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七北田

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七北田・市名坂

伊達政宗は仙台開府以降,領内岩沼以北の奥大道(東街道)を直線化して仙台城下に導き,更に真北に黒川郡に至る街道新ルートの建設を進めた。 元和元年(1615)この事業による道路の取り付けによって堤町から北根を経て七北田に至る新道が拓かれた。 これが藩政期の奥州街道となり,七北田・富谷新町などの宿駅も新設された。仙台藩内では寛永年間末(1644)までに街道網が完成したとされる。 奥州街道の城下から七北田付近までを七北田街道または北根街道とも呼び,七北田は仙台から遠く松前まで至る松前道の第一の宿場町となった。

187 龍門山洞雲寺 Dounji
2007.06.17

洞雲寺入口

曹洞宗。慶雲年中(704~708)釈定慧(しゃくじょうえ)法師が蓮葉山円通寺として開山。慈覚大師(794~864)が中興し「山の寺」と称した。 日本三山寺の一つ(山形市の立石寺、滋賀県大津市の石山寺)とされる。 その後荒廃したが南北朝時代に加賀の大乗寺3世明峰素哲(めいほうそてつ)禅師によって曹洞宗として再興,現在の寺号となった。 後に再び荒廃。応永7年(1400)梅国祥三禅師が時の領主国分盛行に請いて再興。七堂伽藍及び25院の塔中を擁する大道場となった。 だがこれも明応・文禄に二度の大火で焼失,再び荒廃した。 享保17年(1732)輪王寺○(けもの辺に全)○(くさ冠に沓)(読み不明)和尚が藩主吉村公に請い再びの再興に着手。 以後第三世天厳和尚の天明初年に至るまでの40余年にわたり諸堂を造営,再び奥州の一大禅宗道場となった。 仏殿・開山堂・仁王門・山門・方丈庫裡など大伽藍を有する荘厳な寺院であった。 しかし,これらの諸堂も昭和18年(1943)当時近くを運行していた仙台鉄道の火の粉による山火事で全て焼失。現本堂は昭和35年(1960)再建。

国道から入って一本道少しの所に入口標。古跡とあります。かつての山門跡です。喧騒から一転,緑の異空間です。

洞雲寺本堂 洞雲寺扁額1

本堂。大きなお堂です。RC造。度々の火災のことを考えると正解でしょうか。上下写真とも本堂の扁額。

洞雲寺扁額2
洞雲寺鐘楼 洞雲寺秋葉神社

(上)境内社の秋葉神社
火防のためでしょう。昭和57年再建。

洞雲寺座禅屈

(上)本堂左の鐘堂
洞雲寺には1518年製作の県内最古の銅鐘があるそうですが,それは社務所内にあるようです。背景の緑が綺麗。
(右)座禅屈
梅国祥三禅師が篭って座禅を組んだと云われる。


大震災により,本堂や路面に大きなひびが入り、座禅屈にも落石がみられる状態になったとのこと。 その後,本堂は取り壊され更地になっているようです。(2012/05現在)

洞雲寺岩谷観音堂 洞雲寺天文学者墓

(上)仙台藩天文学者大塚頼充先生の墓
洞雲寺の境内で天体観測を行っていたと伝わる。

(上)岩谷観音洞
この地に最初に開山した円通寺は雌雄の大蛇に湖に沈められたという。加賀の大乗寺3世明峰素哲禅師(めいほうそてつぜんじ)が付近を訪れた時, これを法力で飛散させた。湖を賜って干すと昔の寺域が現れたので,そこに洞雲寺を建て,湖の底にあった開山の定慧法師の観音像をこの岩窟に祀ったと伝わっています。
洞雲寺庭園


本物の大自然を感じさせる寺域にあってこの庭園だけ人工的。桜の季節にはここが観桜の基地になるのでしょうか。

最初の円通寺はなんと奈良時代より前にこの地に創建されたとのこと。陸奥国分寺より古く,多分仙台で一番の古さでしょう。開山の釈定慧法師はあの藤原鎌足の子でした。 寺域は国道から奥まっており,且つ深い谷間になっているので南北の尾根の稜線にもその奥にある団地郡は見えません。 視覚的にも聴覚的にも周囲から隔絶していて,今でも禅宗道場に相応しい環境です。 一方で,緑の心地よさは自然公園のようでもあります。春は桜が綺麗に咲き誇り,市民の憩いの場にもなっているようです。
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188 天満宮 Tenmangu
2007.06.17

