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泉区西部は泉ヶ岳を背後に七北田川の上流に位置し,鎌倉時代当初から山村(やまむら)と呼ばれて東北と関東を結ぶ街道や水運の要衝であったという。 中世には国分荘33郷の一部として国分氏の所領となり,重臣白石参河が白石城にあって,その城下町である根白石は泉西部の中心地として栄えた。 元々は白石と称したが,仙南の白石に対し,泉ヶ岳(別称泉ヶ根)に因んで根白石と呼ばれた。 明治22年(1889)実沢・小角・田中・福岡・朴沢の各村と合併して泉嶽村となったが,明治30年(1897)中心集落の根白石に因み根白石村に改称。 昭和30年(1955)七北田村と合併して泉村。町制,市制を経て昭和63年(1987)から仙台市。 村名の元となった「白石(根の白い石)」には源頼朝に因む伝説があり,平成10年(1998)まちおこしで復元設置された石が街道沿いにある。
曹洞宗。永徳2年(1382)岩手県永徳寺梅雪禅東開山の古刹。開基は初代藩主伊達政宗。伊達15世晴宗,その妻栽松院そして伊達政宗自らの位牌を祀る。 現在の本堂は明治に農家を移築したもの。山門は4代綱村が建替えたとも,仙台城辰の口御門を永安寺を経て移築したものとも伝わる。 屋根は当初は茅葺きであったが昭和元年(1926)頃から瓦葺。 政宗の祖母栽松院が晩年白石城に住み,没後も城内に葬られたため,墓参に訪れた政宗は当寺にお仮屋を置いて宿泊したという。 満興寺の七不思議といわれる伝説がある。
山門は仙台城辰の口御門だったとも伝わる。だとすると宝永6年(1709)の建築だということです。茅葺屋根を想像してみます。
(上)境内東南角の稲荷社
幟には「太桂稲荷荼枳尼真天」。
(右)本堂
かつては農家屋敷ですか?信じられません。
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白石城跡に鎮座。「本社を勧請したる先人,又は年次に三説あり,一は永正年中(1504~1520)回国修験の奉仕なり。 二は文禄朝鮮の役(1592~1593)より凱旋のとき藩祖貞山公佐々備中に命じて勧請せりと。三は寛文年中(1661~1674)古内酒造の勧請…」(宮城郡誌:仙台泉の散歩手帖)。 弘治2年(1556)白石参河守の城中に移転したとの記録もある。別当は修験の日光院(明治5年廃寺)であった。根白石村の村社で祭神は応神天皇。 明治41年(1908)根白石の兎口(とぐち)神社と愛宕神社,年川神社,明治42年(1909)朴沢の樋口神社と沢口神社を合祀。境内社に兎口神社と愛宕神社がある。
(上)宇佐八幡入口
二つの灯篭は宇佐八幡のものと境内社の兎口神社のものが並立しています。境内社とはいえ,兎口神社信仰も強いのでしょうね。
(右)鳥居を潜って急な階段を20m程登る参道。
山の上が白石城跡になります。根白石集落はこの白石城の城下町でした。その街並みには当時の面影が未だに残っているように感じられます。
上は参道右側に並ぶ境内社群と鐘楼。左から2番目が愛宕神社。一番右が鐘楼。
その他は不明ですが,明治末合祀の年川・樋口・沢口の各社どれかでしょうか?
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栽松院は杉ノ目御前ともいう。伊達15世晴宗夫人で政宗の祖母にあたる。天正19年(1591)この地に移り,文禄3年(1594)6月9日亡くなる。 (栽松院の)死後,(遺言により,政宗が)屋敷内に寺を建て,福島県杉ノ目(杉妻丁)にある夫晴宗の墓,琥珀山宝積寺の名をそのまま命名した。 墓は五輪塔だったが荒廃したので享保17年(1732)5代藩主吉村が新しく墓を建てた。 三十三観音は天保4年(1833)村人たちが栽松院の冥福を祈って三十三観音に釈迦,文殊,勢至,地蔵等を加えて安置した。(現地案内板。一部補足)
(上)白石城跡内西側奥に建つ観音堂。
(左)
堂の内部にはピラミッド状に積み上げられた観音浮き彫り石像が安置されています。西国三十三観音+αがここだけで全部拝めます。
観音堂の西隣にある5代吉村再建の栽松院の墓。
宝積寺の東北にあたる場所ということです。宝積寺は明治の初めに廃寺となり,位牌は満興寺に引き継がれました。
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別称:田の中八幡。風土記御用書出に古内鉄右衛門寄進との記載がある。古城「福澤館」の古内家氏神だった。 近年の国道457号拡幅整備により近接地に移転新築された。
盛土され広い道路になった国道脇下にあります。田の中八幡の呼称が似合います。若宮八幡は各地にありますが,
多くは祭神を八幡神である応神天皇の子の仁徳天皇としています。若くて気性の荒い神様ということですが…。
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曹洞宗。寛正元年(1460)国分家11代盛行の援助により古内近江守が開基,洞雲寺11世実底祥秀和尚開山。 古内家の菩薩寺。明暦4年(1658)伊達2代忠宗が亡くなると,忠宗を中興開基としてその位牌寺となる。 忠宗の養育係で後に奉行職・筆頭家老となり,忠宗逝去の後を追い殉死した古内主膳重廣の墓がある。
