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天喜4年(1056)鎮守府将軍源頼義公が安倍頼時を征し地方人民を治めるため衣食住の守護神である諏訪の大神を勧請し創建。 文明年間(1469~86)粟野国定が改造し,永禄年間(1558~70)粟野国重が再造。旧郡山村社。明治元年(1868)八雲神社合祀。 明治45年(1912)砂押の深山神社合祀。 大正13年(1924)社地が長町操車場となり現在地に移転した。(境内説明板)
万治2年(1659)4代綱村が奥州街道の城下南口警備のため当社付近に足軽を配し,町は社に因み諏訪町とされました。
(上)本殿向かって左。
中央が合祀された深山神社。左は八雲神社,右は明神社。
(左)本殿は新しそうです。平成16年新築。
(右)向かって右に小さな摂社群と小牛田山神さま。
前九年の役は永承6年(1051)から源頼義が鎮守府将軍となった永承7年(1052)を経て安倍氏滅亡の康平5年(1062)まで。
12年間とはいえ,この役では散発的なゲリラ戦を除いた大軍対峙は数える程しかなく,天喜4年(1056)が源頼義と安倍頼時の初戦です。
この時には勝負はついていません。天喜5年(1057)安倍頼時が不慮の死を遂げて一旦は頼義勝利で決着したかに見えましたが,
その後も跡を継いだ息子貞任らに大苦戦しました。
当社は長町の舞台八幡神社と同年の,ほぼ千年前の創建。
長町操車場も今は区画整理で移転して,鉄道は高架化されました。千年の変遷で町は変わっていきます。
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荒町の毘沙門堂に祀られる毘沙門天の旧鎮座地。 像は文永年間(1264~75)に藤原秀衡が運慶につくらせたといい,平泉に鎮座していた。 文明年間(1469~86)これを北目城主の粟野国定が当地北目に移し,守護神とした。 北目城を落とした伊達政宗が寛永4年(1627)仙台城下に遷した。
中々北目城を落とせないのは粟野氏がこの毘沙門天を篤く祀っているからと知った政宗公は,同じ毘沙門天に願を掛け北目城を落城させたといいます。
北目城は名城で,白石攻めの基地にもなり,青葉城築城の際は政宗がここに逗留して指揮をとったそうです。
毘沙門天が遷された後も,ずっと地域で信仰されてきているんですね。
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当山は凡そ1200年前,天平の初期淳仁天皇の御代中山仙人が在住した頃から不動尊があった。 後年に至り慈覚大師が諸国遍歴の途次本尊の前立を寄進されたと伝えられる。 その後数百年を経て藩祖政宗公が猪狩りを催された時この滝壺の辺より金色の鳥が現はれ金の御幣に変わったことから 政宗公は鳥滝不動尊と称するように下令された。又地方人は地名中山を冠し中山鳥滝不動尊と称するに至った。 その後仙台藩の守護神として特使を遣し祭祀を行うようになった。毎月28日ご縁日酉年生れの守り本尊また霊顕あらたかな眼の神様である。 嘗って政宗公鷹狩りの際金色の鳥の誘導により大猟を得た故事により目先の利く所謂先見の明があることから 家内安全,商売繁盛等諸願成就の祈祷所として広く信者の欣仰を得ている。 政宗公寄進の社殿は明治初期の水害で流失した。その後数次に及ぶ水害に遭ったが 不動尊の加護により現在の本堂並びに末社等が整備され今日に至っている。(境内説明板)
(左)鳥滝不動堂。平成9年(1997)の新築。
参道正面に平田稲荷神社。向かって左に鳥滝不動堂が並んでいます。昭和41年(1966)神社本殿新築。
社殿左手の下にある滝壺。鳥滝川の源流です。
参考文献では藩祖政宗公ではなく4代綱村公鹿狩りの際に命名したとあります(青葉の散歩手帖)。
また,平田稲荷神社の由来は不明です。
時節柄,参道には合格祈願の絵馬がずらりと掛けられていました。
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真言宗。平成3年(1991)開山。
(左)本堂。
(左)本堂右にある大黒天。縁結びの神様です。
中山丘陵の上にある比較的新しいお寺です。何と言っても「仙台大観音」で有名ですね。
観音様はさすがに超特大,100mあるそうです。仙台中,ほとんどの場所から見えるのではないでしょうか。
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本門仏立宗。
由緒等わかりません。周辺は閑静な住宅地になっています。
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天正17年5月18日伊達左京太夫政宗相馬公弾正小弼盛胤と戦ひ駒ケ嶺城を攻む。 亘理兵庫頭定宗先鋒となり石母田左衛門佐景頼(小齊)佐藤伊勢為信(金山)中島宗求等一戦之を抜き翌19日坂本城を降し 敵将黒木上総介以下数百騎を討取り盛胤の三男平田高胤の穫る此役我将新妻長門佐藤伊勢為信と謀り北辰妙見の尊像を奉従者浦田某と共に 相馬の本據中村城下小豆畠の地於て我方に叛す寛永年中政宗公愛子宗信を一萬五千石を以て岩ケ崎に封し守護神として妙見尊体を授く新妻胤重之が輔弼たり 寛永4年8月8日宗信逝去新妻氏本藩に復するや宮城郡の荒巻の采地に祭祀したるものなり(社殿掲額より)
※こんな翻訳でしょうか?
