[狩猟日記] [伊能ウォーク] [風よ.雲よ.人よ] [食いしん坊]

[猟場点描2006] [2007] [2008〜] [2009〜]






男と女

私にとって男と女は方程式のない関係。
羅針盤もないし、全くの暗夜行路。


弦がが弓に対する関係こそ、
女の男に対する関係。
女は男をひき曲げるが、男に従う。
女は男を引き寄せるが男についてゆく。
ロングフェロー


いつの頃からか男は女の寝巻の紐をつかんで、
眠るようになった
この世に逃げられまいというように

この世にはりついた女は
自信の余剰のように
紐のゆとりをつくって
男にてわたす
ゆとりが長ければ
女の体には自由が残り
男の指にあたたかさが伝わらない

ゆとりが短ければ
紐は女の息吹とともに呼吸して
あたたかさが
女の寝返りひとつで
つながりは切れる

紐のつながりがいつまで続くか
男も女も考えない
女は気づかずして考えず
男は考えまいとして考えない

生きて在る限り
目に見えぬ紐のつながり
男と女の間の
長いゆとり 短いゆとり
この世との
長いゆとり 短いゆとり


城山三郎著 「紐のつながり」から。


アイ.シャル.リターン

またまた、恥知らず登場。
例によって、その言葉の歴史的背景も知らずして、
聞きかじりの半知半解ぶりを 恥ずかしげもなくひけらかす
哀れな渡り鳥女史。

そもそもこの言葉は第二次世界大戦中に
日本軍により米国のマッカーサー司令官がバターン半島から追い落とされて、
コレヒドール島からオーストラリアへ魚雷艇で慌ただしく逃げ出すときに、
捨て台詞のように吐いた言葉だ。
決して誇りある軍人として捲土重来、不屈の精神を語ったものではない。
(後年、彼を美化するために、都合良く脚色された一面もあるが)

米国内に於いても最高司令官が部下を置き去りにしての脱出行には、
いろいろと論議を呼んだ経緯もある。

実体は別として国防の最高責任者が辞任する挨拶として、
実に聞くに堪えない中身のない不適切な言葉だと思う。

彼女は勿論、次の言葉も知らないのだろう。

「逃げるなマッカーサー、出てこいミニッツ」

第二次大戦の時、日本の各新聞の一面にくり返し出ていた
国民の戦意昂揚のため扇動文句だ。

(注.ミニッツとは当時の米国太平洋艦隊司令長官)

国会図書館で戦時中の新聞を読み、勉強のし直しをされたら如何。


あいつの事

てつよ、、、

お前がそちらに行ってから、はや二週間。
先に逝った「ちび」「ぽち」「とら」「くま」「ころ」「めりー」に
逢えたよね。
「まりんチャン」とまた一緒に遊んでいるよね。

此方は今日はお盆、、迎え火を焚いてお前達を待っているよ。
鹿肉をたっぷり入れた卵入りのご飯を作っておいたから帰っておいで。
おやつにみんな大好きだったミンチボールも用意してある。

お父さんも一人でお盆を過ごしているから待ち侘びている。
今日から三日間、昔のようにみんなで賑やかに過ごそうぜ。


長崎の鐘

【作曲】 古関裕而【作詞】サトウ・ハチロー

こよなく晴れた 青空を
悲しと思う せつなさよ
うねりの波の 人の世に
はかなく生きる 野の花よ
なぐさめ はげまし 長崎の
あゝ 長崎の鐘が鳴る

召されて妻は 天国へ
別れて一人 旅立ちぬ
かたみに残る ロザリオの
鎖に白き 我が涙
なぐさめ はげまし 長崎の
あゝ 長崎の鐘が鳴る

つぶやく雨の ミサの音
たたえる風の 神の歌
耀く胸の 十字架に
ほゝえむ海の 雲の色
なぐさめ はげまし 長崎の
あゝ 長崎の鐘が鳴る

こころの罪を うちあけて
更け行く夜の 月すみぬ
貧しき家の 柱にも
気高く白き マリア様
なぐさめ はげまし 長崎の
あゝ 長崎の鐘が鳴る


君主国に阿る為に「アワレナ妄言」をくり返す植民地奴隷がいる。
「戦争を知らない世代」という言葉は決して免罪符にはならない。
それらが現実の体験でなくても歴史を学ぶことはできる。

まともな歴史認識も持たない某大臣、
そして核武装を声高に叫ぶ漫画、ゲーム世代のオコチャマ議員達。
彼たちはタイムスリップして1945年8月6日の広島、
1945年8月9日の長崎に立つとしたら
それでも植民地奴隷のような発言を繰り返せるだろうか。

以下、新聞記事から抜粋引用する。
自らも被爆しながら長崎で救護を続けた永井隆医師は、
天主堂近くの自宅の焼け跡で溶けたロザリオが絡まる
緑夫人の骨を見つける。享年37歳。

「まだ、温いのをバケツに拾い歩いた
私の腕の中で妻がかさかさと燐酸石灰の音を立てていた。
私はそれを『御免ネ、御免ネ』と言っているのだと聞いた。」
(ロザリオの鎖)

永井医師の
『長崎の鐘』『この子を残して』『ロザリオの鎖』『原子雲の下に生きて』は名著。

窮馬大臣、是非ご一読を。

先ほど辞任したが、その理由とは。
「昼ご飯を食べながら決めた。 参議院選挙に影響するから、、、。」

言うべき言葉がないほどの軽薄、無知、無能、哀れ。
自分の発言の何が問われているのか、
その本質さえ理解できていない。
美しい国にはこのような「カナシイ人物」でないと、
大臣になる資格が無いのかも知れない。

後任には甘い蜜を求めて次から次へと、
権力者の側へすり寄ることが特技の
『蝶々女史』
(日本新党.新進党.自由党.保守党.そして自民党)

ミニスカート防衛元帥閣下をいただく、この国の安全はこれにて盤石!

閲兵式

ミニスカート元帥閣下に対して「捧げ銃、頭下」

ミニスカートの脚線美に視線をやっては規律違反。頭右が正しい。

             


化石言葉

貞操観念、貞節.不義密通、姦通罪。
夕餉の団らん、


「七人の子をなすとも、女に心を許すな」
この中国の昔の言葉は古くて新しい現代の言葉。

さて、民法(300日規定)見直しの論議の行く末は。


春愁と無聊の日々に

「良馬はつまずかず、良酒は酔わず、良妻は不平を言わず」
こんな諺があるそうだ。

私が付け加えるとしたら、、、。
「良き女性は我を愛さず」か。


過ぎし日に 君や 何をかなせし
 ただに 涙す
 語れ そも 何をかなせし
 君が 若き日

ヴェル.レーヌの一句が痛烈。


春の淡雪

一昨日は初夏を思わすような陽気。
道を行く人々も半袖姿で白さが眩しかった。
今日は一転して、弥生の淡雪。

冬に別れを告げる名残雪なのか、
終わった森の日々との別れ雪なのか。


やはらかに 積れる雪に
熱てる頬を 埋むるごとき 恋してみたし
啄木


それでも時は流れてゆく

鐘が鳴ろうと 日が暮れようと
月日は流れ わたしは残る

アポリネール.「ミラボー橋」の一節から


国民が騒ごうと 自民党が黄昏れようと
ときは流れ わたしは残る

口災大臣.「柳腰白痴夫」の語録から


忘却とは忘れ去ることなり。
忘れえずして、忘却を誓う心の悲しさよ。

人の噂も七十五日

アベ首相の独り言から


私の終着駅

一人の女しか愛さない男は、
しばしばもっとも幸福な生活を送るが、
死ぬときはもっとも孤独な死にかたをする。
ヘミングウェイ


まやかし人間

この国は全ての分野において
すさまじいほど変貌してしまった。
カナシイ事に似非人間が主流を占めている。

イラクに於ける市民などの死者が三万四千を超えたとか。
そんな報道がなされている先週の日曜日、
そんな内の一人が早朝のテレビで驚天動地の発言をしていた。

イラクの現状は夫婦喧嘩のようなものだから、
他人が口だしすべきではない。
だから米国はすみやかに撤退すべきであり、
あとはイラク国民に勝手にやらせておけば宜しい。
(米国は撤退すべという発言は正しいが)

すでに内戦状態だと言われ、街は破壊され、
毎日、百人前後の死者がでている惨状を、
夫婦喧嘩に例え、勝手にやらせておけと嘯く彼女の、
言うべき言葉を持たないほど貧困な思考能力。

かって「女流エロ作家」「子宮作家」などと嘲りを含んだ言葉で、
揶揄されていたが、いつの間にか剃髪して宗教家。
そして、社会の耳目を集めそうな事件が起これば、
一見もっともらし言葉をまき散らしマスコミに登場する。
そんな彼女の法話でも聞くために多くの「さまよえる人々」が集まると聞く。

その番組の中で彼女に人生相談をする男性の不甲斐ない有様を、
面白げに茶化すような口調で喋っていた。

権力側の非条理や悪辣さを糾弾する側に立つ姿勢で、
発言し続けながら、その権力からの「ブリキの勲章」を、
頂いて喜んでいる彼女のツルツルと上滑りしているだけの言葉に、
これからも多くの善良な人々が惑わされ続けることだろう。

いやしくも命の尊さを説く宗教家を自称しているのだから、
愚にもつかぬテレビに出る時間があれば
一度でもイラクの現場に出向き、貴方の言う「夫婦喧嘩」の地獄図を
つぶさに自己の目でご覧になったら如何でしょうか。

勿論、権力は真の信念で反権力の立場に立っている「人」には、
どんなに間違っても勲章など呉れないこともご存じですよね。


立冬

秋と冬の季節が激しく入れかわろうとしているかのように、
朝から風が吹き荒れていた。
そして暦通り木枯らし一号。

今日、立冬。

海に出て木枯らし帰るところなし
誓子


私の心も旅路の果てに吹き散らされて。


言葉の重さ

以前、ここにも書いたことのある「踏み絵」という言葉を、
またまた、したり顔でまき散らしている無知無恥な人物がいる。
ある政党の中での勢力争いに関しての発言であるが、
そもそも「踏み絵」なる言葉は、
そんな低次元の事柄に使うべきではない重さがあるのだ。

「踏み絵」の言葉の持つ歴史的背景と由来を考えるとき、
彼はその言葉の重さに畏れを感じなければならない。

踏み絵を踏まなければならいのは、彼本人だ。
民度の低さ故にありついた権力の座とはいえ、
かりそめにも政権政党の要職にあるものが、
素性正しからぬ「女性」とのあられもないベット上の痴態の
目を覆いたくなる様な写真を公開された不祥事を恥じ、
これからは二度と卑しい欲望の赴くままに、
あのような破廉恥な行為を致しません、
と言う反省と誓いの「踏み絵」を踏むべきなのだ。

まず、自分自身の足の泥を拭うべでしょう。
下半身にも人格のない恥知らずのNへ。


霜月

落ち葉の季節
「かい」と「てつ」が枯れ葉の上を歩く。
かさこそ、、、かさこそ、、、かさこそ、、、と。
三人で歩く暮秋はこの秋でお別れだよね。
かいよ! てつよ!


粋な別れ

生命には終わりがある 恋にも終わりがくる
秋には枯葉が 小枝と別れ 夕べには太陽が 空と別れる
誰も涙なんか 流しはしない
泣かないで 泣かないで 粋な別れをしようぜ ...

生命には終わりがある 恋にも終わりがくる 
はかない生命は せつなくもえて どこかに消えてゆく 煙草の煙り
 恋の行方なんか わかりはしない 
追わないで 追わないで 粋な別れをしようぜ

作詞.作曲. 浜口倉之助


秋思

うら恋し さやかに恋とならぬまに 別れて遠きさまざまの人


あの時に言えなかった「ひと言」が、いつまでも心の棘。
やせ我慢も男の美学か。


巷に降る雨は

秋の長雨とか、、降り続く空模様に少し憂鬱。
それはボーイズ達(かい.てつ)の散歩に困るからで
雨の日はきらいではない。

雨の匂いが立ちこめて、塗り込められて内省的になる。
そう言えば「雨の日はひとりの時間が濃くなるから好き」だと、
メールに書いて下さった方も、
「相合い傘でお洒落に歩いてみたい」、と仰った方もあった。

それも過ぎてゆく思い出。
ときは止まることなく流れてゆく。


巷に雨の降るごとく
ヴェルレーヌ

巷(ちまた)に雨の降る如く
われの心に涙ふる。
かくも心に滲み入る
この悲しみは何ならん

やるせなき心の為には
おお、 雨の歌よ
やさしき雨の響きは
地上にも屋上にも

消えも入りなん心のうちに
故もなく雨は涙す。
何事ぞ 裏切りもなきにあらずや
この喪その故を知らず。

故しれぬかなしみぞ
實(げ)にこよなく堪へがたし、
恋もなく恨みもなきに
わが心かくもかなし


臥待ち月

望月の欠けたるところのない月もいいが、
臥し待ち月も趣がある。

いにしえ人も曰く。
「花は盛りに、月は隈なきものをみるものかは」

人間も哀愁の影を感じさせられるような人に
わたしは惹かれる。

何はともあれ、今夜は「寝待ちの月」


居待ちの月

わたしは「居待ちの月」を待っているのか、、、。
それとも「何か」をいつまでも待ち侘びているのか、、、。


「月光の青きに燃ゆる身を裂きて蛇苺なす血の湧くを見む」
牧水


立待ちの月

うたかたの人も今宵は戸口より立ち出でて
この立待ち月を眺めていらっしゃるだろうか。

「君が背戸や暗よりいでてほの白み 月のなかなる花月見草」
牧水


十六夜

今夜は十六夜の月。
つつしみの美徳も、羞じらう美しさも失いつつあるわたし達、

十六夜の月は羞じらいつつ,ためらいつつ、、今夜は少し遅れて。

「十六夜はわづかに闇の初め哉 」
芭蕉


名月

午後から晴れてきたので月の出の頃、湖畔に出かけよう。

昔の人達は満月を眺めながら
「月が鏡であったなら、恋しい貴方の面影を夜ごと映してみようもの」などと、
切なく胸を焦がしていた。

現代は写メールなどで時も空間も非情なほど一瞬である。
その間には情緒のひとかけらも入る込む余地はない。
現代人の心の中にはしっとりと濡れた部分は失われ、乾いた砂漠が広がるのみ。

月(ルナ)はラテン語で狂気を意味するものと読んだ記憶があるが、
蒼い満月の夜、突如として人が狼男に変身するのもその所為かも知れない。
今夜は至るところで「狼男」が出没の危険性がある。
   夜更けの一人歩きはご注意。(笑い)

月々に 月みる月はおおけれど 月みる月はこの月の月


仲秋

仲秋や月明かに人老いし
 虚子

少年の日々に眺めた月も、黄昏れの日々のいま観る月も、
少しも変わることなく同じように煌々と輝いているのに、
私はいつの間にか老いてしまった。

今宵は仲秋の月、、さあ、窓を開けて、
せめて、月の光を部屋の中へ招き入れようか。


宵待ちの月

徒な雲で今夜は見られそうもない。

そして、わたしは宵待草の一節を口ずさむ。

待てど暮らせど 来ぬひとを
宵待草の やるせなさ
今宵は月も 出ぬそうな
竹久夢二


そう言えば夢二描くところのような
愁いを含み楚々とした佳人は見られなくなった。

「夕暮れの 海の愁ひのしたたりに浸されて 瞳は遠き沖見る」
牧水


十月の月

今年は六日が仲秋の月。
五日は宵待ちの月。


「嘆けとて 月やはものを思わする かこち顔なるわが涙かな」
西行


なげき悲しめといって、
月がわたしに恋のもの思いをさせるのだろうか。
月をみていると、つのる恋心の苦しさに、あふれ落ちる私の涙。


心の中でくり返し吟じながら、わたしも眺める十月の月。

                                  


秋の七草

今どきの若い女性は半数以上が「秋の七草」という言葉を知らないという。
当然、それぞれの「花」の名前も言えない。
常日ごろ、彼女たちの立ち居振る舞いを眺めては異星人のように、
思えている私は驚かないが、それにしても、すさまじいほどに
この国は変わってしまった。

わたし達世代は教科書で習った記憶があるのに、
秋の七草が山上憶良の詠んだ万葉歌に由来することなども、
知る人々も少なくなったのだろうか。
情緒などひとかけらもない乾いた砂漠のような世の中へまっしぐら。

秋の野に 咲きたる花を 指折り(およびおり)
かき数うれば 七種(ななくさ)の花
山上憶良


萩の花 尾花葛花 撫子の花
女郎花 また藤袴 朝顔の花」


神無月

十月.神無月
八百万の神々は出雲の国に集い給い、
車座での今年の最優先議題はなんだろう。


「倭は 国のまほろば たたなづく 青垣 山隠れる 倭しうるはし」

ウエハースのように薄っぺらで軽い借りものの言葉で、
「美しい国へ」と、お題目のように繰り返している男がいる。

神々が造り給いし時、この国は美しい国だった。
それを経済至上主義の旗を振り振りかざし、
現在の見るも無惨な国にしたのは誰だろうか。

シン坊ちゃん。
愚かしい戦争で国土を焦土とした責任の一端は
あなたのお祖父さまにはありませんでしたか。
たしか、戦争推進内閣の重要閣僚の一員ではなかったでしょうか。
戦争犯罪の容疑者として巣鴨刑務所に収監されながら、
のちに総理大臣になったという希有の経歴の持ち主ですが、
その組閣名簿を昭和天皇がご覧になり、
ご祖父を指さしながら側近の方に、
彼が首相と言うことだが、大丈夫なのか、、
と懸念を示された逸話もご存じですね。

また、あなたの父上は自然を破壊し続けた政策を一貫して推進してきた、
ある政党の首脳の一人ではなかったでしょうか。

そのお孫さんであり、ご子息でもあるあなたは
国粋主義者的傾向の発言を繰り返されていますし、
長州閥の政治家をも標榜されているようです。
それでいて、文章にも話し言葉にも、
あなた方にとっては「君主国」の言葉らしい横文字を、
やたらと多用されています。

「言葉を大切にしない民族は滅びる」
という不変の真理をご存じですか。
国をうしない流浪の民族も何ものにもかえて、
自民族の言葉は瞳のように大切にしています。

もしかして、あなたの言う「美しい国へ」とは、アメリカの国のようにと、
言う意味ではないかと思います。
だって、ある国の言葉でアメリカの呼称は「美国」ですね。

そのように解釈すれば、日本の最高責任者でありながら、
国会に於ける重要な所信表明演説にアメリカかぶれしたような、
わけの分からないカタカナ言葉を連発し、恥じるどころか、
得意然とした態度が理解できます。

