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TAKESHI IKEDA - CINECITTA

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TOP > CINECITTA > 複雑系の映画論
●2000年5月5日 スペイン坂を歩くカップルを蹴りあげたくなる理由

 渋谷シネマライズに向かう途中にあるんです。
 何でスペイン坂なんでしょう?
 まあそれはいいとして・・・

 あそこじゃなくても、新宿でも銀座でもそうなんだよね。
 通りが狭かろうが、広かろうが、そんなことも関係はないよ。

 例えば通りの左側を歩く。
 通りの右側には、対向の流れがある。
 シネマライズの上映時間まで、あと少し。急いでいます。
 たいていの人は、Window Shopping や Chat をしているので、他人のことはおかまいなし。

 "気を使ってくれる"なんて、考えてはいけない。

 僕はただでさえ気が立っているから、Tackle でもしようぐらいに突進していくのさ。
 間違っても右側には飛び込めない。
 そのぐらいの理性は働く。

 仕方がないから左側。
 何でまわりが見えねぇのかなぁ?
 こいつら仕事やらせても絶対にダメ労働者なんだよ。

 わざと前進したい雰囲気をかもし出してみるんですよ。
 それでも気がつかなかったりするのは、だから・・・
 ケッとばしたくなる。

 こんな人ばかりなんですよ。

 みんなね、自分本位。
 客観的に自分を見やしない。
        見られない。
        見ることが恐い。

 だらしないね。
 ちょっとした心がけで、何にでも応用できるのにさっ。
 そのちょっとしたことにTry しない。
 いや、しなくても生きていけるから、それでいいと思っている。
 現代はそんなのの集合体だ!

 他人に対して本当の愛情や、敬意の念を持ったら・・・
 相手の気持ちを理解しようと努力してみたら・・・
 本当の意味で相手の立場に立ってみる気持ちを持ったら・・・

 非難している僕が言うのも何だけど、
 そんな、ほんのちょっとした心の温かさの積み重ねが、
 世の中が変わっていくきっかけとなるのだ。

 僕は子供の頃から、気がつかなくてもいいようなところに気づいてしまう習性があるのですよ。
 大人になって、それをオモテに出せるようになったから、それまでよりもいい人生歩んでいます。
 気がつくだけじゃなく、現実化させていくのだ。


 できることに挑まないで、何もない平坦な通りを歩くか?
 否、自分の目的へとガムシャラに、わき目もふらずに突進していくか?

「ストレートストーリー」のように、
 わき見運転も時には大切だよ!

●2000年5月5日 独りで映画を観に行きたい理由

 その1:自分の観たいものを選べる
 その2:観たくないものを観る必要はない。
 その3:時間が選べる。
     行きたいときに行ける。
 その4:チケットを安上がりにできる。
 その5:自分の世界で味わえる。
 その6:他人に迎合する必要がない。
 その7:やかましい観客に注意ができる。

●2000年4月12日 映画はミジンコ・アメーバだ!

いろんなことに興味を持ってみる。

例えば、喜輪味のラーメンは何故あんなに安いのか?

    中国人ばかり雇っているからか?
    ホントに仕入れ原価を下げているからなのか?
    客の回転がいいからなのか?
    安くするために費やした時間への対価は支払わなくていいのだろうか?


ちがう ちがう ちがう

きっと どれも ちがう


僕の読みは・・・・

  喜輪味のねらいは、ラーメンの安さではない。
  ラーメンだけでは、男一人の腹は満たされない。

  そこだ!そこに目をつけている。

  客あたりの単価を上げることに本当のねらいがあるはず。

  ラーメン+餃子、ラーメン+ライス
  どこの中華料理でもやっていることだ。
  喜輪味はラーメンの安さをダシにした商売だ!

  チャーシューは猫の肉を使っているからだとかそういうことじゃないだろう。
  吉野家で吉野さんから仕事を教わっていた僕が言うからそりゃホントだ。
  そんなありきたりな読みをしているようだから「ありきたりの暮らし」なんて脚本も書いてしまうんだな。

  喜輪味ホームページ


何が言いたいのか?
別に何も言うつもりはないよ。だって、

映画はミジンコ・アメーバだからだ!

高木善之さんは環境問題の人なのか?
チャップリンは映画監督なのか?
尾崎豊は歌手なのか?
ジョンレノンはロックンローラーなのか?
山田花子は漫画家なのか?

