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大崎八幡宮の門前一帯を八幡町と呼ぶ。慶長の遷宮以降,東隣の龍宝寺が別当寺となり,付近は城下一の門前を成した。 寛文の城下町絵図には龍宝寺門前との記載がある。町屋も多かったが一帯が龍宝寺の支配に属し,諸役を同寺に収めていた。 昭和初期には市電端末が置かれるなど賑わいを見せ,現在も山形への主要経路である。
延暦20年(801)蝦夷征伐の折,坂上田村麻呂は武門の守護神,宇佐八幡を勧請して奥州市水沢に鎮守府八幡宮を創祀。
大永7年(1526)奥州管領大崎氏がこれを自領内の大崎市田尻に遷祀し大崎八幡宮と称した。天正18年(1590)大崎氏の滅亡後,伊達政宗は岩出山に
御神体を一時遷したが,仙台開府の慶長7年(1602)城の北西の高台に遷宮し,同9年(1604)~12年(1607)の工事で現社殿を完成させた。
また,政宗が岩出山に御神体を一時遷した際,同時に米沢の成島八幡も分霊して大崎八幡と合祀している。成島八幡宮は鎮守府八幡より以前の
宝亀8年(777)創立で,蝦夷の反乱討伐に派遣された大伴駿河麿が宇佐八幡に念じ勝利したことに感謝し建立,
大同2年(807)蝦夷征伐で米沢を訪れた坂上田村麻呂が戦勝を祈願して社殿を造営した。伊達氏も米沢を支配するようになって代々崇敬し,
慶長5年(1600)秀吉に岩出山移封を命ぜられた政宗が分霊し移したものである。大崎八幡宮の社殿は入母屋造りの本殿と拝殿を石の間で繋いだ権現造りで,
安土桃山時代の最古の遺構として国宝に指定されている。平成16年(2004)修復。
*大震災で参道の灯篭21基が崩壊。幸い社殿の被害は軽微だったようです。(2012/09記)
(上)北参道鳥居は次の年に行ったら赤く塗られてました。
(下左)赤鳥居から長床へ。
(上)権現作り社殿の前,本殿に対する拝殿のような位置に長床があります。中央の通り抜け土間の左右に座敷?が。今は使われていないように見えます。
質素な造りで本殿との対比に妙があります。
(上右)
長床前の西側にある境内社。手前南から竜神神社,北辰社,鹿島神社,諏訪神社,大元社。
(上中・上左)
長床通路の内部に掛かる扁額
(左)
拝殿正面。色・装飾がすばらしい!
(左)拝殿横から後ろの本殿を撮影。
これだけ近くに国宝を眺められるのは幸せです。豪華絢爛と落ち着きが同居しています。
平成27年(2015)4月16日再訪
(上)桜咲く石鳥居とその先の大石段。98段とも100段とも言われます。石段の上に赤鳥居が見えます。
北参道と北参道鳥居。いずれも北側からの眺め。鳥居には赤鳥居扁額のコピー扁額が掛けられました。
新緑の季節はもう少し先ですが,この参道のモミジは少し早い春の芽吹きで爽やかさを増しています。
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真言宗別格本山。創建は大崎八幡宮と同時期の平安期で坂上田村麻呂によるものと推察される。文治2年(1186)伊達1世朝宗が常陸中村に再興して 自家の祈願寺とした。 その後,伊達家に従い梁川,米沢,岩出山を経て慶長3年(1598)伊達政宗により城北の当地に移創し,八幡宮落成の際にはその落慶法要を勤めた。 寺領二百七十石を附された一門格寺院。城下最大の門前,龍宝寺門前(八幡地区一帯)を有していた。 明治維新後は衰退し,庫裏と釈迦堂だけが残ったが,昭和59年(1984)に金堂が再建,昭和63年(1988)に多宝塔が新築されるなど,現在までに復興している。 本尊の釈迦如来は金売り吉次が京より勧請したと伝えられる如来で,八幡宮の本地仏として4代綱村により文殊,普賢両脇仏を添え当寺に安置された。 京都嵯峨清涼寺の模刻仏像伝来の北限といわれる。
(上)山門扁額
(左)山門は1間1戸の四脚門
(下右)多宝塔
昭和63年,中興800年記念事業での新築
(下左)大金堂。昭和59年再建
(左)維新後も残ったという釈迦堂。
山門を入って正面。
(上)一隅の稲荷社。
鳥居の額に「有巴崎正一位稲荷」とある。
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龍宝寺門徒「観瀧庵」は明治になって廃寺となり,観音堂だけが残った。
仙台三十三観音の第二番札所で本尊は千手観音。
マンションの東脇に窮屈そうに建つ。すぐ面前に隣家の屋根付き駐車場があって写真のアングルに苦労しました。
浄土宗。寛永年間(1624~43)開山。境内にモクリコクリと呼ばれる延元2年(1337)の板碑がある。
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来迎寺の東向,旧北五十人町で見つけた地蔵堂。北五十人町は慶長年間に政宗と共に岩出山から移った足軽五十人衆が住んだ所。
西端,ちょうどこの辺りに円徳寺という寺があったという。地蔵堂はその名残かもしれません。
寛政年間(1789~1801)一体の地蔵様が広瀬河岸に流れつき縄を巻きつけたところ悪いことが起こったので縛不動明王として祀った。 昭和10年(1935)町内有志が現在地に移し守り神とした。(境内看板)
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創建は不詳だが,宝永7年(1710)龍宝寺門前から出火し,仙台北部全域を焼失する大火があったため,防火鎮火の愛宕神社がこの地に 祀られたのではないかと推測されている。(杜の散歩道)
宮城一女高の北側にある小さな愛宕神社。国道から行き止まりのような路地に入りますが,国道入口にはちゃんと石柱が建っています。
真言宗智山派。慶長6年(1601)開山。以前は川内扇坂にあったが,明治元年(1868)現在地に移転した。(青葉の散歩手帖)