日本は世界に誇れる美しい言葉を持つ国です。
その一言ひと言には言霊が宿っています。

どうぞ、日本人としての矜持を忘れずに、
しっかりと「美しい日本語」をお使い下さい。

坊ちゃんの徒名は「しっかり、しんちゃん」だそうですね。
それこそ、正しい言葉でしっかり、と。


大きく報じられることはなかったが、
数年前、米国にあらゆる意味で、ごく近いある国の首相が、
自国の国会で次のような演説をしたことがある。

「わが国はアメリカ文化の無制限な流入を歓迎しないし、模倣もしない。」
「その理由は日本の国をご覧なさい。」
「わが愛する国をあのような国にしたくないから。」と。

出雲発.神々通信社


曼珠沙華

今朝、ボーイズたちとの散歩のときに曼珠沙華が咲いていた。
そう言えばお彼岸だったのだ。
今年も故郷のお墓参りに行けなかったことを思いだし、
少し心が痛む。

「曼珠沙華は恋の花」「情熱の花、曼珠沙華」「彼岸花」
墓地の近くに咲き乱れているから「死人花」
独特の臭気があるから「手腐れ花」、、、様々に呼ばれている。
子供の頃遊んでいた小川の土手に、行列したように咲いていた。
私にとっては幼い頃と故郷の郷愁を呼び起こしてくれる花。

「曼珠沙華 抱くほどとれど 母恋し」
汀女


遠い遠い日の微かな記憶だから思い違いかも知れないが、
太平洋戦争の末期、偏西風を利用して米国本土へ風船爆弾なるもので、
攻撃を仕掛けたことがある。
その糊の材料の一部に曼珠沙華の球根が、使われると言うことで、
当時の小学生も幼稚園児も総動員され
採取させられていたという記事を、何処かで読んだ気がする。
でも、風船爆弾は和紙と蒟蒻糊で製造したものだと思うが、
全く私の記憶違いなのだろうか。
思いがけずに不思議な思い出がよみがえってきた朝だった。


不思議な人々

テレビや新聞でこの間まで、劇画の世界そのままの様に
刺客などと面白おかしく騒がれ、当人たちもそれに乗り、
浮かれはしゃいでいた軽佻浮薄なにわか議員たちが
いま右往左往している。

郵政民営化法案に反対し離党させられた人々が復党すれば、
思いがけずにも、ありついた議員の座が選挙区が競合することにより、
危なくなる危機感かららしい。

しかし、そもそも刺客なるものは権力者の恣意のまま、
使い捨ての手駒としての存在でしかないはずだ。
そんなことすら知らずに、折角、手に入れた「甘い生活」にしがみつこうと、
慌てふためいている姿は滑稽であり、見苦しくもある。
わけの分からない横文字の言葉を使って得意然としているお子様議員たち、
たまには秋の夜長に漢詩でもひもといてみなさい。

刺客とは如何なるものかお分かりになるように書いておく。
偏執狂である彼の手先に過ぎない身の程知らずのあなた達が、
刺客と名乗るのもさえ烏滸がましい。


風蕭蕭兮易水寒
壮士一去兮不復還


風蕭蕭として易水寒し
壮士一たび去りて復(ま)た還(かえ)らず。


風の中へ

一度も袖を通したことのない旅行着もあるのに、
濃紺のインディゴ染めのジャケットを買った。
カメラも幾つも持っているのに小さな形に惹かれて新しく買ってきた。
トート.バックはいまでは貴重品の一澤帆布。


旅心をかき立てるため
黄昏れつつある私の、少しばかり切なくて、哀しいお膳立て。

もう少しすると、
北の国の山峡の道はパレットの絵の具をまき散らしたかのような
彩りに染め上げられるだろう。

あの街道を走り、あの風に吹かれ、あそこの蕎麦を食べ、
あの街で宿を取り、あの居酒屋で夜を過ごそうか。

「さて、どちらへ行かう 風が吹く」
山頭火


知らない街を 歩いてみたい
どこか遠くへ 行きたい
知らない海を ながめていたい
どこか遠くへ 行きたい
遠い街 遠い海
夢はるか 一人旅

愛する人と めぐり逢いたい
どこか遠くへ 行きたい
愛し合い 信じ合い
いつの日か 幸せを
愛する人と めぐり逢いたい
どこか遠くへ 行きたい


作詞.永六輔  作曲.中村八大


魔法の杖の一振り

フェーン現象で猛烈な暑さだったが、今朝は劇的に涼しくなった。
南の高気圧と大陸の高気圧が「魔法の杖の一振り」で入れ替わったからだろう。

秋の風がいろんなものを思い出させてくれる。

旅情.食べ物の美味しさ.夏の日に読みかけで閉じていた本.
忘れがたい人々.そして微かな秋愁。

 人、それぞれの秋。

 私の秋は何色。

        


「秋きぬと 目にはさやかに 見えねども 風の音にぞ 驚かれぬる」

          


旅と酒を愛した漂白の牧水忌

「伏目して 君は海見る 夕闇の うす青の香に 髪のぬれずや」

「白鳥は 哀しからずや 空の青 海のあをにも そまずただよふ」

「幾山河 こえさりゆかば 寂しさの はてなむ国ぞ けふも旅ゆく」

「酒飲めば 涙ながるる ならはしの それも独りの 時にかぎれり」

「忘却の かげかさびしき いちにんの 人あり旅を ながれ渡れる」

終わる日のない寂寥感に呵まれつつ。



人間模様

昨日の友は今日の敵。
あるIT関連者の公判に於ける関係


昨日までの敵は明日からの友。
郵政反対組とある政党の関係


昨日までの大臣の権勢の座から竹の中に捨てられて、明日からはただの平民。
偏執狂の引き立てで大臣になっていた某の有為転変の物語


昨日の敵は明日も敵、、終わる日のない敵。
ブッシュと、彼に虐殺され続けている人々の関係


昔日の天使はいまでは私の側の魔女。
家人との関係


昨日までの熱く緊張感のあったあの方も、明日からは生温いワインの様な存在。
逢った、知った、愛した、別れた、、ありふれた哀しい男と女の関係



政治家

次の有力な首相候補と目されている某が
「靖国問題とか、歴史問題とかを論議したがる「よこしまな」考えを持つ人たち、、、云々」
という発言をしていたが、
早速、おなじ党の要職にあったK氏に厳しく批判されていた。

「少なくとも次の総理になろうとするほどの人は、もっと国語力を磨いて もらわないと困る。
歴史や靖国について考え論議を交わす人々が、「よこしま」な考えの持ち主であると、
決めつけるのは呆れかえるほど薄っぺらで乱暴な話だ。」、、と。

しかし某は言葉を知らないこともあるが、
親分に似てその程度の教養と見識しか持ち合わせていないのだと思う。
彼の語彙の中には国民を安っぽいナショナリズムに駆り立てる
借りももの言葉しか詰まっていない。
その手元には政治献金の集金記載簿はあっても国語辞書はないのであろうから、
コイズミさん、、引退する記念に大辞林の一冊でも贈呈されては如何でしょう。


政治家という言葉は、そのまま政府内外の腐敗と汚職との同義語。
ライシャワー


すべてに対して、「それにもかかわらず」と言いうる確信のある人だけが、
政治に対する「天職」を有する。
マックス.ウェーバー


政治をなす者の悪徳が四つある。遅延、腐敗、傲慢、軽挙。
ベーコン


知識人は政治家を軽蔑し、政治家は知識人を軽蔑する。
ロマン.ロラン


捨てられた政治家の壮語するのと、破れた靴の鳴るとは悲しい。
長谷川如是閑


国会に行く政治家もあれば、監獄に行く政治家もある。だが、結局は同じ事だ。
ビット


彼ら(大臣たち)は、非常に低いところから落ちるので、
落ちたところでいっこうに傷を受けない。
アナトール.フランス


どの政治家でも、新聞紙上に発表する意見はいっこう面白くない。
政治の力は実行することであって、演説することではないからである。
ゲーテ


政治は勝負事ではない。まじめな仕事だ。
チャーチル


やむを得ず、というのは圧政の口実である。
ミルトン


政は正なり。
論語


心されたし、、、!。 世襲のお坊ちゃん議員たち。



夜長月

秋は、夕ぐれ。

 夕日のさして、山のはいと近うなりたるに、
  烏の、寝どころへ行くとて、三つ四つ、二つ、三つなど、
飛びいそぐさへ、あはれなり。
  まいて、雁などの列ねたるが、
いと小さく見ゆるは、いとをかし。
 日入りはてて、
  風のおと、虫の音など、はたいふべきにあらず

枕草子


これからの夜長、、あの方は秋の愁いになに想う。


形見とて  何か残さん  春は花  山ほととぎす  秋はもみじ葉


私は何を残せただろうか ! 


秋きぬと、目にはさやかに、

葉月

『風立ちぬ、いざ生きめやも』
(ポール.バレリー「海辺の墓地」から)

さあ、風が立った、生きなくては!

「かい」も「てつ」も「あの方」も、そして私も!


思い出

この長い旅の終わりが静かに始まったことを意識している。
過ぎてみれば一場の劇だった。

人生には灰のときも炎のときもあったが、
それらの思い出を一つ一つ取り出しては
いま抱きしめるようにして振り返っている。

思い出とは記憶から忘却に移る途上に存在するものだが、
さほど遠くない日に忘却と言うことではなく、
すべて無に帰すであろう。


ゆく河のながれは絶へずして、しかも、もとの水にあらず。
よどみに浮かぶ「うたかた」は、
かつ消え、かつむすびて、久しくとどまりたるためしなし。
世の中にある人と栖と又かくのごとし。

方丈記


処暑

「いつも一人で赤とんぼ」
山頭火

我が生(しょう) 何処(いずこ)より来たる 去って 何処にか行く


罪ふかきもの

罪ふかきもの、汝の名はおんな

さあ、尼寺へお行き。
なぜ、男に連れそって罪ふかい人間どもを生みたがるのだ。
シェークスピア


罪ふかきもの、汝の名はおとこ

男のひとって、
一度女を愛したとなると、その女のためなら何でもしてくださるものでしょ。
たった一つ、してくださらないもの、それはいつまでも愛しつづけるってこと
ワイルド


罪なきもの、汝の名は、、、

汝らの内、まず罪なきものから、石をもて、このページをうて。笑い。
トモキ


秋よ来い、恋い。

誰かさんが 誰かさんが 誰かさんが 見つけた

小さい秋 小さい秋 小さい秋 見つけた

目かくし鬼さん 手のなる方へ

すました お耳に かすかにしみた

呼んでる 口笛もずの声

小さい秋 小さい秋 小さい秋 見つけた


誰かさんが 誰かさんが 誰かさんが 見つけた

小さい秋 小さい秋 小さい秋 見つけた

お部屋は北向き曇りのガラス

空ろな眼の色溶かしたミルク

  僅かな隙から秋の風

小さい秋 小さい秋 小さい秋 見つけた


誰かさんが 誰かさんが 誰かさんが 見つけた

小さい秋 小さい秋 小さい秋 見つけた

昔の 昔の 風見の鶏の

ぼやけた鶏冠に櫨の葉ひとつ

櫨の葉赤くて いりひ色

小さい秋 小さい秋 小さい秋 見つけた


佐藤ハチロー作詞/中田喜直作曲


すべてがキラキラと輝いていた私のあの日々、
ダーク.ダックスの歌声が流れてくると、心の中まで秋の色に染まっていた。


七草かれん

誰(だれ)かさんが 誰かさんが 誰かさんが 見(み)つけた

小(ちい)さい秋(あき) 小さい秋 小さい秋 見つけた

目(め)かくし鬼(おに)さん 手(て)のなる方(ほう)へ

すました お耳(みみ)に かすかにしみた

呼(よ)んでる 口笛(くちぶえ) もずの声(こえ)

小さい秋 小さい秋 小さい秋 見つけた
佐藤ハチロー作詞

お盆が過ぎれば、いつの間にか初秋。

   「秋の七草」が可憐な姿を見せはじめている。
ハギ.オバナ.クズ.ナデシコ.オミナエシ.フジバカマ.キキョウ。

山の麓には小さな秋が揺れていた。

公園の小径にはチィチイと小さく鳴きながら蝉が息絶えようとしている。
そうして今年の夏がゆく。


あの方に、このメールを書いてから一年、、、今年も巡ってきた秋。

誤診、薬漬けに翻弄された一年だっただけに、万感の秋。

さあ、片雲の風に誘われて旅をしよう。


八月十五日

六十一年前の今日はとても暑い一日だった。
そして戦争に負けた日。

戦争の愚かさ、悲惨さを知らない彼や、その追従者がニュースを騒がしている。

.信念と意固地とは違うんだよなー。
.純粋さと幼稚さとは違うんだよなー。

彼を定義する最も短い言葉は「愛する人」 である

彼は国を愛し、国民を愛し、米国を愛し、芸術を愛し、お追従者を愛し、靖国を愛し、
とりわけ「自分自身」をこよなく愛する。


愛国心について声高に言いつのる人物が現れるとき、
人々は注意を払わなければならない。
戦争屋は、いつも愛国者の仮面を付けてやってくるものなのだ。


愛国心とは、ならず者たちの最後の避難所である。
サミュエル.ジョンソン


迎え火に思うこと

われわれの生まれ方は一つだが、死に方はさまざま。

「死者の記憶が遠ざかるとき、同じ速度で死が私たちに近づく」
石垣りん


私の恋と友情

私の恋は朝の影に似て、だんだん小さくなっていくが、
黄昏れ人である私の心に宿す友情は夕方の影のように、
人生の太陽が沈むまでは、大きくなっていく。

しかし、友情と恋愛は一つの根から生えた二本の植物である。
ただ後者は花を少しばかり多く持っているに過ぎない。

そう思って生きて行かなくては!


この心、、、友情なのか、、、恋なのか、、、。

多分、
「友情とは翼のない恋」(バイロン)
 なのだろう。


キッス.オブ.ファイア

ベサメ.ムーチョ /作詞.作曲: C.VELAZQUEZ/

ベサメ.ベサメムーチョ
今宵君と交わす口づけ
ベサメ.ベサメムーチョ 頬も濡れる愛のよろこび

二人の恋は
はかないものと 分かっていても
思い出すは
熱く燃える 君の唇

ベサメ.ベサメムチョ
別れせまるこのひと時を

ベサメ.ベサメムチョ
愛の光り ともす君よ

トリオ.ロス.パンチョスの来日公演で熱狂していた頃が懐かしい。


手の上ならば  尊敬の口づけ

額の上ならば  友情の口づけ

頬の上ならば  厚意の口づけ

唇の上ならば  愛情の口づけ

閉じた目の上ならば  憧憬の口づけ

掌の上ならば  懇願の口づけ

腕の上ならば  欲望の口づけ

さて、その他はみんな狂気の沙汰。


熱く、狂ほしい「あの日々」はもう私にはない。

もう一度だけ「ラスト.ダンス」を、二人で踊り明かしたい。


運命

私は無神論者と自認しながら、
突如として、憑依したかのように神頼み仏頼みをする。
まことに、ふらり、ふらりしたご都合主義だ。

それでも「運命」という奴は信じている。

禍福、喜怒哀楽、人生の旅の軌跡、来し方の生き様、
すべて「これも運命」という言葉に収斂させてしまう。

「人間は運命のまにまに身を任せて行くことはできても、
これにかかずらうことはできない。
また人間は運命という糸を織りなしていくことはできても、
これを引きちぎることはできない。」

渚に佇み別れを告げたあの日のことも運命。

そして、偶然であり、必然であった「ひとつの出逢い」
その驟雨にも似た「うたかた人」への「こころ模様」も私の大切な運命。


おお運命よ。 運命よ、みなが汝を浮気者という。
シェークスピア、


故郷は

今年もお盆が巡ってきた。

私にとって故郷はあってないようなものだが、
里山や小川で遊んだ、さまざまな思い出だけはいつまでも夢に出てくる。

帰る日があるとしたら、それは私のこの旅が終わったとき。

子供のころ、いつも泳いでいた池の畔にある、あの両親の眠るところへ。

しかし、そのときに連れて行ってくれる「人」は、と思うとき
縁者のない私は、暗く、そして悲しい。
約束してくれていた「人」は、、、、、、。

それまでは故郷は心の中だけの風景。


「ふるさと遠きにありて思うもの  そして悲しくうたふもの」

「故郷なんてものは、泣きぼくろみたいなもの。」
「気にかけていたら、きりがない。手術したって痕がのこる。」

いずれも切ない望郷の思いが滲んでいる。

私は室生犀星、、、、それとも太宰治、、、なのか。

今年も心静かに「迎え火」の準備をしよう。


異常気象

地球が加速度的に壊れていく。

それを「異常気象」という自然現象の言葉に置き換えてしまう。
砂上の楼閣、つかの間の幻影、ひたひたと忍び寄る滅亡の足音。

今なお「京都議定書」に調印しない身勝手な大国もある。

「だれもがお天気についてお喋りする」
「しかし、だれも天気をどうしようもないのである」
マーク.トウェーン


復讐

止めどもなく続く復讐の連鎖。

「目には目を、歯には歯を」
機能しない国連。

民族によっては復讐を果たすのに数代に渡って相手をつけ狙うことが、
立派な正義とされているところもあるとか。

「復讐は快いーとりわけ女への」
(バイロン)

男と女のロマンの匂いがする戦い、こんな復讐の方がよい。


禁断の実

「アダムはリンゴが欲しかったから食べたのではなかった」
「禁じられていたからこそ食べたのだ」
マーク.トウェーン

禁じられれば、禁じられるほど、甘美な誘惑。

「パンドラの箱」を開けと、悪魔が囁いている。

中東の火薬庫
石油利権のために、その「パンドラの箱」を開いてしまった米国。


広島忌

私の可視範囲にある歴史上で、
人間が人間に対して行った許されざる残虐非道の行為としては、
ナチス.ドイツによる「ユダヤ人大虐殺」所謂、「ホロコースト」と、
米国による「広島、長崎」という一般市民の住む都会への核兵器の投下である。

ナチスドイツに対して国際世論はその責任について糾弾しつづけ、追求しつづけたし、
独国民自身もヴァイツゼッカー大統領のあの有名な演説「荒れ野の四十年」に代表されるように、
厳しい反省と自戒に立っている。

一方、米国には公然としては、その許されざる人道上の罪に対しての非難もされず、
彼ら自身も、未だに原爆投下について正当化しようと妄言を繰り返している。

そして、世界に於ける唯一の超大国として我が物顔に振る舞いつづけ、
今も尚、多くの国に戦争という名の暴力を加えている。

人類史上、他に類を見ない核兵器による悲惨な被害を受けた側の我が国は、
その加害国の植民地に等しい地位に嬉々として甘んじている。

戦後六十年、多くの人々が「原爆の後遺症」に苦しみつづけておられる現状についての、
怒りを忘れてしまったのだろうか。

この二つの問題の、信じ難いほどの違いはどのように理解すべきなのか。

もう一度、問いかける。
それでも米国は「自由と民主主義」の国だと思いますか!。


今日、広島に米国による原爆投下という、人類に対しての犯罪が行われた日。


幸せの物差し

人はそれぞれに、その人なりの物差しを持っていると思う。

喜怒哀楽の感情はもとより、
行動の基準や、すべての価値に対して自分の物差しで計る。
私が幸せを感じることでも、他者にとっては、なんでもないことなど普通にある。

私は「かい」、「てつ」という二頭の老紀州犬と暮らしているが、
「てつ」は数年前に緑内障で失明し、「かい」は老齢による難聴という疾患を抱えている。

ただでさえ、朝夕の散歩には大変な気配りが必要だったが、
その「かい」が先日脳梗塞で倒れた。

幸いにして一命はとりとめたが、人間と同じように麻痺という後遺症が残った。

リハビリをかねて以前と同じコースを散歩させているが、
彼もよろめきつつ、ときには倒れながら必死に歩いている。

数年前まで、
私と山野を駆けめぐり、猪や鹿を狩り出していた勇猛な姿を思い起こし、
ともすれば、溢れそうになる涙を堪えながら、
その彼を少しでも元の状態に戻れるように見守りながら一緒に歩いている。