すべては否、否、否である。

どうして?って。だってそれは
僕が映画監督ではないから。
それと同じこと。

ミジンコ・アメーバという単細胞の生物と同じ。

誰もが何かが見えている。
でもそれをわかっているのは、ごくわずかな人なのだ。
単細胞な原始的感性を持っている。
ハラ時計があるヤツらだよ。

表現がゆるされているのは選ばれた人々のみ。


単細胞=下等という公式がいまだに成り立つ。

そんなの信じているヤツを信じられない。
見てくれにだまされている。

複雑系がでてきて久しいこの時代。

ビックカメラのポイントサービスのパーセンテージはもう上がらないのだろうか?
マクドナルドのハンバーガー半額サービスは本当にずっと続いていくのだろうか?
プレステ2は手に入れるべきものなのだろうか?


答えなどない。

ミジンコアメーバを見たらわかる。

何が世界をつくっているのか?
そんなの高木さんの講演会に行ったらわかること。
オバチャンの井戸端会議にもヒントはある。

例えば「ガングロの女の子に個性はない」なんて言ってるヤツほど個性的意見のないヤツはいない。
ガングロを個で見るから、見えてこない。
ガングロは集団で見るから、ガングロなんであって、それが個性なのだ。
決して1人1人の人間で見てはならない。
集団で1人のヒトなのだ。
だって右も左も同じなんだから。
なのに1人1人を人間とみなしている方が誤りだ。

映画を観るだけで、別の価値観を共有できる。
映画を観るだけで、他国の文化に触れ、旅することができる。
映画を観るだけで、人間のあたたかさを感じることができる。

映画には、雰囲気・リズムがある。

映画はそういうもの。
映画は単細胞だ。
映画は複雑系だ。

映画は幻想じゃない。
映画は人生だ。
映画は夢だ。

死んでも変わらない。
必ず実現できる。
そういうもの。

●2000年5月5日 三位一体論

 何故環境問題か?
   ボランティアか?

 必要だからです。

 簡潔に言ってしまえば、キリスト教の三位一体の理論です。

 神  = 映画     = 本質
 子  = 環境問題   = 具体性
 聖霊 = ボランティア = 浸透していく

 テーマはコミュニケーション。
 いかなる関係性を築いていくのか?
 世界は相反する2つの要素が1つになって構成されている。

 科学  − 宗教
 プラス − マイナス
 都会化 − 過疎化

想い

●2000年2月24日

 僕は映画と環境問題とボランティアの、題して=三位一体攻撃=で世間に原爆を投下してやろうという感覚です。
 僕の行動を原爆に見立てて、放射能がメッセージとすると、
 じわじわと人々の心の中にメッセージが浸透していって、根付いて死ぬまで離れないというイメージ。
 世の中狂っているから、世直し映画とでもいうのかな?
 映画自体は言葉でいうほどきついものではないと思うのだけど。

 僕の究極の理想は、人々がお互いに愛を持って育みあい、心を通わせあった上で、笑顔が1マイル以上、並んでいく、そういう世界。
 笑顔の並んでいる状態を形容したのが、smiles。

 そういう世界を形成していくための手段としての、映画であり、環境問題であり、ボランティアなのです。
 そこにこだわりを持って、テーマから外れないように必死になっているので、結構大変です。
 業界という名のプロの世界からの誘惑にはのらないようにしないと、根本から外れちゃうから。

 映画館に見に来てくれた人たちの、心と心のふれあいを大切にしたいというのがあります。
 映画復興のためにも大切なことのように感じます。
 一人一人のお客さまを大切にしたいですね。
 それと、僕の映画のテーマでもありますが、コミュニケーションですね。
 映画館を創りたい、なんてとんでもないことも考えていますが。

 人の五感をフルに活用して、感覚的な部分にダイレクトにメッセージをぶつけたいんです。
 そのための映画館。あと、バリアフリーはもちろん、視覚障害者に映画を見てもらうための試み。
 これは意外と、視覚障害者の方々には期待されています。
 だから、何とかして不可能を可能の方向へと動かしていきたいですね。

●2000年3月5日

 僕は日本的な製作システムの中で映画を創っていくことはしたくない。
 どうしても経済優先思考であるから、その枠組みの中で生きていくことは、耐え難い。
 そこで創られた映画が、僕にとっておもしろく感じられないのはもちろん、
 ハリウッドのベタベタムービーも決まり切っていて、つまらん。

 単館の映画館でやっている個性的な映画が好き!
 5段階評価でいうと、ハリウッド映画は3〜1の評価がほとんど。単館映画はというと5か1がほとんど。
 要するに、いちかばちかみたいなもん。
「ウオーッ!」ていうぐらい強烈な映画に出会えることもあるし、逆にへこまされてしまうような映画にも出会う。
 前者の場合は、その映画にかなりのめり込んでしまうことがある。

 そんなわけで、ニューヨークインディーズもいいんだけど、
 僕にとっていいと思える映画を提供してくれる地域は、イタリア・フランス・ドイツなのね。
 それは前から漠然とそう感じていた。

 なにがいいのかなぁ?

