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鎌倉時代,臨済宗に帰依した伊達家4世政依は,京都五山・鎌倉五山に倣い,先祖と自身の菩提寺として伊達郡に東昌寺・満勝寺・光明寺・ 観音寺・光福寺を創建し「伊達五山」とした。仙台開府に当たって伊達政宗は城下北端の丘陵地・北山に北の守りとして伊達五山の流れを汲む 臨済宗四ヶ寺(東昌寺・満勝寺・光明寺・資福寺)と臨済宗覚範寺,曹洞宗輪王寺を置き,臨済宗五ヶ寺を「北山五山」と呼んだ。 現在は満勝寺が移転したため輪王寺を含めて北山五山という。
臨済宗。弘安6年(1283)伊達政依が自らの菩提寺として桑折に創建。本尊は釈迦牟尼仏。室町時代,幕府が全国に設置した安国寺に東昌寺が列せられたため, それ以降,五山の筆頭格となった。一門格寺院。永禄3年(1383)米沢高畠。その後,天正18年(1590)政宗とともに岩出山,更に慶長6年(1601)北山に移転。 当初は城下奥州街道(今の国分町通り・青葉神社通り)の北突当たりにあった。 明治になって青葉神社が東昌寺の敷地西半分に造営され,明治6年(1873)に東の現在地に移動。 明治9年(1876)火災で焼失,明治33年(1900)に再建。 赤松並木の参道。本堂北東には推定樹齢500年の巨木で丸い実を付ける「丸実榧(マルミガヤ)」がある。 政宗が城下の鬼門除けとして植えたと伝えられる。7歳で亡くなった2代忠宗の長男虎千代丸の墓が本堂裏手にある。
(上)
赤松の参道。参道右手南斜面は墓地だが,立派な桜が何本も墓地に被さるように咲いていたのが目を引きました。参道下,北山通りに駐車場があり,
オーソドックスな参道からの参詣に便利。
(上左)
樹齢500年の巨木。見上げてもなお最頂部が遠い。国指定天然記念物。写真では大きさがいまいちわかりませんね。
(左)
山門は質素な薬医門。表札が微笑ましい。
平成25年(2013)5月6日再訪
(上)山門扁額
(左)北山通りからの入口。石地蔵の小堂がある。
(下)
大震災後,本堂屋根が銅板葺になりました。スッキリして中々いいですね。
(左)
本堂裏手の虎千代丸の墓。(向かって右)
左に並んでいるのは大有康甫和尚(東昌寺14世。政宗の大叔父)の墓です。
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臨済宗。伊達氏始祖朝宗の夫人,光明寺殿の菩提寺。本尊は千手観音。弘安6年(1283)伊達4世政依が福島県伊達郡光明寺村に創建。
その後慶長9年(1604)にこの地に移った。一門格寺院。慶長遣欧使節としてヨーロッパに渡航した支倉常長の墓と,
使節団の案内人であった宣教師ソテロの記念碑が建っている。
(上)
山門は薬医門。立派。でも中央に柵があり脇戸から入る。なぜ?
(左)参道は丸くカットされた低木が庭園風で小奇麗です。
(右)支倉常長の墓とソテロの記念碑。
常長の墓といわれるものは他に大郷町と川崎町支倉にもあるそうですが,明治の学術研究でここの墓が本物と考証されたそうです。
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臨済宗。天正13年(1585)非業の死を遂げた政宗の父輝宗の菩提寺。本尊は聖観音。遠山は「えんざん」と読む。 天正14年(1586)に伊達政宗が米沢遠山村に創建。政宗の師,虎哉和尚が開山一世。その後,伊達家に従い文禄元年(1592)岩出山, 慶長5年(1600)仙台愛宕山(現誓願寺跡)に移ったが焼失し,慶長7年(1602)この地に再建した。一門格寺院。 政宗の正母・保春院の墓と政宗の三男・宗清の供養塔がある。
(右)
参道は広い。山門は仁王が守る3間1戸の八脚門。豪勢です。
(左)
本堂はRC造。この辺りの寺社は皆北山の大火後の再建です。本堂前ボラードの上の小さな石達磨はお茶目でした。
(右)奥右が保春院の墓,左が宗清の供養塔
保春院は元和9年(1623)仙台城で没し,夫の菩提寺であるここ覚範寺に葬られました。政宗公の三男宗清は黒川郡の領主。寛永11年(1634)享年35歳死去。 墓所は黒川郡大和町吉岡の天皇寺にあります。政宗公は寛永13年(1636)没なので,当時はまだ存命中。祖母と孫を並べたのは政宗公の配慮でしょうか。
平成25年(2013)5月6日再訪
(上)山門扁額
(左)保春院の墓への道に六地蔵が並んでいます。