天正17年(1589)5月18日政宗は相馬義胤(盛胤の子)と戦い駒ケ嶺城を攻めた。
亘理重宗(とその嫡子定宗)が先鋒となり石母田左衛門景頼,小齊(小狭井)城主佐藤為信,金山城主中島宗求(むねもと)等と共に駒ケ嶺城を落城させた。
翌19日には坂元城(新地城か)も陥し,敵将黒木上総介以下数百騎を討取った。(この時?)新妻胤重(にいづまたねしげ)は佐藤為信と謀って
北辰妙見像の奉従者であった浦田某を寝返らせ,相馬盛胤の三男平田高胤(相馬隆胤?)が護る相馬の本拠・中村城下の小豆畠において妙見尊像を手に入れた。
後の寛永年中(1624~44)政宗は六男宗信を一萬五千石を以って岩ケ崎に封した際,守護神としてこの妙見尊体を授けた。
宗信の補弼役(ほひつやく)であった胤重は寛永4年(1627)8月8日に宗信が逝去した後,宮城郡荒巻の当地に移り住み,妙見尊像を祭祀したのである。
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このあたり郷六は国分氏の祖である国分胤道が青葉城に移る前に居住していた所で,その後に国分氏の重臣郷六氏が居住した。 宇那禰神社は郷六氏が氏神として奉祀した古社で,永禄年中(1558~69)までは当所に鎮座しており,慶長14年(1609)芋沢に遷座した。 詳細不詳だが延徳2年(1490),天文5年(1536)等の棟札が残り,この頃の勧請と推察される。当社は旧鎮座地で現在も祀られている。
東北縦貫道の仙台宮城IC付近,仙台西道路も近い場所ですが自動車の喧騒もなく住宅と農地が混在する静かな所です。
その中,こんもり小高い地に宇那禰神社はあります。結構欝蒼とした杜になっています。
(上)鳥居の前には縦貫道建設に伴って移された石碑群が。
(右)参道は結構急な勾配です。
(上)社殿脇に並ぶ石碑群。
(右)立派な覆屋に覆われた社殿
鳥居等と共に昭和49年(1974)に新築されました。
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臨済宗。慶安3年(1650)2代藩主忠宗が伊達家の牌寺として創建,雲居禅師(うんごぜんし)が開山した。 雲居禅師は全国に173の寺を開山した高僧で,藩祖伊達政宗が松島の瑞巌寺を創建した時に同寺の開山を懇請され固辞し続けたが, 遺言まで残して待ち続けた政宗の誠に報いて2代藩主忠宗の時に瑞巌寺の開山住職となった。 瑞巌寺退山後,ここ蕃山の麓を隠棲の地として庵を結び,当初は瑞雲山祥巌寺と称した。 元禄5年(1692)4代綱村が大亀禅師を迎えて堂を改築,霊亀山大梅寺と改称した。雲居禅師は万治2年(1659)78歳で入滅。 禅師の座禅所であった蕃山の山頂に葬られたが遺命により墓石は建てられなかった。 同所には元禄13年(1700)4代綱村建立の常寂光塔と呼ばれる奥の院がある(現在の常寂光塔は嘉永6年(1853)建立)。 大梅寺は夏目漱石の小説「草枕」の一説にも登場しており,境内にはそのことに因んだ石碑がある。
(上)
県道からの入口。蕃山登山道への入口でもある。
(右)
参道の登り口。草枕の冒頭を記した碑があります。欝蒼とした森が先にあります。奥深そう…。
(上)参道途中の小広場にある暖簾塚。平成7年建立。
(左)しっとりした緑深い参道を登ると怖そうな仁王様が。
本堂近く。囲碁をする羅漢。ユーモラスです。
悟りを開くとこうなれるものでしょうか…。
(上)本堂左にある小堂
三十三観音と水子地蔵が祀られているようです。
(右)本堂
堂々として見事です。本堂前は石庭ですが,立ち入りはできません。
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浄土宗。平安時代末期の治承2年(1178)平家の重臣肥後守平貞能(さだよし)は病床の平重盛に中国の育王山欣山寺から送献された 阿弥陀如来画像の宝軸を託され,壇ノ浦の戦いの後,名を定義(さだよし)と改めて密かにこの地に隠れた。 公が建久9年(1198)没した後,その遺言により従臣達が墓上に小堂を建て如来宝軸を安置, 宝永3年(1706)従臣の子孫早坂源兵衛が出家して当寺を創建,自ら開山となった。 貞能公の改名である定義に因み,この地の地名は定義(じょうぎ or じょうげ)となり, 西方寺は定義如来あるいは定義山(さん)と呼ばれて多くの参詣者を集めている。
(上)定義山門前。旅館や土産物屋さんが立ち並ぶ。いつでも大勢の参詣客で賑わっています。
(右)山門は三間一戸の荘厳な楼門形式。昭和6年の建立。それにしても人,人,人…。