天満宮

由緒等調べ切れていません。天神沢市営住宅の裏手にあります。 この辺りの地名の天神沢はこの天満宮に由来するものと思われます。市営住宅に住む人達は学業の神様と一緒でいいですね。

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189 高玉明神 Takadama myoujin
2007.06.17

高玉明神

安永3年(1774)の風土記御用書出で既に「勧請した人や年月は不詳。南向きの社で大破してある。」とある。 修験金剛院を別当とし,七北田町屋敷の百姓 円之助の土地にあったという。 稲荷社で宇迦之魂神(うかのみたまのかみ)(農業神)を祭神とする。(境内説明板)


今は公園内にあります。公園の南端に南向きであるため,どうしても写真がうまくとれませんでした。


高玉屋敷に有力な物持ちが住んでいた。この屋敷に「お玉」という可憐な女中が居った。 ある時この家のもっとも貴重とされていた化法の十枚皿の一枚が毀れたことで,お玉は無実の罪で打首になったという哀話がある。 お玉の怨霊が夜毎に火の玉となってあらわれた高玉から小曽沼にかけて遠く近くに見られた。人々はこれを「お玉火」と呼んでいた。 (境内説明板 明治時代古老の伝説)

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190 石留神社 Ishitome jinja
2007.06.17

石留神社 石留神社扁額

昔,志波彦神が白馬で七北田川を渡る際に川底の石につまずき落馬してしまった。 怒った神は付近の石を全て拾わせ,これより下流には石があってはならぬと見張りのため石留明神を置いたと伝わる。
また,元和5年(1619)七北田宿検断の沼田備前が七北田川を遡る異石を見つけ同家の屋敷に祀ったのが始まりとも云われる。

どちらの伝説にしても石を留め置くことに何かの意味を持たせる内容です。それが何だったのか,今は知るすべもありません。 小さな境内ですが,今も綺麗に管理されています。
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191 無量會山善正寺 Zenshoji
2007.06.17

善正寺入口 善正寺扁額

浄土真宗本願寺派。慶長10年(1605)開山。当初市名坂坂下(現実相寺付近)にあり,寛永13年(1636)現在地に移転。 大正13年(1924)火災により本堂を焼失,現在の本堂は平成12年(2000)の新築。

善正寺山門

山門前の大樹が見事。ちょうど良い高さで枝を大きく広げており,涼やかな木陰を創り出しています。

善正寺本堂
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192 二柱神社 Futahashira jinja
2007.06.17 神紋

万寿2年(1026)市名坂の修林壇(現七北田字東裏付近)に仁和多利大権現として創建。 天正年間(1573~1592)国分荘三十三ケ村の内 市名坂・七北田など8ケ村の総鎮守として祀られた。 寛文2年(1662)現在地に移転。明治の神仏分離令により祭神を「イザナギ」「イザナミ」命として二柱神社と改名した。 旧社殿は昭和4年に焼失,昭和15年に再建されたものが近年新築された。

二柱神社境内入口 二柱神社入口

(上)七北田本通りからの入口。一の鳥居。
(左)境内入口。二の鳥居。

二柱神社拝殿 二柱神社鳥居扁額 二柱神社拝殿扁額
二柱神社本殿

二柱だからなのか,縁結びの神様として知られています。境内には近年の周辺宅地化に際して移された多くの石碑石仏があります。

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193 愛宕神社 Atago jinja
2007.06.17 神紋

愛宕神社扁額

創建勧請等不詳。天正年間(1573~1592)片倉小十郎が大崎一揆の平定に向かう途中に立ち寄り戦勝を祀願したという伝承がある。 七北田街道が付けられた頃,当地に遷宮されたという。平成9年社殿新築。

愛宕神社境内 愛宕神社社殿
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194 帰命山淨満寺 Johmanji
2007.06.17

淨満寺扁額

浄土真宗大谷派。慶長元年(1596)開基。藩政時代,寺子屋として多くの子弟が学んだ。境内に安政5年(1858)建立の筆墓がある。

淨満寺山門 淨満寺入口
淨満寺本堂 淨満寺筆墓
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195 捻華山実相寺 Jissouji
2007.06.17