 きっと雰囲気なんだと思うのね。
 雰囲気。
 都会の雑多な空気をフィルムに収めることよりか、人間臭さや、自然の美しさをとりあげている。
 郊外の心地良い生活が、せこせこした都会に生きる僕に安らぎを与えてくれる。
 あぁ、自由だなぁ。
 なんてなる。

 ちょっと前にロケハンで鎌倉に行ってみたんだけど、あそこもいい感じだった。
 イメージにぴったりとはいかないものの、鎌倉でも撮影をやっていきたいなぁと思う。

 こんななかで、去年運命的な出会いをした。
 いままでに観た映画ランキング、第2位の映画だ。
 すんごかった。
 チャップリン好きの僕としては、現代のチャップリンというキャッチには騙されまいと思ったけど、まんまと騙された。
 これでもう半分決まったようなもんだ。イタリアしかないと確信した。
「ライフ・イズ・ビューティフル」まさにそうだ。
 イタリアで映画創りをしていこう!
 そう思った。

 英語はそこそこしゃべれるけど、イタリア語はまたちょっと違うもんだから、
 イタリア人の先生のいうことを聞くだけで大変だ。
 かなり集中力を要するんだ。
 でもイタリア語がそこそこできたら、フランス語やスペイン語・ポルトガル語も通用するようなので、頑張る。

 これもまだ漠然としているんだけど、イタリア語をしゃべれるようになって、
 イタリアに渡り、映画の勉強をして、映画を創る。
 そしてその道中、ロベルト・ベニーニに会って、エネルギーをもらう。
 去年、ジャックマイヨールと会った。
 ジャックよりか人間のレベルは落ちるのかもしんないけど、
 僕の側での努力の量はとてつもないものになるから、ベニーニとの出会いのほうが感激するかもしれない。
 ジャックと出会えたのも、きっと偶然ではないから、ベニーニと会えると強く信じていれば、
 きっと出会えるはずだ。

 イタリアのまったく知られていない田舎の村に行って、思いっきり自然と自由を満喫したい。
 地元のじじい・ばばあと仲よくなって、楽しい日々を過ごしていきたい。
 これがホントのあこがれ。

●2000年3月20日

 監督だから、役者をやらない、というのは古い。
 監督だから、役者をやるのです。
 監督だから、役者の気持ちをわかっておいた方が、やりやすい。
 いろんな視点を持っていた方がかなりプラスになる。

 相手の気持ちを理解するというのは、映画に限らず、何をするにしても大切だ。
 そういう根本的なところを外さずに、行動をしていれば、何にでも通じる。
 僕は映画を極めれば、一芸に秀でていれば、世の中、通用すると思っている。

 好奇心旺盛なもんだから、いろんな事をつまみ食いしていくけどね。

●2000年8月5日

 映画云々だけでの人間関係って面白くないね。
 だから、役者にもこだわりがある。
 映画に参加してもらうためだけの関係なのか?
 僕は違う。
 この役者じゃないと僕の映画は創れない。
 そういう人に参加してもらいたい。
 さやかはそういう人。

 例えば体調を崩して、当日ドタキャンしたから、その人を即降板なんていう自主映画もあるようだけど、僕はそんなことはしないね。
 それだったら、その映画の役者は誰でも演じられるんじゃん。
 そんな深いもののない映画を創るつもりはない。
 この人だからこそ創りたい!と思える人が来て欲しい。
 例えば映画を離れたとしても、関係を続けていける人であって欲しい。
 僕が監督だから参加したいという人であって欲しい。

 病院の事務長さんも、先日知り合ったばかりだけれど、病院を貸してくれるから、その人と仲良くするというのではなく、
 別に病院を貸してくれなくても、その人とつきあって行くだけの価値のある人であって欲しい。
 また僕に対してでも、僕という人間だからこそ、つきあう価値があると感じていて欲しい。
 だから精一杯の誠意を伝えていこうと思う。
 関係のいいというところの延長線上にたまたま病院があったという関係でありたい。
 人として信頼できるか否か。
 そういう中で映画は創りたい。

 うそはつきたくないし、お客さんにはストレートに僕の魂を感じて欲しい。
 映画はみんなのエネルギーがスクリーンに投影されるものだから、きっと本物であれば、わかってもらえる。
 そう信じている。

 やっぱり僕みたいのなんかにも協力してくれる人、
 そういう人たちに対しては、映画のことなんか僕の中ではぶっとんで、
 感謝の気持ちをガンガンぶつけていきたいという気持ちになるのね。

