾られていて、"いかにも貴族のお屋敷" とうなずく。夫人は清楚なブラウスにカーディガン、リバティー風花柄の長めのフレアースカートといった上品な普段着姿で、書斎やダイニングなど幾つかの部屋とその調度品について説明してくれた。ツアー終了後、受付にあった写真入りガイドブック(LM0.5)を買ったが、英語版が品切れだったためイタリア語版。部屋やかつての主たちの紹介がされている(もよう)。
雨はすっかり上がっていた。次は昨日の式典でちょっと内部を見渡すことが出来た大聖堂をゆっくり見学するとしよう。
大聖堂
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聖ヨハネ大聖堂 (St.John's Co-Cathedral)
open:月〜金9:30am−0:30pm・1:30-4:30pm、土9:30am−0:30pm。日祭日は休み。
騎士団の守護聖人である洗礼者ヨハネの修道教会として、騎士団長Jean l'Evàque de la Cassiäre(フランス人/在任1572-81)の命により、カッサール(前出)が設計、1573〜77年に建てられた。幅39m、奥行き58m。身廊の両サイドに騎士団の言語別に割り当てられたチャペルが並ぶ。1598年に聖具室(左翼)、1603年に小礼拝堂(右翼・現在は美術館)、17世紀中頃には2階建ての両翼、1737年に身廊脇の廊下が付け加えられた。1816年、ローマ法王Pius VII から大聖堂の認定を受ける。
壁、床、柱、祭壇‥‥間近でじっくり見るとどこも手の込んだ細工が施され、溜息が出るばかりだ。各言語のチャペルも競って高価な美術品で飾られたという。それでも絵画や彫刻は1798年にナポレオンによってすっかり略奪されてしまい、今残っているのはわずかに盗品を買い戻すことができたものだけだとか。となると本来はいかに華やかなものだったのだろう‥‥。かつてのマルタ騎士団の力を改めて思い知らされる。
聖ヨハネ大聖堂美術館 (St.John's Co-Cathedral Museum)
open:大聖堂と同じ。入館料:LM1
大聖堂の身廊、右手から入る。ここは何といっても美術館の一部になっている小礼拝堂の祭壇画 『聖ヨハネの斬首/The Beheading of John the Baptist』 をなくして語れない。作者はCaravaggio(カラヴァッジョ/1571,73-1610)。画集などでも見覚えのある傑作、それが本来ある場所で見られるのだから素晴らしい。同美術館にはもうひとつのカラヴァッジョ作品 『聖ヒエロニムス/St.Jerome』 もある。他にも法衣、聖歌隊の本、タペストリーも展示されている。
最後に美術館に隣接したミュージアム・ショップで大聖堂のガイドブックと絵はがき4枚を買った(合計でLM7.03)。
大聖堂を出たのが12時過ぎ。傘を置きにホテルへ戻ってちょっと仮眠をとる。そして先日、クルーズに乗ったために行けなかったスリーシティーのうちのひとつ、ヴィットリオーザにでも行ってみるかと、1時過ぎにホテルを出た。
ようやくお腹が空いてきたので、バスに乗る前に軽く昼食をとることにした。シティーゲート手前のCafe Royalでアランチーノ(¢65)とカプチーノ(¢40)。アランチーノは店の奥のショーケースにあるのを確認しておき、席についてから注文。たわいもないことだけど、メニューもなしに口頭だけでオーダーすることにささやかな喜びを感じたりしてしまう。ハムとホウレン草が入っていた。おにぎり2個分ほどもあろうかという大きな俵型で、しかもホウレン草が薄い衣から見えていてヤケに黒っぽいから、一見 "これがアランチーノ?" と疑ってしまうが、味はなかなかのもの。本家シチリアに引けをとらない。