曹洞宗。永禄3年(1560)洞雲寺15世南庭祖君の開山。国分氏16代盛顕(1533-78)の牌寺。境内の文殊堂が当寺の基となったという。 慈覚大師作の文珠菩薩を祀っている。洞雲寺を再興した明峰素哲禅師が大蛇調伏の念力を授けられた御堂と伝わり, 応永7年(1400)梅国祥三が洞雲寺復興に当たり,この文珠堂の傍らに草庵を建て住まったという。 また,文殊堂となりに赤穂四十七士の寺坂吉右衛門の墓がある。

実相寺入口 実相寺参道

なかなかの参道です。学校の通学路にも。

実相寺本堂 実相寺扁額
実相寺寺坂吉右衛門墓 実相寺文殊堂

(上)文殊堂
(左)寺坂吉右衛門の墓

寺坂吉右衛門は赤穂浪士47士の一員で唯一の生き残り。お墓は東京南麻布など全国7カ所にありますが,どれが本当の墓なのかは不明なのだそうです。 延享4年(1747)没。
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196 三田八幡神社 Mita hachiman jinja
2007.06.17

寛永年間(1624~1644)伊達家家臣犬飼清蔵が江戸の三田八幡神社を分祀し同家の氏神とした。明治14年(1881)現在地に移されて地域で祀られている。 平成2年(1990)土地区画整理に伴い社殿を新築。

三田八幡鳥居 三田八幡扁額
三田八幡社殿

★昭和47年2月記の境内由来碑より
 寛永年間伊達政宗家臣犬飼清蔵重久氏仙台城下に居住の頃より江戸三田に祭る三田八幡神社より移し帰郷氏神として祭り居りしが 明治維新犬飼清長氏時代現在地七北田村八乙女に居を構へ祭り居る。 其後明治十四年五月吉日当時の同地内に居住の方々契約連中十四名の親睦且作物生産の意志向上を念じ、犬飼氏屋敷内より現在地へ移神祭す。
★泉市民センターによるHP「はっけん七北田」より
 寛永の頃,仙台藩士犬飼清蔵が江戸の三田(東京麻布)に祀る八幡神の分霊を移し,同家の氏神としたもの。麻布には仙台藩の下屋敷があった。 犬飼家は代々,弓術や銃術で仕え、禄高120石で八乙女に在郷屋敷があった。 明治に入り,七北田村の三代目村長犬飼清長氏のとき,同家の屋敷より現在地に移され地域の人々に祀られた。

三田八幡境内社

(左)境内社
何かで「昭和7年(1932)建築の旧社殿も境内に保存されている」と見た気がしますが(出典は失念),これはちょっと小さいので旧社殿とは思えません。


かつては当地の古老は当社を「おあみださん」と呼んだとか。風土記書出(安永3年:1774)には八乙女の犬飼清蔵知行所内に阿弥陀堂があり, 往古には北根にあったものが当所に移された」との記載があります。

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上谷刈東部・野村

上谷刈東部・野村地図

この地域には藤原氏が奥州全体を支配していた頃,平泉に向かった秀衡街道が中央部を南北に貫いていた。 北山輪王寺の西から三共堤の東尾根を通り高柳川を渡河後, 丸山(明泉幼稚園付近)を経て道路神社付近で七北田川を渡って泉総合運動場東を北上した秀衡街道は, 伊達政宗によって七北田に新奥州街道が引かれるまでは重要な街道で,義経街道,奥州山道などとも呼ばれた。 街道に接する長命館(ちょうめいだて)は要衝として藤原国衡が築城し,源頼朝奥州征伐の際には藤原方の陣所にもなったと伝わる。 その後,中世には国分氏ゆかりの長命氏がこの館に居住し,この付近の地名「長命」の由来ともなった。 秀衡街道は戦後しばらくまで仙台への生活道路として地域住民に利用されていたという。

273 道路神社 Douro jinja
2007.11.18

勧請年月等不明。昔は道六神(道陸神)と呼ばれていた。古街道に塚を築くとき測量に用いた縄を納めて祀ったとされ,社名の由緒と思われる。

道路神社入口 道路神社

社名はこの付近にはかつて秀衡街道が通っていたので,その関係もあるかもしれませんね。黄葉したイチョウが見事です。

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274 貴富祢神社 Kifune jinja
2007.11.18