 クレイジーにも役者さんは参加してもらっても構わないけれど、一人間としてしか僕は見ないから、それ以上はあまり考えない。
 誰と知り合いだといっても、結局この業界、自分の力、実力で這いあがって行くしかないのだから。
 どういう人と知り合うかも、自分の人間力でもある。
 気持ちがすべてだと思っていると言っても言い過ぎではないな。
 いわゆる役者さんが参加したいと言ってもこっちから断る可能性もあり。
 すべてはその人を見て判断する。

「フィクションをいかにしてリアルに見せるか?」
 リアリティこそ訴求力というものはでかい。
 ドキュメントを最初創りたかったのだが、そうでなくてもよくなった。
 尾崎もきっとリアリティを求めていたように思う。

●1998年11月28日 訴え

 高校で自分の進路を他人に決められ、自分の学力でいける学科へ行き、
 やりたくもない勉強をせざるを得なくなり、ヤル気をなくし、なんとなく生きている。
 最悪だ。
 僕は本来人間に備わっているはずの能力を自ら引き出すきっかけを与えたい。
 心をうるおわせたい。
 たくさんいろんなことを行動し、経験していくことで、自分に本当に適合した生き方を見つけることができるはず。

 人はそれまで生きてきた経験上の先入観や枠組みが、
 人を不幸にしているという事をなかなか理解することができません。
 それは経験にとらわれ、相手の立場を理解せずに、自分本位で生きているからです。
 監督をしたことのない人はMさんの苦労をわからないのです。
 私も事実フォローするのは少なかったかもしれませんが、
 打ち合わせ、話し合いの場を持つべきなので、アプローチしたにも関わらず、
 素敵なことに無視して下さった方もいらっしゃいます。
 やると言っていたボランティア活動も、自分勝手な都合でドタキャンするのは失礼極まりない行為です。
 こんなこと社会では通用しないんですよ。

 映像主義といえども、バランスを大切にしているので、言葉というのをないがしろにするつもりはありません。
 観念的というより、実践・経験を大切にしています。
 痛み・悩み・苦しみ、そして価値観を変貌させた人だけが、体験した人だけが、人に優しく行動できるんだ。
 行動とは結果、形にする行為⇒見えないモノを形にする芸術と何ら変わりないのです。
 ボランティア活動をすることの意味です。

 これが宗教というのであるならそう思うがいい。
 しかし、その人それぞれの信念というものがないと生きている意味はない。
 映画も信念という名の宗教であり、信じるという行為をしていないのであれば、生きていない。
 みんなマスメディアを信じ、ダマされていることに気付いていないようだけれど・・・
 映画は多様性を認められるモノなんだ。
 人々にヤル気と行動力を与えたい。
 ただなんとなく生きているのなら、人生クイットしたほうがいい。
 死んでしまえ!
 そんな人だらけなのが、私の愛する日本の実態だ。

 Trustにいたから弁護するわけではないが、彼らもこういう想いで団体を存続させていると信じている。
 考え方は異なるけれども、互いに別々の場で頑張っていけたらと思っている。

 最後に、映画製作の実態を自分の力でもう少し調べて、
 自分がいま何をすべきか自分なりに見つけ出して欲しいと思います。

働く日本人論 〜日本を捨てよ、宇宙(そら)へ飛ぼう〜

●2000年2月17日

 いま京橋にある、国立フィルムセンターで映像専門家養成講座という、タダで受けられる講座に通っています。
 短期なのですが、有名どころの講師が来て、ビックリ!

 深作欣二や新藤兼人あたりなら、ご存知なのでは?
 明日から二日間、僕が専攻した製作部門の講座があります。
 いかにして作品を広く知らしめていくか?ということについてですね。
 参加者は皆、アドバンスな人限定なので、レベルが高くて面白いです。

 国もこんな形で、映画人を後押ししていたとは知らなかった。
 講師はもちろん、主宰者側の熱意も伝わってきた。
 日本での映画教育は、システム化された現場で行われてきたものの、
 映画が衰退してきたいま、システムも崩壊されつつあり、かつ、映画製作人口も減りつつある。
 危機感を感じている業界人が、復興を期しているようだ。
 こういった流れが、もっと盛んになることを期待したいですね。


●2000年2月22日

 だからこそ、この腐った日本を飛び出して、海外に救いを求めようだとか、
 別の視点から、愛する自国を見てみようと思うのだけど、イタリアも現状は日本と変わらないらしい。
 製作システムではなく、映画の普及の度合いに関して。

