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市内繁華街の一番町南端から南に約1㎞のこの道筋は,かつての町名では北から柳町,北目町,上染師町,田町,猿引町,土樋と続き広瀬川に至る。 田町以北は旧奥州街道筋である。藩政時代,柳町はいわゆる御譜代町で茶の商業特権を許された商人の町,北目町は奥州街道の伝馬宿, 上染師町は仙台開府直後から絹物を扱う染師が住んだ町である。田町は田を潰して割り出されたためこの名があり,仙台城の普請に携わった町人が住み, 後に紙専売の商人町となった。土樋の名は清水小路(現仙台駅の南)から広瀬川,分岐して東に向かう用水を土の樋で流したことに因む。 かつてこの地には侍屋敷が並んでいた。いずれも仙台開府当時からの由緒深い地区である。
慶長6年(1601)伊達政宗の仙台城下町割りに使用した縄の一部をこの地に集めて焼き,灰を埋めた所に城下鎮護のため堂を建て大日如来を安置した。 別当として柳生山教楽院(真言宗)を置き,これに因んで東の通りを教楽院丁と称した。別名大日横丁ともいう。 「柳町のお大日さん」と呼ばれ,ひつじ・さる歳生まれの守本尊として親しまれている。大正8年並びに昭和20年の戦災に焼失したが,昭和28年7月再建された。
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別当は天台宗北目山賢聖院(けんしょういん)。延久元年(1069)北目(現在の仙台市太白区郡山)に創建され,その後荒廃したが, 康暦2年(1380)北目館主藤原宗房の祈願により中興再建された。慶長年中(1600~1615頃)伊達政宗が当地に移建。午年生まれの守本尊「勢至菩薩」を祀る。 この二十三夜堂という名称は,月の化現である勢至菩薩の月縁日が23日であり,この夜に人々が集まって飲食をしながら月の出を待つ講(二十三夜講)を行ったことに起因する。
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由緒等わかりません。北にマンション,南にアパート,裏は小学校にぴったり囲まれて窮屈そう。 綺麗に保たれていますが,お参りの鈴も賽銭箱もなく,一見神社には見えません。
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慶安2年(1649)創建の真言宗降興院宗海寺(後に文殊院と改称)のお堂。寺は明治元年に廃寺となり大日堂だけが残った。 戦災で焼失したが,この田町が焼け野原にならなかったのは大日堂が身代わりに成ってくれたおかげだとして戦後すぐに町内会青年部により復興されたという。 地元呼称は田町大日堂。
(上)2006年当時の社殿
(下)入口付近に境内社。稲荷社のようです。
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曹洞宗。輪王寺の末寺。永正18年(1521)白河に創建。天正年中の秀吉による奥州仕置きにより主家に従い仙台に移転した。
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真言宗。慶長10年(1605)創建。本尊は十一面観音で平安時代末期の作といわれる。
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時宗。安国上人が奥州巡教中の正中2年(1325)当時葛西氏が支配していた登米に開山。葛西氏滅亡後,岩出山に再興し,政宗に従って仙台に移転。 境内に市内最古の肖像彫刻である安国上人坐像を安置する安国堂と子育明神を祀る鎮守堂がある。
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寛文8年(1668)寛文事件の際,伊達兵部殺害を企てた伊東七重郎重孝を斬首した小人頭萬右衛門が七重郎の供養に建てたと伝わる。 石地蔵は戦災で焼け崩れたが昭和34年(1959)再建された。願掛けのため縄で縛られている。(境内掲示)
敷地は米ヶ袋運動公園。近所の人?数人がストレッチや軽運動をしていました。
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