貴富祢神社入口

丸太沢地方の村鎮守として江戸時代に創建されたともいわれるが詳細不明。平成12年に鞘堂が造られた。

貴富祢神社社殿

旧上谷刈村にあって西部地区の賀茂神社(それとも村社であった八木沢明神?)に対する東部地区の神社として 祀られていたようです。神社のある一帯は丸山と呼ばれる小高い山ですが,今は全て住宅団地になっています。

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311 八幡神社 Hachiman jinja
2008.03.16 神紋

八幡神社全景

由緒等わかりません。泉パークタウン高森生協の東側で東北道を見下ろす位置にあります。 宮城郡誌に大正4年に須賀神社に合祀とありますが,今もちゃんとここにあります。

八幡神社社殿

昭和56年本殿改築の記念碑がありました。二つの社殿がありますが,向かって右側の小さい社殿脇にこの記念碑があるので,そちらが八幡神社でしょうか。 宮城郡誌では馬場屋敷の神明社も須賀神社に合祀となっているので,もう一つの社殿はその神明社かもしれません。

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313 千代城明神・白山神社 Chiyoshiro myoujin ・ Hakusan jinha
2008.03.16

千代城明神社殿

社殿の中に小祠が二つあり,左は国分氏鎮守の白山神社,右は国分氏の歴代城主を祀った千代城明神。 国分氏滅亡後,国分盛重の側室の子伊賀重吉は伊達政宗によって安堵され荒巻の地を賜ったが,その子の代に城下拡張で野村の当地に替地になり開墾に携わった。 神社創建時期は不明だがその頃と推測される。千代城の名は国分氏がかつて居住した仙台城に因んだものであろう。

千代城明神参道 千代城明神鳥居

伊賀重吉の子孫はいずれも国分氏を名乗らず,馬場氏,桂島氏となりました。いずれも現在,野村の中の地名になっています。 この社殿の住所も野村字桂島です。社殿前の賽銭箱には安政元年(1854)奉納の記載がありました。

田畑の中にあり,畦を通って行きます。開墾した子孫が受け継いでいるのでしょうか。 向かう途中,なんとキジがバタバタ走って逃げていきました。久しぶりのことで呆然でした
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312 須賀神社 Suga jinja
2008.03.16

須賀神社鳥居扁額

宝永4年(1707)梅津勇三郎が先祖供養のため伊達氏の旧国である福島県伊達より自家の氏神として勧請し,当初は牛頭天王と称した。 その後,根白石城主の子孫で野村の士族であった白津勘之助が野村の鎮守とした。明治4年(1960)野村の村社となり清神社と改称。 更に明治32年(1899)須賀神社に改称。翌33年(1900)火災で焼失し同年再建。大正4年(1915)八幡神社,神明社を合祀。 入口脇の県道沿いには開墾や住宅造成で移された多数の石仏等がある。

須賀神社参道 須賀神社入口

(上)鳥居右側に多数の石仏。
(左)参道階段上に二の鳥居が見えます。

須賀神社拝殿
須賀神社本殿

入口鳥居が面する県道は交通量が多くて写真も一苦労でしたが,急な階段の参道を登ると静寂が拡がっていました。

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古内・上谷刈西部

古内・上谷刈西部地図

古内村はもと下総国(千葉県)出身の古内重時が国分宗政の家臣となり領主となった地である。古内氏はその後伊達氏の下で家老職まで勤めた。 南の丘陵地の上谷刈と北の七北田川に挟まれた小さな村で,封内風土記には戸口6とある。 現在も多くが農地であるが,かつての古内氏屋敷跡には加茂神社が建つ。
 一方,上谷刈村は七北田川の南側で丸田沢から八木沢まで東西に16㎞にも及ぶ長い村ではあったが,ほとんどが野山だったという。 現在は大部分が,みずほ台,加茂,長命ヶ丘など大きな住宅団地となり,仙台市有数の住宅地となっている。