 日本なんか捨ててやろう!と思ったら、次に行ったところもおんなじ状況だったなんてねぇ・・笑えないよ。

 ハリウッド映画の強みは、誰にも受け入れられる、エンターテイメントの映画を創っているだけでなく、
 創ったものがそのままどこの国でも受け入れられる英語という言葉の存在が大きい。
 インドは世界一の映画製作本数を誇る国だけど、からくりは最盛期の日本と同じ。
 映画以外の余暇つぶしがないから。
 僕にとってインドは行きたい国ではあっても、映画を創るために行く国ではない。
 どうしても個性を追求してしまう人間としては、自分が生きているだけなら面白くていいのだけれど、
 それだけではないところにいるので、つらいところだ。

 ビデオが普及すると、映画の映像美が軽んじられるのは、創り手が一番よくわかっているのに、
 ビデオに流されていってしまうのはやはり、カネ。
 これにつきるでしょうね。
 生きるためには、儲けなきゃならない。
 儲けるためには、映画を見るなんて大がかりでいらん金ばかりかかるものよりも、ビデオで大量に販売・レンタルという方に行く。
 現代の人々は映画以外にも余暇の過ごし方はたくさんある。
 そういう人たちの足をくい止めるための、最終手段でもあるんだと思う。
 だから軽薄短小、人間関係なんてコンビニエンス、なんてよくわからんこともまかり通るのじゃ!

 どうすればいいの?

 このあいだの講座でも、プロデューサーのおっさんが若手にも意外と門戸は開かれているということで話があったけど、
 僕は一瞬「おっ」と思ったものの、興味はなかった。
 というのも、目の前のエサに食いつくだけでしかないから。

 僕は独立してやっていくということを念頭に置いているわけだし、
 仮にそのPの手を借りて、世の中に出ていってから、自分のやりたいことをやっても、
 結局はいまの業界のレールの上にはめ込まれるバカになりさがってしまうだけだから。

 それなら、もっと自分の限りない可能性を試してみたい。

 きっと日本に住んでいると、進学か就職か?
 2つの選択肢しかない、高校3年生のときの思考回路のままに育ってしまっているのだろう。
 日本映画界では、業界でやりたくない映画を作るか、自主映画でなぁなぁな中でちゃらんぽらんにやっていくか?
 それだけしかない。
 別の選択肢はないのかなぁ?
 パンッと、頭の中切り替えてもらいたい。
 頭のお堅い、お偉い方々に。

 そういう点は、ホントに日本の映画の弱いところで、野球とか、サッカーの世界はうらやましい。
 僕が野茂になればいいのか?
 でも現状で僕は中田にはなり得ない。
 彼の考え方を知れば知るほど、若いのにすごいと感じる。
 やはり、一般ピーポーは、どんどん外に出て行くべきなのに、現状に甘んじるというか、
 おそれをなして、いまいち決断力もなく、そのままそこにずっといる。
 僕もまだそう言われてしまう部類だけれども。
 そういうことに疑問を抱かないのだろうか??

 でも僕と意見をたがわせてきた人たちは、ほとんどすべて、2つの選択肢に囚われている人ばかりだった。
 いままでのやり方しか認めざるを得ないという思考の人。
 それ以外は認めたくとも認められない。
 認めてはいけない。
 去年会った、バカ女もそうだった。

 イタリア語の教室でもそういうような風潮がある。
 僕は3ヶ月1クールのその教室を1クールだけで他のところに行こうと思っていた。
 いろんなところを見ることで、語学力にも幅が利くとか、多くの人たちと知り合えるだろうから。

 確かにエレーナという先生は、いい性格だし、かわいい。
 僕と同い年で、ぴったりだ。(なにがじゃ!)
 でも「おもしろいから」とかそう言う理由で、また続けてエレーナに習いたいというおばちゃんが出現。
 う〜ん、僕もいいとは思ったのだが、こういうのを絶つ、出家のような精神が必要なんだろう。
 こういう風は、自ら切り崩していかなくては。

 もっと日本とは違った現実を見つめていきたい。
 映画のことだけではなく。

●2000年5月5日 明確な理由を述べられない日本人

 日本人が明確な理由を述べられないのは?

