沖縄県民斯ク戦ヘリ


 太平洋戦争の末期、米軍は日本本土攻略の拠点として沖縄確保を目指し、片や日本陸軍は日本本土進攻を一日でも遅らせる方針のもと沖縄を戦場とする方針を固めました。 平成27年8月13日 NHKで放映された「英雄たちの選択 ー戦場の行政官ー」によると、前任の知事や上級官僚が任地の沖縄を離脱する中、昭和20年1月 官選の沖縄知事に任命された島田 叡(あきら)は「少しでも多くの県民を救うため」に腹心の荒井警察部長と共に県民の本土疎開の強力な推進や台湾に飛んで450トンのコメの食糧調達をするなどに傾注しました。
 旧 日本陸軍は県庁所在地の首里が5月30日に米軍に制圧された後も、なお既定通りの南下方針を続行したため、国内唯一の地上戦に住民を巻き込む悲惨な南部戦跡を残す結果となりました。(幸い日本人として、2000年の沖縄サミットの直前に、初めて沖縄の戦跡を訪ねる機会を持てました。)
 島田知事は4月27日に、首里城の軍司令部で牛島陸軍大将に面会して住民保護の為に首里を放棄する南部撤退方針に反対を具申し、5月25日には下記の電文を内務省に打電、6月7日には沖縄県庁の解散を宣言して職員の安全を図りました。牛島司令官が自決して沖縄地上戦が終息する3日前の6月19日に司令官から島田県知事は荒井警察部長と共に「文官は死ななくてよい」と諭されたが、残念ながらその後の消息は不明のままです。


 六十萬県民 只暗黒ナル壕内ニ生ク
 此ノ決戦ニ敗レテ 皇国ノ安泰以テ望ムベクモナシト信ジ
 此ノ部民ト相トモニ敢闘ス
 


 こうした状況の中で旧 日本陸軍軍司令部の南進命令に最後まで反対して、旧 海軍司令部壕に止まった沖縄根拠隊司令官 太田 實 海軍少将の人間性溢れる沖縄県民に対する感謝の念が以下の電文として残りました。   合掌 
(2015/9 NHKの報道で加筆・修正)

62016番電

左ノ電ヲ次官ニ御通報方取計ヲ得度
沖縄県民ノ実情ニ関シテハ県知事ヨリ報告セラルベキモ県ニハ既ニ通信力ナク三十二軍司令部又通信ノ余力ナシト認メラレルニ付 本職県知事ノ依頼ヲ受ケタルニ非ラザレドモ現状ヲ看過スルニ忍ビズ 之ニ代ッテ緊急御通知申上グ
 沖縄島ニ敵攻略ヲ開始以来 陸海軍方面 防衛戦闘ニ専念シ県民ニ関シテハ殆ド顧ルニ暇ナカリキ 然レドモ本職ノ知レル範囲ニ於テハ県民ハ青壮年ノ全部ヲ防衛召集ニ捧ゲ 残ル老若婦女子ノミガ相次グ砲爆撃ニ家屋ト家財ノ全部ヲ焼却セラレ 僅ニ身ヲ以テ軍ノ作戦ニ差支ナキ場所ノ小防空壕ニ避難 尚 砲爆撃ノ□ニ中風雨ニ曝サレツツ 乏シキ生活ニ甘ンジアリタリ 而モ若キ婦人ハ率先軍ニ身ヲ捧ゲ 看護婦烹炊婦ハ元ヨリ 砲弾運ビ 挺身切込隊スラ申出ルモノアリ 所詮、敵来リナバ老人子供ハ殺サルベク 婦女子ハ後方ニ運ビ去ラレテ毒牙ニ供セラレルベシトテ 親子生別レ娘ヲ軍衛門ニ捨ツル親アリ 看護婦ニ至リテハ軍移動ニ際シ衛生兵既ニ出発シ 身寄無キ重傷者ヲ助ケテ□真面目ニシテ一時ノ感情ニ駆ラレタルモノトハ思ハレズ更ニ軍ニ於テ作戦ノ大転換アルヤ夜中ニ遥ニ遠隔地方ノ住民地区ヲ指定セラレ 輸送力皆無ノ者 黙々トシテ雨中ヲ移動スルアリ 是ヲ要スルニ陸海軍部隊沖縄戦ニ進駐以来 終始一貫 勤労奉仕、物資節約ヲ強要セラレツツ(一□ハ鬼畜ノ悪評ナキニシモアラザルモ) 只々日本人トシテ、御奉公ノ護ヲ胸ニ抱キツツ 遂ニ□□□□興ヘ□コトナクシテ 本戦闘ノ末期ト沖縄島ハ実情形□一木一草焦土ト化セン 糧食六月一杯ヲ支フルノミナリト謂フ 
沖縄県民斯ク戦ヘリ
 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ
                                                
                  発 沖縄根拠隊司令官             宛 海軍次官