当HPは移転しました。
当面こちらもご覧になれますが,更新等は新サイトのみになります。
是非とも新サイトにおいで下さい。こちらをクリックして下さい。
▼東六郷 はこちら ・ |
六郷村は明治22年の町村制施行により沖野,飯田,日辺(にっぺ),今泉,二木(ふたき),井土浜,種次(たなつぐ),藤塚の8村が合併した村だが, 古くは二木・井土浜あたりは三本塚,種次・藤塚あたりは土師塚(はじづか)と呼ばれる郷(村)であり,沖野郷などと合わせて六郷と呼ばれていた。 昭和16年(1941)仙台市に合併。多くは市東南部に広がる水田地帯であるが,沖野から今泉に至る西部は郊外住宅地となっている。
真言宗豊山派。奈良長谷寺の末寺。延宝6年(1678)開山だが由緒等不詳。本尊は不動明王。 観音堂は千手観音を祀り,仙台三十三観音の第27番札所。 かつて青葉山にあり,仙台の名の由来ともなった千躰地蔵の一部も観音堂に祀っている。
本堂・境内は工事中でした。入口付近の観音堂のみの参詣となりました。
▲ページのトップへ戻る |
元亀2年(1571)開山の天台宗寺院である観音山地蔵院円浄寺は明治25・6年頃に廃寺となり,
本寺の光円寺に併合された。
聖観音を祀り仙台三十三観音28番札所の観音堂だけが残っている。
寺地はかつての今泉城址で,中世に当地を支配した国分氏家臣須田玄蕃の館であった。
観音堂の西隣に八坂神社がある。安永元年(1772)の封内風土記に「熊野神社と牛頭天王社(八坂神社)が何時勧請か不詳」との記載がある。
熊野神社は二木の日吉神社に合祀されたが,当地の八坂神社には熊野神社の表札も掲げられている。
(上)
八坂神社の鳥居と三十三観音の標柱が並んでいます。
(左)円浄寺観音堂。仙台三十三観音28番札所
(上)手前から
観音堂,八坂神社(熊野神社),春日神社。
(左)八坂神社(熊野神社)と春日神社
▲ページのトップへ戻る |
浄土真宗本願寺派。山号は「こんせんざん」と読む。伊達政宗家臣の立花主膳一吉が天正年中(1573~1592)米沢口の戦で負傷し僧籍に入り, 元和3年(1617)土地を拝領して開基。観音堂は仙台三十三観音29番札所。 鎌倉時代作と伝わる十一面観音が祀られている。今泉城跡から昭和7年(1932)に移された。
(上)本堂と鐘楼。
(右)観音堂。29番札所。昭和7年の建築?
▲ページのトップへ戻る |
廃寺となった天台宗寺院高福院の観音堂。高福院の由緒や寺跡は不明。 仙台三十三観音30番札所で本尊は飛観音と云われる聖観音。 今泉集落東の水田にこの観音像が飛来し,その場所から泉が湧き出たという。以来,人々はこの土地を観音田(かんのんだ)と呼び, この観音様の巡礼御詠歌「いにしへもさぞなありけん今泉 わきてながるる末が末まで」は,この地一帯の地名「今泉」の由来となった。
荒町皎林寺の飛観音は千手観音でしたね。
ここの聖観音は飛来した土地の所有者によって今も管理されているとのことです。
▲ページのトップへ戻る |
これも個人所有のお堂だそうなので,入口だけで失礼しました。昭和15年頃の建立。眼病に効能がある仏様とのことです。
▲ページのトップへ戻る |
浄土真宗。正楽寺の末寺。寛文4年(1664)開山。本尊は阿弥陀如来。 現在,新寺小路にある正楽寺はこの場所に慶長12年(1607)仙台近辺最古の浄土真宗寺院として開山したが慶長14年(1609)に移転。 その寺跡に当寺が創建された。また,この地は中世の城館だった日辺館の跡ともいわれている。
境内には樹木がいっぱいです。地元のお寺という雰囲気です。山門前に天明・天保飢饉の供養塔,境内に飢饉の救済にあたった針生林蔵の墓があります。
▲ページのトップへ戻る |
往古,天台宗寺院の本木(もとき)山観音寺があり,荒廃して後に修験寺の両全院として再興されたが,これも明治初期に廃寺となり,観音堂だけが残った。 本尊の観音像は名取の三観音の一つとされ,慈覚大師が1本の木から造った3体の観音像のうちの一体との伝説がある。 仙台三十三観音の第26番札所。明治15年(1882)の火災で全て焼失し,現在のお堂や本尊は明治末に再建されたものである。 同時期に境内に八坂神社も遷祀されている。
(左)
境内入口の八坂神社鳥居。幅広でガッチリしています。
(上)鐘楼