勿論、盲いている「てつ」も連れて。

夏の暑さに体力の消耗度を考えて、
早起きして、朝はやく出かけるが、それでも大変な日常だ。
やっと、家にたどり着いた頃には、私も汗だくだし、疲れてぐったり。

しかし、その事が苦になるどころか、
最近、味わって事がないほどの充足感と不思議な幸せな思いに包まれている。

家族同然であり、狩猟での相棒であった彼たちと、
病を克服しながら三人(?)で歩けることが、これほどの喜びだとは想像もつかなかった。

いま、私は最高の幸せを味わっている。

それが遠くない将来に終わる予感に怖れ心を震わせながらも。

私にとっても、彼たちにとっても、けっして残された日々は多くはないけれど、
この幸せの日々が少しでも長く続くことを願いつつ。
八月、激暑の午後に。


「幸せとはさがし出すことであり、何気ない日常の中にある」
(ルナール)


偶然に生まれてきて

誕生日だった。

とくになんの感慨もなく、
無数にあった(これからもあると思っている)人生の日々の内の一日に過ぎず、
歩いてきた旅路の一里塚のようなものだ。
人生のページの句読点といえるかも知れない。

社会生活を営む見地からすれば、
誕生日とは行政のいろいろな仕組み上の利便的な記号なのだろう。

といいながらも、その日には今日までの来し方を振り返る機会でもある。

自分の年齢が信じられず不思議な気もするが、鏡に映っているのは紛れもなく
黄昏れて草臥れた落日のオールド.ボーイの私である。

「四十才を過ぎると男の顔と背中には歩んできたその人生が現れている。」
「男の顔はその人生の履歴書であり、責任を持たなければならない。」

などと言われるが、
風の吹くまま、気の向くままに奔放に旅してきた私には
それなりの「雰囲気」など望むべきもなく、あるのは、ただ、老い無惨。

ため息と共に、これからはできるだけ鏡を見ないようにと決意を新たにする誕生日。
しかし、生業上、店内には多くの鏡があるので悩み多い日々でもある。(笑い)

その誕生日に思ったことはシニカルな言い方をすれば、
人間には三つの事件しかない、ということ。

生まれる、 生きる、 死ぬ。

生まれることは感じることはできない。

死ぬことは苦しむ。

そして生きていることは忘れていることが多い。


それでも、私は「なにか」の為に、「誰か」の為に、
明日に向かって歩き続けねば!。

わかれてきた道がまっすぐ

水に影ある旅人である

月も水底に旅空がある


真夏の夜の夢

狩猟仲間から猪の解体に来てくれとの連絡が入った。

最初は冗談だと思い、ふざけ半分に適当な受け答えをしていたら、
なんと驚いたことに本当だった。

早速、ナイフを持参し知人の工場へ駆けつけると、60キロほどの立派な牝猪だ。
射撃歴、狩猟歴もずいぶんと長い私だが、真夏に猪の解体作業をしたのは初めてである。

いつもの仲間と笑いさざめきながら、処理を済ませて帰宅。
早速、夏の猪の味は如何なものかと、手っ取り早く塩胡椒での焼き肉でご馳走になった。
意外や意外に脂ものって予想外の美味であった。

一年に二三度しか飲まなくなったビールを、昔と同じぐらい痛飲した。
これこそ、本当に「真夏の夜の夢」のような話。

食いしん坊の私にとって、思いがけない幸せな八月の一日だった。

連絡をくれた仲間たち、どうもご馳走様でした。

それにしても、夏真っ盛りのとき、猪を料理して食べるとは、
狐を馬に乗せたような話。


人の心と、水のきれいな処の関係

数日おきに湧水を汲みに行くのが三十年来の慣わしになっている。

あらゆる場所が心ない人達の所行で汚れ果て、
当然、河川も目をそむけたくなるほどの処が多くなった。

私のいつも水汲みに出かけるのは、
日本書紀、古事記の神話伝説に出てくる『居醒めの水』である。

ここは二千年昔と少しも変わらぬ清らかな水がコンコンと湧き出ている。
と、言っても、たまたまそうなっているのではない。

そこに住んでおられ方々の、
それこそ、日々絶え間のないご努力があるからである。

大昔から先祖代々引き継いで来られた清流を
我が子を慈しむように大切にしておられる。

「水のきれいなところは、そこに住む人々の心も美しい」
けだし至言。


これからの時期「梅花藻」が見事。

近くにある「水の駅」の和食家庭料理バイキングも絶妙の味。


不可思議な力

犬の病にも脳梗塞があるなんて、夢想だにしたことはなかったが、
「かい」がその脳梗塞で倒れて五日目になった。

狂乱の思いの中で、介抱をしつつも、もしもの場合に備えて、
私とボーイズたちの思い出の場所、猟場に埋葬の準備もした。

猟期が終わってからはじめて山へ登り、
汗と涙との区別がつかないほどドロドロになりながら、
自分の手で彼の墓作りも終えていた。

そんなやり場のない気持ちに耐えかねて、このページに書いたら、
思いがけず何人かの見も知らぬ方から「かい」への励ましのメールを頂いた。

メールを読ませて頂きながら溢れる涙で、
幾度も読むことを中断しなければならなかった 。

そんな方々の「祈り」に因るのか、後遺症は残るももの、
奇跡的に一命はとりとめそうである。

しみじみと思う。

われわれ「人知」など、遠く及ばない不可思議の世界があり、
その「力」で「かい」は助かったのだと。

メールを通して「かい」に「不思議の力」を与えて下さった方々に心から感謝しつつ。


国辱

米国の州知事であらせられる「コイズミ閣下」、
あなたは、よく、それは「心の問題である」と詭弁を弄される癖がお有りのようですが、
失礼ながら、あなたには人間としての「心」をお持ちのようにはお見受けできません。

大日本帝国の宰相として他国を公式訪問しながら、「プレスリー」の猿まねに興じたり、
ロシアで行われた首脳会議ではフォークダンスではしゃぎすぎて「ブッシュ親分」にさえ、
もう少し大人しくするようにと窘められたり、
中東へ行けば、砂漠の民の衣装をまとい駱駝に乗り騒ぎ立てる躁狂ぶり。

そんなあなたを世界各国のメディアはどのように報じているか、ご存じないのでしょうか。

あなたは小学生の、それも低学年程度の思考力と、
幼童的な意固地しか持ち合わせていない駄々っ子であることは、
当初から広く知られていたことですが、この国のマスコミ産業を取り込み、
一種の詐術的世渡り法で「無恥で無知」な無責任層を幻惑して、
五年の長期にわたり最高責任者としての地位を占めてこられました。

しかし、そんなあなたを支持してきた大きな勢力であった
「主婦」たちの間にも地殻変動が起きています。
プレスリー邸でのあの痴態を見て、あるご婦人が投書されていました。
「彼を支持してきた自分が恥ずかしい。ロック歌手のもの真似をして、
得意然としている「コイズミ」を見ていて、穴があったら入りたいほど恥ずかしかった」

遅きに失した感は否めませんが、ついに幻術師としてのメッキが剥がれてきました。

あなたが、そのように軽薄なお調子者としての恥を世界に晒している間にも、
アフガニスタン、イラク、レバノン、パレスチナなどでは、無辜の多くの市民が、
あなたが身も心も捧げつくしている米国やイスラエルの空爆や砲撃で
その肉体を粉々にされているという現実に、
思いを巡らせる「人間の心」は持ち合わせてはいないのでしょうね。
いや、想像する能力さえないのでしょう。
もし思い描いたとしても、
すべてそれらのことは、あなたの好きなゲームや劇画風漫画の世界のことと
同様な範囲を超えることはないのかも知れません。

勿論、米国、イスラエル両国の暴虐非道な蛮行などについての報道には、
目を閉じ、耳をふさぎ、「見ざる,聞かざる、知らざる」を決めこむ恥知らずですものね。

あなたが米国の州知事兼、日本の首相として君臨していた五年間は、
日本の歴史にとって最も恥ずべき五年間であり、
荒野の五年であったと、後世に長く記憶されます。

あなたは「白人」が、ことのほか大好きであり、
いつも憧憬の対象であったことは、知る人ぞ知る事実ですが、
それが高じてある外人クラブに通い続けておられたことも、
作家のI氏がそのクラブで「黒服」をされていたとき、
イロイロとあなたのお世話したことを、あるところで書いておられます。

白人大好き、ブッシュ大好き、白人女性大好き、

個人の性癖として結構ですが、
黄色い白人の「ミスター.コイズミ」に米国の黒人作家「マーク.トウェーン」の、
次の言葉を贈っておきます。

「白人とは脱色された白い悪魔である」


アジアの民、日本の国民から尊敬される人間像を
あなたに期待することは、むなしくて絶望的ですね。


ときは過ぎてゆく

なんとすみやかに我々はこの地上を過ぎてゆくことだろう。

人生の最初の四分の一は、その使い途も分からぬまま流れ去り、
最後の四分の一は、またその楽しさを味わえなくなってから、
過ぎてゆく。

しかも、このなんの役にも立たない、両端にはさまれた期間にも、
我々に残された時の四分の三は、睡眠、労働、苦痛、束縛、恋、別離、
あらゆる種類の苦しみによって費やされる。
人生は短い。


生きた、恋した、酔った、そして、ここに眠る。

私の墓碑銘にそう書いてもらう。


「カサブランカ」、そして、、

思いがけなく、往年の名画「カサブランカ」の記事を目にした。

私の店にもリックの酒場のように、
いつも「時の過ぎゆくままに」のピアノの旋律が流れている。


春のパリ。
リックが並木道でゆっくりオープンカーを走らせ、助手席でイルザがリックに腕を回す。

リックのアパート。
イルザが窓際で花を活けている。
「本当は君は誰なの?」
イルザは「私たち何も聞かない約束よ」

そしてカフェでの最後の約束。
雨のリヨン駅で待つリックの元へ届けられた手紙に呆然と立ちすくむ彼。

「ご一緒に行くことも、二度とお目に掛かることもできなくなりました。
ただ、貴方を愛していることだけは信じていただきたいの、、、、」

濡れそぼちながら、手紙を握りしめる、リック。


いずれの時代にあっても
恋、、、それは本当に心の重患である。
そして切ないもの。


頭突き

例によって、したり顔の識者とやらが喧しい。

人間としての尊厳を守り、そして恥辱を晴らすことと、
たかが蹴球の世界での名声とどちらが重いのか。
それらのことをおなじ次元で取り上げて、
憶測、推測、虚々実々とり混ぜて妄言を振りまいている。

彼は全てをなげうつ覚悟で、自身も含めて一族の誇りと名誉を守ろうとしたのだ。
それが出来ない男であれば「オトコ」の呼び名に値しない。
速やかに「オチンチン」を切り落とし「宦官」になればよい。
男はいつでも家族のためには命を捨てる覚悟をもっているものだ。

人は辱めを受けたらそれを晴らすためには命をかけ、時としては自刃さえした。

現代の病んだ世界で売文を生業とする評論家と称する人種には、
そんな人間の根元的な生き様の凄さ、見事さなど想像もつかないのだろう。

「気持ちは理解できるが、暴力的な行為は非難されても仕方がない」、
など風見鶏的発言を繰り返す人達も恥じなければいけない。

彼の心情が理解できるというのなら、なぜ、その感情の延長線上から生じた行為(頭突き)を、
非難しなければならないのか。

あなた方の言うところの「暴力」とは理不尽な力の行使のことを言うらしいが、
彼の場合、あの時の行為は、「暴力行為」という言葉で括られるものではなく
彼が肉体によって表現した「正しい怒りの言葉」であったことを知るべきである。

忍耐せよ、、忍耐せよ、、、しばしば、忍耐は美徳として扱われる。
しかし、忍耐とは、時と場合によっては、 それによって凡人が不名誉な成功を収める
くだらない美徳でしかないことを知っているのだろうか。
また、真の勇気のない怯懦な人間の言い訳の口実になることもある。

人はそれぞれ一人ずつ、決して他者が立ち入ってはいけない、
大切な「心の領域」をもって生きているのだ。

その立ち入ることを許されない「心の領域」に属する事柄については、
かるがるしく言葉を弄ぶべきではない。

私は蹴球には少しの関心もないが、
彼の心意気に連帯の拍手と、そして乾杯。

私も頭突きをしなければならない日に備えて、
明日から「おでこ」を入念に鍛えることにする。


はや秋の便り

梅雨明けもまだなのに、はや秋の便りが届いた。

今年、最初の秋刀魚の水揚げがあり、初せりがおこなわれた。
まだまだ、ご祝儀相場で高いが、ピチット.シートを使って干物にすると、
天日干しより失敗することなく手軽にできるし、そして美味しい。

でも、なんと言っても、やはり塩焼き。
七輪を持ち出し、炭火で焼く。
焼きたてを、おろし大根にスダチを搾り、
じゅっと音のする熱々を食べると早々の秋の匂いがする。

家の中では煙がすごいので裏の駐車場で焼いていると、
七輪を知らない世代の人が増えたのに驚く。
中には怪訝な表情で、質問する子供連れの若い主婦の方もある。

佐藤春夫の「秋刀魚の唄」なんて知る人もなくなってきたのだろうか。
ましてや「秋刀魚は目黒に限る」などとは 謎々言葉。

では、当世風に。
秋刀魚の脂肪にはドコサヘキサエン酸(DHA)が多く、ヘルシーで、
頭が良くなる成分を含む、とても身体にいい食べ物です。

あわれ 秋風よ 情け(こころ)あらば 伝えてよ

男ありて、 今日の夕餉に ひとり 秋刀魚を食らひて

思いにふけると。


これから夏だというのに、「風立ちぬ、秋。」

もう、そんな秋風が恋しくなった。


余談

味に対する感覚は十人十色だし、独断と偏見の最たるものだが、
料理人の家庭に育った私は味覚に対しては、それなりの自信がある

秋刀魚の缶詰で日本一といえるのは「根室缶詰」である。

食生活を大切にしている人達の間で有名な、あの「よい食品を作る会」の会員であり、
日帰りサンマだけを選んで作る味は絶品だ。

他にも「鮭」「ほたて貝」「北寄貝」「たらこ」「あさり」など、二十種類以上あるが、
いずれも、期待を裏切られることはない。勿論、添加物など一切使用せず。
いちどお試しあれ。

「よい食品を作る会」については岩波新書に詳しく出ているが、
全国に食品関係の異業種、それぞれ数十社ある。


男ありて、十二項

.四十才以上の男は皆悪党である。

.男、、、オレこそドン.ファンだと思いこんでいる多くの野獣たち。

.男子病の一つ。、、、自己侮蔑という男性の病気には、
聡明な女性に愛されるのが、最も確実な療法である。

.男は女を愛さないかぎり、どんな女といても幸せである。

.男にとって恋愛に興味があるのは、征服と離別だけである。その他は埋草にすぎない。

.私をあざむいた女性を殺すことは許されていない。
しかし、彼女が一分ごとに年老いていくという事実を私が味わうことは、
少しも禁じられていない。
つまり私は一日に一四四〇回復讐していることになる。

.四十才を過ぎると、男は自分の習慣と結婚してしまう。

.男というものは、いつもそうだが、わが家から離れているときが、いちばん陽気なものだ。

.男というものはつねに女の友人であることはけっしてない。
他に愛する女をもっているときは別であるが。

.恋する男とは自分の実際の値うち以上に
女から愛されているかのようにふるまう男のことである。
だから、すべて恋する男は、笑いものになる。

.男は女の心がわからないうちは、顔のことなど考える暇はない。

.女がいなかったら、男は神々のごとく生活しょうものを。


男のモノローグ

女性はきわめて完成した悪魔である。
ユゴー


結婚に関する十二章

ふかい悔悟と反省をこめて(笑い)

.結婚ーいかなる羅針盤もかって航路を発見したことがない荒海。

.結婚は鳥籠のようなものだ。
外にいる鳥たちは中に入ろうとし、中にいる鳥たちは外に出ようともがく。

.結婚とは、まさしく相互の誤解にもとづくものである。

.恋愛結婚は誤謬をその父とし、必要をその母とする。

.孤独が怖ければ結婚するな。

.全ての悲劇は死をもって終わり、全ての茶番は結婚をもって終わる。

.あらゆる人知のうちで、結婚に関する知識がいちばん遅れている。

.結婚はひとつの習慣、悪しき習慣に過ぎない。
そうだとしても人間は、最悪の習慣でさえ、それを失うと残念がる。

.結婚前には両目を大きく開いて見よ。結婚してからはは片目を閉じよ。

.ひとりと結婚して多くの人を愛する方が、どれだけか詩的である。

.愛のない結婚のあるところには、結婚のない恋が生まれる。

.妻をめとらば才たけて/顔(みめ)うるわしくなさけある。


エピローグ

結婚生活の最大の悲劇

「ブルータスよ! お前もか!」


無常の風、吹かば

夜空の彼方で
織り姫と牽牛の年に一度の切ない逢瀬の恋物語が繰り広げられている七夕の夜、
以前、一緒に狩猟をしたことのある仲間が急死した。

ハンサムボーイ、、機知とユーモアー、、秘めた教養
最近では少なくなった存在感のある日本の男性だった。

まだ、四十代の若さなのに、
心の中には他者には分からない鬱屈したものや、深い寂寥感を抱きながらの人生だったのか、
「酒と恋」に耽溺の日々だった。

その心象風景の一片の残映も残すことなく天の川へ旅立っていった。
前夜、恋人と家で夜遅くまで星空を眺めながらお酒を酌み交わし、
次の朝、彼女が食事の世話に訪れたら息を引き取っていたそうだ。

「我々は執行日が未定の死刑囚と同じだ」と言った人がいたが実感である。

違いがあるとすれば、
死への執行が国家権力の手に因るものか、神の思し召しに因るかの差だけである。

私も「今日」は昨日の続きであり、「明日」は今日の続きとして、
当然、明日という日はあるものとして、なんの疑いもなく生きているが、
必ず「明日」があると思うのは幻想に過ぎない。
本当に「諸行無常」
「花に嵐のたとえあり、サヨナラだけが人生」
しみじみと感じさされる一日だった。

