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南米編
とうとうやってきた。アルゼンチンはブエノスアイレスだ。日本の裏側にある国。だからカメラを上下逆さまにして撮ってみた。
何ヵ国も巡っている(9ヵ国目)と、その国の良さを感じることを忘れてしまうようで、どこも同じに見えてくるようになるが、ここはちょっと違った。ケニアで長期滞在したことで、今日3/24の訪問になった。なんと25年前のこの日、アルゼンチンではクーデターが起こったという。世界史にうとい僕にとって、そんなこと気にもしていなかったのに、だんだんこの国に興味がわいてきていた。
ブエノスアイレスといえば、マラドーナ、タンゴ、マルコ。映画『ブエノスアイレス』にもでてきたあの白い塔に行った。マラドーナが生まれたというボカというところにも行った。そこはパステル調の色使いの家が建ち並んだ、タンゴの発祥地でもあるようだ。マルコといえば『母を訪ねて三千里』。コルドバという街も見かけた。そして記念のパレードが始まった。
街中で当然のようにキスをしている恋人たち、スペイン語がわからない僕に声をかけてくるおばさん、撮ってもいないのに怒ってくる野郎に、出たがりの酔っ払い。もちろん顔はみんな東洋系ではない。日本とは違う現実がここにはもっとあるはずだ。
サッカー観戦することはできなかったが、パレードがまるでサッカーの応援をしているかのようだった。土曜日なので昼くらいまでは人通りが閑散としていた街も、夕方を過ぎたあたりから徐々に活気をおびてきた。暴動でも起きるのかと思わせるようなパーンという音、太鼓を奏でるバンド、火を吹く男女、デモのような旗たちの行進。こんなの日本で見かけたとしてもジャイアンツの優勝パレードくらい??あの規模の情熱や気持ちのぶつかり合いがあるこの国では、平和ボケした日本なんて想像もできないのだろう。モラルに縛られるよりも、思うがままに動く生き方。日本の常識などかけらもない。
イタリアやニューヨークにとどまって生活していきたいと思っていた。と同時に、もしかしたらこの航海で気持ちが変わるのではとも思っていた。どうやら先入観も打ち壊されて、わからなくなっている。でも日本ではない方がいい。一人、誰からも隔離されながら、人々と交差せざるを得ない、けれど言葉という距離がある。そんな日々を送ってみたい。何が僕を魅了させているのか?
こんな経験をしてきたのだから、それをフレームの中に反映させていきたい。人は影の部分を濃くすればするほど、厚みが増してくる。その影を撮るのが映画だ。だからフレームの外にあるものを自分のものにしたとき、ようやく人々に伝わるものを描けるのだろう。『ブエノスアイレス』のフレームを外れたところにいる人々と直に話すこともできた。「会いたいと思えば、いつでもどこでも会うことができる」トニー・レオンは確かそんな台詞をいっていた。これだけゆったりとした旅だから、終着地へもまだまだ時間はかかる。
そして僕たちもウシュアイアへと向かう。(ひまわりバンクより抜粋)
フィヨルド遊覧の初日。カメラマンの僕は大事なラストシーンの撮影を翌日にひかえて、入念にロケハンを行っていた。また当日監督の諏訪とカメラワークの確認などを行っていた。ここまでの経験からいって、いくら完璧な打ち合わせや確認をしていても、その日そのとき現場にいってみないとどうなるかなんてわからないということがある。ホントに機転がきかなければやっていけない仕事である。
ここは「LA SEBASTIANA」という建物です。ノーベル賞受賞のチリの詩人パブロ・ネルーダの旧宅が博物館となって公開されていた。パブロ・ネルーダは映画『イル・ポスティーノ』でも登場してくる有名人です。
フィヨルド遊覧が順調だったため、寄港日が一日早まった。3日目パブロ・ネルーダの家に向かった。
4/7オリビアがモンバサを出港した。
バルパライソは、丘の街と呼ばれる。港が弧を描くようで、そこから放射線状に街が丘になっている。少し歩くとすぐに街が一望できる。夜になると、とても綺麗な夜景が広がる。
僕はインタビュー班のカメラもまわしていた。二人コンビで回っているので、わりかし行く場所に関しては自由がきく。
街中のマーケットの様な建物でインタビューにトライした。しかし相手はスペイン語。なかなか理解することができないが、相手は気さくに(?)声をかけまくってくる。しかし必ずわかることがある。「どこからやってきた?」誰もが聞いて来るので、そういう質問をしてきていることが雰囲気でわかる。また「チーナ(china)?」といってくるので、「ハポン」と返す。見知らぬストレンジマンがいるということで、反感を買ったのだろうか?マーケットを出るとき、ゲロかゴミの様なものを、上空から振り掛けられた。ホントに臭かった。相棒は古着屋で破れたボロ着を買っていた。
その後、坂をのぼっていった。人が声をかけてくる。どうやら僕がカメラを持っているせいのようだ。というのもこれ以上先でカメラをまわすと危険だということだ。
卓球を子どもたちに教えているところがあった。卓球台は一台なのに、子供は男も女も何人かいた。小さな場所の割に賞状があった。きっとみんな強いのだろう。僕は子供と卓球をやった。相手は右に左に揺さぶってくる。僕が現役のときにとった戦法と一緒だ。でもフットワークに強い僕にとっては何のことはない。ラリーは余裕で続くのであった。ということは相手の子も、そこそこの腕はあるということだ。
時間もないのでそこを去ることにした。もちろん手を振って別れた。僕たちは更に坂をのぼりはじめた。まだ危険は続くのだろうか?とかなんとか考えていると、さっきの女の子がうしろから近づいてくるではありませんか!!なんだろ?そう思ったらはにかんだ様子で、僕たち二人に何かを差し出しました―チリの切手だ―言葉にならないものってこういうことをいうんだなと、その瞬間感じました。すごく恥ずかしそうにしていた女の子は、切手を渡すとすぐにお店のほうに戻っていってしまった。僕はすごく嬉しかった。やっぱりコミュニケーションは取れていたんだ。この出来事はこの旅で一番の思い出になりました。
もうとにかく圧倒的だった。イースター島に来るだなんてこと、いままで考えたことがあるだろうか?海外が初めての僕は、これまでとにかく圧巻の連続であったのに、その頂点をここで体験してしまった。