271 賀茂神社 Kamo jinja
2007.11.18

下賀茂(右宮),上賀茂(左宮)の二社から成り,下賀茂神社はもと只洲宮と称した。 明応6年(1497)塩竈神社の神職鎌田氏が宮城郡利府村の屋敷内に祀ったのを創始とし,慶長12年(1607)に塩竈神社の社地に移した。 元禄8年(1695)伊達4代綱村公の命により別所奉遷とされ,遷座地として現在地が選定された。 下賀茂社の社殿は元禄9年(1696)2月29日着工,同年9月23日に塩竈神社より正遷座の儀を行い,御祖(みおや)神社として奉斎された。 上賀茂社は只洲宮遷座に際して新たに京都から勧請され,元禄10年(1697)正月29日に正遷座の儀を行い別雷(わけいかづち)神社として奉斎された。 御祭神は下賀茂神社が玉依姫命(たまよりひめのみこと),上賀茂神社が別雷神(わけいかづちのみこと)。

賀茂神社入口1

入口から入ってすぐの参道階段上左右に2本のイロハモミジがあります。樹齢200年とも言われる仙台市保存樹木。 今が紅葉の真っ盛りで七五三参詣と紅葉狩りで大変な賑わいでした。

賀茂神社長床2 賀茂神社入口2

イロハモミジは原町の稲船神社にも大きいのがありますね。 鳥居の赤と紅葉がよく似合います。

賀茂神社長床1

長床形式の拝殿。潜って本殿に向かいます。

賀茂神社参道

真っ直ぐに長い参道では,かつて流鏑馬が行われました。

賀茂神社本殿

本殿
手前が左宮の上賀茂社,奥が右宮の下賀茂社。厚い茅葺の赤宮です。

賀茂神社本殿上 賀茂神社本殿下
賀茂神社八咫烏神社

拝殿手前左奥に古い社殿とその覆屋。八咫烏(やたがらす)神社だと思います。下賀茂社と同じく塩竈神社境内から同じ年に移されました。

この地は寛文事件時の伊達家家老 古内志摩の屋敷跡だそうです。古内志摩は事件唯一の生き残りとして事件を後世に伝え, 伊達藩の行く末を案じながら没して近くの慈眼寺に葬られました。今,その屋敷跡は賀茂神社として多くの参詣者を集めています。
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272 盛徳山慈眼寺 Jigenji
2007.11.18

慈眼寺位牌堂

臨済宗。資福寺の末寺。 承応年中(1652~55)古内志摩義如または志摩の父,義実(1652没)が開山したとされる。 開山当初は護国寺と称し,元禄年中(1688~1704)義実の法名「慈眼寺徳林崇賢居士」から改称されたという。 仙台藩国家老の古内志摩は寛文事件(1671)の生き証人で,その時の傷が元で寛文13年(1673)43歳で没し,この寺に葬られた。

郷土史誌に「明治初年に火災で廃寺となり,寺域は資福寺が管理している」とあります。…が,今は堂宇もあるようですが,どうなのでしょうか?
(右)慈眼寺位牌堂

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411 道祖神 Dousojin
2010.11.14

道祖神鳥居 道祖神鳥居扁額

由緒起源等わかりません。道祖神は集落等の入口に守り神として置かれたようです。上谷刈の道路神社, 実沢の道祖神と,この辺りには道祖神が並んでいます。
(左)平成2年に建立奉納された鳥居。

道祖神社殿 道祖神馬頭観音碑

(上)鳥居入って正面の馬頭観音碑
右は文政10年(1827)の刻字があります。

南に高速道路を挟んだヨークタウンの方から歩道橋で高速道路を渡って来ます。
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412 小峰山柳澤寺 Ryutakuji
2010.11.14

曹洞宗。林泉寺末寺。正保元年(1644)林泉寺5世悦叟良観禅師により開山。 明治6年から9年まで本堂が第16番上谷刈小学校の仮校舎として使用された。平成7年に開基350年を記念して山門が建設された。

柳澤寺山門 柳澤寺山門扁額

(左)平成7年(1995)建立の山門。3間1戸の楼門。上はその扁額。下は本堂扁額。

柳澤寺本堂扁額
柳澤寺本堂 柳澤寺鎮守

(上)白山神社・小峰山稲荷神社。当山鎮守。

柳澤寺道了尊堂 柳澤寺六地蔵

(上)山門入ってすぐ右側の六地蔵。
(左)道了尊堂。平成8年の建立。左奥に並ぶのが子抱き水子地蔵尊。こちらは昭和58年の建立。

全体的に創建350年を期に境内整備が大きく進められたようです。カメラのターゲットがいっぱいです。特に山門の大きさ・豪華さには圧倒されました。
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413 仁渡神社 Niwatari jinja
2010.11.14