入口から少し入って本堂に向かう参道。本堂は大きい。
鐘楼。かつて古内主膳夫人高木氏(宝樹院殿)が奉納したと伝えられる梵鐘があった。太平洋戦争に供出され,現在の梵鐘は昭和45年(1970)に再鋳されました。
古内主膳の墓所。
毘盧舎那仏(びるしゃなぶつ)は忠宗供養のために建立されたものと云います。どれが主膳の墓か分からずに適当に全体を撮りましたが,
毘盧舎那仏の向かって左だそうです。ちょうど木の陰になってしまいました。
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勧請等の由緒不詳。牛頭天王(スサノオ神)を祀ります。 南側が川で,社殿正面と鳥居は川の方にに向かっているので,裏から回り込むように境内に入ります。実沢地内です。
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明応6年(1497)塩竈神社の神職鎌田氏が宮城郡利府村の屋敷内に賀茂神社と共に祀ったのを創始とする。 賀茂神社の慶長12年(1607)塩竃移転に先立って当社が塩竈神社の社地に移されたという。元禄8年(1695)伊達4代綱村公の命により別所奉遷とされ, 京都の貴船神社が賀茂川の上流に位置していたことにちなんで元禄9年(1696)前後に賀茂神社から七北田川上流の当地に遷座されたと見られる。 神殿の箱棟に利府の地を支配していた岩切城主留守氏の紋章が付いている。 二度の遷座に際して旧神殿をそのまま解体・組み立てたと推定され,相当に古い時代の建物と考えられている。
(上)神社遠景
神社は小高い山の上にあります。茂る木々は桜でしょうか。春は奇麗でしょうね。
ここが賀茂神社とともに塩竃神社内にあった貴船宮かどうかには確かな記録がないようですが,留守氏の紋章はその証ではないでしょうか。 ただ,賀茂神社と比べて遷宮後の扱いが違いすぎるように見えますね。
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明暦2年(1656)開山の真言宗寺院千光山観音寺の観音堂。観音寺は明和7年(1770)無住となり,その後に廃寺となった。
表通りから左写真の参道を入ります。入口には何の表示もなく目立たないので,絶対に!見逃します。趣があります。お堂も綺麗です。
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坂上田村麻呂東征の折,巻狩り中にこの地で愛馬太白号が急に斃れたため,観音堂を建てて霊を弔った。 その際墓の目印として立てた将軍の鞭が根付いて「白藤」になったと云う。
(上)観音堂向って左に立つお地蔵様。
(左)観音堂
本尊は高さ140㎝の石造観音立像といいます。
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由緒等不明。
年川集会所の北側の田んぼの中にあります。
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後鳥羽天皇の文治4年(1188)平貞能(小松内大臣平重盛の臣筑後の守)の臣黒川三郎重康雲州から勧請したと言われる。 明治5年(1872)村社に列格。明治42年(1909)3月、法量,稲荷,萱場,愛宕の4社を合祀した。(宮城県神社庁HPより。西暦年号訂正)
(左)境内は全てコンクリート舗装です。
本殿と覆屋。「村社住吉神社」の扁額が掲げられています。旧西田中村の村社でした。
右写真向かって右から
①法龍神社,神明社,白狐社,稲荷社
②八幡神社,熊野神社
③住吉神社
④法量神社,愛宕神社,萱場神社
明治42年には表記にある4社だけではなく,旧西田中村の全ての神社を当社に合祀したようです。
立ち並ぶ境内社はその各社がここに揃っているものでしょう。
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実沢は根白石から仙台城下に通じる唯一の道,中山道に沿った地域である。 地名は中山と根白石の南北の高地の間にあって七北田川が東西に流れる豊かな沢地という意味であろうか。 七北田川以北は今でも平坦な農地が広がるが,藩政時代も田畑やお茶が生産され,比較的人口も多かったという。 一方,南部の山地は急峻で断崖を持ち,鎌倉時代に築かれた山野内城,八乙女館といった城跡が残っている。
国分氏の分流 八乙女氏が,国分氏滅亡後,伊達政宗の家臣となり八乙女館(道祖神の西)に住んだ折に氏神として勧請。 八乙女氏が北根に移った後の元和元年(1614)現在の地に遷して実沢村の一村鎮守とした。 明治5年(1872)実沢村社。明治42年(1909)実沢村内下記神社を合祀している。
須賀神社,葉山神社,神明社,諏訪神社,道祖神,薬師神社,軻遇突智神社,山神社
(右)旧実沢村の村社,熊野神社入口
右が一の鳥居,上が二の鳥居。境内は砂利敷きで綺麗に掃き清められています。