腹ごしらえが済んだところでゲートの向こうのバスターミナルへ。1番のバスに乗ろうとしたら、通りすがりの運転手に前の4番が先発と教えられる。念のため、ヴィットリオーザに行きますか?とそのバスの運転手に確認して乗り込んだ(¢15)。それを聞いていた最前列のお爺ちゃんが「ヴィットリオーザは終点ではないから気をつけなさい、このバスはKalkara行きじゃからな」 と教えてくれた。"そう、思い出した! だから1番のバスに乗りたかったんだわ" 御礼を言って席につくと、さっそく地図を引っぱり出して途中下車に備えることにした。
バス・
ターミナル

遠景の建物
は5つ星の
フェニシア・
ホテル

バスはフロリアーナを抜け、バレッタ半島の付け根を走る。大きな工場、欧州車のディーラーなどが建ち並び、マルタの現代的な一面を垣間見ることができる。それからしばらくして、賑やかな生活感のある地域に入った。パオラ (Paola) という町らしい。お爺ちゃんをはじめ多くの人たちはこの町の中央広場で降りてしまった。
さあ、それからは気が抜けない。"このカーブを曲がったら降りる合図をしよう" と地図上で見当を付けていた。そのカーブを見逃してはならじと、地図と窓外を見比べながら何度も何度も現在地を確認。
そして "ここだっ!!" というカーブを曲がる瞬間にブザーを押した。するとバスはまさにヴィットリオーザの付け根という位置で止まってくれた。ヴァレッタ同様、ヴィットリオーザの城壁内にバス・ルートはない。だからこれがベストなのだ。

ただひとり一緒にバスを降り私の先を歩いていたオジサンが、ふと立ち止まって「砦へ行くのかい? だったらまず左へ左へと海まで出て、それから海沿いを真っ直ぐ行くほうが景色がイイよ」 と教えてくれた。


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MALTA
中心部
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ヴィットリオーザ (Vittoriosa)
 グランドハーバーに向かって突き出ている半島のひとつ。隣の半島セングレア (Senglea)、付け根のコスピークワ (Cospicua) と併せてスリーシティーズと呼ばれる。
定住の歴史は古くフェニキア人の時代にさかのぼるらしい。そして1530年に騎士団が本部を置くまではビルグ (Birgu) という名の小さな漁村だった。騎士団は要塞、言語別オーベルジュ(宿舎)、病院などを建設。要塞は1565年グレートシージで強度が試された形になり、その勝利 (Vittoria) を記念してヴィットリオーザと改名された。1571年に本部はヴァレッタに移されたが戦略上重要な地であることに変わりはなく、町の南側のドックヤード・クリークはガレー船艦隊の港となり、沿岸には倉庫、作業所、港湾労働者や兵士の宿泊施設が建てられた。港と造船所があったために第二次大戦中は絶えず空襲を受けたが、いくつかの歴史的建造物は無事に現存している。現在、人口4200人。

実は、聖アンジェロ砦は午前中だけ、宗教裁判所や海事博物館も夏期は2時までしか見学できない。それは一応承知していたので、城壁内に入って一旦はオジサンに言われたように左へ折れてみた。そして近くにあるはずの 『Vittoriosa 1565 Museum』 でも見てみようかと思った。でもここも蝋人形なんだよねぇ‥‥狭い通りに並ぶ家々を眺めていると、あたりをさまよい歩くだけで面白くなってきた。ウロウロしているうち、いつの間にか町の中心の広場に出ていた。
ヴィットリオーザ
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ヴィットリオーザ広場 (Vittoriosa Square/Misrah ir-Rebha)
本来はメインゲート通りをまっすぐ行けば良い。普通の住宅地といった感じのヴィットリオーザ、中心とはいえ広場も観光客がドッとやって来る場所ではない。そして地元の人がこんな暑い午後に表を歩いているはずもない。こぢんまりしたバールに客が数人いるだけだった。この町にはホテルもレストランさえもないのだ。