「一日一生」と思い定め、心映え鮮やかに、潔く見事に生きてゆく。

そして、この「夢を恋う心」を全うして人生を終える。

「明日ありと思う心のあだ桜、夜半に嵐の吹かぬものかは」
親鸞


「存在は裸形をおそれて幻影をまとうのだ」

随分と格好をつけて人生を歩いてきた。
幻想を抱き、仮面で装い、背伸びし、妄想にまみれ、我執に縛られ
思い出すだけで自己嫌悪で押しつぶされそうな旅人だった。

「人は偶然に生まれ、必然として死ぬ」

その人生は往路のみ、復路はない。
もう一度、戻って歩き直すことは出来ない
そして瞬間にしか生きることが叶わず、「現在」は瞬時に「過去」になり「未来」になる。

私の側を通り過ぎる「森羅万象」すべて「一期一会」。
やっと裸形をおそれず「素」の自分になれる気がする。
周囲の事象に柔らかなまなざしで接することも出来る
一枚ずつ「偽り」を脱ぎ捨てて、残された人生の風景の中を素直な心で歩き続けたい。

「 持ち続けるものは少年の日の「稚気と好奇心」と「夢と恋心」
もう一つは、
子供ぽっさを、どんなに嘲られ、笑われようと「ともき流.男の美学」

孤独な旅人の持つべき荷物はそれだけでよい。

「幾山河 こえさりゆかば 寂しさの  はてなむ国ぞ けふも旅ゆく 」
牧水


文月、一夜の夢

あの出来事の日から不眠症。
そんな私が吹っ切れたように熟睡出来る夜もある。

ある夜の夢話。

米国がイラクへの侵略戦争の誤りを認め、無条件.即時撤退した。

日本が過去の戦争責任や教科書問題についての不毛の論議に終止符を打ち、
ヴァイツゼッカー元ドイツ大統領の有名な演説『荒れ野の四十年』の
全文を印刷し国会議員全員に配布。

特に「過去に目を閉じるものは、現在についても盲目である」
との部分は太字で印刷してあった。

プレスリーのもの真似に興じ、各方面からの失笑をかったお調子者の「K」は
国民の税金による公務での参勤交代のブッシュ詣ではなく
自費による私的な感傷旅行であったとの「ダメシン官房長官」の談話。

京都、「いづう」の鱧寿司を三本も頂いた。

年老いた愛犬たちと一緒にキャンピング.カーで
日本列島隈無く、地図のない最後の旅へでた。

一晩に、これだけの夢にさすが疲れたが、   
なぜかその朝の目覚めは爽快。
正夢でありますように。


恋心(シャンソン)

作曲:E.Macias /作詞:P.Blanc/ 訳詞:なかにし礼/
唄:岸洋子

プロローグ

プラットホームからの長い階段を下りると、コンコースの雑踏の中に
昔の時間がそのまま止まっていたかのように、あの人が佇んでいた。
かるく手を挙げて『しばらくでした』
ごく普通の抑揚で挨拶の言葉がでた。

横たわっていた数年間の時間と空間が一瞬で消えた。
彼女も自然だった。
「車はいつもの処に停めているのよ。」

『車が変わったのだね』

一呼吸おいて大きく息を吐くように
「貴方との日々が終わったとき、車も乗り換えたの」

そのときになって、初めて声が少し濡れ、震えていた。

バックから取り出したCDを手渡し『これ、かけてくれないか』

「あぁー『恋心』ね。覚えているわ。
貴方と初めて逢った夜、あのクラブで酔った貴方が唄ってくれたシャンソンよね。」


 恋は不思議ね 消えたはずの
 灰の中から 何故に燃える
 ときめく心 せつない胸
 別れを告げた 二人なのに
 恋なんて むなしいものね
 恋なんて 何になるの 


「お部屋はいつものホテルに予約しておいたけれど、いいの、、?」

『 実は今日は別のホテルをとってある』
『あとであの居酒屋で落ち合うと思っている』

「そうなの、、、、、、また貴方の 男の美学 って奴ね。
言いだしたら聞かないやんちゃ坊やさん、分かったわ。
あの「サライ」に紹介されていた貴方のお気に入りのお店の事ね。」


恋をするのは つらいものね
 恋はおろかな 望みなのね
 あなたのために 生命さえも
 捨ててもいいと 思うけれど
恋なんて 悲しいものね
 恋なんて 何になるの

 


、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、

「このお店はいつもここの席に座るの、、貴方の止まり木。」
「私はあの思い出のお酒、、貴方も例のお酒よね。」

「では、二人の間を流れていった沢山たくさんの時間に乾杯。」

『二人に乾杯。そして二人が冒したであろう全ての過ち、全ての損得に乾杯』

「それってなんなの、、、昔から貴方はときどき謎めいた言葉を言うの。」

、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、

「そのヘミングウェイの小説の中に出てくる「科白」を、
貴方に教えて下さった知人って、男の方ではないでしょう?
きっと素敵な女性でしょうね。すこし妬けちゃった。」

、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、

「今夜は楽しかったわ。貴方もでしょう。」
「だって足音が笑ってるし、唄っているもの。」
「では、私ここから一人でホテルへ帰る、、、でないと心が残ってつらいから。」

「また、いつか逢えるの?」

「ほら、また言った、、、「多分ね」って、、、、それは貴方の口癖だったわ。」
「キサス.キサスって言っていたわよね。」

「そんなところ昔と少しも変わっていないの、、、貴方って人は。」

「そのキザっぽさも大好きだったけれど、、、、。」

「私、朝早くチェックアウトして帰ることにする。
朝靄の中、海沿いのニセアカシアの並木道を走るの好きだから。」

、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、

ホテルの暗い部屋の中で携帯が夜光虫のように光っている。

「お酒もたくさん飲んだし、とてもいい夜でした。有り難うごいました」
「なぜ、貴方が逢いに来て下さったのか、本当は私、分かっていました。」
「でも、また、いつか逢えると思って生きてゆくことにします。」
「お休みなさい、、、私だけの腕白坊やだった貴方へ」


恋がめざめる 夜になると
 あなたのことを 夢に見るの
けれど私が 目覚めるとき
夜明けと共に 消えてしまう
恋なんて 儚いものね
恋なんて なんになるの

恋なんて、、、恋なんて。


水無月の釣り場情報

梅雨に入り「福井」海岸では、「だぼハゼ」が入れ食いの状況。
元もと、この魚はどんなエサにでも食いつく事から
悪食(あくじき)の代名詞のように使われているが、
最近発見された、だぼハゼ科の新種「ニチギン.ソウサイ魚」は
特に「カブ」「シャガイジュウヤク」「ファンド」というエサには見境なく飛びついてくる。

しかし、卑しい匂いがするため煮ても焼いても食べられず食用には向かない。
釣り上げたら直ちに捨てる事をお勧めする。

京都の河川、ため池ではマツイ科の「タカリ」という淡水魚が釣れている。
エサは「トウダイ」「ドウキュウセイ」「ケイサンショウ」がいいとされている。

この魚は別名、「こじき魚」と呼ばれ独特の腐敗臭があるために、
どのように調理に工夫を凝らしても、やはり食用には出来ない。
しかし、高い食文化の伝統を誇る京都の地に、なぜ、こんな魚が繁殖したのか、、、
関係者は一様に困惑の表情を隠しきれず、早急な駆除が望まれている。

教養講座のお知らせ。

この度、志のある人達のご努力で二つの教養講座が開かれました。

「責任と出処進退」
「鉄面皮で居ずわる方法」

「責任と出処進退」の講座の申し込みはありませんでしたが、
「鉄面皮で居ずわる方法」講座には政財界を中心として申込者が殺到し、
定数一杯になりましたので応募は締め切らせて頂きます。

欠員のお知らせ。
当講座にいちばんにお申し込みになられた「F」氏が衆院財務金融委員会で
「ど素人」というような「車夫馬丁」並の品性、見識に欠けた 発言をされたため、
格式高い当教養講座の受講生には相応しくない人格と判断し、
除籍処分に致しましたので、あと一名のお申し込みは受け付けます。

教訓その壱。
どのように「紳士然」と装ってみても、根の卑しさは最後には「馬脚」を現すもの。


  キサス.キサス.キサス

作詞.作曲:O.FARRES/編曲:北野タダオ
唄:アイ.ジョージ

愛を告げても  貴方の答えは、

いつも冷たく キサス キサス キサス

今日もむなしく 胸に残るは

そのひと言よ キサス キサス キサス

恋にやつれて 夢に夜ごと

思いつづける 切ないわたしの

熱い心を 貴方は知らずに

いつも冷たく キサス キサス キサス


そういえば、私もいつも「キサス キサス(多分ね)」と言っていたような気がする。
いまだと、一緒に海を眺めながら、なんて返事するだろうか。

私の人生、、ときには詠い、ときには語り、、、思えばはるばる来たものだ。


  梅雨入り

梅雨の季節

苦になるもの、、、
年老いて立ち居振る舞いの不自由な「かい」と「てつ」の散歩。
それでも、私にとって彼らと過ごせる残り少ない大切な時間。

綺麗なもの、、、
雨に佇む風情の紫陽花。

切ないもの、、、
紫陽花の花言葉(移り気)

楽しいもの、、、
雨の日に、ビーター.ストームの雨衣に、
バーブァの長靴を履いて外出すること。

嬉しいもの、、、
不意の雨に、見知らぬ人が差しかけて下さった傘で
相合い傘のまま歩く、つかの間の道行き。

迷惑なもの、、、
傘をさして片手乗りの自転車。

困るもの、、、
濡れたコート、、、雫がしたたり落ちている傘、、
、そのままで店には入って来られるお客様(作法知らずの観光の人々)
「江戸仕草」の故事来歴を語ってお聞かせしたくなる。

不快なもの、、、
湿度の高い日に強すぎるオーデコロンの香りを振りまく人。

美味しいもの、、、
海に流れ込んだ梅雨の水を飲んで育った「たこ」と「はも」。
(瀬戸内では梅雨水を飲んだ「たこ」.「はも」は特に美味との言い伝え)

父は料理人だった。
家業を継ぐことなく自由奔放に生きて親不孝な私だったが、
遺伝子を受け継いでか、料理は好きだし、少しばかり得意でもある。
猪.鹿のジビエ料理は自称、免許皆伝だが、
魚料理もなかなかのものと自画自賛している。

「たこ」を大根でリズミカルに叩いていると楽しくて、
思わずラテン.ナンバーを口ずさんでしまう。
駐車場に煉瓦を重ね積みして火床を造り、
赤々と熾きた備長炭で焼く「はも」の照り焼きは、
私のこの時期のご馳走の定番である。

鱧の骨切りはミリ単位で刃を入れなければならないから難しいし、
亡き父の鮮やかな包丁捌きには遠く及ばないが、何とか出来る。

「付けだれ」は勿論、私の魔法の味。

醤油、金沢ヤマト醤油の「ひしほ」

味醂、中津川白扇酒造の「福来純」

純米調理酒、加西の「富久錦」

酢、丹後宮津の「富士酢」

塩、奥能登「天然塩」

鱧寿司は海の見える街の知人に京都の「いづう」のお寿司と
食べ比べさせて上げたいほどの出来映えだ。

遠くてお届けできないのが、ただ残念。

あわれ水無月の風よ、、、心あらば、伝えてよ、せめて匂いだけでも、あの方に。(笑い)
(佐藤春夫の「秋刀魚の唄」風に)


悪の系譜は再生産

悪い奴ほどよく眠る。

「決して巨悪は眠らせない」と、
何代か前の検事総長が就任の挨拶として国民に向かって大見得を切った事がある。
その時、多くの国民はある種の興味と期待を持って固唾をのむようにして見守った。
結果は「大山鳴動し鼠一匹」どころか土埃も立たなかった。

その時の彼が言った巨悪とは、おおかたの国民は、とある人物を想定していた。
その彼は最高権力者の地位まで上り詰め、
ときの米国大統領とファーストネームで呼び合う事が自慢の蜜月ぶりで、
我が国土を、その国のための軍事的不沈空母に提供する、とまで言い出すほどの売国奴だった。

権勢を誇っていたが、因果は巡り「変人宰相」に強引に引導を渡され
表舞台から去らざるを得なかった。
しかし、生臭さは消えることなく、なにかとウロウロしているようだから、
真の安らかさか、どうか分からないが「眠る夜」は持っているのだろう。

いつの時代も悪の系譜を辿れば、その行き着く先の構図は変わらない。

いま、スキャンダラスな三面記事的話題で渦中にある連中など、
ほんの枝葉末節の存在に過ぎない。

耐震偽装問題でも本当の「悪」は誰なのか。
設計図を書いた「A」でもないし、それを建てた建設業者の「K」でもない。
彼らは単に「お金儲けこそ全て」という哀れな現代病に罹った金銭亡者だ。
立件されなかったコンサルタント業という虚業の「U」も
確かに詐欺師的話術を 武器にした「小悪」ではあるが、それ止まりである。

結局は、改革という耳障りのいいうたい文句の元で規制緩和し、
それらの魑魅魍魎達の暗躍する舞台造りをした
軽佻浮薄そのものの大学教員上がりの「T」、
それを登用したオポチュニストの「K」、、、
彼らこそ責任を問われるべき真の「悪党」である。

塀の内側に墜ちた「H」も、「M」も虚飾の世界で巨利を得たことを
自慢げに吹聴する様な幼さが残る小さな「ワル」でしかない。
「M」は自らのことを「あだ花」と称しているらしいが、
その言葉すら彼には似合わない。
一瞥、綺麗な花に見えるが、毒草の「芥子の花」の名こそ相応しい。

彼らの上で高笑いしているのは、金貸し業を何々ファイナンスと名乗り、
その名前もいつの間にか「オ○○○ス」という一見、なに業か分からないカタカナにして、
気が付けば、するりと経済界の要職に割り込み、
政界にも一定の影響力を持つにまで至った「M」と、その同類の共犯者達、
そして、その連中のために、
社会の「モラル」と「ルール」の信号機を取り払ってしまった同じく、「T」、と「K」だ。

彼らを決して混沌とした闇の中に逃がしてはいけない。
彼らには高枕で眠れる夜などは持たせてはいけない。

わが国は階級社会ではなく、階層社会であるが、
支配する側の権力は一部の階層のために絶えず利権の腐臭を漂わせている。

『権力は腐敗する。絶対権力は絶対に腐敗する』

真の巨悪を眠らせないために、一人一人の厳しい目が必要だ。

勿論、彼らの上に君臨しているいる超巨悪がいる。
全世界を支配している「国際金融資本」


不条理をうつ「言葉」を紡ぐ巨人

辺見庸著.
『自分自身への審問』

脳出血で倒れ、進行がんで手術後の身という二重の病をおしての
執筆再開の一冊。
「比較的に長い終わりの時が静かに」始まったことを意識しつつ、
これからの時期、何お考え、どう過ごすか、、、。
著者の壮絶な内省の書。
一人でも多くの人に読んで貰いたい本である。

辺見庸氏、大阪で二十四日講演。
その講演会紹介の新聞記事から一部抜粋引用。

「市民運動にはむなしさを感じる。しかし、今さら仕方ないと
冷笑する姿勢が一番嫌いだ。おれも冷笑するが、まじめな話を笑わない。
意味も効果もないかも知れない。それでも声を震わせ、
自分の意志を言うのが正しい生体反応だろう」

メディアは単文節の思考を垂れ流し、
その「メディア知」に包囲され「個人知」はやせ細っている。
世界を「見出し」程度でしか知らなくても生きていける。
しかし、そんな状況を作り出したのは社会制度でも為政者でもなく、
抵抗しなかった自分たちだと知れ。
「戦う敵は外ではない。内にあって自分が受容しているものだ。
自分の中の恥は見えないが、他人には見えている」

「人間の尊厳も恥も乗せられる『言葉』を大切に思う。
ものを書くとき、
それが何十年も重みや深みを失わない言葉であるか自問を続けた。
あとどれだけの言葉を紡ぎ出せるか、真剣にならざるを得ない。
行動や方針を提起する気はない。
感応した言葉を一人ひとりが持ち帰ってくれればいい」

「無知の無恥」怒りの奔流。

かって、講演会なるものは一度も行ったことはないし、
絶対に行かぬ主義だった私が、その講演を聴きに行く。
生涯、初めてにして、最後である
内容もさることながら、
辺見氏の凄まじい「覚悟」と「気迫」にふれる為に。

多くの人の参加を心から願いつつ。

日時.六月二十四日、午後六時半開演。 大阪中央公会堂。
問い合わせは「辺見庸講演会実行委員会」(075.561.8792)


散歩道点描

歩いて10分ほどで湖畔の公園に出られる。

この街に移り住んでから三十年、毎朝犬を連れてそこを歩き続けている。
ただの埋め立て地だったのが、いつの間にか公園が整備され、
リゾート風のホテルが建ち並び、ヨットハーバーもできた。
それに伴いレストラン、喫茶店も何軒か開かれたし、
湖の景色と相まって、とても瀟洒な風景に変貌し訪れる観光客も増えた。

その一方で、消えていったものも多い。
道すがら目を楽しませてくれていた草花もいまはない。
生き物は、まず公園の茂みにいた蛇が一番に姿を消し、
四季、それぞれの小鳥のさえずりも聞こえなくなった。
早春の鶯の音も聞かなくなって久しい。
夏には喧しいほどに鳴いていた蝉、、
それを小さな虫取り網を手にして追っていた夏休みの子供達、、、
みんな遠い日のセピア色の風景になってしまった。

増えたものもいる。
猫である。以前は一匹も見かけることはなかったが劇的に増えた。
いわゆる「野良猫」であるが、
猫にしてみれば飼い主があるなしによって「飼い猫」「野良猫」などと
差別的に呼ばれることなど「片腹痛い」と思っているかもしれない。

猫は猫だ!。
「我が輩は猫である」とばかり悠然と公園を闊歩している。
寝そべっていて、私の犬が近づいても逃げるどころか、かえって威嚇する。
猪猟をする我が家のボーイズ達は襲えば一噛みだが、
勝手が違うのか困ったような表情で私を見上げる。
必死に自前で生きている猫たちに敬意を払っているのか、避けている。

しかし、不思議なほど姿を見かけなくなることもある。
そんな後には、甘酸っぱい、なにか誘い込まれてしまいそうな奇妙な匂いが漂っている。
もしかして業者が「マタタビ」でおびき寄せ捕獲したのかもしれない。
そういえば、近くに三味線糸を繭から紡いでることで有名な集落があり、
水上勉の小説にも出てきたことがあるなと、とんでもないことを連想する。

しばらくすると、また違う猫が増える。
寄り添いながら必死に生きている彼、彼女たちに心の中で声援を送りながらも、
犬たちに付く蚤の被害には悩みながら毎朝歩き続けている。

観光による街おこし、、、街壊し、、、コインの裏表。

人の生き様や拠って立つ場によって違うだろうが、私は昔の風景の公園が好きだ。


嗤う

詐欺師まがいの某、そして胡散臭い買い占めやで相場師の某、
そんな彼らを時代の寵児と、 例によってマスコミ産業の連中が喋ったり書いたりしている。

いまのこの国は某国の何番目かの州の一つという屈辱的な位置にあるが、
まだまだ健全な部分は多く残っている。
本質的には賭博場である株式市場で数字のやりとりをして
巨利を得ることが、どうして新しい時代をきり開く先駆者なのか。
拝金亡者で、そのためには法もルールも無視して恥じないような輩を、
新しい時代の旗手だとか、寵児として持て囃すほど我々の社会は堕落していない。
そのような言葉ではしゃいでいるのは、報道業界と、
ほんの一部の無知で無恥な人だけである。
圧倒的な人々はそのような風潮を苦々しい思いで見ている。