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曹洞宗。嘉吉元年(1441)伊達9世政宗夫人(蘭庭明玉禅尼)の所願により11世持宗が夫人の菩提寺として梁川に創建。 夫人の姉が足利3代将軍義満の生母だったため6代将軍義教が後花園天皇に奏請し金剛宝山輪王禅寺の額を賜る。その後,伊達氏に従い西山(桑折)・米沢・ 会津・米沢・岩出山・仙台と移転(輪王寺の六遷)。慶長7年(1602)現在地。奥州における曹洞宗総録司。 昌伝庵(荒町),泰心院(南鍛冶町), 松音寺(連坊)とともに仙台城下曹洞宗四大寺を成し,その主座。一門格寺院。 明治9年(1876)野火に類焼し仁王門のみを残して全焼。大正4年(1915)本堂と庫裡が復興。 現在までに回遊式庭園と梵鐘・位牌堂・坐禅堂・開山堂などの七堂伽藍,茶室半杓庵も建設された。昭和56年(1981)開山五百年を記念し三重塔を建立。 政宗夫人愛姫の母と三男竹松丸の墓がある。
(上)庭園から三重塔を望む。桜が舞う。
(上)元禄4年(1691)4代藩主綱村建立とされる山門。3間1戸の八脚仁王門。
(左)山門扁額。「海東禅窟」とあります。
(上)
庭園内で一番新しそうな小堂,蘭庭堂。菩提を弔う蘭庭明玉禅尼に関係あるのでしょうね。
久しぶりの輪王寺の庭園見物。入園料300円。仙台ではここと経ヶ峰の瑞鳳殿位でしょうか。規模は小さいが仙台一の庭園だと思います。 以前より遊歩道などの整備が進んだよう。桜も終わりツツジや菖蒲には早い時期でしたが,最後の桜吹雪が舞っていました。ホントは参道も仙台一いい感じなのですが 今は都市計画道路工事の真最中。杉は全て伐採されオープンカットの掘割が参道を横断中でした。
平成25年(2013)5月6日再訪
今の参道です。道路工事後の緑化復元では杉並木を再生しなかったんですね。考えがあってのことでしょうが,昔を知る者としては残念な気もします。
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武振彦命(たけふるひこのみこと・伊達政宗)を祀る。元々仙台城内にあったが明治7年(1874)東昌寺の敷地西半分に造営・移転した。 大正11年(1922)改築に着手し,昭和2年(1927)現在の社が完成。春の例大祭は政宗の命日の5月24日・25日。 今では山鉾巡行と雀踊りコンテストがメインの仙台市民をあげての祭りになっている(青葉まつり・毎年5月の第三日曜日とその前日)。 本殿内に政宗夫人を祀る愛姫神社,境内東側に政宗の家臣を祀る祖霊社がある。
(右)(下)入口を入ってすぐに白い石鳥居。昭和初期,社の完成と同時期の建立。参道に覆いかぶさる緑。森林の匂いがする。
(上)
鉤型に曲がって,更に上。拝殿を正面に参道が続く。
(左)参道の先に拝殿。
後ろの本殿は屋根の一部しか見えません。
(上)祖霊社。明治12年(1879)建立。
東昌寺を脇にどけてまで造った経緯には疑問を感じますが,廃仏毀釈の明治時代のせいでしょうか。 歴史ある北山五山の一角に割り込んで政宗公が本当に喜んだろうか。 とは言え,ロケーションは最高。政宗公を祀るに相応しい場所でもある。広い境内は静かでいい。
平成25年(2013)5月6日再訪
大震災で鳥居は倒壊してしまいました。かつての鳥居は左奥にモニュメント風に纏めて祀られています。復旧が待たれます。
平成26年(2014)10月4日再訪
今年の青葉まつりに合わせて5月に鳥居が再建されました。おめでとうございます。3年半ぶりに見る雄姿です。
以前と同じ大きさなのでしょうか?随分と大きく感じます。
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臨済宗。弘安年間(1278~87)米沢の高畑夏刈に時の領主長井時秀西規が建立したもので,関東十刹の一つとして東北の学問の中心をなした。 同時期の弘安6年(1283)伊達四世政依は伊達郡桑折に三世義広の菩提寺として観音寺を,義広夫人の菩提寺として光福寺をそれぞれ創建している。 その後,伊達氏の米沢移転に伴い,元亀3年(1572)伊達16世輝宗は美濃から虎哉和尚を招聘して資福寺の中興開基とし, この時,資福寺に観音寺と光福寺を吸収したという。 資福寺は後の伊達氏の移転に従い,天正19年(1951)岩出山,慶長5年(1600)仙台谷地小路(東六番町),寛永15年(1638)現在地に移転した。 境内には500株以上の紫陽花が植えられ,あじさい寺と呼ばれる。平成9年に本堂新築。観音堂は慈覚大師(一説に恵心)作と云われる聖観音を祀り 仙台三十三観音第三番札所となっている。 元は末寺の恵照山定光寺にあったが,火災に遭い明治37年(1904)廃寺になったため当寺に遷された。現観音堂は昭和59年(1984)の新築。
