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西多賀の呼称は明治22年(1889)の町村制施行に伴い大野田,富沢,富田,鈎取,山田の5村により発足した西多賀村による。 村名は富沢の古社多賀神社に因んだ命名といわれ,同時に現在は名取市閑上となっている名取多賀神社周辺は東多賀村となった。 この地にはかつての東街道が通り,富田富沢の名が示すように豊かな土地として古くから開けたところである。
祭神は大山祗神。明治45年(1912)太白区郡山の諏訪神社に合祀された。
入口付近にも石仏が集められています。おそらくは諏訪神社に合祀されて以降も地域に根ざし続けているのでしょう。境内参道脇に地元の会館があります。
(左)社殿左脇に小さな境内社と石碑石仏が。お世話されてます。
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延喜式神名帳陸奥百座の一つで市内唯一。
第12代景行天皇40年(111)日本武尊が東夷追討の際,現滋賀県多賀町の多賀大社の分霊を勧請。その後,第21代雄略天皇2年(457)から祭式が行われた。
鎮守府将軍源義家が征東の際に参拝し武運長久を祈ったとも伝わる。藩政時代,伊達家の尊崇厚く,安永4年(1775)7代藩主重村が社殿を造営した。
明治5年(1872)富沢村の村社に列し,同22年(1889)西多賀村成立に伴い同村社となる。
同42年(1909)大野田の春日神社と寶(宝)龍社を合祀。
大正2年(1913)に焼失し,翌年に再建された。(境内説明板より抜粋要約)
境内には北側(下写真)と東側(右写真)から堀を渡る太鼓橋を経て入ります。
(左)拝殿。
昭和4年(1929)八木久兵衛氏により新築寄進。
(下)拝殿向かって右側の小社は何でしょうか?
★延喜式神名帳
延喜5年(905)醍醐天皇の命により編纂を始め,延長5年(927)完成した格式(律令の施行細則)「延喜式」は全50巻,約3300条からなる。
巻1~10が神祇官関係で,そのうち巻9・10が神名帳。「延喜式神名帳」と呼ばれ,当時朝廷から重要視された神社の国郡別一覧が格と共に記されている。
この記載神社が所謂「式内社」で当時から由緒ある神社として知られていた。全国で2861社3132座,陸奥国では100座の式内社がある。
(上)
下段広場の参道左側。小さな鳥居の奥に「ご神木」?とあります。まだ若いので次世代育成でしょうか?
(右)鼓橋を渡った境内下段広場から上段の拝殿を望む。
階段上右のシラカシは樹齢300年の市保存樹木。こちらが多賀神社ご神木の柏だと思います。
(上)
昭和4年八木久兵衛氏により新築された神楽殿。昭和35年に改築されている。
(左)拝殿右手の石碑群。
本殿。大正3年(1914)再建という。
主祭神は伊邪那岐命。
勧請からまもなく1900年。仙台で一番古い神社ですが,俗に「お多賀さん」と呼ばれ,延命の神様として地域に親しまれている様子には,
歴史というよりもそれを超越する生命力を感じました。人の営みってすごいですね。
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富沢三丁目中公園という小さな公園内にありました。このような小社を発見するのも散歩の楽しみですね。どのような由緒があるのでしょうか。
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曹洞宗。天正3年(1575)福島県宇多郡金龍院の末寺として開山。金龍院が江戸期に廃寺となった後は宗禅寺の末寺となる。 本尊は釈迦如来。江戸末期に火災により焼失。明治初期に仮本堂,昭和42年(1967)本堂再建。昭和51年(1976)再び火災で全焼するも,翌年現本堂が再建されている。
山門は三間一戸の八脚仁王門。平成18年落慶。山門前の六地蔵は安永2年(1773)の建立。
昭和52年(1977)再建の本堂。
(上)
境内東端にある「御難権現堂」。謂れ等わかりませんが,もしかして火防でしょうか?