(上)拝殿前向かって左に並ぶ社殿群
左から 神馬社,神輿堂,山神社,奥は不明。
(右)拝殿
伊邪那岐尊,伊邪那美命を祀ります。
本殿
参道には南側の旧道?から入りますが,北側の広い道からも(裏からにはなりますが)入れます。こちらは駐車場つきです。
当社の別当は修験の常法院でしたが,明治の神仏分離の際に還俗して神官となりました。
今の社務所(拝殿向かって右)の場所には昭和53年(1978)の宮城県沖地震で大破するまで嘉永5年(1852)建築と言われた修験道場があったそうです。
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創建時期は不明だが,死者の極楽浄土への旅立ちを祈願して建立されたものと考えられる。 十王とは死者の生前の善悪正邪を調べる十人の裁判官のことである。 中央立像左は閻魔王である。この王は地蔵菩薩の化身でもあり,罪人をたしなめ更生を誓わせる王である。 この堂は20年ほど前までは茅葺土壁造りであったが,その後改築された。(現地説明板より抜粋)
市で立てた説明板です。とても有難いことですが,20年ほど前改築と言っても,いつから20年前なのか不明なのが減点です。
今のお堂の外観は清楚でさっぱりとしていて好感がもてます。十王思想は平安末期から鎌倉時代にかけて広まったそうです。
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曹洞宗。洞雲寺末寺。文正元年(1466)洞雲寺14世祥珉和尚の開山。 山野内城主首藤(須藤)刑部の墓がある。平成9年本堂新築。
山野内城にあった豪族 首藤(須藤)刑部定信は天正12年(1584)名取の結城七郎と戦い敗れ,泉ヶ岳山麓で自害したそうです。
戦国時代は一豪族といえども一国一城の主。常に命を賭して領地を守っていたのでしょう。
地元のお寺に葬られているのは領民から慕われていたからなのでしょうか。
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林泉寺前駐車場から田圃を挟んで西側で発見。後で調べると地元学HPの手書地図に小さく「地蔵堂」とだけ見えました。
掲額はないし,お堂の中は覗けないし…。
遠景に見えるのは林泉寺本堂です。
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聖和学園西側,東北自動車道下,八乙女川上流の実沢・芋沢の境である「一の滝」に祀られており、両地域住民をはじめ崇敬篤き不動尊であった。 三十数年前に縦貫道路等の開発により中山台団地内に移設されしも,この度,八乙女川下流でもあるこの地を永遠の鎮座地と定め, 養老三瀧不動尊として安置したものである。平成19年7月30日。(現地説明板)
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ご神体は石製の陽根で性器崇拝の習わしによる。良縁,子授け,安産の祈願が行われたほか, この地域では「塞(さえ)の神」または「幸の神」と呼ばれ,村境にあって旅の安全,村への疫病の侵入を防ぐと信じられた。 また,この道祖神には諸病治癒の祈願も見られ,祈願時には1体を借り,治ると手作りの陽根2体を奉納したと言われている。 この道祖神はそもそも実沢字二の関にあったといわれる(現地説明板より抜粋)。
この地は早坂といって,根白石と仙台城下を結ぶ唯一の交流路である中山道の中でも急坂の難所でした。
当社の由緒は分からないようですが,村境の防御と旅の安全を祈るには最適だったのでしょう。
かつては赤い社殿だったようですが,ご覧のとおりの白木造りの新築です。参道もいい感じです。
でも,古くても赤く塗られた社殿も見てみたかったような…。
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浄土真宗大谷派。東本願寺末。延宝5年(1677)に新寺の正楽寺境内に塔頭寺院として開山。 明治になって七北田の浄満寺の檀家のうち西部の信徒が新しい寺の創建を希望するも, 政府方針で認められなかったため,明治35年(1902)荒廃していた西照寺移転の許可を得て現在地に移転した。
実際には移転許可以前の明治33年(1900)には堂宇は完成していたそうです。中々やるもんですね。
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古来より夕日山に祀り有るも開発により昭和51年(1976)に紫山に移転したるも宅造地内となり 此の度蔭沼頂きを遷座地と定め本神社社殿の造営竣工に至る。平成6年5月8日。(現地新築記念碑より)
泉パークタウン寺岡の西に隣接する小高い山の斜面にあります。夕日山がどこかはわかりませんが,多分パークタウンの中でしょう。
紫山もパークタウンの第5住区。いずれ開発されることが決まっている場所に移転したのは如何なものかと思う反面,
廃止しなかったのは次善の策でしょうか。
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