(右)参道が紫陽花に覆われて通るのも大変。今,花盛り。
(上)山門は3間1戸の棟門。
(右)本堂前通路脇にベンチが並ぶ。
お茶屋さんがあります。
(上)観音堂。観音像は定光寺からの移転。
(右)境内東にある簡易な門。花心門との表示。
平成25年(2013)5月6日再訪
紫陽花が咲くまでは,さすがにGWとはいえ人はまばら。北山巡り?の人たちがチラホラ。綺麗な境内は落ち着きます。
花心門付近は八重桜が満開。紫陽花だけではありませんでした。
山門扁額(左)と本堂扁額(右)
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弘安2年(1279)伊達4世政依が福島県伊達郡に勧請。政宗が慶長9年(1604)光明寺と共に当地に遷祀した。
参道前の掲示説明には慶長12年(1607)光明寺とともに当地に遷座とありますが, 本HPでは光明寺の項と合わせ慶長9年としています。本殿は昭和8年(1933)改築建立です。
仙台七崎のひとつである鹿島崎の上に建ち,他の五山同様の参道を登ります。小振りの鳥居が最上段にあります。鹿島崎の地名由来はこの神社にあるのかもしれません。
(右)参道入口の赤鳥居は平成20年の新設。
(2010.10.17撮影)
(左)境内社の塩竃神社ほかの石碑石仏群。
主祭神は武甕槌神(たけいかずちのかみ)と経津主神(ふつぬしのかみ)の二柱。
前者は雷神で茨城の鹿島神宮を,後者は霊剣の神で千葉の香取神宮を総本宮とし,当社を「鹿島香取神社」と記すものもあります。
両社は利根川下流両岸にあり,古代から中臣氏(あの大化の改新の)が祀り,武勇・勝利の神として特に武士に信仰されました。
平成25年(2013)5月6日再訪。浜縁が新しくなっています。
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曹洞宗。もともと泉区松森にあった古寺で,寛永18年(1641)郷士丹野今内が現在地に移し開基,輪王寺十三世和尚を勧請し開山されたと言う。 本堂内に大黒天像があり,仙台七福神巡りのひとつ。山門は平成5年(1993)新設の竜宮門で「三千大仙門」と呼ばれ「智慧」「慈悲」「方便」それぞれの千体仏を祀っている。
(上)秀林寺本堂。大黒天像はこの中に。
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日蓮正宗。寛永20年(1643)開基。
北山のはずれ,鹿島神社のある鹿島崎と梅田川を挟んだ対面の高台にあります。 北山ほどの高さはありませんが,意外と高低差があって趣の感じられる参道です。 このあたりの梅田川を堤で堰き止めて溜池を造っていたので堤町と言うそうです。奥州街道はこの堤の上を通じていました。
(上)日浄寺本堂は参道を登りきった山門の正面。
(左)山門。がっちりとした1間1戸の四脚門。
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浄土真宗本願寺派。慶長15年(1610)岩城国(現福島県)若松観音堂別当の専西坊教順が市内南鍛冶町に草庵を結んだのを創始とする。 寛文2年(1662)本山より寺号を賜り,現在地に移転した。(「杜の散歩道」)
境内全てが新しい伽藍。ほんの最近の築造のようです。墓地,庭も綺麗に整備されています。
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正眼院(虎千代)は2代忠宗長男で政宗の初孫だったが7歳で夭逝。虎千代の菩提所・正眼院は東昌寺の塔頭で,現在,正眼院観音堂に名を残す。 正眼院観音堂の観音像は四十七士の唯一の生き残り寺坂吉右衛門が寄贈したとの伝承がある。(平成23年1月三本松市民センターだより)
新しそうな建物。集会所のような。門前の石仏が仏堂であることを偲ばせます。
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300年以上前,北八番丁の足軽加藤作左衛門が夢でお告げを受け,七北田村山中で千手観音,聖観音,勢至菩薩の三尊を発見,千手観音を家の守り神とした。 正徳2年(1712)その息子が現在地に小堂を建立し遷座したという。現在の鞘堂は昭和16年(1941)の建築。(河北新報H24.06.25夕刊より)
住宅地の中,奥まった所にありますが,入口に案内板もありすぐにわかります。
地域で宗教法人を作って守り続けているそうです。金色に輝く観音像が拝めます。
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