当HPは移転しました。
当面こちらもご覧になれますが,更新等は新サイトのみになります。
是非とも新サイトにおいで下さい。こちらをクリックして下さい。
今,仙台中心部から北西方面に向かう幹線道路である利府街道は,かつては原町道しるべ石の交差点を起点として比丘尼坂,今市,岩切を経て塩釜,松島に 通ずるルートで塩釜街道または東浜海道とも呼ばれた。江戸時代,藩主が国元に居る年の年始には藩一門総出で仙台城から岩切に行列が繰り出され, この地に本陣を置いて初鳥狩が催されたという。燕沢遺跡や善応寺横穴古墳など古代の遺跡もあって,拓かれたのは古墳時代にも遡ると見られる古い土地である。
曹洞宗。陽雲寺の末寺。 かつて枡江にあったといわれる浄土宗十念山仏光寺を寛延元年(1748)曹洞宗寺院として移転再興。その後に荒廃するも宝暦2年(1752)再び再興された。
寺地西側には大蓮寺古窯跡があります。
一帯は古墳時代からの窯跡が連なっており,陸奥国分寺や多賀城国府の瓦もここから供されたのではないかと考えられるそうです。
▲ページのトップへ戻る |
由緒等は全くわかりません。利府街道から西山中学校方面に上る道から30センチ程の幅の道を少し西に入ります。
参道脇の宅地造成によって,いずれこの道も通れなくなるのではと,危惧されました。
▲ページのトップへ戻る |
臨済宗妙心寺派。元禄10年(1697)四代藩主伊達綱村が開基,松島瑞巌寺の通玄禅師の開山。当初は岩手県水沢の長谷寺の旧跡を移し,甘棠山聖徳寺として建立された。 正徳元年(1711)三代綱宗没後,故人の名(雄山公)とその廟(善応殿)に因み,大雄山善応寺と改称し綱宗の位牌寺とした。 本尊は長谷寺由来の十一面観音菩薩立像。178cm素木の一木造で平安後期(11~12世紀)慈覚大師作とされる。 境内に蒙古の碑,比丘尼塚などがある。また,墓地奥の開祖通玄禅師墓石上に開山堂がある。
入口から山門まではかなりの距離があります。
★蒙古の碑
弘安5年(1282)南宋の帰化僧無学祖元が弘安の役で戦死した元軍兵士の供養碑として弟子清俊に命じて造らせたと伝えられる。
もともとは安養寺跡にあったものが享保8年(1723)に発見された。これには燕沢寺(遺跡)へ通じる路傍に埋まっていたとの説もあり,
これを1890年頃に牧島観音堂境内に移したとの古老の話が地元学HPに載っている。
その後,昭和16年(1941)蒙古の主席徳王来仙の際に善応寺境内に移された。
(上)比丘尼塚
開祖の墓所である開山堂。本堂に向かって右手,墓地北側奥の斜面高台にあって,本堂とは独立して参道・山門が造られています。
昭和50年宮城野書人建立の筆塚。境内及び参道にはこのほかに東仙台川柳会が昭和51年建立した50余りの句碑が建ち並ぶなど文化の香りも漂います。
▲ページのトップへ戻る |
由来等不詳。明治43年(1910)岩切の八坂神社に合祀された。昭和10年頃火災にあっている。
古い土地柄でもあり,やはりこの八幡神社も蝦夷との戦いの関係で勧請され,地域で崇敬された歴史があるのでしょうか。
▲ページのトップへ戻る |
日蓮宗。昭和13年(1938)千葉県長生郡藻原町真福寺の寺籍を移し,常寿雲山日我上人が開山。
(上)雲山寺本堂。
▲ページのトップへ戻る |
日蓮正宗。昭和43年(1968)開山。
開山時期は読者情報です。ありがとうございました。('08.02.19)
▲ページのトップへ戻る |
建立時期,由緒等不明だが,宝暦8年(1758)奥州名所図会巻之二に「燕沢村槙島にあり,比丘尼坂の下径を東へ十丁余行きて農家の後にあり」とある。 十一面観音を本尊とし,宮城三十三観音の第6番札所になっている。 1890年頃から昭和16年(1941)まで,現在善応寺にある蒙古の碑が当境内にあった。
門を入って正面には神輿堂があります。観音様を祀る仏教ではありますが,お神輿まであるんですね。現在のお堂は平成2年に建立されました。
(左)奥の黒い石碑は「蒙古の碑跡」の碑です。
▲ページのトップへ戻る |
多賀城主(740年代)の勧請により,五穀豊穣の神社として当地に遷座された。鎌倉江戸時代は羽山権現社として奥州各地から参拝者ありと言われた。 伊達政宗公(1630年代)から2百文のご寄付あり。明治5年神仏分離令により岩切の八坂神社に合祀された。 昭和47年氏子から町内会に維持管理移される。(境内掲示)
周囲は広々とした田園。その中の鎮守の杜は遠くからでも目立ちます。藩政時代は更に奥の院もあり広い社地が鬱蒼とした杉に包まれていたそうです。
▲ページのトップへ戻る |
祭神は健御名刀命。明治43年岩切八坂神社に合祀。 悪路で名高い小鶴踏切の坂で荷馬車運行の重苦に倒れた愛馬を供養したという「馬頭観音碑」がある。
▲ページのトップへ戻る |
祭神は大山祇命(おおやまつみのみこと)。新田小学校の東にかつてあった小鶴ケ池(地名の由来となった。)から捨いあげられた元弘3年(1333)創建と見られる石碑を祀る。 天明4年(1784)現在地に移され,寛政4年(1792)堂宇が建立された。 石碑に大日如来を表す梵字と元弘三年の文字が彫られており,このため「大日堂」と称されていたが,明治の廃仏毀釈により現社名に改称された。 社殿には今も大日堂の扁額が掲げられている。
(上)大日堂の扁額。
社殿には二つの扁額が掲げられています。
社殿は一間四方の宝形造。脇に樹齢推定250年の大銀杏。大日堂の扁額を今でも掲げているのは歴史を尊ぶ見識です。
▲ページのトップへ戻る |
明治6年(1873)善応寺第20世禎州恵祥和尚の時,第21世明道禅進和尚の発願で石巻龍光院より不動尊を勧請し, 燕沢字苗代沢西山(現在地より高野川上流)に創建。昭和17年(1942)御堂周辺一帯が陸軍に買上げられたため善応寺に一時移転したが, 昭和25年(1950)西山に復元。しかし,昭和30年代に始まった周辺一帯の開発による悪水により御堂の損傷が進んだため, 同48年(1973)高野川下流の現在地に新築遷座された。(境内掲示)
今は下水も完備され,高野川もきれいになっています。現在地は小さな公園に面していて,ちょうどゲートボールが行われていました。
▲ページのトップへ戻る | 次のエリアページに進む⇒ |