メインゲート通りをちょっと戻れば宗教裁判所 (Inquisitor's Palace)。外観だけ見たが、多くのマルタの建物がそうであるように外はいたってプレーンだ。それに反して中は複雑だそうで、諮問会議場、法廷、絞首台置き場、土牢、裁判官の居室などがあるらしい。次に来る機会があったらぜひ見学時間内に来たい。広場から放射状に出ている道のひとつに入った。すぐに元・ギリシャ正教会、現在は博物館という聖ヨセフ礼拝堂 (St.Joseph's Oratory) がある。第2次大戦の品々や騎士団長ヴァレットの剣が展示されているという。
その先は聖ローレンス教会 (St.Lawrence's Church) の横手になる。騎士団が来る以前、ここには聖ローレンスに捧げられた教会が建っていた。その地に1681〜1697年にロレンツォ・ガッファ (Lorenzo Gafa) の設計で騎士団の修道教会が建てられた。内部には聖ローレンスの受難を描いたマッティア・プレティの祭壇画や、1657年に戦利品のひとつとしてクレタ島から持ち込まれたキリストのはりつけ像があるらしいのだが、正面にまわっても閉まっているみたい‥‥。

そこからSt.Anthony Streetをまっすぐ、目指すは岬の先端、聖アンジェロ砦 (Fort St.Angelo)。ここも見学時間は終わっているけど外観だけでも見ておきたかった。670年ごろにはアラブ人の砦があり、それを騎士団がより強固なものに再建したのだそうだ。1912 〜1979年は英国海軍本部だった。
砦の全景を見たあと、帰路は東側を歩くことにした。海と家々を眺めながらぶらついていると、ゆったり時間が流れている気がする。犬と遊んでいた子供がお母さんに呼ばれていた。どこをどう歩いただろう、町の出口付近で城壁内に入れるところを見つけた。中はきれいに整備されてベンチなど置かれている。戦いのための塁壁もいまや夢の跡、のんびりした感じだ。
それから町の外にあるバス停へ向かった。
ヴィットリオーザ始発のバスが待っていた(¢15)。窓際に座っていたら、途中から乗ってきた男性が隣に座って話しかけてきた。「日本人?」 「ええ」‥‥彼はスリランカから休暇でやって来たエンジニアだと言う。「スリランカには日本人もたくさん来るよ」 "そうかなあ‥‥" 「君は来たことはないの?」 「ないわ、暑いんでしょう?」 「暑い。ここと同じぐらいかな。ここと違って冬はないけど」 「雨期はあるの?」 「5月が雨期だよ」‥‥「日本人は休暇が短いんだって? 1週間かそれ以下って聞いたことがある‥‥スリランカじゃ2ヶ月が当たり前だよ。物価も安いし。ここは物価が高い。日本も高いんだってね。だから皆一生懸命働くんだね」‥‥それからスリランカの話(特に特産品の紅茶や宝石)などしているうちにヴァレッタのターミナルに着いてしまった。「さようなら、良いご旅行を!」 と言ってバスを降り、まだ話がしたそうな彼を無視してバスターミナルの売店を覗きに行った。別に何を買うつもりもなかったんだけど、なんと探し求めていたお菓子、カンノーリがあるじゃない!! カフェではなかなか出会えなかったので、ここでもいいや。そしてプレーン・カンノーリ¢9(安い!! )を買い、別の店でシュウェップスのレモーネ¢30も買った。ここは前に水を買ったことがある店。オジサンが「日本人かい?」 と聞く。「日本のどこから?‥‥Tokyoか、名前は?‥‥Keiko, Keiko?」 そんなに真剣に発音練習しなくてもいいのに。そしてシティーゲートをくぐった。時間を潰してきたつもりだったが、さっきのスリランカ人が待っていた。ウィンドウでも見ていたかのような顔をして。あちゃー。案の定、また会ったね、てなことを言いながらこちらにやってきた。「これからドコに行く予定?」 「ホテルに帰るわ。ちょっと疲れたから」 「そうか、じゃあまたどこかで」 「そうね」 しつこい人でなくって良かった。
部屋に戻ってカンノーリを食べた。これはシチリア伝来のリコッタチーズ入りパイで、マルタでも伝統的菓子のひとつだ。売店で買ったもの、とあなどってはいけない。なかなか美味しかった。