物作りを軽んじたりする人間社会が行き着くところはここで一々書くまでもない。
ものを作る事こそ人間の原点であり、無為徒食の生活を諫めて、
孔子だったか、孟子だったか思い出せないが、次のような事を言っている
「人間は手を動かさなければいけない。もし、他に動かすことがなければ博打をしてでも手は動かせ」
額に汗をして働くことの大切さ、尊さを教えた言葉だと理解している。
私からすれば、それぞれの季節汗しながら有機栽培で身体に優しい食べ物作りを
されている「お百姓さん」の方が、彼らと比べるのが失礼なほど、
人間的に偉いし、尊敬の対象だ。

「ファンド」という言葉にすり替えているが、相場師に過ぎない彼が記者会見で
「金儲けのためにやっているのではない」と子供だましのような嘘を喋っていた。
冗談も休み休みにして欲しい。
買い占めやである相場師が金儲けのため以外に存在していた事実は
寡聞にして聞いたことがない。

ある高校、、、ある大学、、そしてある官庁のキャリアー官僚、
そんなコースを歩んだ人間を頭脳明晰であり、エリート(?)として褒めそやす単純図式の社会。
冗漫な、ただの多弁にすぎないのに雄弁家だと持ち上げたりする程度の
知的視力しか持たないマスコミ。
雄弁とは言葉の数の多さではない。言葉の中身が雄弁であるかどうかである。
某にしても、別の某にしても会見での話を聞く限り、
一人は「幼稚な目立ちたがり屋」であり、もう一人はただの「坊ちゃんバカ」にすぎない。
その「坊ちゃんバカ」は興奮したのか、整合性のない事を言っていた。
冒頭に金儲けのためにしているのではない、と言っておきながら、
論理が破綻してくると「お金儲けをしてなぜ悪いのか」と
しどろもどろ、首尾一貫しないことを言って開き直っていた。
手法は指弾しても、金儲け自体、誰も悪だとは言っていない。

しかし、『尊敬と敬意を集める仕事でもない』

人類の古い歴史の昔から、金儲けだけを生きる手段にすることは、世界中どの国においても
最も卑しむべき事としてタブーとされてきたし、金貸しという職業は嫌悪の対象でもあった。
ヨーロッパの各地にいまも残る多くの「大聖堂」は
「誰」が何の「罪」を贖うために建てたものか彼は知らないらしい。
受験勉強のための本は読んでも「シェークスピア」は手にしたことがないのだろう。

イスラムの世界では富は独占すべきものではなく、
人々に分け与えなければならないとされている。
だからイスラムの銀行では貸し出しに金利を取らないと聞いたことがある。

貸すのには高い金利を取り、その資金を預け入れてくれる預金者には
限りなくゼロ金利に近い日本の銀行という名の悪徳金貸し業には信じられないお話だろう。

日本でも「武士は食わねど高楊枝」という言葉もあったし、
金貸しは盲目の検校に限って許された職業であったとの記憶がある。
「金」は不浄なものとされた時代も長くあり、清貧が大切な哲学であり、座標軸だった。
ものを作ることが最も尊ばれ、尊敬され、全ての価値の最上位である社会こそ、
私たちにとって必要な社会であり、健全な社会だと思う。
彼らのような生き様を持て囃すような社会は狂っているし、病んでいるのだ。

言葉の是非はさておき、封建時代の身分制度では
「士農工商」として金を扱う仕事は下位であった。

「天網恢々疎にして漏らさず」

某には、これから暫くは三食付きで、読書には最適の一人部屋が国家の力で保証される。
本を読むには充分すぎる時間もある。

何方か「ベニスの商人」を差し入れて上げたら如何だろうか。


私は人間

私は人間なのだ。

いや、少なくとも人間でありたいと思い続けて生きてきた。
そんな私が、ある場所、ある時間だけ人格のない物体になるとき(されるとき)がある。
その場所とは病院、その時間とは受診時間。

いま私たちの社会は医療界にとどまらず、あらゆる分野で
以前の日本とは全く異なる社会になった。
倫理観の喪失、大きく変貌した価値基準、数多くの失われた美徳、良俗、風習。

思いがけず通院する羽目になった私はそれなりに覚悟していたが、
全く予想通りだった。

病院を訪れるものは身体の不調だけではなく、心にさまざまな不安を抱えているのだ。
だから、医師の表情、目の動き、言葉の響き、、
それこそ一挙手一投足に息を凝らしてなにかを読み取ろうとしている。
しかし多く場合、彼らの傲慢か、慇懃無礼か、職業的無表情に直面しなければならない。
そこには「診る側」と「診て貰う側」の間に人間の体温が感じられるような会話はない。
職業的マニュアルに従ったような記号に似た言葉の羅列が一方的に行きあうだけである。
不安の解消を願うことがいかに幻想に過ぎないかを思い知らされる

限られた時間の中で殺到する患者という商品をいかに効率よく捌いていくか、
その技術が競われている場ではないかと皮肉な見方さえしたくなる。

人と人との会話は相手の目を見て話すということは最低の礼儀であるが
しかし彼らの殆どはモニターの画面を注視しながら、
最小限度の言葉を吐き出すのみで、我々と視線を交わすことは少ない。
穿った見方をすれば、目と目を合わすことによって、人間的な感情が芽生え、
会話が始まることを避けているいるのでは、と邪推したくなる。
一方通行の話で終始すれば、診療時間も短くて能率的に仕事が進められるからか。
温もりのある言葉は「不安に病める心の医者」と言う格言もあるのに。

人間にとって「命と健康」は最大の関心事、
その最も濃密な人間模様が交錯し合うはずの診療室で、
人の息づかいも感じられない最も貧しい人間関係しか存在しないことは本当にかなしい。

病院のドアーを開けた瞬間から、私は患者という名の利益を生み出す商品物体に変わり、
ベルトコンベアーに乗せられたようにして決められた手順に従い
耐え難い閉塞感の数時間を過ごし、またドアーの外へと吐き出される。

身体の正常さが損なわれた一部分の治癒に訪れ、
全人間的に傷ついて帰らなければならないとは漫画である。

いつも深い溜息とともに「私は人間なのだ」と心で叫びながら病院を後にする。

ほんの少し前まで私たちが尊敬と信頼と親しみを込めて、
「お医者さん」と呼び習わしていた人達は何処へ消えてしまったのだろうか。

開業医の中には本当に素晴らしい人もいらっしゃるのに、
大病院、、そこに勤務する医師。
私の属する「日常の世界」とは全く異質の世界である。

総合案内所のお尻がこそばゆくなる程の「バカ丁寧」な応対と、
実際の診療現場の対応の落差の大きさ深さは、
市場原理に毒されつつある医療界の抱える荒廃と病巣の深さを物語っている。

アンブローズ.ビアス著「悪魔の事典」から。
「偽医者、免許を持たない殺しや。医者、免許を持った殺しや。」


紫陽花の花言葉

雨に濡れた愁いのブルー。

紫陽花は奔放な人生だった私の花言葉なのか、、、
それとも、ひとしずくの涙と共に去っていった「あの人」の花言葉だったのか、、、。

決して答えの出るはずのない問いかけを今年も繰り返しつぶやきながら、
幾たびかの巡り来た「紫陽花の季節」を老犬と一緒に歩いている。

緑内障で盲いた「てつ」も顔を紫陽花に寄せている。
彼も漂う匂いに、その魔法の鼻で「花を見ている」のであろう。

今日から水無月、、、雨の日を選んで思い出の「羽衣伝説の湖畔」に紫陽花を見に行く。

背後の賤ヶ岳古戦場跡の峰々は、むせ返るような緑に覆われ、
往時の合戦の雄叫びも、刀槍の煌めきも茫々たる歴史の彼方。

あのまばゆい白さ「絹肌の天女」が緑陰に身をひそめるように
ひっそりと水浴びをしている幻影も夢うつつ。

いまはただただ、ひたすらな静寂あるのみ。

分け入っても  分け入っても  青い山
山頭火


ドラマチックに来たものは

振り返ってみれば、とても長い人生だったが全く病気とは無縁だった。
恋風邪を除けば風邪すら罹ったことがない。
しかし、自然の摂理というか、やはり黄昏は容赦なく忍び寄ってくるもの。
思いがけず春先に体調を崩し、重大な疾患の虞があるとのことで
さまざまな検査を余儀なくされた。

診察の初期の段階で99.999%ガンであるとの所見であったが、
近年の傾向として目先の数値や現象だけで全てを判断しようとする、
所謂「木を見て森を見ず」というレベルの医師が多いと言われていることからして、
私は彼らが誤診を冒していることを信じて疑わなかった。

罹病するには多種多様な原因があるのだろうし、
次のことがどれほどの効果があるのか分からない。
しかし食べ物に気をつけて、添加物の疑われるものは、まず口にしないし、
飲み水さえ発ガン性が疑われている、 「トリハトロメタン」が入っている水道水は
絶対に飲用にしない。
旅先以外、外食はせず、食事は家庭で自ら選んだ食材、調味料を使って作り、
旅で訪れた街では行きつけの店か、あらかじめ調べておいたところでご馳走になる。
それは病に対する恐怖心からでも、食道楽からでもない。
「支配する側」が企業利益と結びついて
あらゆる有害な物質を添加物として認可し、我々を人質に取ったような
壮大な人体実験に対する私のさやかな抗議と抵抗の意志表明の一つの手段であり、
また、生来の反骨精神の行動形態でもある。
だから科学的な根拠も合理的な裏付けもないが、まず「ガン」には罹らないという、
いわば「自分自身の神話」に似たものを持っている。
それで「ガン」に罹ることがあれば「もって瞑すべし」という覚悟で生きてきた。

やはり細胞検査までして、結局は異常なし、ということであったが、
薬、、、薬、、、驚くほどの投与。
副作用を懸念し医師に幾度も訊ねてみるが、心配する必要なし、それだけ。
手元に置いている「薬の早わかり百科」を見ると疑念が暗雲のように押し寄せて来るが
それでも指示通り律儀に飲み続けた。

そして。
生涯で初めての「それ」は突如として劇的にやってきた。
本を読み終わってお茶を飲もうとしたその瞬間、すさまじい眩暈で意識が薄れていった。
朦朧とする中で、とっさに脳裏を横切ったのは、残してゆくことになる、
目や耳が不自由な老犬たちのことと、ある「人」にお別れの言葉を言わずに
終わる事への無念さの絶望感に似た思いであった。
一人残される家人のことも、商売の行く末のことも全くなし。

いま、思い起こしながら、ほろ苦いような、、申し訳ないような複雑な思いで苦笑。

やっとの思いで近くのかかりつけの医師の応急手当を受け
程なく意識が戻り正常になった。
四十代の頃から、高血圧の症状を抱えている私は、その関係での発作かと思ったが
幸いにも違っていた。

先生曰く。
「眩暈というやつは、突如、ドラマチックにやって来るものです」

その、ちょっぴりユーモアーのある言葉を聞きながら一人頷いていた。
人生それ自体、ドラマチックなものだが、それにしても、
劇的に訪れるものは「魂の震えるような恋」だけかと思っていたが、
「眩暈」までそうだとは意外で新しい発見。(笑い)

人生の旅には予期せぬいろんな出来事と遭遇する。
だから楽しい。
そう思うことで気持ちを前向きにし、快適に日々を送ろうと思う。

あと数年は銃とナイフを身につけ「男のロマンの世界」へ出かけなければならない。
そのために自由奔放に過ごしてきた生き様を、この機会にほんの少しだけ軌道修正する。

でも、いまでも薬の副作用だと疑っているし、門外漢の私には自問自答を繰り返すのみであるが、
基本的には薬は「毒をもって毒を制す」という本質を持つものという考えは変わらない

そして、連綿として続いてきた私の全ての存在である「日常の世界」が、
不意に断ち切られそうになった極限のときに、
自分でも気づかぬままに心のいちばん奥深くに「棲んでいたもの」が
「何であったか」「誰であったか」ということが分かり、鮮烈な驚きであった。


仮想世界での日記

このように自分のHPを持って戯れ言を書いている。
私の場合は精神の宿酔いの嘔吐みたいなものである。
それでさえ、ときには見えない向こう側の「誰か」を意識している愚かな部分はある。

所詮、仮想世界での日記なるものは日常生活の中から自分でも赤面せずに
読むことが出来るところだけを書きつづった独りよがりの自慰行為的顕示欲。
また、何人かの「ある人達」へ「いま」を生きているということを
暗喩めいた独り言で伝える存在証明書でもある。

恥部というか、本当の赤裸々なことは、誰にも覗かれることのない
心の中の日記帳に記録している。
そのページを読んで欲しいと思える人と巡り会えたとしても、
無情、、「とき」すでに遅く、、「許されざる愛」。


老いるということは

「老いを耐え難くするものは、精神.肉体の働きが衰えていくことではなく
思い出の重荷である」

「老人とは子供を二つ合わせたようなもの」

「老年の悲劇は、彼が老いているというところにはなく 、
まだ、若いと思うところにある」

「青年は貞節であろうとしても貞節ではない。
老人は不貞であろうとしても不貞になれない」

「何事も許される若者は、何事も許さない。
何事も許す老人は、何をしても許されない」

「老いは不意の訪問者ではない。生まれ落ちたときから約束されている」

「老いとは人が死ななければならない病」

「白髪は老いたるしるしであり、叡智を表すものではない」

「老年は騒音から遠ざかる。そして沈黙と忘却に仕える」

「青年時代には日々は短く年は長い。老年時代には日々が長く年は短い」

「青年は希望の幻影を持ち、老人は想起の幻影を持っている」

「若いときは愛するために生きる。老いると生きるために愛する」

「われわれのうちに存在するものは全て同一である。
生と死、醒と睡、若と老」

「老兵は死なず、ただ消えてゆくのみ」

タソガレテ、、、クタビレテ、、、ヨレヨレの我、厳しく自戒。


夜も昼も

無性に昔の音楽が聴きたくなる。
色は全てを語る言葉だと言い、 音楽とは言葉をさがしている愛だという。

私の心は何に対してこんなにも渇いているのだろう。

今夜はラテンバンド特集。

チャーリー石黒と東京パンチョス
有馬徹とノーチェ.クバーナ
見砂直照と東京キューバン.ボーイズ


歌劇リゴレットより「女心の唄」

五月の夕暮れ時がいちばん好きだ。

誰そ、、彼は(たそがれ)と瞳を凝らし、人を待ち侘びつつ
爽やかに側を通り過ぎていく夕風に身を任せているとき
黄昏色のなかで私は生きていることの素晴らしさを実感する。

この季節のある一日、そうすることが当然のように、いつも犀川大橋の畔に佇んでいた。
そして、この街を訪れると必ず立ち寄る居酒屋で夜更けまで痛飲し
快い酔いの火照りを犀川の川面を渡る夜風に任せながら
深夜の武家屋敷の通りを「一つだけの足音」を響かせながらホテルへ帰っていた。
青春時代から酔えば必ず口ずさんでいた「リゴレットの女心の唄」をハミングしながら。

この唄は私を通り過ぎていってしまった青春の日々の賛歌だった。


風の中の
羽のように
いつも変わる 女ごころ
涙こぼし 笑顔つくり
うそをついて
だますばかり
風の中の 羽のように
女心変わるよ ああ 変わるよ

わが身さえも
忘れ果てて
迷わされる 愚か者よ
甘い恋の 味を知らず
夜も昼も 夢のうちに
風の中の 羽のように
女心変わるよ ああ 変わるよ

ヴェルディ歌劇「リゴレット」より「風の中の羽根のように」


あの日々のことは一瞬の光芒。

青春という名の各駅停車の列車で「黄昏駅」に降り立ったのは、 いつの日だったろうか。
その日からも橋の下を水が流れて行くように多くの「とき」が過ぎていった。

今度は「人生という名の長距離列車」から降りる支度をしなければならない。


よき恋人たる為のアルファベット

A.相性  B.莫大な慈しみ  C.嫉妬も恋の姉妹  D.どこまでも尽くす愛情
E.いつも相手のことが脳裏にある  F.不実ならざること G.厳然たる慇懃  H.恥を知る矜持
I.いつも相手を気遣う心  K.かゆいところへ思いやり  L.牢固たる恋心
M.まどやかな暖かみ  N.のびやかな立ち振る舞い  O.お節介も時には愛情のスパイス
P.ぷっとふくれるのも愛嬌  Q.きゅうきゅう言わぬ慎ましさ  R.立派な心意気
S.さりげなく秘やかな心やり  T.ときめく頭文字(これは私の創作) U.嘘を受け止めてくれる優しさ
V.侮辱をはね返す勇気  Y.やつれを見せぬ誇り高さ  Z.是非とも時々やきもちを焼くこと

ミゲル.デ.セルバンテス(スペインの作家)


よき恋人、、、私にはいます(いました)一人だけ、、、遠いところに(遠い日に)(笑い)


そして結婚すればオトコは女性にとって「ただの人」になる。
二種類に分類され「衣食住の良き供給者」と「悪しき供給者」に分かれる。

さしずめ、私は後者、、、
だから『ベターハーフ.better.half』 ではなく 『ビター(苦い)ハーフ.bitter.half』しか いない。

「e」と「i」と、たったつづりが一文字しか違わないのに
天国と地獄ほどの差。(笑い)


時代の落差の激しさ

「徴兵は命かけて阻むべし 母.祖母.おみな 牢に満ちるとも」

この歌は1978年頃、当時の首相福田赳夫の元で「有事立法」なる危険な法律が
議論されていたとき、東京にお住まいの「石井百代」さんが詠まれたものである。
この歌にふれたとき身体が震えるほどの感銘を受けた。
このような女性が世の中の主流である限り
この国は二度とあの悲惨な愚かしい戦争への道を歩み出すことはないと。
きっと、戦争指導者の振る旗の下で「軍国の母」よ「靖国の妻」よ、などと
踊らされて、父.夫.恋人.息子.学友.知人.友人、、多くの愛する人達を
戦場へと送り出し、二度と、逢うことが叶わなかった悲しみの
あの痛恨極まりない血を吐くような慟哭の中から生まれた反戦への決意だったと思う。

それからわずか30年、、、たった360ヶ月

戦争やのコイズミさん、、、単純のジュンちゃん、、キャー
ヨンさま、、、フユのソナタ、、、キャー
こっちを向いて、、、、、、

デバカメ(デジカメの誤植ではない)を手にした、
権力との境界線をなくしたマスコミ産業の意識操作に飼い慣らされて
従順な家畜のようになった人々の黄色い嬌声が巷を覆っている。
そして気がつけば、いつしか再び戦争への足音が聞こえてきた。