名取3観音の他2体は袋原の大善院(落合観音堂), 根岸の常蔵院(現長町)にあります。両全院の観音像は木の根元を使ったので「本木」観音と呼ばれるそうです。 火災で焼失とは残念なことでした。
八坂神社社殿扁額には「日野宮八幡神社」との記載も併記されています。日の宮八幡は原始の太陽神信仰にまつわるとされ,かつてこの付近にも祀られていたようです。 安永元年(1772)の封内風土記には「日ノ宮八幡・之が邑名の本」との記載があり,日の宮八幡の辺(あたり)であることが,この付近の地名「日辺」の起源であるようです。
▲ページのトップへ戻る |
寛治年間(1089~93)源義家が日辺に勧請。慶長5年(1600)渡辺藤四郎が現在地に移した。 明治5年(1872)旧飯田村社,同22年に旧六郷村社となった。現在の社殿は昭和57年(1982)の新築。
▲ページのトップへ戻る |
曹洞宗。龍泉院の末寺。元亀2年(1571)開山。 かつて名取33郷を治めた粟野氏が出城を築きこの辺りの拠点とした沖野城(沖野館)跡に建つ。 境内の観音堂は江戸時代の「名取郡誌」「封内風土記」では仙台三十三観音の第27番札所とされる。 (「残月台本荒萩」では満蔵寺観音堂とされている。)
(上)清凉寺観音堂
現地掲示には27番ではなく29番観音札所とあります。
▲ページのトップへ戻る |
文治3年(1187)粟野大膳が沖野城を築くにあたり城内に勧請。その後,天正年間(1573~91)火災でご神体がこの地まで飛んで遷したため, 現在もその場所に祀られているという。明治5年(1872)旧沖野村社,同22年に旧六郷村社となった。昭和11年神明社を合祀している。
(上)拝殿
(左)東向き,沖野館の方向を向いて建つ鳥居。
(上)摂社の古峯神社と石碑群
(左)杉木立の中にある本殿。
▲ページのトップへ戻る |
東六郷は七郷東部と並んで仙台の一大穀倉地帯。一面の田畑の中に集落が点在し,どこを歩いても道路(農道)と水路が直線的に走っています。 桜の季節も終わろうとしている頃,ここでは春の田植えに今まさに取りかかろうとしている時期でもありました。
(左)畠山稲荷神社を覆う桜の花
東六郷は東日本大震災の津波によりほぼ全域が浸水し,大きな被害を受けました。 特に仙台東部道路以東では社殿・堂宇の多くが流失し,残っていても全壊状態です。(2012/09記)
祖二ツ木正則 天長2年(825)時の空海法師より守り本尊として灰練仏を賜り,蝦夷征伐のため赴き当地に住みつく。
2代目二ツ木常廣 元慶2年(878)奥羽の乱を平定。以来,在地領主として21代 即ち七百有余年,武士として続いた。
二ツ木家21代二ツ木正義の子 帯刀,天文23年(1554)信州川中島の戦に奥州より援軍として七度の合戦に参戦し,
仁信なる功に対し,武田信玄公より褒賞を受けしが,多くの家臣を失ったことを哀れみ,弘治元年(1555)出家,
帯刀を玄長と改め真宗に帰依し,一族の霊に長く念仏を称えるため「長稱寺」と号し天正16年(1590)館跡に寺を建立,開山とした。
二ツ木家の領地は一族に開発し,二木氏の名を地名として残され,以来,長稱寺は歴代二木家にて継承され法燈を護持し今日(昭和63年3月)に至る。
(境内・長稱寺由来碑)
浄土真宗。新寺の正楽寺末で本尊は阿弥陀如来。
天文23年(1554)の武田信玄の書状があるという。(若林の散歩手帖)
左が県道から入る唯一の入口。水田に水が張られ,道路が橋のように見えます。寺地は堀に囲まれたお城のよう。
▲ページのトップへ戻る | ▲地区のトップに戻る |
曹洞宗。慶長年間(1596~1614)砂押の滝沢寺5世章覚教文和尚の開山で同寺末。本尊は薬師如来。 この寺に明治6年(1873)種次小学校(現在の東六郷小学校,当寺の東に隣接)が開校した。
明治まで藤塚にあった真言宗高福寺が廃寺になった際,当寺が檀信徒の受け皿になったようです。
大震災で浸水しましたが,本堂は残っています。('12/09記)
▲ページのトップへ戻る | ▲地区のトップに戻る |
由緒等全くわかりません。地図を見るとこの付近東に笠神という地名と集落があります。
小社ではありますが,集落の成り立ちとも関係しているのかもしれません。
▲ページのトップへ戻る | ▲地区のトップに戻る |