仁渡神社遠景 仁渡神社鳥居扁額

雲水神社とも。旧古内村鎮守。由緒等不詳。大正4年賀茂神社に合祀されている。

(上)県道大衡仙台線から見た鎮守の杜。周辺は全部田圃です。お社があることが遠目にもわかりますね。

仁渡神社社殿

周囲の生垣は綺麗にカットされ,境内は落葉ひとつなく掃き清められています。 直近のお隣さんもいない中,この季節にこのように管理するのは大変なことだと思います。

仁渡神社鳥居 仁渡神社石仏群

(上)社殿裏に整然と並べられた摂社・石仏群。
(左)鳥居は平成5年建立。それまでの木製から替えられました。

封内風土記,宮城郡誌では雲水神社となっていますので,仁渡神社という呼称は最近のことかもしれません。 実際に覆屋の扁額は新しく立派な注連縄で隠れてしまってはいますが「雲水社」となっています。 地元学HPでは祭神は天之水分神(あまのみまくりのかみ)ということで,この神は水の分配を司る神です。 「雲水」の方が字感(?)的にぴったりくる感じですが, 「仁渡」に通じると思われる「仁和多利」神も東北地方における航海安全などの神とされる民俗神で元々は水と関係する神だったと見られるそうなので, 勝手に混乱してしまいそうです。ま,どちらでもいいか。
 もうひとつの混乱ですが,市名坂の二柱神社は元々は仁和多利大権現だったのが, 明治の神仏分離で二柱神社に改称しています。こちらは逆に「雲水」から「仁渡」にというのも不可解な事のような気がします。

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松森

松森地図

松森は泉区の最東部にあたる。鎌倉末期の正和元年(1312)国分氏5代重胤の弟政継が居住して松森姓を称したのが地名の起源であろうか。 初代胤通が国分荘33郷を得て下向してから 約400年後の慶長元年(1596)17代盛重が姉の嫁ぎ先である水戸佐竹氏のもとに出奔して国分氏は滅亡した。 松森城はその系譜の末期,天文年間(1532~1554)から国分氏の本拠地であったという。 当時の町屋は鎮守の熊野神社を中心として城址南側の山麓に沿ってあった。現在,城址は公園となり周囲は大規模な宅地化がなされている。

359 松森山清水寺 Seisuiji
2009.04.19 寺紋1 寺紋2

清水寺本堂

曹洞宗。応仁2年(1468)京都音羽山清水寺の千手観音を勧請して松森下町地内に天台宗切登山清水寺として開基。 国分氏滅亡後荒廃したが,文禄年中(1593~1596)保寿寺第七世興山林中和尚が曹洞宗に改め再興。 寺を現在地にうつし現寺号とした。昭和4年(1929)新築,同8年(1933)火災,同9年(1934)に再建。 昭和58年から59年に本堂,庫裡,山門,方丈等新築。更に平成11年には観音堂が完成している。(境内説明板)

清水寺山門 清水寺観音堂

(上)観音堂。平成11年築。

開山の東海遠光法師が京都音羽山清水寺より千手観音像を勧請し背負っての全国行脚中,松森で急に像が重くなったので, この地に草庵を建てたのが寺の始まりとのことです。参考文献では再興は承応年中(1652~54)となっています。 国分氏滅亡(追放)が慶長元年(1596)なので,こちらの方が正しいようにも思われます。
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360 熊野神社 Kumano jinja
2009.04.19

熊野神社拝殿

文久2年(1862)改の風土記書出によると松森清水寺境内に鎮座,清水寺が別当として奉仕したとある。 また,同地佐藤嘉ェ門氏蔵の「熊野宮」なる掲額に市名坂村の百姓長助が晩年孤独で死期を覚り 死後の供養に宝暦7年(1757)持高田代壱〆490文(中田で二町歩位)全部を清水寺を通して寄進する旨遺言して亡くなり, その通り実行されたことが書かれている。両資料とも結城五郎の勧請と記されているが,俗名だけであり建立時の推定は出来ない。 往古は松森・市名坂・七北田・上谷刈・小鶴の5ヶ村鎮守,藩制時代になって松森1ヶ村の鎮守となった。(境内説明板)

熊野神社参道 熊野神社本殿

(上)背後の山を登る幣殿と山に食い込む(?)本殿
(左)
午後も半ばを過ぎると西日がきつい。わりと長めの参道には鳥居が二つ。東西方向の参道で,完全に逆光になりました。

