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東街道は古代から中世にかけて都から郡山官衙を経て国府多賀城に至る基幹交通路であった。 道筋は時代により変わったが,江戸時代に奥州街道が整備された以降も,城下東部には長町付近から陸奥国分寺のある木ノ下の西を通り原町に至る筋が東街道の名のまま残り, そこから更に多賀城方面へ向かう塩釜街道に繋がっていた。寛永5年(1628)からの若林城築城に伴う城下拡張に際して新たに東街道沿いに幾つかの足軽町が置かれたが, 以降,明治までこの付近が城下と在郷の境界であった。
白鳥神社を東端とする東西の筋である柴田町は柴田郡平村(現大河原町金ケ瀬)出身の足軽が移住してできた町である。 白鳥神社は天明2年(1782)この足軽達が出身地の大高山神社の分霊を勧請し,地区の氏神としたものである。 白鳥信仰伝説は日本武尊が東征の帰路,大蛇の毒で亡くなった折に白鳥になって飛び去ったという言伝えによる。 大高山神社は尊東征の時に仮宮を建て住んだ所に創建されたといわれており,柴田郡随一の由緒がある。
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柴田町南の東西筋である成田町は慶長18年(1613)桃生郡成田村(現河北町飯野川)から取り立てられた足軽が住んだ町である。 箱石神社はこの足軽達が故郷の氏神を勧請したものである。
(上)本殿右から奥にある摂社成田山。
(左)平成5年に建てられたという鳥居。
平成27年(2015)4月12日再訪
拝殿には二つの扁額が掛けられています。佐々八幡とは?
拝殿前の桜は満開です。参道に覆いかぶさるようにたわわに咲いています。やはり桜の季節は特別ですね。ここだけでなく,寺社境内には桜木が多い。 以前と変わった所がなくても雰囲気が違います。当社は変わったようには見えませんが,社殿掲示には平成25年社殿修復工事奉賛者名があるので, やはり大震災では相当傷んだものと思われます。
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浄土真宗大谷派。慶安2年(1649)開山。山門は天保8年(1837)に寄進されたとの記録がある仙台市の登録文化財。 本堂も登録されていたが老朽化により平成16年(2004)解体新築された。
(右)山門は切妻造,三間一戸の薬医門。
狭い道と密集した住宅という周辺環境の中で,ひときわ大きく感じられるお寺です。本堂の老朽化は残念なことでしたが,耐震のこともあるので仕方ありませんね。
(左)真新しい本堂。
(上)親鸞聖人像。
平成27年(2015)4月12日再訪
ここは枝垂桜です。濃い桃色が恐らくこれから最盛期を迎えます。
山号は宝永山ですが,扁額は「永」ではなくて「水」ですか?
記念碑が並んでいます。上左写真で手前から東勇作記念碑,加藤愛雄(かとうよしお)詩碑,加藤多喜雄(かとうたきお)詩碑,旅だちの歌(くさかれいこ・かとういわお)歌碑。 上右はその内,東勇作記念碑の頂部像の拡大。
東勇作(明治43年~昭和46年)は仙台市出身の日本クラシックバレエ界の先駆者で,日本のバレエ確立に情熱を傾けました。 像はドビッシー作の「牧神の午後への前奏曲」で牧神を演じる東勇作の姿を彫刻家の村田勝四郎が表現したもので, 神殿の柱を模った白御影石の台上,約30cmのブロンズ像レプリカです。 等身大の高さ約160cmの像は長らく行方不明で,このレプリカだけが知られていましたが,最近になってRKB毎日放送(福岡市)敷地内に1958年から置かれていたことが判明し, 日本バレエ協会等の尽力で2014年10月19日,仙台市に寄贈され西公園に設置されました。東勇作は当寺に眠っているそうです。
そして,その奥の詩碑が記念する加藤氏二人は加藤三兄弟といわれた科学者兄弟の二人です。
その三兄弟とは齢の順に加藤多喜雄(東北大学教授/化学,東北大学工学部長,末弟の加藤陸奥雄と共に仙台野草園を構想し仙台科学館を創設),
加藤愛雄(東北大学教授/地球物理学,仙台市天文台を創設しその初代台長),
加藤陸奥雄(東北大学教授/生物学,東北大学総長,兄の加藤多喜雄と共に仙台野草園を構想し仙台科学館を創設)。
加藤愛雄詩碑:極光(オーロラ)の輝く凍土(つち)に たたずみて 果てなき宇宙(そら)の姿 想いつつ カナダ北極圏にて。
加藤多喜雄詩碑:西の山々から 平野を見下ろしている. ここは鳥たちの空である. 山の樹々一面につく まっかな実は鳥たちのものである.