三十年という時間は短いのか、、、長いのか、、、
一つの民族の意識が大きく変質するのにはあまりにも「かなし過ぎる期間」ではないか。

命を生み慈しみ育てる女性は戦争を憎み、平和を求め続けるのは永遠の不変。
女心の移ろいゆくのは「恋心」だけでよい。


五月.暮春

萩原朔太郎
五月の貴公子

若草の上をあるいてゐるとき、
わたしの靴は白い足あとをのこしてゆく、
ほそいすてつきの銀が草でみがかれ、
まるめてぬいだ手ぶくろが宙でおどつて居る、
ああすつぱりといつさいの憂愁をなげだして、
わたしは柔和の羊になりたい、
しつとりとした貴女(あなた)のくびに手をかけて、
あたらしいあやめおしろいのにほひをかいで居たい、
若くさの上をあるいてゐるとき、
わたしは五月の貴公子である。


迷い道を二人で終着点まで歩いたはずの過去の「あの日々」が、
いま、「現在」という形で、渺々たる彼方から私の前に現れようとしている。
あの日と同じように、湖畔のホテルの窓から暮色(うすずみ色)の湖を
身じろぎもせずに眺めている私は、「待ち人」と二人でいても、
暮春の孤独に冒された「五月の黄昏人」である。


含羞の人

『豆腐屋の四季』から
松下竜一著

私はこのごろ切実に思うのだ。
私は繰り返し自分にも妻にも戒める。
歌を作り文を書くと言うことは、決して誇るべき事ではないのだと。
寂しさを寂しいと歌で訴える人間と
何も訴えず雄々しく寂しさに耐えている人間と、
どちらが本当に偉いのか。
言挙げなどせず、黙々と立派な仕事をしている人が、いかに多いことか。
その人たちにくらべるとき、詠ったり書いたりする文筆の徒は
深い羞恥心を抱くのが当然なのだ。
弱虫で行動できないから詠ったり書いたりしているのだ。
ひっそりと、恥じつつしなければならないことなのだ。
いかに世間から私の歌や文がもてはやされようとも、
この羞恥心だけは失いたくない。
その「はにかみ」が私から失せるとき、私は生活の根無し草となるだろう。


文壇に無縁の市井の片隅で「人間」を書きつづってきた一人の物書きでも、
これほどまでに凛として見事な生き様。
目立つことだけしか考えない、恥知らずの「彼」はこれを読んだらどう思うだろう。

「感動しました。私も大いに学ばなければいけないと思います」
と、いつもの薄っぺらな常套句を「したり顔」して喋るだろうか。

いや、おそらく単細胞で似非日本人の「彼」には到底聞き取ることの出来ない
『真の日本人の深い魂のつぶやき』であろう。


廉恥心

人間だけが赤面できる唯一の動物である。
あるいはそうする必要のある動物である。

日本人は「恥を知る心」を大切にしてきた。
武士は恥辱を晴らすのにはそれこそ命をかけた。

いまこの国にぬえ(鵺)のような一人のファシストがいる。
入り口と出口しかない男。 素っすぺらなベニヤ板のような男。
ワンフレーズの男。 大道芸人のような男。 米国の植民地の知事。
一次方程式しか解けない男。 似非愛国者。 ブッシュのペット。

実にさまざまな評価を下されているが、それなりに的を射ていると思う。
それ以上に彼に厳しく指摘しなければならないことは
人間としての資質の一番大切な「廉恥心」を一欠片も持ち合わせていないことだ。
品性、知性、見識、論理的整合性をみじんも感じられない漫画的答弁を繰り返し
その事を恥じるどころか、卑しさが透けて見えるような得意顔すらする。

そんな彼に仰け反るほど驚かされたことがある。
春の桜を見る会だったか、各界の大勢の招待客を前にして、
桜の散り際に自分の引退をなぞらえて、
歴史上有名なガラシャ夫人の辞世の句を引用していた。
厚顔と言っていいのか、恥知らずにも程がある。
彼の数代前の某首相が、「S」と言う、ある大手運送会社の創設者との間の
金銭を巡る醜聞が表面化しそうになり、鳥が飛び立つように、
にわかに最高権力者の座を降りたことがある。
その時、某は先祖であるガラシャ夫人の同じ句を引退の記者会見の場で披露していた。
コイズミが世上言われているように幼稚で単純な頭脳の持ち主であったとしても、
同じ政界の住人として、まさか、その事を知らなかったとは思えない。
もの真似の道化役者でしかないと批判した人がいるが、まさにその通り。

そんな彼は依然として高い支持率を得ていると言われている。
私には理解できなし、本当に不思議に思う。

「国民はその民度に相応しい指導者しか持つことが出来ない」

この言葉のように残念ながらそうなのかも知れない。
この国の民度はいつから、底なし沼のような奈落の底へ転がり落ちてしまったのだろうか。


アリダ.ヴァリ

「第三の男」でヒロイン役を演じた「アリダ.ヴァリ」逝く。

キャロル.リード監督
、ジョセフ.コットン.オーソン.ウェルズ.アリダ.ヴァリ主演
アントン.カラスの奏でるチターの調べ。
モノトーンの見事な光りと影の演出。
ラストシーンの並木道を通り過ぎていくアリダ.ヴァリのコート姿の見事さ
男が匂うようなジョセフ.コットン
ジャン.ギャバン、ハンフリー.ボガード、ジョセフ.コットン、マルチェロ.マストロヤンニ
男の「粋」「美学」とはどういうものか教えてくれた圧倒される程の「存在感」
もう、あの時代のような映画も、俳優もいまでは望むべきもない

よき時代とともに、私の青春も歴史の彼方へ去る。


水色のワルツ

藤浦洸作詞・高木東六作曲

君に逢ううれしさの 胸にふかく
水色のハンカチを ひそめる習慣(ならわし)が
いつのまにか 身にしみたのよ
涙のあとをそっと 隠したいのよ

月影の細路(ほそみち)を 歩きながら
水色のハンカチに 包んだ囁(ささや)きが
いつのまにか 夜露(つゆ)にぬれて
心の窓をとじて 忍び泣くのよ


旅に出るのは初恋の人に会いに行くような
心のときめきがある。
ニセアカシア、、ハマナス、、浜昼顔
あの砂浜に終日(ひねもす)寝ころんでいたい。
なに色のハンカチを胸にさして旅に出ようか。

砂山の 砂に腹這い 初恋の いたみを遠く おもい出ずる日


朧月夜

夕暮れ時に一人湖畔の桜を見てきた。
春宵、一刻、値千金
花に清香有り、月に影有り

まさに、、、桜月夜 こよい逢う人 みな美しき

こんなよい月を一人で見て寝る
尾崎放哉

私の寝床も一つ。


花も人も

年々歳々、花の下を通る人は変われど
今年も同じように桜は咲いた
遅かった湖畔の桜も今日で満開。
徒な春雨に、はやチラリホラリと花びらが舞い落ちている。
あと二三日で、桜の最後の饗宴、一面の花吹雪。
私の背にも、ボーイズ達(かい.てつ)の背にも名残花

人も花も散り際が大切、黄昏世代の私はしみじみと実感。
凛として潔くありたい。

散りぬべき とき知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ
細川ガラシャ


口笛

朝、ボーイズ達(かい.てつ)と散歩の時、口笛を吹いている方とすれ違った。
毎朝、お逢いする人で、定年後、悠々自適という雰囲気である。
どんなに暑い季節でも、私のように短パンにパーカーなどというくだけた服装ではなく、
いつも素材のいいものを身につけ、お洒落な着こなしで歩いていらっしゃる。
背筋を伸ばし、「丘を越えて」というメロディーを軽やかに吹きながら
散歩されているその姿に思わず立ち止まって見とれてしまった。
そういえば最近は口笛を吹く人を見かけなくなったし、
私自身もいつの頃からか、忘れてしまっている。

猟期の間、山で獲物を遠くまで追って行き、
なかなか帰ってこない犬達を呼び戻すため吹いていたが、
それもいつしか犬笛に変わってしまった。

子供の頃、口笛が好きで、そして得意顔でいつも吹いていた。
しかし、夜だけは両親から禁じられていた。
夜、口笛を吹くと蛇が出てくるとか、
お化けが出でくるとか、という理由だった。

これからは遠い幼い日々の想い出にひたりながら、ときどき口笛を吹いてみよう。

   ふるさとや/ 少年の口笛と/ あとやさき
            山頭火


映画の話

この間、知り合いとの話の中で「天井桟敷の人々」が、と言ったら、
その人は寺山修司の劇団のことだと思ったらしく、
会話がちぐはぐになり、すぐお互いの勘違いに気づいたが大笑いになった。
いまでは天井桟敷=寺山修司らしい。

紅顔の少年時代「天井桟敷の人々」を見て、
当時の私の程度ではなかなか難解な映画であったが、
こんな映画もあるのだ、と衝撃を受けつつ、
なにか大人の仲間入りをしたような気分でいた。

マルセル.カルネ監督
主演
アルレッティ.ジャン=ルイ.バロー、 マリア.カザレス

いまでは、あの時よりも少しは深い視点で見ることができるかもしれない。

そういえば日本初の天然色映画(カラー映画)は
確か「石の花」というソ連映画だった記憶がある。
これといったストーリーは何もない映画だったが、
モノトーンの映画しか見たことのない当時の日本人には色の鮮やかさに仰天した。

ラストシーンの見事さは「第三の男」が私の中では一位。

反戦の思想をより強くしてくれたのは「禁じられた遊び」

大人の恋の切なさを知ったのは「終着駅」「かくも長き不在」
「哀愁」「陽の当たる場所」「ヘッド.ライト」、、、、かな。

いや、もっともっとある。


似合うもの

憂いの佳人にひとしずくの涙

富士に月見草

夕日に海

爛漫の桜に一掬の酒

行く春と老犬の背に散る花びら

某政党の若手グループにお子様ランチ

おぼっちゃま達だ、大目に見てあげよう。
お年を召さないと悪魔の言うことはわからない。
(ファウストからメフィストフェレス)

そして私には終着駅


蟷螂と悪女

カマキリは昆虫の中では悪食の代名詞のように言われている。
何よりもコワイのは交尾が終われば♀は♂を食い殺す。
そのことから昔より女性で男を食い物にする「悪女」を
「カマキリのような女」と言う形容がある。

残念なことに私の周囲にはそんな妖しい悪の魅力の匂いを漂わす女性はいない。
しかし政界には「カマキリ女」の代表的な女性がいるという。
さて、さて、、それは誰なのか。

あの声で 蜥蜴食うかよ 不如帰

そうなんです。
ホトトギスはあんなにも綺麗な声で鳴くのに、
そのイメージとは裏腹にトカゲを啄んで食べる。
それと同じように可憐な美貌でありながら、
次々と権力者を啄んで階段を上り詰めた「ある女性議員。
カマキリ女なのかホトトギス女なのか謎。


オトコの性(さが)

好色はカナシイ男の性(さが)。

井原西鶴の「好色一代男」の主人公 世之介 は夜一人でお手洗いに行くのが怖くて
お付きのお女中に連れて行ってもらう慣わしだった。
用を足し、手水鉢で手を洗い終わるや、くるりと向き直り彼女に抱きつきながら、
「恋は闇夜じゃ、行灯を消せ」とささやいた。
その時、世之介、七歳。

「すべて色情を抱いて女を見るものは、すでに心の中にて姦淫したるなり」
     新約聖書

私、○○歳、、、。日本に生まれ、仏教徒でよかった。


踏み絵

踏み絵選挙と言う言葉を聞く。

その意味するところは我々有権者である国民が選挙という制度を通じて踏み絵をすることらしい。
どうせマスコミ産業の言うことだから面白おかしく言っているのかもしれないが、
それは正反対でしょう。
「踏み絵」とは「支配する側」が「支配される側」に対して行うものであり、
強いて言うならば踏み絵を踏まなければいけないのは政党であり議員諸氏だ。

興味をあおり立てるように書くのが仕事であっても、
主権者である我々は踏み絵をさせられる立場ではないことぐらいの最低の認識は持ってほしい。
一応、この国は国民が主人公であることを謳っている憲法があることもお忘れなく。
それとも本来の踏み絵の由来をご存じないのかな、、マスコミ諸君。
切支丹受難の歴史を紐解いてみては如何。

ある国の首相の執務室の靴マットに
「亀」の絵を印刷した「綿」を「抜」いた座布団大のものが置かれているとすれば、、
それが当世風の踏み絵というものです。

京都に蜷川虎三という革新系の名物知事がおられた。
功罪それぞれの評価があるようだが、私は圧倒的に功の部分のほうが多かったと思う。
何よりも公人として清潔を貫いたその一点に絞ってみても偉大な生き様だったと尊敬している
その同じ時代に京都に本社を置く、
世の女性ならば知らぬ人がいないほど有名な下着メーカーがあった。
その社長は一代で日本最大手の下着メーカーを築き上げたぐらいだから、
有能辣腕な経営者であり、それだけに非常に個性の強い人でもあったらしい。
蜷川知事とは政治的立場を異にすることもあり、選挙も絡んで対立することが多々あった。
強烈な個性同士であるから、絶えず火花を散らし、
それが感情的なものにまでエスカレートしていった。
知事は独特の江戸っ子口調でT氏のことを「女のふんどしや」と揶揄し、
T氏は「独裁者」と知事に悪罵を投げつけていたらしい。

そのT氏が真偽のほどは定かではないが、
自宅の玄関の上がり口に虎三をもじって虎の皮の敷物を敷き、
訪れる人に踏ませるようにしていたという。
踏まずに避けて通る人とはその付き合いに距離を置いた、とまで言われた。
これも一種の踏み絵。
でも、何処かにユーモアを感じられる。

そんな成熟した社会は次第に影を潜め、
むき出しの憎悪.冷酷.怨念.打算.裏切りが大手を振ってまかり通る貧しい社会は悲しい。


男の深層心理

朝、ボーイズ達(かい.てつ)との日課の散歩中、お疾呼。
公園のトイレは数年ぶり。
サァーというとき何気なく前を見るとくろぐろと大書の落書きあり。

「あなたのナニはあなたが考えているほど大きくありませんので、どうぞ、もう一歩前へ出て下さい」
どうしたかって、、、?。
もちろん、慌てふためきながら『二歩』前に出ました。

それにしても、この落書きの文句はアメリカの紳士用公衆便所の古典的傑作の一つであり、
いまでも、アメリカ各地のトイレで見受けられるとは聞いていたが、
湖畔の小さな我が街のトイレでお目にかかるとは、、、、
地球は狭くなり、国際化の波はここまで押し寄せていたのかとビックリ仰天。

「大なのか、小なのか、普通なのか」男の大命題 
深層心理をチクリと刺すような落書きに悩める朝のひとときでした。


トール

我が太陽族だった頃、女性にモテル基準は「ダーク.トール.ハンサム」の順番だった。
収入の高低はあまり問題視されなくて、「貴方と一緒ならば,たとえ手鍋下げても、、、」
という大和撫子の心意気があった時代 。

しかし「金がなくて恋愛結婚をすれば、楽しい夜と悲しい昼を持つ」というのも
、いつの時代にも変わらぬ一つの真理ではある。

ダークをクリアーするのにひたすら太陽を浴びたものだが、
トールは邪馬台国人末裔としては身体の中の遺伝子を嘆くしかなく
、ハンサムに至ったは美容整形なる魔法の仮面を商うところもない時代、
慈愛溢れる両親には申し訳なく思いつつ、運命を恨むしかなかった。

五尺五寸が日本男児の平均身長だったのが、
時代は移り、今日では六尺豊かな大男も珍しい存在ではなくなった。
そして、いまの時代でも、やはり背の高さは男性の大きな武器であることの地位は不動、と聞く。
それどころか、ますますその傾向が強まりつつあるそうだ。
170センチほどしかない私は、少し早く生まれてきて、よかったと心から安堵している。
その民族の体型が変化するのは、
さまざまな要因が絡まり合ってのことと思うが、本当はどうなんだろう。

家人がオランダに駐在されていた学生時代の友人を訪ねて、
ひと月あまりお世話になったことがある。
オランダの人々の背の高さに驚いたそうだ。

しかし、そのオランダ国民も十八世紀にインドネシアを植民地にするまでは、
ごく普通の身長であり、混血の結果、いまのような背の高い民族になったという説を読んだことがある。
十八世紀以前の残された甲冑などからそのことが裏付けられるそうだ。(ごくごく普通の寸法の甲冑)
勿論、オランダは、現在でも多くの人々の移民で交わりあう国家だが、本当にそうなのだろうか。

それからすると日本はそのような歴史は持たないのに、 戦後、劇的に体型が変わっていったのは、
生活様式の変化、すなわち椅子.テーブルの生活、食べ物の嗜好の移り変わりによるものなのか。

私には不思議な話。


なぜだろう。

ふと、思うところがあって十数年ぶりにチャットをしている。
出身地を拝見していると本当に全国津々浦々、
それどころか海外の方もお見受けする。
またまた、私の「何故だろう病」が頭を持ち上げてきた。
  県名はどのようにして付けられたのだろうかと。
何故、滋賀県なのか、、何故、兵庫県なのか、、、。

明治維新で大名の領地制度を廃止した廃藩置県の時に決められたと思うが、
どんないわれ、根拠からなのだろうか。滋賀県は分かる。古くから呼び名「志賀」から。

いろいろ本を読んでみると、結局、維新の時に太政官政府の役人が、
朝廷側についた大名の統治支配していた地域はそのお城のあった中心地をの地名を県名にし、
幕府側についた大名には、見せしめや報復の意味で、お城のあった中心地域の地名を外し、
わざと近郷の名もない村落の地名を選び県名にしたらしい。
例えば、金沢は今でも北陸きっての大都会だし、加賀百万石前田家の本拠であったにもかかわらず、
本来ならば金沢県と命名すべきところを、
わざと近在の僻村である石川村の地名を付けたという。

福島県もしかり、、、若松県、、、会津県となるのが当然と思うが、
徳川幕府への大義に殉じ奥羽同盟の盟主として
最後まで朝廷軍に壮絶な戦いを続けたものに対しての報復命名だろう。
(今でも福島の人々は義に篤い方が多いと思う)

私のお隣.岐阜県は、お城のあった岐阜から、、、
そして名古屋は当然、尾州県か、名古屋県なのに愛知県、、、
徳川御三家尾州徳川家へのイジメ命名としか思えない。
同じ御三家でも、紀州徳川家は和歌山県、、、
これは明治維新の原動力になった薩長連合の立役者「坂本龍馬」率いる海援隊(後の三菱財閥の前身)
と深い関係があったから、そのままか。

薩摩藩と並んで維新最大の功労者であった長州藩は萩であるが、
山口に藩庁を置き、交易その他のの実務を行っていたから、
萩県ではなく山口県になったのかもしれない。

こんな事を考えながら皆さんのプロフィールに書かれている出身地を眺めていると、
別の楽しみがある。
それにしても現代でも、その地名の歴史的な背景、風土、由来ど無視し、
行政側の利便だけで地名の変更が行われ由緒ある地名が次々と消えつつある。
いずれの時代でもお役人とは姑息なことを考える存在なのだろうか。

全国全てがこのような例に当てはまらないと思うが、
みなさん、ご出身地や、今お住まいの県名について、
その由来、または別の視点などでの解釈、、、等々ご存じの方、教えて下さい。