イブニング
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そろそろ日が傾いてきたころ、買い物に出かけた。ウィークデーの4時を過ぎると、どの店もオープンしている。銀器屋さんをいくつか覗いた。この国は教会に銀の装飾が多用されていることからもうかがえるように、なかなか銀細工が盛ん。小さなスプーンを買った。ちょっと土産っぽいけど、マルタ十字がついたもの2本。ML2.5とML5.95だったのをML0.05まけてくれて計ML8.4。もしかしてホントは値切れたのかな。どうも東京生まれはそういうことに気が回らない、と店を出ながらちょっぴり後悔していた。
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そして7時ちょっと前、何度も通っているはずの裏道で八百屋を見つけた。
"へえ、ここって八百屋だったのか" 子供が店じまいを始めていたが、私が足を止めるとあわてて元に戻してくれて、お兄ちゃんに大笑いされていた。お兄ちゃんはこの観光客の接客を弟に任せることにしたみたい。道行く人に目を向け、こちらを見ないようにしている。オレンジが2種類あったので弟クンに「どっちが甘いの?」 と聞くと、弟クン「こっち、オレンジジュースにするやつ、甘い甘い」 「じゃあ、これもらうわ」 「One?」 「Two」 「Twoね!」 威勢が良くてたのもしいかぎり。でもニヤニヤしているお兄ちゃんにマルタ語でこそこそ。いくらで売ればいいのか聞いているのだ。お兄ちゃんが¢20と答えた。弟クンに¢20を渡して袋に入れて貰った。「写真を撮ってもイイ?」 と言うと、嬉しそうにお兄ちゃんに「フォトだよ、フォト!○☆×△※!」 と声をかけてくれた。お兄ちゃんは照れながらもポーズをつけていた。

部屋に戻ってメールをチェックした。そして数通のメールを書いて送信。
8時ちょっと前になってホテルの地下にある La Cave Wine Cellar & Pizzeria という店へ出かけた。(ランチ12:00〜14:45、ディナー18:30〜22:45、日祭=ランチは休み)
ピザはMALTIJA(ペッパー入り白い山羊のチーズ、ローカル・ソーセージ、トマト、オリーブ)というマルタ風のものを注文。ワインは 『La Valletta』 の赤、97年のハーフボトル。山羊のチーズはかなりクセが強いけど私は大好き。塩加減も○。ソーセージは羊肉らしい。シッカリした味でこれも好み♪ 台はやや厚めでこれまた塩加減がよろしい。ワインは渋めでクセの強いチーズやソーセージにとっても良く合う。
入ったときには2テーブルしかふさがっていなかったが、食べ始めるころには7テーブルが埋まっていた。隣の女の子1人と男の子2人の地元の若者らしきグループが食べているピザはクワトロ・スタジオーニのようだ。子供連れが2組。これも地元の人たちだろう。男の子のひとりはゲームボーイをやっていた。他の子供たちが奇声を発してうろちょろするので隣席の女の子は不機嫌。食欲も喪失したのか、ピザを残していた。最初からこんなに食べきれないぞと思って困っていた私は、彼女のマネをさせてもらって1/8切れ残した。
フロアーをひとりできりもりしていたオジサマが支払をしようと思ったときに姿が見えなかった。そこでレジまで行って待っていると「お待たせしまして申し訳ありません」 と丁重に謝りながらやって来た。ML4でございます」 "安い" ML10札を出すとお釣りがないと言う。ML5札を出す。「これ以上細かいのはないわ」 「では両替してきます」 と彼はホテルへ上がっていった。しばらくして戻ってきた彼はお釣りを手渡しながら「もしよろしければ、このあとご一緒に飲みに行きませんか?」 と言う。まさかこの上品な物腰のオジサマからお誘いを受けるとは予想もしなかったので面食らってしまった。で、「ごめんなさい、これから家に電話を入れないといけないんです」 また同じ手を使っちゃった。あは。「よろしいんですよ、ではお休みなさい」
さきほど彼が上がって行ったほうを指さし「ここはホテルへ行く道ですか?」 と聞くと、そうだとのこと。それで、来たときと違って外を通らずに部屋へ戻ることができた。



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