 模範解答
 1.思慮がない。
 2.考えていない。

 理論的な会話ができていないんですよ。
 そのためのBrush up さえも、みんながやっていないから、やる必要もない。
 理解しようとすることもない。
 暗黙の了解で済んでしまうのです。

 コミュニケーションをとっていても、心にひっかかって、いまいちしっくりと来ないことがある。
 そんなときはたいてい、理の通った話ができていないからなんだよ。

 イタリア語講座で、何でイタリア語を勉強しようとしているのか?
 と、聞かれているのに、イタリアでイタリア語の勉強をしたいから、
            留学したいから、
            イタリアに行きたいから、
            イタリアは楽しそうだから。

 答えになっていないのはわかりますよね。

 実際問題、みんな気がついていないのだけれど、こんな事平気で言っているんですよ。
 僕はそんなこと20歳の頃にはもうすでに気がついていたから、
 いまだにそんなこといっている人がいるのを知って、おかしくなってしまった。
 滑稽に思えたのと同時に、日本人の愚かさを露呈しているのに恥じらいを感じた。

 おぉ、日本人よ。
 もっと思慮深くなれ!
 がんばっていきまっしょい!

●2000年2月13日 人々が宗教に傾倒したくなる時代

 以前にも述べたことです。
 僕は枠組みというものに囚われたくないです。  でも人間なので、囚われてしまったりすることはよくあります。
 このMLにも、自分のそういった、どうしようもない部分を自分なりに破壊していきたい、
 という考えもあって、登録していました。

 いろいろ勉強できるのでは?という思いです。
 きっと自分自身を変化させていけると期待していました。
 きっと僕以上に、生きること・人生にポジティブで、肯定的な方が多いことと信じていました。

 僕も実生活では批判されることが多いので、
 どのように対処しているのかとか、
 感じているのかとか、
 そういうことも、知ることができたら面白いだろうなぁ、と思っていました。


 僕は自主映画をやっている人間です。
 イエス様のあがないを信じて洗礼も受けているクリスチャンです。
 僕が映画で伝えたいことは、愛です。
 イエス様の教えて下さった、究極的な愛の姿です。
 なんとかして、少しでも、イエス様に近づいて、イエス様の神様の御心に沿うような、愛の形を人々に伝えていきたいのです。

 僕が感じるに、イエス様はキリスト教ということにこだわっていませんでした。
 というか、当時キリスト教はありませんでしたね。

 そういう意味でも、僕は自主映画とか、芸術とかいう枠組みをとっぱらった上で、映画製作というものをしていきたいと考えています。
 どうでもいいような、ちっこいことにこだわってしまえばしまうほど、サタンの思い通りになるのじゃないのかな?
 そのへんは、よくわからないけれど。

 もっとでっかい視野で、何が根底にあったらいいのかということを考えて、生き、映画を創りたいのですね。

 ただ人は神になり得ない、弱い生き物ですし、ちっこい生き物だから、考え方もちっこくなってしまいます。
 僕もそうです。


 以前、自主映画の経験が僕よりもある、年下の女性とお会いしたことがあります。
 お話しになりませんでした。

 その方は、自主映画だから、予算は監督が全部出すものだ、とか、
 経験がある熟練者でないとカメラマンをやらせてはいけないだ、とか、
 そんな先入観に囚われていた。

 つまらないなぁ。

 映画関係の人に限らず、どちらかというと、僕はその人の生きる姿勢とか、考え方とか、将来のビジョンについて話をしたがるので、
 いきなり映画の技術なんかのどうでもいい話を切り出されてしまい、僕は困った。
 一番大切なのは、一緒にやっていってもいい人なのかどうかだから、それについて話したかった。
 でもそのときすでに結論はでていた。

 僕は自分の生きてきた経験から、その人を判断してしまうことはしたくない。
 でもその女の人は、僕のやり方を理解できなかったのか、温度のある人間関係が築いてこれなかったのか、
 僕を他の団体と比較したり、その女の人の経験と照らし合わせて、先入観で、僕の人間というものを決めつけてきた。
 かなり攻撃されたし、そういう態度で臨んでいたと言っていた。

 以前ボランティアをやっていたとき、映画の学校を創ったことのある70前後のじいさん主宰で一緒に活動していました。
 その女の人の考え方は、そのじいさんとおおむね同じ。
 女は僕より年下でも、頭はカチンコチンだ。
 見てくれも僕より老けていた。
 じじいにもさんざんきつい説教をしていたけど、その女にも一つも解ってもらえてなかった。

 女は、話すべきことはたくさんあるのに、深く理解し合おうという態度でないことと、
 会話不足のために起こっている誤解があることに気がついてないようだった。
 僕はそのことを何度も指摘しているのに聞こうとしなかった。
 バカみたいに同じことを何度も聞いてくる。
 僕はあきれていたけれど、負けたくはなかった。もちろん自分自身に。

 どうしてこういう人がいるんだろう。

 でも彼女の問題でもないと思った。
 彼女を作り上げてしまっている環境の問題であると思う。
 そう考えたら、彼女も本当はかわいそうな人だし、悲しい人なんだなと思った。