それにちなんで、アメリカは「合衆国」なのか「合州国」なのか。

建国の成り立ちの経緯、、そして現在の州ごとにより異なる法体系や行政制度の違いなど見ていると、
当然、「アメリカ合州国」だと思うのだが。
勿論、ワスプが主流をなす国とはいえ、多種多様な人々の移民で成り立っている国だから、
あながち「合衆国」が間違いとは言えず、ほとんど表記も「合衆国」となっている。

でも、「合州国」のほうがより本質に近いと思う。


おっばい賛歌。

物心が付いてから、ほんの一時期をのぞき犬を飼っている。
二人暮らしの私にとって文字通り家族の一員であり、ハンティングの相棒でもある。
人の生涯も一炊の夢に過ぎないが、
それにしても犬達の老いてゆく時の早さには耐え難い切なさを覚える。
でも、子犬の時に長い間、母犬のおっぱいで育った犬はおしなべて元気で長生きだ。
人間もそうだと思うが、有り余るほどの母乳で育てられた赤ちゃんは長じても健康であると聞いたことがある。
母乳には成分比率だけでは分からない「なにか」があると思う。

本当に生物は神秘な存在。
「おっぱい」こそ、その神秘の源。

以前、その「おっぱい」についてネットの知り合いから尋ねられた。
彼曰く「子供の頃から乳房の事をなぜ「おっぱい」と呼ぶのだろうか不思議なことと思い続けてきたが、
三十歳になった今もまだ答えが見つからない」、、、と。

関西で言う「ええかっこしいー」の私は簡単に引き受け、
それは古代朝鮮語から由来するものだと思うと答えたが、
どんな辞書を見ても幼児語で母乳.乳房の意味、としか出ていない。
最後の手段で「大言海」で調べてみたが分からない。
全くお手上げだったが、負けず嫌いの心に火がついた。

苦闘すること一週間、ついに見つけた。

やはり古代朝鮮語(韓国語)を母体として生まれた言葉であり、
゛お゛は接頭語(尊敬.強調等)で、゛ぱい゛が古代朝鮮語で(吸うもの)という意味、
そして゛ぱい゛のぱ音は濃音だから平仮名で書くときには「おっぱい」と「つ」を加えて表記。
他に「ぱい」は白く輝くものという意味もあるから、乳房そのもの。

赤ん坊をあやすとき「おつむテンテン」と言って頭を愛撫するが、
その「おつむ」も「つむり.頭」からきており、それも同じく古代朝鮮語。
ちなみに、我々が使っている言葉の天体語.身体語の多くも古代朝鮮語。
分かってみれば倭の国と呼ばれていた我が国と、当時の朝鮮半島との関係からして、ごく自然のこと。

それにしても、答えを彼に送信した後のビールは美味しかったなー。
その味を、今でも昨日の日のことのように思い出す。

世の中のお母様方、出来るだけ母乳で育ててあげて下さい。
おっぱい賛歌でした。

必要な蛇足。
酒場や満員電車の中で女性の胸に触れたがる不埒なオトコ達よ。
女性の胸はただ単なる胸ではなく、かくも古い歴史的ないわれを持つ、
神々しい「おっぱい」が鎮座ましますところなのだ。
邪な欲望を持つと仏罰たちどころにくだること、ゆめゆめ疑いなし。
心せよ!!!オノコ達。

注釈.ここで言う「オトコ達」とは世の中のほんの一部の男性のこと。誤読にご注意。

メーカー各位殿
このような尊い「おっぱい」を保護するブラジャーなのに、
単に万物引力の法則に忠実なカタチ(いわゆる、垂れ下がり)を誤魔化したり、
ナイものをあるように見せる欺瞞性詐欺用布としか考えずに、
無味乾燥というか無機質な記号(Aカップ〜Gカップ)と名付けるのは神をも畏れぬ所行。
せめて、杏子カップ、、桃カップ、、林檎カップ、、、薔薇カップ、、という夢のある呼び方は如何。
間違ってもEカップをホルスタインカップなど禁句ですぞ。


映画音楽。

少年の頃、映画狂だった。
だから、往年の名画と言われるものは殆ど見たと思う。
その反動からか、ここ二十年来、テレビ映画すら見たことがない。
店の暇なときには、終日、その頃の映画音楽を聴いて過ごす。

黒いオルフェ.夜霧のしのび逢い.鉄道員.禁じられた遊び.昼下がりの情事.シェルブールの雨傘.
第三の男.夏の日の恋.太陽がいっぱい.ジェルソミナ.慕情.愛情物語.風と共に去りぬ.
エデンの東.虹の彼方に.帰らざる河.メモリーズ.オブ.ユー.王様と私.
シェーン.ウェスト.サイド物語.ララのテーマ.ジャニーギター.赤い靴.街の灯り.誰がために鐘は鳴る。

そして、カサブランカの「時の過ぎゆくまま」
リックの酒場で流れるピアノ、、、いまでも鮮明にあのシーンを覚えている。
夢中になったこのセリフと共に。

「昨日の約束はどうしたの?」
「そんな遠い昔のことは覚えていないさ」

「それでは、今夜は約束してくれる?」
「そんな遠い先のことは約束できないさ」

そして極めつけは「君の瞳に乾杯」

キザを承知でピシッと決められることこそ、本当の男の美学。
一度は言ってみたくなるような「女性」と出逢えることを夢つつ、時は無情に流れて、
いつしか黄昏れてしまった。

でも、「トレンチ.コート」だけは今でも愛用している。


黄昏時。

暮れなずむ夕暮れが未練げに行きつ戻りつしながら
夜の帳と鬩ぎ合っているようなひとときが好きだ。
なぜか心が濡れる。

「黄昏のビギン」

永六輔.作詞
中村八大.作曲

雨に濡れてた 黄昏の街
あなたと会った 初めての夜

二人の肩に 銀色の雨
あなたの唇 濡れていたっけ
傘もささずに ぼくたちは
歩き続けた 雨の中
あのネオンがぼやけてた
雨が止んでた 黄昏の街
あなたの瞳に 写る星影

夕暮れ晴れた 黄昏の街
あなたの瞳 夜にうるんで
濡れたブラウス 胸元に
雨のしずくか ネックレス
小刻みにふるえてた
二人だけの 黄昏の街
並木の陰の 初めてのキッス
初めてのキッス


私の青春はこんな素敵な歌に包まれていた時代だった。

遠いあの夜のようにハミングしながら
今でも心痛むあの恋の日々を思いだしている。


花の下。

万朶の桜の下を歩く。
朝靄か、花霞なのかうすく煙っている。
朧影に目を凝らし、一瞬、たまゆら胸を通り過ぎるのは
過去の思い出の影。
私にとって過去の記憶は精神の擦過傷ばかり。
舞い落ちる花びらに思い出を重ね合わせ蘇らすことは、
その瘡蓋を剥がす苦い作業。

さまざまな 事おもひ出す 桜かな   芭蕉

年々歳々花相似たり、歳々年々人同じからず

今年の桜は、とりわけ、「切なくて、愛しくて、哀しい」


人生ページの余白、私の場合。

「午後三時。
三時というのは、常になにをしようと思っても遅すぎる。
あるいは早すぎる時刻だ。
午後の奇妙なひととき。
今日は特に耐え難い。」

そういえば、私にも月に何度かそんな日がある。

「愚か者が貸す三つのもの。本.傘.金。」

貧しい私にはお金を貸す余裕はないが、
本や傘は返ってこなかったことは多い。

「二人の友情には、一人の献身的な忍耐が必要である」

発作的に集中し、習慣として拡散するという性格の私は忍耐力がない。
だから友達は少ない。

「世の中は海に似ている。泳げない者は溺れる」

世渡り下手の私は溺れっぱなしの人生、、、。
でも、溺死しなかっただけでも良しとしよう。
ただ、バッカス(酒神)には夜ごと溺死させられていた。

「慌てて結婚して、ゆっくり後悔せよ」

しみじみと実感。

「恋は結婚の黎明であり、結婚は恋の日没である」

切実に実感。


彼、曰く

T商事のMは金のペーパー商法で数千億を騙し取り、私は株という賭博商法で
投資家から気の遠くなるほどの金額を濡れ手に粟の如く巻き上げた
いつの日にかは仮面が剥がれ、虚業の詐欺師呼ばわりされることは想定内だったが
司直のメスが入ることは想定外であった。
政界の彼達も、財界の彼達も、そして、その他大勢の拝金亡者の魑魅魍魎達が
先を争うように私の「見せ金」の前にひれ伏した。
我が人生に挫折や不可能という言葉は辞書にない筈だった。
今夜はしみじみと「平家物語」の一節を思い起こすことにする。

祇園精舎の鐘の声
諸行無常の響きあり
沙羅双樹の花の色
盛者必衰の理をあらわす
おごれる人も久しからず
唯春の夜の夢のごとし
たけき者も遂に滅びぬ
偏に風の前の塵に同じ

彼は何でもありの危険な社会が生んだ時代の鬼っ子。

私の尊敬する異性の知人がコメントを下さった。

「色即是空、空即是色ってやつですね、きっと、、、。」

以下、そのコメントへの返信

富は多くの罪悪を覆う外套であり、金は底のない海であり
その中に名誉も良心も、また真理もみんな投げ込まれる。
そうだと思いながら財布が軽ければ心が重い私です。
煩悩未だ去りやらず。


増税の恐怖。

国家の財政は完全に破産状態であるから、 選挙が終われば増税が目白押しに待っている。
「支配する側」からすれば税務署の活躍に期待する

さて、その期待される税務署員像とは。

居酒屋でたくましい若者が力自慢をしていた。
レモンを一個取り上げ、全身の力を込め、額に青筋を立て、歯を食いしばって握りしめる。
ジュースがサッとほとばしるのを見て居合わせた客が感動し
「兄さん、お仕事はなにを」と尋ねると、若者は誇らしげに
「オレは市場で働いているのだが、時々ジムに通ってボディ.ビルをしているのさ、」と答えた。

そこへ一人の老人がヨチヨチと寄ってきた。咳はゴンゴン、喉はゼイゼイのご老体。
ブルブルふるえる指を伸ばし、ちっと失礼しますと言って例のレモンを取り上げ
指先でほんの軽くひとひねりしたら、ジュースがザッと最後の一滴まで迸り
レモンはカラカラの干物みたいになってしまった。

若者も客も仰天し、異口同音に「お父さん、お仕事は何をしているの」と訊ねたら
彼はハニかんで、うなだれて、低い低い声で、イエ、なに、、、
私、ちっと税務署に関係していますので、と答えた。

私のサイフは今でも限界。これ以上絞られても鼻血も出ない。
でも、ひからびた檸檬にはなりたくないなー。

上の話はフランスの小粋な大人の小話からの引用ですので
日本の国民の皆様、どうぞご安心を。

尚、政権与党である我々の「三文芝居小劇場」に賛同して投票して下さった方々は
率先して他の国民の五割り増の納税をお願い致しますと共に
国家有事の際には戦場の最前線に赴く栄誉と、国家の大義の為の戦死をお約束します。

政府広報


アメリカ、、、そしてアメリカ。

廃墟.無政府状態.略奪.発砲.略奪者射殺命令.疫病.食糧不足
人間としての最低生活も不可能、イラク侵攻へ州兵派遣のため復興支援の人員不足
被災者の多くはこの国で差別され続けた歴史を持つ黒人層。

ハリケーンによる惨憺たる爪痕。

日本でも江戸時代から火事場泥棒は厳罰。
しかし近年、大きな幾つかの自然災害に見舞われたが
散発的にしか略奪行為はなかったし、多くの人々がボランティアとして支えた。
日本人の道徳観は未だ地に堕ちず、まだまだ健全。
自衛隊、警察に略奪者に対して射殺命令など出たことなし。
勿論、今後も。

先住民虐殺から始まり、国内戦争、メキシコとの領土紛争、スペインと植民地争奪戦争、
ハワイ、フィリピン侵攻、そして太平洋戦争、朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争、
イラク侵略戦争、、、その間にも他国の政権に対して理不尽な局地介入紛争は数知れず。

建国以来、まさに戦争、暴力、差別の歴史。

それでも「アメリカは自由と民主主義の国」

ブッシュのペットの「彼」を先頭に、
いつでも、何処でも「アンクル.トム」達の大合唱。


時代劇劇場

専制君主.悪代官.茶坊主.幇間.紀文大尽.くノ一忍者.刺客.無礼討ち. 上意討ち、、等々、
死語になっていたと思っていた。

最近でも時代劇は多いが、殆ど時代考証は無視している。
公共放送を自称している局(支配する側の御用達局)の大河ドラマでさえそうだ。
以前は映画でもテレビドラマでも時代劇の制作に携わる人達は
娯楽性は勿論一番大切なことであるが、時代劇を作るということは、
ただ、それだけではなく現代の人々、後世の人々に、その時代の社会背景、
当時の日々の暮らしの有様など、どのようなものであったか正確に伝える
歴史の中継者としての義務もあるのだ、という矜持を持って制作に当たっていたという。
だから時代考証に制作費を掛けたし、それに携わった時代考証の大家の名前は
制作監督、主演者などと同列の扱いで字幕に並んでいた。(例えば稲垣史生氏など)

ところが今では、ただ、面白ければいいのだという(それも独りよがりの)軽薄低俗な風潮が蔓延し
漫画風劇画、、出演者はタレントと称する演技的には殆ど素人に近い人を出している。
演じる仕草、セリフなど、冷や冷やしながら見なければならないそうだが
電子箱紙芝居だから、それでいいのかもしれない。

それに反して、最近の生テレビでは、専制君主.悪代官.茶坊主.太鼓持ち.
紀文大尽(紀伊国屋文左衛門.成金).くノ一忍者.刺客、、オールキャストで見ることができる。
今時の役者諸君の演技など遠く及ばぬほどの、皆さん見事な「はまり役」である。

IT成金と呼ばれ毀誉褒貶定まらぬ詐欺師まがいの某などは、さしずめ「平成の紀文大尽」がぴったり。

某政党の幹事長は「茶坊主」を演じて男優主演賞、、、ほぼ当確。

鼻持ちならぬ自己顕示欲のロングヘアー女史は「女性版幇間」。

権力者にすり寄り渡り歩く蝶々女史は「くノ一忍者」。

専制君主気取りは言わずとも「彼」。

逆命罪で上意討ちされた三十七士の面々、
初志を貫徹し、天下にその心意気を示されては如何。


当世気質。

人情紙風船、、、政界。

弱肉強食.倫理なき世界、、、IT業界。

熱狂的等質化現象、、、無党派市民。

洞ヶ峠、、、無責任な観客的国民。

百万人と言えど我行かん、、、良識派市民。

神は偉大なり、、、イスラム教。

我は偉大なり、、、コイズミ教。


美人憧憬。

時代の移り変わりによって美人の基準も変わる。

いま時の美人と言えば欧米風の彫りの深い顔立ちで
八頭身のスタイルが持て囃される。
しかし、それも僅かここ数十年の風潮に過ぎない。
それ以前は瓜実顔で富士額、明眸皓歯、髪はカラスの濡れ羽色、、、
きびきびとした立ち振る舞いの女性が憧憬度一位。
江戸時代では、なで肩.柳腰、小股の切れ上がった女性が好感度一位だったと思う。
今風の量感溢れるヒップ、豊かな鳩胸は敬遠されていた。
デフォルメされた紅毛碧眼の絵に見られるように
外人並みの肢体は気味悪い異形の人だったようだ。

中世では間違いなく、ふっくらとした「おかめ顔」が美人。
今でも恵比須講などで神社にお参りすると、福笹に付けてくれるあの顔である。
中世の絵巻物に描かれている女性像は当世のブロマイドのようなものであるから
その頃の美人の基準が言うまでもなく理解できる。

ある文化人類学者が面白い試みをされた記事を読んだ。
文明という毒々しい波に侵されていない国々の(断じて発展途上国などではない)
自然と共に生きながら暮らしている人々に映画スターのブロマイドを見せて
美人ランキングを選んで貰ったそうだ。

オードリー.ヘップバーン、エリザベス.テーラー、イングリッド.バーグマン
グレース.ケリー、そして日本の女性タレントの写真。

彼の人達が一番に顔をしかめて除いたのは、オードリー.ヘップバーン
エリザベス.テーラー、イングリッド.バーグマン、、
次いで、今日本で人気のタレント女性の順番だった。

美人として選ばれたのはご本人の名誉のために(笑い)あえて名前を伏せるが
おかめ顔のある中年の女性タレント、そしてお多福顔を描いた絵と続いたという。

時の流れは静かに、そして全てのものの上を平等に通り過ぎゆく。
いまを盛りと、我が世の春と美を謳歌されている美女淑女の方々、、、
時代の移り変わりは容姿美の基準も移ろいゆくという残酷無惨な法則をもつもの。

いつの時代にも揺るがぬ女性美の座標軸
「心美人」と「恥じらう美しさ」


幼稚さと絶叫。

絶叫型の権力者を知っている。

アドルフ.ヒトラー

東条英機

そして「彼」

「戦争の犬達」はいつも愛国者の仮面を付けてやってくる。

戦争の記憶が遠ざかるとき/戦争がまた私たちに近づく/そうでなければよい
石垣りん

往時においては、祖国の為に死ぬことは心地よく、ふさわしいものと書かれたが
近代戦争では、戦死が心地よく、ふさわしいものは何もない。
諸君は犬のように死ぬだろう。
ヘミングウェイ