(左)本堂前の参道には内門もあります。
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天文3年(1534)この地方に疫病が流行した際に京都八坂神社(祇園社)の分霊を祀ったと伝わる。天保4年(1833)富田村の守護神として現在地に遷座された。
(左)拝殿
素戔嗚尊を主祭神とする八坂神社では,素戔嗚尊が高天原を追われた時にキュウリ畑に身を隠して助かった伝説のために,
かつての氏子はキュウリを栽培も食しもしなかったそうです。
(上)末社群。
残念ながら何を祀っているのかはわかりません。
(左)本殿と神輿倉。
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曹洞宗。天正4年(1576)開山で宗禅寺の末寺。
(右)聖観世音菩薩像。昭和51年建立。
山門前左の豊川稲荷神社。
このお寺も1500年代の創建。金昌寺とは1年違いです。
八坂神社も早いし,やはりこの辺りの古さ(いい意味で)を感じますね。
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由緒等わかりません。鳥居脇の小堂には如意輪観音浮彫りの石仏が鎮座しています。門前の道路は拡幅整備中で,近い将来は歩道付きの立派な道路になりそうです。
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ここより西,羽黒台の羽黒神社の仮宮として建立されたといいますが,勧請年月等わかりません。 ここから東は富田に続く広い平野,西は遠く奥羽山脈に連なる台地。 山田はその名のとおり両者の中間に位置します。この羽黒神社の参道はそんな地形に沿った急な階段になっています。 一昨日の台風で倒れた竹が階段を遮っていました。それにしても今日は天気が良すぎて暑い。急階段は辛い。
(右)
拝殿。振り返りの眺めは素晴しい。写真はなしですが…
(上)本殿。すぐ後ろには団地が迫ります。
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正保4年(1644)島貫次左衛門により再建されたものといわれ,聖徳太子像を祀る。境内には東街道から坪沼方面へ抜ける菅生道の道標が残っている。
(右)太子堂。堂右に石碑がいっぱいあります。
小さい角柱が菅生道の道標でしょうか?大きい石碑は明治33年建立の「西多賀村県道竣工碑」です。
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曹洞宗。本尊は地蔵菩薩。天和元年(1681)開山。輪王寺の末寺。
(上)
享保年間からこの地にあるといわれる延命地蔵尊。「雨晴らし地蔵」と呼ばれ,屋根ふき等の時に晴天を願えば叶うといいます。
(右)
聖観音。当寺の無縁塔です。当寺の復興に尽くした千葉三二郎氏が昭和51年に建立しました。成就院の観音像と同じ年ですね。
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曹洞宗。本尊は薬師如来。輪王寺の末寺。承和2年(834)現在の国立療養所西多賀病院近くに創建。 朱塗りの堂でその地名「御堂平紅堂」の由来になったという。 その後荒廃したが寛永13年(1636)輪王寺第13世角外麟如和尚が再建。昭和20年仙台空襲で焼失し,現在地に移転再建された。 仙台七福神のうちの福禄寿が祀られている。
(上)八角堂。
僅かな風で鳴っていた鐘の音が印象的でした。
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源頼義奥州征伐の際の勧請と云われる。伊達家の家臣,高橋左門守代々の氏神を鈎取村が鎮守とした。社殿は平成3年(1991)の改築。
源頼義奥州征伐というと前九年の役,天喜年間(1053~58)の創建になります。源頼義は仙台にも多くの神社を勧請しています。
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昭和37年創建。戸兵衛明神。ここ東原に縁の鹿股戸兵衛を祀る。 政宗,忠宗に隠密として仕えた鹿股戸兵衛は,忠宗の狩猟に同行した際,それまでの功に報いて鈎取東部一帯の荒野を賜り,以降,当地の開発が始まったという。 (1995西多賀探訪記第4号)
扁額は見えにくいのですが,「押靡両社大明神・戸兵衛大明神」とあるようにも…。特に2文字目が不詳。読み方もわかりません。
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由緒等わかりません。さして広くはなく奥行きもない境内ですが,石仏が多数,整然と並んでいます。よく手入れもされているようでした。
(上)
宇左奥に石仏2体。赤が印象的。この他に堂宇前に石碑石仏多数あります。
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往古より山田村旗立山山頂に鎮座していたと云う。和銅3年(710)焼失の後,天喜4年(1056)源頼義が再建。治暦3年(1067)再び火災に遭うも,その後再建。
山田総鎮守羽黒権現社と称し,明治から現社号。明治5年(1872)4月山田村村社。同22年(1889)西多賀村成立に伴い同村社。
旱魃雨乞に霊験著しく,俗に「濡れ羽黒」と称された。昭和41年(1966)羽黒台団地開発造成に際して旧宮農短大正門向いの高台付近から現在地に遷祀した。
また,現境内地に出石瀧不動尊がある。遷座前の羽黒神社参道途中にあった別当羽黒寺の本尊であった不動明王である。
かつては不動の滝と呼ばれる滝の奥に祀られていたものと云う。団地造成で不動の滝はなくなり,昭和58年(1983)当地に祀られた。
(太白の散歩手帖,宮城県神社庁HP,太白区HPディスカバーたいはく より)
覆屋は比較的新しそう。境内全体が非常にシンプルで整然とした感じです。綺麗です。
(上)社殿向かって左側に並ぶ石碑群の一番右に羽黒山碑があります。安永4年(1775)建立。
7代藩主重村公が臣下の嶋原磐瀬に命じて書かせた碑文が刻まれています。当社の由緒等が書かれているようです。
羽黒神社から見て右斜め前方に出石瀧不動尊があります。お不動様が水に打たれています。
和銅の火災から再建まで346年。そこから安永の羽黒山碑まで719年。とにかく時間スケールが長いです。
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古老の口碑により創建は永正2年(1505)中,京より来られし藤原重保が春日大社を尊崇せられ勧請すと伝う。主祭神は天児屋命。
明治5年(1872)4月村社に列す。明治42年(1909)11月1日多賀神社に合祀。
旧社殿は西北約150mの地に有りしも仙台市の土地区画整理事業により現在地に移築す。
平成17年(2005)5月。
(境内由緒碑)
天児屋根命(あまのこやねのみこと)は藤原氏の祖先神で天照大神に仕えた祝詞の神です。
広い境内ですが,まだ移転して間もない様子で周囲の樹木が育つのが楽しみです。
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多賀神社の項より,明治42年(1909)11月に多賀神社に合祀されたこと,祭神は「高おかみの神」であること以外わかりません。
「高おかみの神」は貴船神社の祭神で山の上にいて雷を操る水の神様。雨乞いや長雨を止める祈祷の対象です。ひらがなの部分の漢字は雨冠に龍(shift-JISにはありません)。
感じが出ます(漢字だもの…当たり前です)。今,境内は東大野田公会堂敷地になっています。
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