山門を入ってすぐの境内。右に鐘楼。順番待ちで鐘突きができます。昭和5年建築。左に手水舎。
貞能公の墳墓の上に建てられているという貞能堂。かつての本堂で昭和2年の建立。六角堂です。
今更ここで紹介するまでもなく,門前を含めて一体の一大観光地を成しています。
GWだからという訳ではなく,いつ来ても参詣者が多い。今日は私にとっても気軽なレジャーという感覚です。
親しみやすさからでしょうね。三角揚げもここでは何故かおいしい。
勝軍地蔵 貞能堂の裏手にあります。戦地に向かう武士が広野原を通った際に青白く仏様の形に光る石を見つけ無事の帰還を祈ったところ,
叶ったことから勝軍地蔵と呼ばれるようになったそうです。明治年間に当時の西方寺住職の慶源上人が西方寺に安置しました。
新本堂。総青森ひば材による木造六角堂。
貞能堂の拡大バージョン。平成11年に完成しました。
5年の歳月をかけて昭和61年に完成した総青森ひば白木造の五重塔。前面は庭園になっていて茶屋などもあります。
(上)これは定義さんとは違います。さすがに今日は「散歩」ではなく車での往復です。その道すがら,大倉ふるさとセンターより少し南の道路沿いで見つけた小社ふたつ。
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文治年間(1185~1189)現在地の西南約200mのところに勧請。寛文9年(1669)4代藩主綱村が新たに社殿を造営し玉崎神宮と称した。 貞享3年(1686)現在地の青柳神社境内に遷宮。文政(1818~1829)のころ村名小俵を小田原と改めたのに伴い,小田原神明宮とした。 小田原村の鎮守。旧原町村社。末社の青柳神社は文治2年(1186)の勧請。
(上)拝殿。平成3年に新築されました。
(左)急勾配の参道を登ります。登りきった境内は結構広い。
(上)拝殿掲示の由緒説明によると末社は青柳神社と猿田彦神社の2社とのこと。こちらが猿田彦神社でしょうか。
(左)
参道左にある末社の青柳神社。神明宮より古い!
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由緒等不詳。旧鶴ヶ谷村鎮守。 明治に岩切の八坂神社に合祀されたが,昭和54年(1979)再建された。
(上)
左は子安観音。寛延(1748~1751)の刻字があるそうです。
平成26年(2014)5月6日再訪
やっと社殿写真を掲載できます。言い訳になりますが,社殿すぐ前面に大きな集会所があったので,前回は見逃したのかも。
というわけで,どうしても社殿正面から写真が撮れません。逆光ですが裏手は崖で,写真はこの方向からのみになります。でも,中々姿のいい社殿ですね。
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文治5年(1189)奥州藤原政めの際,源頼朝が先陣の功があった河村秀清に名取郡を与え, 太白山頂に鎌倉鶴岡八幡宮の分霊を勧請して守護させたのを始まりとする。寛永12年(1635)山頂から太白山腹に遷宮。 元禄7年(1694)これを嶽宮(たけみや)として,茂庭西端の現在地にも拝殿を造営し里宮とした。 宝暦13年(1763)再造営。仙台市の登録文化財。
拝殿は今は銅板葺ですが,当初はこけら葺きだったと見られます。社殿前に神楽殿があり,
例祭にここで演じられる生出森神楽は名取市熊野堂神楽の明治24年頃の直伝という。仙台市指定無形民俗文化財。
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天喜4年(1056)安倍頼時が乱を起こしたとき,朝廷は源頼義を征夷大将軍陸奥守に任じて頼時を討たせた。 頼義は勅をうけて,京都の男山八幡宮に戦勝を祈り,子の義家と共に奥州に下り,村田より菅生をへて根添城を襲ったが 城兵が頑強で中々攻略できないので頼義自ら軍を進め激戦数日後,遂に攻め落としたという。 戦乱後,頼義は館の南方高地に社を建立京都男山八幡宮を勧請し祀ったのが当社である。(境内掲示)
(上)参道石段上の長床。中に神輿もありました。八幡神社には長床が似合います。
(左)県道仙台村田線から約130mの参道。池に架かる二つの橋を越えて急な石段を登ります。
(左)石段途中から振り返りの図。長い道のりです。眺め良し。
拝殿から西に連なる本殿。
(上)拝殿右の鐘楼。
奥には別宮と掲額された新しい社殿がありました。
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