野の草原も 鳥たちの憩いの場である. 海岸から果てなく続く 大海原は鳥たちの 飛びまわる世界である。
何と知的で澄み渡った世界でありましょうか。
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浄土宗。元和7年(1621)開山ともいわれるが仔細不詳。明治6年(1873)仙台第1番小学校として当寺が三百人町小学校に充用され,現在の荒町小学校の発祥となった。
平成27年(2015)4月12日再訪
前回と同じような写真しか撮れていません。情けないです。
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三百人町は福島信夫郡(現福島市と伊達郡)から移住した鉄砲足軽が住んだ町である。 この鉄砲足軽衆300人は,かつて伊達家に仕えていたが,伊達氏が米沢に移った際に残留した人達で,慶長5年(1600)の白石城攻めで再び伊達氏に帰属し, 寛永7年(1630)からこの地に住んだ。信夫神社は政宗が慶長15年(1610)に福島の信夫郡にあった神社を移したとも云われるが,足軽達の出身地に因んだとも推察される。
平成27年(2015)4月12日再訪
(上)
社殿の屋根が瓦葺から鉄板葺になっています。被災後の修復だと思います。
(左)
ご神木は神社創建時に植えられたという推定樹齢350年のイチョウ。と言うか,それなら樹齢400年でしょう。ちと怪しいが…。
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慶長5年(1600)米沢から移転。伊達15世晴宗の守本尊を祀り,町の守護神となっている。
創建時期が早いのでその頃は周囲に町割りはなされていなかったと思います。東街道に面していて旅の安全を守っていたのでしょうか。
今の境内は児童公園ですね。生活との一体感があって人の温もりが感じられます。
平成27年(2015)4月12日再訪
境内の整頓状況も含めて以前と同じ綺麗さです。社殿,石仏等含めて震災被害はなかったようですね。 隣の町内会会館?は壁が変わっていました。写真はありませんが…。
御大典(ごたいてん)とは天皇の即位の礼等の一連の儀式のこと。昭和天皇の御大典が執り行われたのが昭和3年11月10日です。
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城下と南小泉村の村境に祀られた。寛永3年(1626)に仙台城下の町割りに使った縄を埋めたことから,城取明神と称したという。
城下の第一次拡張は寛永5年(1628)から始まったといいますが,ここに埋められた町割り縄はいかなる物なのでしょうか?
城取という名前からは若林城築城の測量に使用されたとも推測できますね。
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猫伝説が残る猫塚古墳の上にある。かつては豊作の神である保食神(うけもちのかみ)を祭神とし,保食神社と呼ばれる南小泉村の鎮守社だった。 明治22年(1889)南小泉村合併により七郷村となり村社の旅立稲荷神社に合祀されたが, 戦後,地元民により旧伊達邸の屋敷神と大杉明神,青葉神社の分霊を勧請して新設された。
(上)現社殿。
(左)地区の公会堂の脇に大きな鳥居。
社殿左から奥にある小祠。地元では猫塚神社と呼ばれている。南小泉村鎮守時代を継承する祠ではないでしょうか。 猫の置物がいっぱい奉納されています。この辺りが古墳なのかもしれませんが,特に高く盛り上がった様子はありません。
★猫伝説
ある日,姫様が可愛がっていた猫が姫様にまとわりつき,更に姫様に飛び掛かろうとした。
それを見た殿様は猫の首を斬りはねてしまったが,その猫の首は大蛇をくわえていた。
猫は姫様を蛇から守ろうとしていたと気づき,殿様は塚を建てその猫を手厚く葬ったという。
平成27年(2015)4月12日再訪
(上左)拝殿扁額 (上右)鳥居扁額
(右)
普段は余り気を留めないんですが,何故か「ん?」と目を引いた狛犬。玉乗りしてます。しっかり造り込んだ彫像です。
(左)
猫塚神社の中は猫の置物がいっぱい。写ってはいませんが,本物の猫もいました。住み込んでいるのかも。境内中に猫が多く,やはり猫の聖地ですね。
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臨済宗。寛永12年(1635)伊達政宗の生母,保春院(最上義姫)の13回忌に政宗が母の菩提寺として創建, 覚範寺第4世清岳宗拙和尚を開山とした。 翌寛永13年(1636)政宗自身も最後の参勤2日前に落成を祝い参詣した。 本尊は鎌倉時代の作と伝わる聖観世音菩薩で仙台藩一門格寺院。 広壮な堂塔伽藍で仙台七刹のひとつとされた。宝永4年(1707)を初めとして幾度か火災で焼失。その度に再建はされたものの明治には廃寺状態にまでなった。 昭和になって再興され現在は完全に復興されている。保春院は元和9年(1623)76歳で亡くなり, 墓は夫輝宗の位牌寺覚範寺にある。
(上)県道からの入口。JR貨物線に沿って長い参道があり,参道には幾つかの石碑が並んでいます。
正面に境内社白山神社の鳥居が見えます。
(上)昭和になって復興した本堂。手前は納経塔。
(右)参道入口近くの石碑「少林道場」。禅宗のお寺らしい。
(上)山門は保春院370年忌記念事業で平成5年(1993)建立。
(左)保春院の護り神社「白山神社」
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