「うずのしゅげ通信」

 2016年5月号
【近つ飛鳥博物館、河南町、太子町百景】
今月の特集

社会詠

浅田素由句集「万年青の実」

俳句

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私家版句集「風の蝶」(pdf)私俳句「ブラジルの月」(pdf)
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2016.5.1
社会詠

俳句を詠むというと花鳥諷詠ばかりがいわれますが、それでいいのでしょうか。 文学であるからには、人生を、社会を詠むことも大切なのではないかと考えています。

そういった考えから、これまでも家族を哀悼する句を多く詠んできました。
昨年、それらの句を集めて、私俳句「ブラジルの月」(pdf版)を編みました。
また、先月、追悼句以外のもので、私家版句集「風の蝶」(pdf版)を作りました。

そういった形で、これまでの句をまとめてしまうと、これから、何を詠むのか、 方途を失ってしまいました。
もともとが哀悼の句を詠みたいがために始めた俳句だからです。
しばらくはスランプが続くのではないでしょうか。
俳句は、短いだけに実に微妙なところがあって、 一旦とっかかりを失うと、どうしたらいいのかまったくわからなくなってしまうのです。 他の人はいざしらず、私の場合はそうです。

そういうわけで、この一月ばかりは、花鳥諷詠が多くなっています。
それでもいいのですが、やはりどこかに不満があり、最近は社会的なことも 詠むようにしています。
まだまだ未熟で、そもそも俳句になっているのかどうかさえわかりませんが、最近詠んだ句で、フェイスブックに投句したものを掲げておきます。


鉄条網の内外(うちそと)あやめ咲いてをり

歩いていると、鉄条網の内と外にあやめが咲いていました。
それは内に植えられたあやめが外にまで広がってきたというだけのことですが、 それを見かけたとき、ある想念が浮かんだのです。 かつて、鉄条網の内と外の隔たりが、生死をわけるほどのものであったことがある、という 想いでした。
たとえばアウシュビッツ。
その想いが一句になったのですが、そういった意味を読み取ってもらえるかどうか。

松花粉チェルノブイリの日も奈良に

1986年チェルノブイリ原発が事故を起こして二、三日後の休日(当時は天皇誕生日)、 まだ小さかった子どもたちを連れて奈良に遊んだ折のこと。
東大寺の前の松並木から、花粉が黄色いカーテンのように靡いていました。
若草山に登ったところで雨が降ってきたのです。レインコートを着せたのですが、 子どもたちが濡れたので、放射能は大丈夫だろうかとふと不安が掠めたのを覚えています。
フクシマ後のいまから見れば、その不安は妥当だったのか、杞憂にすぎたのか、どうか。

蓬摘むチェルノブイリの日の妻と

4月27日午後、雨模様でしたが、妻と庭の蓬を摘みました。一臼の蓬餅ができそうなくらいの収穫がありました。
チェルノブイリは、ウクライナ語で苦よもぎを意味し、当地に多く生えているということなので、 蓬摘みから、そこに連想が飛びました。
「チェルノブイリの日の妻」というのは、言葉通りチェルノブイリの原発事故の起きた「4月27日の妻」ということです。しかし、もう一つの意味も含ませています。それは、ほんとうに「1986年のチェルノブイリの日」に妻がそこにいたと仮定したなら(私ももちろんですが)、ということでもあります。当地の人は、その日も苦よもぎや山野菜を 摘んでいたかもしれない、という想像をダブらせたのです。


2016.5.1
浅田素由句集「万年青の実」


1992年に父、浅田素由が私家版として出版した、浅田素由句集「万年青の実」を電子版として作ってみました。


浅田素由句集「万年青の実」(pdf版)
      1992.11.1



html版はこちらで読むことができます。

浅田素由句集「万年青の実」
      1992.11.1



2016.5.1
俳句

四月にフェイスブックに投稿した句です。

今生に散る花浴びて人とゐる

ゆくりなく西行塚に花の風 (弘川寺)

仏足の大きかるべし万愚節 (薬師寺)

たんぽぽの呆けし絮の抽んでて

芽山椒かたつむりゐる枝避けて

チューリップ花摘むを妻ためらはず

混信の声幽けくも花の下

雨に撓ふを双手に享けし花の房

過去帳にわが筆の拙花の冷え

花の屑たましひほどの一掴み

いにしへの登り窯跡初蕨

枝透けてででむし見ゆる山椒の芽

花屑の踏み跡先に逝かしめき

花屑を託つ友あり掃く身には

羨道(せんどう)に風通るらし花の屑

花屑に混じる尾羽を犬嗅げり

花の屑たましひほどの一つまみ

枝透けて蝸牛ゐる山椒の芽

不参加のはがきで扇ぐ竹の秋

ことまつり農せぬ妻の草の餅

諸花の呆け絮となる日永かな

腹ばひて蝌蚪のさざめき聴くつもり

翁面春陰にひげ煤けをり

尼寺のめぐり雉(きぎす)のめをとかな

春耕や墓じまひする家の田も

花喰らふ雉子(きぎす)の声の濁りけり

一握の花屑ほろと掌をこぼる

たんぽぽの呆け絮伸びるそぞろの歩

たんぽぽの呆け絮伸びる旧りゆくも

たんぽぽの呆け絮伸びる老いの丈

旧りゆくを年々細(くわ)しき芽吹きかな

はなずはう日裏に色を深めけり

山吹を教へし母の眉ぼくろ

菜の花の香の吹流し過りけり

案内声黄泉と漏れくる藤の花

    (近つ飛鳥博物館)

冬の痒み脛に残れり山躑躅

松花粉チェルノブイリの日も奈良に

チューリップ崩るるばかり真夜の地震

おほかたは蛇わが前を過ぎりけり

ぼうたんや美僧の経もゆるらかに

桜しべ色の名残のかさばらず

いのししの狼藉と云ふ山躑躅

ゆくりなくうわみずざくら隠れ塚

抱き帯に素足突き出ししやぼん玉

蹉ダたりと云へど今年の牡丹かな

うつ伏せの水瓶揺るる春の地震

盗掘の眼もて穴出づ塚の蛇

仰のけに手枕冷ゆる紫雲英草

をさなうた浮き足立ちて花水木

抱き帯に素足突き出し鯉の風

鉄条網の内外(うちそと)あやめ咲いてをり

ひとつこと老いに移れり牡丹散る

今生に吹かるる今を帚草

蓬摘むチェルノブイリの日の妻と

芍薬のつぼみの紅にけふの夜雨

地震に咲き十日の牡丹散りにけり

昨夜(きぞ)冷えて芍薬の紅解けぬまま

ふためける子蜥蜴またもわが前に

春昼の過去帳父の開き癖




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