 くやしかった。

 答えは見えているのに、それに対してどうすることもできないでいる自分が歯がゆくて仕方がなかった。
 僕にはどうすることもできない。でもどうにかしてあげようという気にもならない。

 コミュニケーションがとれない。僕の真意が伝わらない。必死なのに。


 僕は宗教の映画を創る気はない。
 イエス様は信じています。
 このMLに期待していることの一つ、それは、教派、宗派を超えるだけでなく、宗教を超えた、交流のできることです。

 多分、人は、攻撃されたら、仕返ししてしまうものです。

 その女の人と話したときの僕の態度は、とにかく理解しようという態度で、受け身というか弁解ばかりになっていました。

 一番大切なのは、お互いが

 お互いが

 理解し合おうという態度になることですね。

 その女の人と話したときは、ちゃんと向き合って話したかったし、僕はそうしたつもりでした。
 でも彼女の態度は前言通り、攻撃的でした。
 僕は恐かった。素直な気持ちです。恐怖心が、こみ上げていました。

 かりに彼女に「あなたは恐いです」といったら、どんな返事が来るのでしょう?

「自主映画とはそういうものです。それは、自主映画をやっているものへの偏見です」とかそういうことをおっしゃったのでしょうか?


 僕はそういうことではなく、その人自身の、他人に対するときの態度が恐かったのだと思います。
 僕はなるべくなんでも受け止めていきたいと思いますが、たいていの人々は、恐怖心を抱かせる態度では、
 お互いの理解の度合いや早さはかなり違ってくるもののように感じます。

 ここは意見を主張しすぎることをあまり美徳とはしない日本です。
 他国ではまかり通ることでしょうけど、もっと柔らかく接してもらいたいと、彼女にはお願いしたかったです。

 僕も意見の主張はする人間ではありますが。

●2000年5月5日 誹謗・中傷オンリーのMLをつくろう!

 う〜ん、現段階では難しいのかな?

 とにかく、けなす。
      バカにする。
      嘲笑する。
      見下す。
      叱責する。

 マイナスの言葉だけ。
 相手をつつかなければならない。
 ポジティブになったら即退会させる。

 まず面白くないんですよ。
 現存するMLは。

 人間なんて、きれいごとで生きられるわけないんだから。
 ネチケットなんてくそくらえだ!
 苦しみ、もがき、闘い、あえぎながら、必死に抜け出そうとしている姿が何とも美しい。

 人は結果じゃないなんて言うけれど、誰もが結果しか見ていない。
 その行程をしっかりと見守るのだ!

 ここのMLでは、感情的になってはならない。
 コミュニケーションのためのMLではないから。
 自分自身で自分自身をあらためて深く見つめ直すためだからだ。

 自分の発言に対して、他人が責めてくる。
 客観的な立場から、冷静な態度で、自分の欠点を指摘してくれる。
 お互いが感情的にならなければ、相手との関係を考えなければ、自分も冷静に受け止めることも可能だろう。
 う〜ん、現段階では難しいのかな?

 とにかく、けなす。
      バカにする。
      嘲笑する。
      見下す。
      叱責する。

 マイナスの言葉だけ。
 相手をつつかなければならない。
 ポジティブになったら即退会させる。

 まず面白くないんですよ。
 現存するMLは。

 人間なんて、きれいごとで生きられるわけないんだから。
 ネチケットなんてくそくらえだ!
 苦しみ、もがき、闘い、あえぎながら、必死に抜け出そうとしている姿が何とも美しい。

 人は結果じゃないなんて言うけれど、誰もが結果しか見ていない。
 その行程をしっかりと見守るのだ!

 ここのMLでは、感情的になってはならない。
 コミュニケーションのためのMLではないから。
 自分自身で自分自身をあらためて深く見つめ直すためだからだ。

 自分の発言に対して、他人が責めてくる。
 客観的な立場から、冷静な態度で、自分の欠点を指摘してくれる。
 お互いが感情的にならなければ、相手との関係を考えなければ、自分も冷静に受け止めることも可能だろう。

 そう、これは人間性のレベルアップのためのML。
 自分自身を客観的な立場に置き換えて考えてみるためのトレーニングなのだ!

 どこまでいっても、自分は責められてしまう存在なのだ。
 ある種、格闘技ゲームだ。
 人を責めることができなくなったら、脱退なのだから。


自らは:

 人を非難することや、欠点を指摘することはよくやってきた。
 でもその度、そんなことをしている自分自身を絶えず振り返ってみていた。

「これで正しいのだろうか?」
「自分に非はないのか?」

 点検してみることで、正当化しているつもりだった。
 いつでも自分の都合のいいように解釈していた。
 しかし、いつしかそんな時代は過ぎ去ってゆくのだ。

 いまこそ自分たちが先駆者となって、新しいMLを立ち上げて行こうではないか!