文亀2年(1502)当地 名取郡三本塚郷(後の北方二木村)に住む勘右衛門なる者が伊勢参宮の際,近江国滋賀郡坂本(現 滋賀県大津市坂本本町)に 鎮座する日吉大社に詣で,大山昨神・大国主神 二神の分霊を請い願い,現在の地に社殿を造営し勧請したと云う。以来,山王権現社と称した。 明治の初め現社号に改称し,同5年(1872)村社に列格。同43年(1910)9月三本塚の畠山稲荷神社, 日辺の八坂神社・日野宮八幡神社・宇佐八幡神社,今泉の熊野神社・八坂神社の 6社を合祀し,今泉熊野神社本殿を本殿に,三本塚稲荷神社拝殿を拝殿に,今泉熊野神社拝殿を神輿殿に,今泉八坂神社拝殿を社務所に, 従来の長床を神楽舎に充てて大改築を行い,同44年(1911)落成。大正4年(1915)11月幣帛供進社に指定される。 例祭日には日辺・今泉・二木並びに三本塚各方面に神輿の渡御があり,盛大に行われていたと云われる。 現在,神輿殿の中殿に二木・三本塚の大神輿,左殿に今泉の大神輿,右殿に日辺の大神輿をそれぞれ安置している。 二木・三本塚・今泉・日辺の守護神・二木鎮座 日吉神社として信仰崇敬され現在に至っている。(社殿掲示文より)
参考図書に村内8社合祀との記載もありますが,あとの2社がわかりません。ま,当社掲示に6社とあるので,いいか。 ここの合祀の際は合祀社の社殿のいいところを実際に集めて改築したんですね。地域がまとまっていないと出来ないことです。ちょうど100年前になります。
大震災により拝殿,本殿はかろうじて形態は残すも全壊状態。神輿殿,神楽殿は既にありません。('12/09記)
(上)鳥居左側の境内社と石仏(山神)。境内社は海義神社(うみよしじんじゃ)。市杵島姫命(いちきしまひめのみこと・弁天様と同神だそうです)を祀ります。
▲ページのトップへ戻る | ▲地区のトップに戻る |
浄土真宗大谷派。荒町東漸寺の末寺。元禄15年(1702)東漸寺門徒の僧明正が開基,正受庵と号した。
明治3年(1870)海楽寺に改号。昭和53年(1978)宮城県沖地震で本堂が崩れその後新築されている。
また,北に隣接して薬師堂がある。この場所にはかつて八坂神社があった。八坂神社が藤塚の五柱神社に合祀され移転したため,
町内の篤農家の屋敷神である薬師堂をここに移したものと思われる。(六郷を探る会「藤塚・井土編」)
平成6年(1994)薬師如来鳥居が建立された。
薬師堂に目が行ってしまって,お寺の方が疎かになってしまいました。ごめんなさい。薬師堂とお寺は別物なのかなぁ…。当然に別ですね。 それにしても天気が良くて暑い春の日でした。6月の気温だということでした。歩くのが気持ちよかったです。
大震災により全壊してしまいました。('12/09記)
平成25年6月 本堂復旧。よかった。('13/09記)
▲ページのトップへ戻る | ▲地区のトップに戻る |
曹洞宗。荒町の昌伝庵の末寺。慶長15年(1610)雲室祖龍和尚の開山。
資料(六郷を探る会「二木・三本塚」)では「皇国地誌」の記載として慶長19年(1614)の開基となっています。 慶長16年(1611)には大津波でこの辺り一帯は水没したということなので,こちらの方が正しいのかもしれません。
(上)本堂向かって左にある地蔵堂
(左)本堂
大震災で浸水しましたが,本堂は残っています。('12/09記)
▲ページのトップへ戻る | ▲地区のトップに戻る |
天正17年(1589)地元の佐藤氏が建立したと伝わる。両全院が別当であった。 明治43年(1910)日吉神社に合祀された。
社殿前は綺麗に整地されたゲートボール場になっていました。
▲ページのトップへ戻る | ▲地区のトップに戻る |
真言宗智山派。寛永19年(1642)観正院の開山とされるが、境内の墓碑から考えて寛永初期の開山とも云われている。 本尊は大日如来。下飯田は寛永2年(1625)政宗の命令で水沢領主の留守氏が小野常勝に開墾させたのが始まりで,開墾者が当地に定住したと云われている。
下飯田の集落は周囲に延々と田圃が広がる中に忽然とという感じで整然とした街並みがあります。かなり大きな集落です。
その集落の歴史と共に歩んできたお寺です。
▲ページのトップへ戻る | ▲地区のトップに戻る | 次のエリアページに進む⇒ |