本尊は弥勒菩薩であったが火災で焼失し,現在は大日如来像。境内に嵯峨天皇による曼荼羅経文一巻が納められた宝篋印塔がある。(杜の散歩道)
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この付近はもと覚性院丁と呼ばれ,その町名の元となった覚性院は寛永19年(1642),国分盛重の子実永が2代忠宗に請い現東六番丁小学校の地に
建てた寺である。東照宮造営に際して寺地が仮宮とされたため慶安元年(1648)この地に移った。
春日神社は盛重の氏神で覚性院境内に建てられたものである。覚性院は明治元年(1868)に廃寺となり,春日神社だけが当地に残っている。
社殿は平成19年(2007)に新築されて立派になりました。(2008.11.01撮影)
(上)2006年当時の社殿。昭和2年造営。
(右)
社殿裏に社殿と背中合わせに稲荷社があります。
鎮座350年記念と書かれ,西暦2000年頃の建立でしょうか。覚性稲荷というそうです。
平成26年(2014)4月13日再訪
絶好の桜日和となり,ここを思い出して再訪しました。社殿新築に合わせて参道と鳥居も再整備されています。
鳥居は木製。扁額は以前のものと同じです。
思った通りの満開の桜です。今日は風もなく暖か。近年これほどのお花見日和はあっただろうか。気持ちがいいね。
社殿の前に小さな鳥居が造られています。
裏手にまわった所にある覚性稲荷。こちらの鳥居も木製に新造されました。社殿はそのままのようです。
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曹洞宗。慶長2年(1597)伊達政宗により当地に創建。政宗の仙台進出の先遣として造営されたといわれる。江戸後期の思想家・林子平の墓がある。 子平は姉が仙台藩6代藩主伊達宗村の側室となった縁で兄が仙台藩士に取り立てられ宝暦7年(1757)仙台に移った。「三国通覧図説」や「海国兵談」 を著し海防の必要性を説いたが,幕府から人心を惑わしたとして蟄居を命ぜられ、版木、製本ともに没収された。 不遇の中,寛政5年(1793)56歳で病没し龍雲院に葬られた。“親もなし 子なし 妻なし 版木なし 金もなければ 死にたくもなし”の狂歌が有名。 罪人のため墓碑を建てることを許されず,天保13年(1842)になってようやく許され,甥の林珍平によって建てられた。国の史跡に指定されている。 また,境内には細谷十太夫の墓と坐像,リンゴの唄作曲者の万城目正の墓もある。 細谷十太夫は戊辰戦争の際,民兵による「鳥組」を組織して官軍と戦い,明治時代は陸軍少尉として活躍した。晩年は出家し,かねて敬慕していた 林子平の墓所である龍雲院の住職となり,当寺の復興に尽くした。十太夫の座像は細谷地蔵といわれる。
山門は1間1戸の四脚門。中は何かの工事中でした。
(左)本堂の中から読経の声が聞こえました。
(左下)林子平の墓。
覆屋でしっかり保護されています。
(上)右が細谷地蔵。
荒廃していた当寺の復興道半ばで亡くなり,息子が大正8年(1919)に本堂,庫裏を完成させたとのことです。
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曹洞宗。伊達16世で政宗の父,輝宗の位牌を安置する。はじめ福島市佐原にあり,慈徳寺といった。天正13年(1585)二本松城主畠山義継の 企てによって既に隠居の身であった輝宗が人質となり非業の死を遂げた時,荼毘にふされた寺である。その後,政宗の移封に伴い岩出山に移り, 更に慶長6年(1601)仙台開府に当たって現在地で輝宗を開基として建立された。本尊は木造宝冠釈迦如来座像。 入口が丸い山門が特徴。禅宗の悟りである大円鏡智(だいえんきょうち)をあらわすとされ,慶応2年(1866)に建立された薬医門。 これにより当寺は「丸門寺」の呼称がある。
(上)
入口。すぐに山門,本堂が見える。
(左)
珍しい山門。通るためのものではないですね。
(右)
最近改修された本堂。大きくて威厳があります。
このほかに案内看板によれば300年の歴史を持つという庭園もあるということですが,残念ながら見えません。史跡として有料でも輪王寺のように
観光客にも見せて下さるとありがたいのですが…。
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マンションの敷地内裏手にある小さな神社。由緒等わかりません。
大崎八幡宮の「どんと祭」の日に行ってきました。
まだ松の内ということでお供えなどもあり,大事に祀られているのではないでしょうか。
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江戸時代初期の創建と思われます。仙台城築城の際に堺からここ石切町に移り住んだ石工たちの氏神でした。
本尊はこの地の天然石を彫ったものだそうです。さすが石工。
別称:石尊(せきそん)神社。
平成26年(2014)4月13日再訪
近くの春日神社と一緒に再訪です。こちらは以前と変わった所はないようです。この時代,変わらないことは逆に大変なことだと思います。
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天台宗。延宝7年(1679)開山の寛行院のお堂。寛行院はその後廃絶に瀕したが天明年間(1781~89)に大日如来堂として中興。 平成20年(2008)10月に火災で焼失したが,翌21年には再建された。
(上)以前の大日堂
平成27年(2015)4月16日再訪
狭い境内ではありますが右手山沿いに多くの石仏が並んでいます。
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