熊野神社境内社 熊野神社鳥居

(右)
本殿向かって左,崖下に数個の石仏と境内社の愛宕神社

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南光台

南光台地図

小田原の北に当たるこの地はかつては松森村に属しており,昭和30年代後半に開発されるまで山林や牧場であった。 高度成長期を迎えた仙台のベッドタウンとして旭ヶ丘や黒松に次いで大規模な住宅団地として造成され,急激に増加した人口の受皿となった。

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381 八瀧不動神社 Yataki fudo jinja
2009.07.03

かつては松森字関場山の沢(旧住所表記:場所不明)の渓谷にあった。 頭痛や眼病に霊験あらたかと云われ,団地開発に伴って昭和49年(1974)現在の南光台三丁目に移転。この時に覆屋が建てられた。

八瀧不動神社全景 八瀧不動神社社殿

すぐ傍の水路はかつての沢とは異なるようです。団地造成に伴って雨水排除用に造られたと思われます。 上写真で社殿内の左隅にある小さな丸い石碑が昔からのもの。

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382 友崎観音 Tomozaki kannon
2009.07.03

友崎観音 友崎観音遠景
友崎観音石仏

由緒不詳ですが,安産・子育ての神様として昔から祀られていたと云います。 4つの石仏がならんでいますが,一番右端が友崎観音のようです。子安観音でしょうか,浮き彫りの像です。 あとの3つはいずれも馬頭観音碑です。団地造成に伴ってここにまとめられたもののようです。

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383 天ヶ澤不動明王 Amagasawa fudomyouou
2009.07.03

天ヶ澤不動正面 天ヶ澤不動社殿
この不動明王も団地造成によって当地に移ったものだそうです。やはり八瀧不動と同じように渓谷にあったのでしょうか。 今,近くには天ヶ澤水路がありますが,今の社名は移転前からの呼称なのでしょうか? そうであれば,かつてはこの水系沿いにあったのかもしれません。今は住宅が並ぶ中に周囲の宅地とほぼ同様の敷地割に収まっています。
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424 子安観音堂 Koyasu kannondo
2014.05.06

お堂の中のご神体には宝暦1751年とあり,右側にお腹の大きい観音様,左側に子どもを抱いている観音様の石碑が祀られている。 現地点より約20m東に鎮座していたが,開発行為により移動鎮座していただいた。平成16年11月吉日(社殿前説明碑)

宝暦年間は西暦1751~1763年なので,その頃の建立だと思います。今はニトリなど複数の大規模小売店が集まる敷地駐車場内にあります。

右は境内にある馬頭観音碑。社殿も含めてこじんまりとかわいらしい。一番左側には天保13年(1842)の刻字がありました。

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大沢

大沢は現在の仙台市にあって最北の市街地である。江戸期以降,奥州街道に沿い富谷以北に繋がる交通の要衝であった。 一村は成さずとも,封内風土記には七北田村の端郷との記載があり,戸籍法制定(明治4年)に伴う大区小区制では明治7年まで独立した区として扱われた。 現在も東北自動車道に泉ICが置かれ,国道4号沿線を中心に仙台の郊外住宅地の顔と交通の便を活かした流通商業地の顔を併せ持って賑わいを見せている。

420 新田天王社 Shinden tennousha
2014.05.06

由緒等全くわかりません。この付近は国道沿線の小規模な開発で現在の区画ができたと思われますが,おそらくそれ以前からこの地にあったのでしょう。
急な階段を上って正面に古峯神の碑。明治28年の刻字があります。鳥居に正対して,こっちの方が主役のよう。

住所は七北田字新田。まだ大沢地内ではありません。大沢はもう少し北のほう。

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421 金玉神社 Kingyoku jinja
2014.05.06

もと大沢大ヶ沢の丘陵中にあり,座頭神様あるいは金玉塚とも呼ばれていた。 昔,南部の国の盲人金玉が座頭の位を得るため,多額の金を用意して京へ上る途中,大沢の山道にさしかかったところ,鈴木甚八という盗賊に襲われた。 金玉は「今殺されるのは悪縁とあきらめるが,名前を聞かせてくれ」と頼み,名を聞くと「コガネダマダイタクサンニセツガイスヌシハレイボクハナハダシイヤツ」と経文を作り, 「これを朝夕に唱えて回向してくれ。もし回向しなければ七代まで祟る」と言い残した。一向に帰ってこない金玉を探しに来た弟子が,たまたま大沢の宿で 「金玉大沢山に殺害す主は鈴木甚八」という経文を聞き,その謎を解いて役人に訴えた。甚八は捕らえられ七北田刑場で処刑されたという。 盲人を祀ることから,参拝者は杖を奉納していく。
(境内説明板 及び 「仙台泉の散歩手帖」の参照する泉市誌)