権力者として一番大切な資質とは、いかに多くの嘘が吐けるかと言うことである。
ヨゼフ.ゲッペルス


恋のおもしろ定義。

恋はフランスでは喜劇

英国では悲劇

イタリアでは悲歌劇

ドイツではメロドラマ

日本では不倫という社会現象

「恋は発狂ではないが、両者には共通点が多い」

「恋愛とは、男がただ一人の女性に満足せんが為に払う努力である」

「恋をしている人の耳は、どんな低い音でも聞き分ける」

「情熱的に恋をしたことのない人は、人生の半分、それも最も美しい半分が隠されている」

「恋の運命は目隠しの鬼ごっこ」

「愛は喪失であり、断念である」

「恋の最初のため息こそ、知恵の終わり」

「恋と嫉妬は姉妹である。天使と悪魔が兄弟であるように」

「いつも変わらなくてこそ、本当の愛だ。一切を与えられても、一切を拒まれても 変わらなくてこそ」

「男の恋はその人生の一部であり、女性の恋はその人生の全てである」

「恋を得るより、恋を失うほうが、より深く恋を味わえる」

「恋文、、、青年は急いで読み、壮年はゆっくり読み、老人は読みなおす」

「止めれば止めるほど燃え立つのが恋。せせらぎの音もやさしくすべりゆく流れも
せき止められれば気短に騒ぎ立てる」

「近目達が恋をしている」

「淋しさを癒す事を愛と錯覚することが多い」

「女性が愛する人におくる愛の誓いの言葉は、風の上か、急流の上に書かれている」

「友情の多くは見せかけであり、恋の多くは愚かさに過ぎない」

「男と女の間には友情はありえない。情熱、敵意、崇拝、恋愛はある。しかし友情はない」

「恋愛の方が結婚より美しい。小説の方が歴史より面白いという同じ理由で」

「恋人のいる人間に友情を注ごうとするのは、 喉の渇いている人間にパンを与えようとするものだ」

「恋愛はただ性欲の詩的表現を受けたものである」
芥川龍之介


三景。

「夜目.遠目.傘の内」
女性が美しく、奥ゆかしく見える情景を言い表した化石言葉。

夜目
多くの都市が不夜城のように煌々とした眠らぬ街となり、
ほのかな灯りと闇の持つ美しさが彩なす空間が喪われた現代では、その意味はない。

遠目
パソコン、テレビ.ゲーム、携帯などの電子機器に囲まれて生活する現代人は
多くの人が近視、、、特別に遠目と言わなくてもぼんやりとしか見えないから
同じ事。

傘の内
この場合の傘は「蛇の目傘」、、、ビニール傘では様にならない。
死語の仲間入り。

当世、美しさとは「これでもか、これでもか」と主張するもの。
恥じらう美しさは負け組の一里塚という。

それでも、
「秘すれば花」


雲ながるる果てに。

俺の言葉に泣いた奴が一人

俺を恨んでいる奴が一人

それでも本当に俺を忘れないでいてくれる奴が一人

俺が死んだらクチナシの花を飾ってくれる奴が一人

みんな併せてたった一人。

書き残した人。

大学在学中に学業半ばにして海軍飛行学生に志願。
戦争が終わる十数日前に,この詩を恋人に残し零式艦上戦闘機を駆って
沖縄慶良間洋上の米軍艦艇に体当たり攻撃。
戦死。23歳の夏。
愛する人々の幸せを願いつつ,雲ながるる果てへ,,,,。

八月十五日。
今日,戦争に負けた日。
見せかけの平和の日々,,,いびつな繁栄...ゆがんだ自由。
おびただしい数の人々の死によって築かれた我々の社会は,
いま,何処へ向かおうとしているのだろうか。


メダカの警告。
多くの生き物達の”鬼哭啾々”たる声が聞こえますか。

メダカがレッドデーターブック(絶滅の恐れのある種のリスト)に新たに登録された。
その他に76種の淡水.気水魚類も併せて発表されている。
メダカなどは日本中のあらゆる小川に生息していたし,現在でもそうだと思っていた。
たかが[メダカ]の話として見過ごす問題ではない。
我々のそれほど遠くない未来に対しての警告なのだ

水辺の自然破壊は,もう後戻りが出来ないところまで来てしまっている。
河川の工事だけではなく,農薬などその他の化学物質の複合的要因によるものと思うが
御用学者でない人々が,今日のこの結果について,度々警鐘を鳴らしていたのにも拘わらず,
意図的にそれに耳を塞ぎ,或いは無関心なまま突き進んできた我々の社会が,
今,その環境破壊という”つけ”を精算しなければならない所に来たように思う。
当たり前の話だが,自然はこの地球上の全ての生物の共有物なのだ。
我々人類も,たまたま,この地球号に乗り合わせている一つの種にすぎない。
現代に生きる者は,次世代に対しての責任も負うという事なのだ。
[我が亡き後に,大洪水よ来たれ]というような無責任な生き方は
許されるべきものではない。
レッドデーターブックに絶滅種として登録されるべきは,
その様に自然を毀し続ける政策を押し進めている政治勢力
そして,それに追従して補完している人々でなければならない。

兎追いし,かの山/小鮒釣りし,かの川/夢は今も巡り来て/忘れ難し故郷。

日本人の心の故郷の原点とでもいうべき風景を,再び取り戻すためにも
今,私達が何をなすべきかを真剣に考え,それぞれが出来る範囲で行動に移すべきだと思う。

さぁ。選挙に行こう。


行動する知識人

秘かに尊敬していた久野収氏が逝去された。
自称.他称の,口舌の徒にすぎないタレント的偽知識人が多い中,
行動の伴った真の知識人として,希有の存在だったと思っている
創刊以来,購読している[週刊金曜日]は,編集委員に久野氏と本多勝一氏の
両氏のお名前を拝見したことが”きっかけ”である。
心からご冥福をお祈りしたい。

『我,誰にも,何ものにも属さず。』

この言葉を心に刻みつけ,これからも,昂然と頭(こうべ)をあげて
右顧左眄することなく,正面を見据えて歩き続けていきたい。

尚,[週刊金曜日]の編集委員には,両氏の他に,落合恵子.椎名誠.佐高信.筑紫哲也の
現代の[日本の良心]を代表する諸氏がおられます。念のために。


[美徳のよろめき]考。

女の[天性]の中には[母の性]と[娘の性]はあるが,[妻の性]というものはなく
[妻の性]は結婚という制度により,強制的につくり出された,いわば[母の性]と
[娘の性]の混合体であると指摘した人がいる。
そうであるとすれば,社会の規範という見えない牢獄から脱走を試みようとする
[妻の性]は,不自然なものへの理由なき反抗の一つの行動現象として
理解出来るような気がする。

婚姻以外の恋愛を,不倫と呼び慣わす様になったのはいつの頃からなのか。
しかし私には,不倫という言葉は語感が生々しすぎて抵抗がある。
今日的ファツションの様な取り上げられ方にも同様である。
煉獄の火に焼き尽くされる様な恋には,その言葉は似合わない。
私は秘かにそれを[美徳のよろめき]と呼んでいる。

[愛は結婚の黎明であり,結婚は愛の日没である]
だからこそ[陽はまた昇る]である。

結婚という鉄鎖の囚われ人の独白でした。


仮想世界,雑感

面白い,小さな記事を目にした。
二十一世紀は,匿顔(顔を隠す)の時代であるというのだ。
我々現代人は近年,異常なほど顔をさらけ出して
(同時に人間として秘する事の美しさの多くも喪失して)生きてきた。
しかし,それもそろそろ軌道修正の時期にさしかかったという趣旨である。

少し引用する。

『中世の人々は扇で顔を隠し,僧兵は布で顔を隠し,芸能者は仮面で顔を隠して個人を消し
集団の顔を創りだした。
そうして世紀末の怒濤の時代を乗り切ってきた。,,,,,,,,,。
人は太古の昔より仮面や様々な道具を用いて顔を隠してきたが,
それは世界の演劇,芸能の中で仮面劇が最も多いことからも明らかである。』
仮面こそ正直になりうる。

私は顔かたちというものも[プルースト]の云ったように
一生ついてまわる仮面に過ぎないと思っているが,上記の記事を読んで
その主張されている趣旨とは違うが,ふと,次の様なことを考えた。

このインター.ネットの世界も,その匿顔の先駆けの現象なのではないかと。
人は顔を隠すことによって,その持っている本質をあからさまな形で
表現するという心理的要因をもつ生き物なのだろうと。
そのように理解することによって,昨今,取りざたされている様々なネット上の問題も,
それらに起因する形態現象の一つとして,頷けそうな気がする。

ニック.ネームも更なる仮面なのかも知れない。
顔を出すこともなく,もっとも簡潔な雄弁であり,もっとも無責任な符号(ハンドル.ネーム)で
言葉を発信している自分を,これからもより厳しく検証しつつ
自戒を重ねながら,私流に仮面で装い,仮想世界と向き合っていきたい。


中秋の月

私にとって月とは,兎が長い杵でお餅をつくところの[お月様]で
遠いあの日々の数々の思い出に結びついた原風景であり,詩語でもある。
宇宙飛行士が降り立ち,月面探索車が走る月は全く別の天体物語だ。

さて,中秋の名月。
晴れるもよし,雨もよし,夜もすがら思いに耽ることにしょう。

四日,[宵待ちの月] 五日,[中秋の月] 六日,[十六夜の月]
七日,[立ち待ちの月] 八日,[居待ちの月] 九日,[臥待ちの月

この古人(いにしえびと)の詩情豊かな美意識には,ただ,ため息。

月づきに/月みる月は/おおけれど/月みる月は/この月の月


地元の人の行く店。旅をする人の行く店。観光客の行く店。

どんなに小さな旅でも,どこかへ出掛けるということは心が華やぐし
ちょぴり豪奢な気分に浸れる。
そして食いしん坊の私は,訪れた所で思いがけずというか,期待通りというか,
美味しい料理に出会うと,それだけで旅が完結した様な気になる。
しかし,最近では落胆させられることの方が多い。
それは,
観光バス会社の宣伝と扇動にのせられて,小旗を先頭に園児さながらに引率された
異様な集団があらゆる所を傍若無人に闊歩し,環境,景観だけではなく
その土地土地の伝承の食文化までも毀し続けているからだ。
観光による活性化などという,もっともらしい言葉で装った商業主義剥きだしの欲望が,
その人々の懐に結びついて、さながら燎原の野火の如くあらゆる分野の
大切なものを焼き尽くしつつある
素朴な人情味に溢れていた市場が,買い物ツァーなる観光バスが押し寄せるようになって
無惨に変貌していった例。
雑誌に紹介記事が掲載されたばかりに,雑誌片手の客が殺到して,店の雰囲気も
味も暗澹たる気分にさせられたあの店,この店。実に枚挙に遑がない。
観光客ではなく,旅する人であり続けたい私は,地元の人の愛用されている店を
探して訪ねることにしている。
わが街も,にわかに押し寄せた観光ブームで,マスコミにとり上げられたお店の前には
紹介記事の雑誌を握りしめた人々が行列をなしているが,その人達の味わう味覚は
その舌の上にあるのではなく,雑誌の記事の中にあるようだ。

あるお店のご亭主の象徴的な話を。
「味にとかく注文の多い地元のお客は来て欲しくない。
それに比べて観光客は安直で有り難い。」


[畏友,M兄へ]

無神論者ですのに,バッカス(酒神)だけは,何故か,いつも側にいて
夜の帳が降りると,熱い抱擁を交わしています。
[酒の一杯は健康のため,二杯は快楽のため,三杯は放縦のため,四杯は狂気のため。]
と耳元で妖しく囁やきながら,
ネブチューン(海神)に代わり,夜毎,私を溺死させています。

さて,
以前,拝見しました,お酒についての談論風発の中での[ささ]について,
以下,私の雑感です。
[ささ]という言葉は,おそらく全国各地で使われているのではないでしょうか。
古くは[播磨風土記]の揖保郡の項にあるそうですし,元禄時代の狂言本の中でて゛も
見た記憶があります。
上代から近世にかけて,すでに使われていたと云うことは,
当時から,日本の言葉として定着していたのでしょう。
その語源ですが,
言葉を重ねる幼児語から婦女語(女房語)に移って[酒]が[ささ]になったという説に
説得力を感じます。
中国の[竹葉]からというと,短絡的に[竹葉].[笹].[ささ]と連想してしまいますが
紹興酒の三年ものの色が[竹葉青]であることに由来しているそうですから,
邪馬台国人の末裔としては,前者に軍杯をと思います。
でも,日本の言葉は響きも美しいですし,あれこれと思惟をめぐらせることは
本当に楽しいですね。

閑話休題。

秋の夜には,歯にしみわたる白玉の[ささ]を静かに飲むことにしましょう。
乾杯を!


[北帰行。南帰行。]

早春の日,湖面を賑わわせていた鴨達が遠い国へ[北帰行]の旅立ちをする。
その春が終わる頃,南の国からやって来た燕が,岸辺の柳をかすめるように飛び交う。
初夏の爽やかな風物詩である。
そして夏が去った今,今度は,その燕達が[南帰行]への旅立ちである。
太平洋の海原を望む三重県付近の山の峰々に,何千羽,何万羽という数の燕が集結し
飛び立つ吉日を待っているそうだ。
その悠久の営みの一環とも言うべき,壮大な光景を想像するだけで,心が震える思いがする。
一斉に,南の海へ舞い立つ燕達を目にしたら,
翔ぶ情熱も,堕ちていく勇気もなく,漂いながら時の過ぎゆくままに
流され暮らしている自身の生き様に,やり切れない思いにかられそうだ。
蒼古の時代より,絶えることなく繰り返されてきた南帰行,北帰行の渡り鳥達が
いつまでも訪れることの出来るように,開発という名の破壊に反対し
人,それぞれの自然環境を大事にしていきたい。


[ビール小話]

その日の猟が終わり獲物の処理が済むと,男達の酒盛りが始まる。
炭をおこす者,鍋の用意をする者,材料を切る者,骨付きの肋肉を豪快に切り分けていく者。
その間に新人達(と言っても三十歳前後のパパ達)が,
指示されてその役目の買い出しに出掛ける。
当然,彼等は[スナック菓子,][ファースト.フード,][ファミリー.レストラン] という食品世代である。
買ってくるビールは例外なく,評判の某社のビールである。
人が入れ替わっても,新入者が買ってくる銘柄は,まず,変わらない。
ところがである。
何度か酒盛りに参加するうちに,そのビールを買ってこなくなる。
これは,もはや,法則と言っていいほどの絶対的な確率で,そうなる。
別に,先輩諸兄に(違う銘柄を飲んでいる)遠慮したり,迎合したりするからではない。
要するに一言で言えば,自然の素材を使って自分たちの手で料理した
食べ物の原点というべきものを口にしているうちに,
そのビールは合わないと言うことに気付かされてきたと言うことである。
[食品]と[食べ物]は[似て非なるもの]であることの再発見である。

美味しさの基準というものは,主観そのものであり,
独断と偏見の最たるものである事を承知して,それでも敢えて言うのだが
まことに,その民族の長い歴史の間に育まれてきた味覚というものは,
如何に異国の食文化が溢れる飽食の時代になっても
一朝一夕に変わることなく,時代を超越して,その座標軸は揺るがない。
なにかのきっかけで,血と風土により受け継がれてきた味の官能が目覚める。
それは計り知ることの出来ないほど深遠で,不可知な世界だとしか,言いようがない。
スナック菓子や,ファースト.フードの食品に縁のない食べ物世代の私は,
ドライで,爽やかではなく,ウエットで,重く,濃い某ビールを飲み続けている。

それでは,今宵も日本の味にビールで  ”乾杯”!。 [ 独断偏見人。]



[喪われていく夏の風情。]

「夏は夜。 月の頃はさらなり,闇もなほ,蛍の多く飛び違いたる。
また,ただ一つ二つなど,仄かに打ち光て行くもをかし,
雨など降るもをかし。」

蛍を捕って売る人がいるという。
夏の一夜,人を招いて催す宴に蛍を買い集めて
自慢の庭に放つ,財豊かな,心貧しき人もある。
寒々とする時代風景だ。

蚊帳.葦ず.団扇.夕涼み.行水.涼み台.パナマ帽子.小股の切れ上がった,,。
もう,死語になりつつあるのだろうか。

新しい文化と称して,街に溢れている植民地的風俗。そして植民地的用語。

文化というものは交流しあい,混ざり合い,融け込み合うものだが,
しかし
それは,それぞれの文化の出逢いが,好奇心のふれ合いであり,
互いにその違いを尊重し合う対等なものでなければならない。
それであれば歓迎できるが,政治的,経済的な思惑を背景にして浸食してくる
今のような文化には,私は馴染めない。

消えてゆく日本の情緒,日本の夏。


[ある佳人へのメールから。]

醒めるが故に夢ですのに,人生の旅路の果てる日まで,見続けていたい夢も
ありますよね。そして,貴方の仰るように,だまし続けていて欲しい優しさの嘘もあります。
人の心の中にはどうしようもない 妖しくも 哀しい生き物が棲みついているのでしょう。
でも,そんな魔物がいなければ人生なんて退屈なものだと思います。
私にとって嘘という言葉は両義性のある言葉です。
傷つけ,傷ついた事も多いですが,
永い人生の旅路の折々に出会った,キラリと輝く素敵な嘘がどれほどに、
私の時間を豊かに鮮やかに彩ってくれたことでしょう。
時として,
メフィストフェレスの囁きであったり,
青春の賛歌であったり,
人生の応援歌であったり,
だから,そんな素敵な嘘に逢える期待に心をときめかしながら,また,この人生の旅を続けています。
そして,[常に真実を語る嘘つき]であり続けようと思っています。


[ユーモアと,ウイットと,洒落。]

単なる語呂合わせにすぎない駄洒落を
ユーモアかウイットのつもりで,連発する人がいる。
私が,以前よく立ち寄っていた,ある[チャ通]にもそんな人がいて,辟易さされた。
私はその様な駄洒落には一種の押しつけがましさと,聞く人への媚びに似た匂いを覚える。
あれは[笑い]と言えるのだろうか。
洒落とは,高度な言葉遊びの世界だと思うのだが。

ユーモアとウイットは,同じように笑いという共通の因子がその底流に
あると思うが,でも,本質的には異質の笑いのように思っている。
ある人の言葉を借りて,大雑把な言い方をすれば
ユーモアは,なにか暖かく身体全体での笑いであり,
ウイットは,一瞬,間があって頭で考えて秘やかに笑う,,,,そんなもの,だそうだ。
笑いの中にはいろんな意味が秘められている。
笑いの本質は[喜劇]の中にではなく,
[悲劇]の中,[権力批判]の中にこそ,あるのかもしれない。


瀟洒な会話の中に散りばめられたユーモアとウイット。
グラスの中にはキリッと冷えたドライ.マティーニ。
そんな夜の酒場のひととき,男は詩人になる。

片隅のピアノは。
" セプテンバー.ソング ”


[風立ちぬ。秋です。]

海の見える街に住むメール友達の貴方へ。

昨日,久しぶりに山へジープを走らせました。
一面,ススキの穂の波で下界より一足早い,秋の深まりでした。
思いがけず,二十メートル程の所に鹿が三頭立っていて,驚いたような表情で
此方を眺めているのに出会いました。
そんな彼等を見ていると,食物連鎖の頂点に立つ霊長目.ヒト科の人が
一番,貪婪で残酷な生物である事を,改めて実感させられました。
獲物を求めて山野に出掛けるのに,それでいて,出来るだけ自分の前には
現れないで欲しいと願う,二律背反に似た矛盾にしばしばおそわれます。
撃つべきか,,,撃たざるべきか,,,。
ハムレット(?)の様な苦悩に苛まれながら,それでも猟期が始まれば,
銃を背に山を彷徨う私です。


日本の音

風鈴の音に苦情を言う人が多いという。
移り住んできたが,蛙の鳴き声が騒がしいので何とかしてくれと,
市役所に抗議した異星人のような人もある。
それでいて,生活の中に溢れている暴力的ともいえる人工的な騒音には
なんの痛痒も感じないらしい。いや,社会的強者の音には異議申し立てする
勇気がないだけかもしれない。

戸外では,
去りゆく夏と共に終わる,その短い泡沫(うたかた)のような生への最後の賛歌,
降るような蝉時雨である。
いつの日か,蝉も遠慮がちに鳴かなければいけなくなるのだろうか。

閑かさや/岩にしみ入る/蝉の声

日本の音も,遠い世界になりつつあるようだ。


さぁ,秋を告げてくれる小さな虫達よ。
情感を込めて,日本の秋を高らかに唄いなさい!。


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