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秋保は名取川に沿って仙台・山形を最短で結ぶ古街道である二口街道を軸として,秋保温泉から二口峠まで点在する集落を連ねた郷である。 旧石器時代からの生活痕はあるものの,厳しい自然環境から平安期以前は「名取の御湯」として名を馳せた湯元を除き,小集落が点在する程度であった。 鎌倉期以降は台頭した土着の小領主秋保氏が明治維新までほぼ一貫して当地を治め, 戦国時代にあっては伊達領の周辺警備,平和の時代にあっては山形との交流や温泉観光などにより各集落も安定した発展を遂げた。 明治になって関山峠越えのルートのトンネル化により二口街道による仙台・山形交流は一気に衰退したが,昭和63年に仙台市と合併し, 現在は都市近郊農業と豊かな自然を活かした観光により仙台の奥座敷としての地位を確立している。
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欽明天皇在位の時(539~571),悩まされていた小瘡が取り寄せた秋保温泉の湯への入浴でたちどころに治癒された。天皇は「覚束(おぼつか)な 雲の上まで見てしかな 鳥のみゆけば跡はかもなし」と御製の句を詠んで「名取の御湯(みゆ)」の称号を下賜されたという。 後の順徳天皇(1197~1242)編纂の八雲御抄にも信濃御湯(長野県別所),犬養御湯(長野県野沢)と共に挙げられるなど,秋保温泉は「日本三御湯」の一つとされ国内に広く知られる。 現在も効能と豊富な湯量を誇り,仙台に最も近い温泉街として多くの観光客で賑わっている。
秋保温泉の繁栄とお湯の安定湧出の守護神。創建時期不明だが,慶安4年(1651)の湯神の棟札についての記述がある古文書があり, それ以前から鎮座していたと思われる。安政2年(1855)大地震によって秋保温泉のお湯の湧出が止まってしまった時, 代々秋保温泉の湯守を世襲してきた佐藤家の当時の当主 寿右エ門が湧出を祈願して堂宇を再建し湯殿山にも籠って祈願した結果,湧き湯が復活したと伝えられる。 現在も後裔にあたる「佐勘」の隣接地に境内がある。旧湯元村の村社。明治42年(1909)長袋の諏訪神社(現秋保神社)に合祀された。
社殿前に「名取御湯碑」がある。元治元年(1864)建立。藩学養賢堂の指南役・国学者の保田光則の撰文により秋保温泉の由来が記されている。
社殿向かって右奥の大きなけやきは樹齢250年(平成20年11月認定)です。
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真言宗智山派。本尊は比叡山の恵心僧都作になる薬師三尊像。時期不明だが名取の御湯鎮護のため慈覚大師円仁(794~864)によって天台宗寺院として開山されたと伝わる。
寛永2年(1625)良識宥賢和尚が真言宗寺院として中興開山した。
本堂に向かって左隣に薬師堂がある。最初の建立時期は不明だが,享保元年(1716)5代藩主吉村の生母貞樹院が再興している。
天保9年(1838)焼失したが藩命により再建。明治の神仏分離政策により薬師神社(祭神大己貴之命)とみなされた経緯があるが,現在は再び泉明寺の附属仏堂である。
湯神社と同じ御湯鎮護ですが,こちらはお寺です。上写真の像は慈覚大師でしょうか?
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長袋は秋保の中心地である。秋保町時代は秋保中学校の南に役場が置かれ,現在も仙台市太白区秋保総合支所となっている。 慈覚大師円仁が拓いたと云われる道筋は藩政時代には二口街道として整備され,長袋は仙台から山形に向かう道中で茂庭宿に次ぐ宿場であり,次の宿場は馬場宿であった。 二口街道は明治に関山越えルート(現国道48号)がトンネル化により車の通行が可能になるまでは仙台と山形を最短で結ぶ主要ルートであり,行き交う人馬で賑わったという。
かつて秋保並木にあり,それが当地に移されたという。奥州神明七社の一つ。(太白の散歩手帖が参照する封内風土記)
奥州神明七社の一つに数えられていたといわれ,元は仙台市大町に祀られていたが江戸期のはじめ神主が放免されたため門人が秋保に移したと伝わる。 明治42年諏訪神社に合祀された。(秋保里センターHP)
上記二つは言ってることが全然違いますね。同じなのは奥州神明七社ということだけです。神明社とは伊勢神宮の分祀社で全国に万単位であると思いますが…
宮城県神社庁HPの皇大神社(栗原市高清水字佐野丁)の項記載には, 「第44代元正天皇の御代養老年間(奈良時代717~723年)の勧請にして,東奥地方田疇開拓の勅願所であった。 (中略)奥州神明七社とは一の宮秋保長袋,二の宮高清水,三の宮仙台榴ヶ岡,四の宮刈田の白石,五の宮角田,六の宮岩谷堂,七の宮川口で神主は, 一社一人と定められていた。(元禄11年=1697年、神社奉行命)」とあります。円仁の時代よりも若干遡ってしまいましたが近いです。 相当に古い時代からあったのかもしれませんし,何と言っても長袋の神明社は一の宮です。
(上)
石仏が纏めて並べられています。13基あります。