屋根付の五輪塔。金玉(きんぎょく)という名の南部の盲人の墓だとの伝説があります。はじめ国道4号沿いのヤマト運輸トラック基地を造成する以前の山中にあったものを 基地造成に伴い敷地南東端に移築。更にその後の区画整理に伴い,現在地に移設されました。

悪行は隠し通せません,鈴木甚八くん。金玉の執念でした。
この五輪塔はただ石を重ねただけのような造りですが,原始本来はこのようなものだったんでしょうね。 それにしてもかわいい感じです。HPで昔の写真を見ると,移築の度に鞘堂が立派になっていくようでもあります。 また,お墓がいつのまにか神社になっていくというのも不思議なものです。

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422 八坂神社 Yasaka jinja
2014.05.06

勧請年月不祥。往古,大沢の久保屋敷の百姓源三郎の祖先源蔵伊勢参宮の砌り京都八坂神社にて霊験を頂き,同人の氏神として祀る。 元文3年(1738)3月28日大沢地区の鎮守として勧請し,台屋敷の修験喜明院が奉仕した。もと今宮牛頭天王と称したが明治元年(1868)八坂神社と改名。 大正5年(1916)木戸囲いにあった同村鎮守の春日神社を合祀。昭和20年(1945)8月大風で社殿倒壊,昭和24年(1949)再建。昭和55年(1980)10月社殿改築。
(宮城県神社庁HP,境内記念碑,泉区HPいずみ史跡今昔物語,同HPはっけん七北田)

鳥居扁額

(上)八坂神社遠景。丸山という地名が示すこんもりとした山全体が鎮守の杜。急な階段が参道です。

(上)参道かなり上方の中腹脇に並ぶ馬頭碑など。18基もあるそうです。ここに並べるのは大変だったでしょう。

(右)綺麗な社殿と綺麗な境内
社殿に向かって右側に石仏群が並べられています。

(下右)石仏群
左から勝軍地蔵碑 天保15年(1844),
出羽三山碑 文化15年(1818),
山神碑 文政3年(1820),同 天保15年,
古峯神社碑 明治30年(1897),
松尾観音碑 明治3年(1870)
並び順に脈絡はありませんね。

(下左)勝軍地蔵の拡大
鎧兜を付けて馬に跨る地蔵さま。悪行煩悩の軍に勝つ地蔵で,戦勝をもたらすとして鎌倉末期以降,武士に信仰されました。

鳥居の前の道は国道4号の旧道だそう。往古からの街道筋なので馬頭碑を始めとして石碑石仏がこんなに多いのでしょう。 かつて北仙台から東照宮,七北田を通り中新田まで走っていた仙台鉄道(別名「仙台軌道っこ」「軽便っこ」)もここを通っていました。 大沢にも「陸前大沢」という駅があったようです。今,国道から一歩入ったこの付近は喧騒から離れ,畑地が広がるのどかな地域です。

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423 阿弥陀堂・永仁の碑 Amidado・Einin no hi
2014.05.06

八坂神社から南に500mほどにある。阿弥陀堂の由緒は不明だが,伝承では七北田の淨満寺が慶長以前はここで寺活動をしていたという。 堂前に板碑があり,大日如来を示す梵字と永仁2年(1294)と刻字されている。泉区で2番目に古い板碑である。(泉区HPいずみ史跡今昔物語,同HPはっけん七北田)

上の写真で右の方に永仁の碑が見えます。阿弥陀堂の案内はありません。

道路から少し上った所に並んでというより,二つがたまたま近くにあるといった感じ。碑は案内されないとただの石柱だと思ってしまいそう。700年以上ここに建っています。 因みに泉区で最も古い板碑は根白石字君が代にあり,弘安8年(1285)の刻字があるようです。仙台で最も古いのは こちら で, 文永10年(1273)のもの。

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