 まだ見えない本当の自分像を発見していこう!

 ただの励ましあい、
 気分のいいコミュニケーションのとりあいっこだけでは得られない、
 真の美しさを追求したいのねん!

 そう、これは人間性のレベルアップのためのML。
 自分自身を客観的な立場に置き換えて考えてみるためのトレーニングなのだ!

 どこまでいっても、自分は責められてしまう存在なのだ。
 ある種、格闘技ゲームだ。
 人を責めることができなくなったら、脱退なのだから。


●2000年5月5日 才能は霊感・ヤマ感・第六感

 問題はどこにあるのか?

 人は「幸せ」だから「感謝」するのか?
   「感謝」するから「幸せ」なのか?

「幸せ」を感じられないのはどういうときか?

 人は未来を予想することのできる力がある。
 その通りにうまくいけばいいのだが、往々にしてうまくいかないことの方が多い。
 そしてグチや不満をもらすのだ。

 世の中はすべてが自分の思い通りになるものではない。
 その事実を受け止めることができたとき、世の中を見る目も変わってくることだろう。
 ゆえに生き方も変わってくる。

 地球は地軸を中心にして回転している。
 自分の思い通りになるという考えを捨てたとき、何もかもがうまくいっていることに気がつくかもしれない。
 アンフェアーな世の中もフラットであることを見すかせる。



 障害者はある感覚器を失っているから、それをカバーするために無意識のうちに、別の感覚を磨いている。
 例えば、視覚障害者は、歩くためのバランス感覚は失ってはいるが、
 三半規管や耳から入ってくる情報によって聞き分け、常人と同じように歩く努力をしている。
 普通に歩いている人と比べると、聴覚、集中力に頼る割合は断然高くなるのである。


 では、これを別のことに置き換えてみよう。

 我々はあるものを失っている人の何と多いことか。

 気づく力。
 ものごとを感じることのできる力のことだ。

 それは誰もが持っている、
    誰にも備わっている才能である。


 そのことを否定して、

「わたしはダメだ」とか、
「わたしにはできない」とか、
 挑むこともしないで、あきらめている人はもう一回振り返ってみる必要がある。

 なぜここにいるのか?

 存在していることは、否定できない事実である。
 それは誰にも否定できないこと。
 必要とされないと本人が思ったとしても、そこにいまいるのだ。

 誰も否定していないのだから、無限の可能性がそこには秘められている。
 花を咲かせるか否かは、自分の心持ち一つだ。

 いくら失敗しても、欠けている部分があっても、それをすべて受け止めて、それでも自分はできると信じている人には道が開けている。
 あきらめた時点で道は閉ざされている。

 何が足りなくて、何が必要なのか?

 客観的に自分を見つめ直すことで、気づくことができる。
 すると、必要なものが備わっていたことを知る。
 失っているものを取り返すのは容易なことだ。
 自分自身のすばらしさを認めればいいだけのことだから。
 そうすれば、自然と感謝することができる。
 自らがいまただここにいるというだけでも・・・
 だから人は幸せを感じるのだ。

●2004年1月28日 映画の環境論

 北半球と南半球とでは絶対的な温度差がある。
 それと人の心には関係性があるんではないかという仮説を僕は立てました。
 先進国はほとんど北半球にある。
 発展途上といわれる国々は南半球にある。
 きっとこれも気温が関係しているように思う。

 キューバのようなあたたかいところから、
 突然雪だらけの氷点下なNYに戻ったからそんなことにふと気付いたのだと思う。
 これは船旅でも気付かなかった。
 日本もイタリアもNYも冬があって寒い。
「冬なんて嫌いだぁ。僕は何でいつもこんなところにいるんだ?」
 と考えていたら、共通点はどこも先進国だった。

 日本人を見ていても感じることだけど、東よりも西の方面の人の方がノリがよくて話しやすい。
 これは東京に住んでいた自分には気が付かなかったこと。
 そこから導ける結論は、日本の地形からして、北より南の方が気温が高くて、
 それに比例して人の心も開放的。

 イタリアをとってみても似たことが言える。
 ローマやナポリ、はたまたシチリアの人間にくらべると、
 トリノやミラノの北の人間はなんと閉鎖的なのか!!
 実際はどうなのか僕はよく知らんけど、よくそういわれている。

 であるならば!

 気温と人の心には関係性が生じている。
 これからの僕の人生ではそのことを探究することにしてみよう。

 クールな人間は頭がきれるが、ぶっきらぼう。
 ホットな人間は不器用だけど、人情深い。



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