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大同3年(808)征夷大将軍坂上田村麻呂蝦夷平定の折,この地に熊野神社を祀る。一度は廃絶するも建長3年(1251)再興。 時代は下り秋保は秋保氏の領する地となるが,明応9年(1500)時の領主秋保盛房は深谷大曲城主(名取市)の永井掃部晴信に攻められ山形天童に敗走した。 数年後,所領を失った盛房は世を捨て巡礼に出るが,その途中立ち寄った信州諏訪大社にて本土恢復を祈願した。 一方,秋保では永井氏の治世が民を虐げ非道であったため,民は盛房を懐かしんでおり, 永正10年(1513)民より迎え入れられた盛房は永井氏を攻めてこれを亡し秋保復帰を果たしたのであった。 盛房は諏訪の神霊に感謝し,この地に勧請して祈願所としたと伝えられている。 江戸時代にはその戦勝の御神徳により伊達家の尊崇も得て正保3年(1646)には2代藩主忠宗の参詣があった。 秋保村村社。明治40年(1907)供進社指定,同42年(1909)秋保五カ村の馬場の愛宕社,長袋の神明社,新川の新川神社,白山社,湯元の湯神社, 境野の八幡社,羽山社を合祀し,諏訪神社の社号を秋保神社と改めた。主祭神は建御名方神(たけみなかたのみこと)。 なお,当初の熊野神社は摂社として現在も当地に祀られている。
以前の鳥居は秋保石製の立派なものでしたが大震災で倒壊してしまいました。この鳥居は仮のようですが,十分に立派です。
大きな長床です。扁額は以前の大鳥居に掲げられていたもののようです。
長床から拝殿へ。「勝負の神」の幟が導きます。関連webを徘徊していると,スケートの羽生選手が当社に参拝したとの記事を発見。ご利益ありですね。
古くから「お諏訪さま」と呼ばれ秋保五カ村の信仰の中心として敬われてきた神社に相応しく,境内はしっかり整備管理されています。 社務所前の赤い床机なぞは街道の茶屋のようでもあり,気軽なお休み処でもあるのかもしれません。
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大滝不動堂は平安初期比叡山延暦寺第二世円仁(慈覚大師)の開基である。大師は二口峠を出羽に越えて山寺に立石寺を創建(貞観2年:860)したが
途すがら大滝の壮観と森厳の気に心を打たれここに錫を留めて不動尊を安置し立石寺の奥の院とする。
徳川家康の功臣鳥居元忠の次子忠政が元和8年(1622)磐城平から山形26万石に転封された時山寺の朱印地を侵し立石寺の中興円海これを幕府に訴え
自らは大滝に参籠して忠政調伏を祈願し満願の日滝に投じた藁人形が滝をのぼる奇跡を見て不動堂の地に経巻を埋めて去ったといい伝えられこの地を経檀原という。
現有の堂は文政8年(1825)木食知足上人の再興したもので銅板葺一重方五間宝形造,向拝一間椽をめぐらし軒廻りの調刻も見事な秀作である。
内部は薬草を描彩した格天井をあげ内陣の奥に日本一大金銅不動明王坐像を安置する。この本尊は伊達家の鋳物師仙台城下北目町の大出屋十代目津田甚四郎の鋳造にかかり,
像高3.30米,面部1.11米,胴まわり5.10米,剣は1.86米,火焔の高さ5.10米石積基壇の上に安置されている。(境内説明板)
西光寺は永禄年間(1558~1569)秋保氏分家馬場氏3代定重が創建。初めは定重の居館である豊後舘に隣接してあった。 伊達氏と対立関係にあった山形最上氏との戦いで犠牲となった妻子をはじめ多くの犠牲者を弔い創建したといわれる。大滝不動堂の別当。真言宗智山派。 昭和49年(1974)大滝不動堂の西に隣接する現在地に移転した。
(上)不動尊入口
どっしりと堂々とした鳥居です。この不動尊に相応しい。
(右)秋保大滝
慈覚大師も心打たれたという大滝。名取川本流が落ちる幅6m高さ55mの大瀑布。日本三名瀑のひとつで国指定の名勝。
不動堂右手を奥に進んで滝見台から。
(左)開山堂
昭和11年(1936)西光寺16世大滝周明上人により建立され大滝不動中興の祖知足上人の木造彩色坐像を安置してある。
上人は附近の滝原佐藤家に生まれ幼名を太作という。少年の頃母の眼病平癒を大滝不動尊に祈願し治ったのが動機となり不動堂別当西光寺の順昌法師の法弟となり
仙台城下八幡町龍宝寺で得度し名を岳連と改め近くの大岩山に入って37日断食を修し羽黒山の荒沢寺で再度にわたり各一千日の五穀を断ち行を積んで木食の行者となった。
文化元年(1804)から文政5年まで19年の間奥州を隈なく巡錫して喜捨を受けた浄財を以って文政8年(1825)不動堂を再建し,翌9年(1826)本尊不動像を鋳造安置し,
同11年(1828)衆生済度の本願を発し9月1日大滝岩頭から投身して遷化された。(お堂前の説明板)
実際は木を伐っていた上人が誤って滝壺に転落死したとの記録があるそうです。超人であっても足を滑らすことはあります。40歳という若さでした。
(上)西光寺本堂
(左)西光寺入口。参道は南側から入ります。
先の秋保神社の項に出てきた秋保盛房の弟が分家して馬場氏となり馬場村を統括,また盛房の孫の一人盛久が分家して境野氏となり境野村と新川村を統括しました。 秋保5カ村を3氏で治めつつ最上氏の侵攻に備えたと言われています。
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