当HPは移転しました。
当面こちらもご覧になれますが,更新等は新サイトのみになります。
是非とも新サイトにおいで下さい。こちらをクリックして下さい。
慶長17年(1612)伊達政宗によりそれまでの東街道に替えて奥州街道が開かれ,長町は仙台城下から江戸に向かう第一の宿駅となった。 万治2年(1659)4代綱村により南長町の諏訪に城下南口警備の足軽町がおかれ, 更に寛文8年(1668)に長町渡に広瀬川では大橋に次いで2番目の橋となる永町橋が架橋されるなどを経て,街道に沿って数十丁に及ぶ細長い市街地が形成された。 明治以降は鉄道の開設や,市電・秋保電鉄の乗り入れ,鉄道貨物ヤードの設置などにより人の交流と工場立地が進み, 戦災を免れたことで戦後は仙台への食料供給や労働の基地として大いに発展した。 現在も当時の街道筋はそのまま多くの交通が行き交い,沿線は仙台有数の商店街を成している。
太白区役所北のSCザ・モール敷地北西の古墳上に建つ。明治23年(1888)まで舞台八幡神社があったところで, ザ・モールができる前,東北特殊鋼の工場が立地した昭和12年(1937)新たに会社で岩清水八幡宮を勧請した。金岡八幡という名は会社の名に由来する。
今は東北特殊鋼の工場もなく,大型ショッピングセンターとなっています。近代日本の時代変遷を反映していますね。
どちらにしても移された舞台八幡神社にとっては結果的には幸いだったかもしれません。
本殿隣に「特殊鋼稲荷」というお稲荷さんが並んであります。
(上)左が金岡八幡,右が東北特殊鋼稲荷。
(右)東北特殊鋼稲荷。上右写真はいずれも'13.02.02撮影です。
▲ページのトップへ戻る |
康平2年(1059)開基の天台宗寺院常蔵院(現在は廃寺)から残る観音堂。 開基当初は大年寺山の南麓にあったが,大年寺の建立に伴い元禄10年(1697)寺地を現在地に移した。 仙台三十三観音の第32番札所。 地元では十八夜観音と呼ばれ親しまれている。これは旧暦18日の夜に月待ちの講が開かれたことに由来する。 承和2年(835)慈覚大師作と伝わる聖観音が本尊。一本の木から作られた三体の観音像(名取三観音)の一つで, 残りは両全院(日辺)と大善院(四郎丸)に安置されている。 現在の堂宇は寛政元年(1789)の建築。
単独の観音堂としては大きい。常蔵院も大きなお寺だったのでしょうね。三間四面の宝形造。堂々としています。
▲ページのトップへ戻る |
現在の広瀬橋は寛文8年(1668)に架けられた永町橋が初代である。 橋建設の時,長雨で橋を架けられず「これは水神様のお怒りに違いない。心信深い娘を差し出さなければ」という噂が広まった。 その時,根岸の長者の娘が名乗り出て十八夜観音に籠もり,雨がやんだ後に人柱になったという。 この伝説にちなみ,文政6年(1823)橋姫明神として祠と橋供養碑が建立されたという。
今の広瀬橋は日本で最初の鉄筋コンクリート橋として明治42年(1909)に架橋されました。その後,昭和11年(1936)市電専用の橋を加え,
更に昭和34年(1959)道路・市電供用の橋として架け替えらています。
▲ページのトップへ戻る |
曹洞宗。七北田の洞雲寺末寺。文安元年(1444)現太白区郡山北目に開山。粟野大膳重国の菩提寺。 当地に移転の時期は不明。天保8年(1837)火災で全焼,現在の本堂は明治31年(1898)の建立。
長い歴史を持つ古刹です。付近に幾つもの末寺を持っていて,布教に熱心に取り組んできたことがわかります。
鶏塚の伝説が有名ですが,場所がわからず写真に納めることが出来ませんした。残念!
2007.08.01 当HP読者の方から頂きました。下が鶏塚です。ありがとうございました。
「卍不是人間之塔(これ,人間の塔にあらず) 寛文十三年(1673)敬白 庄子太郎左衛門」と刻まれています。
★鶏塚伝説
昔、根岸の宗禅寺で飼っておいた鶏が、ある日のこと宵ドキをつくった。和尚はそれを不吉の兆しだといって、殺して裏の広瀬川に棄てた。
するとこの鶏が隣家の者の夢枕に立って、わしはとなりの寺に飼われていた鶏で、和尚の危難を知らせようとしたが、却って殺され今宮沢橋に引っかかっている。
どうかわしに代わって和尚に知らせてほしいと云った。隣の家ではあくる日すぐにこの事を和尚にとりついだ。
やがて和尚が朝飯を食べようとすると膳の上を飼猫が飛越えながら何か食べ物の上に落として行ったのを見たら斑猫(はんみょう)の毒であった。
和尚は今さら鶏を殺したことを悔い、宮沢橋から鶏をひろい上げて来て門前に葬り、ねんごろに弔ってやった。―後段略―(仙台伝説集)/太白の散歩手帖から
平成27年(2015)4月4日再訪
本堂が新しく立派になっています。時期ははっきりしませんが,大震災前に建て替えに着手して,大震災後に完工したようです。
(上)
昨日,仙台の桜が開花宣言。
桜前線が到達したばかりなのに,この桜一本だけは早咲きです。花見ができてラッキーでした。綺麗ですね。
(右)
宗禅寺下の広瀬川畔は宗禅寺淵というようです。
鶏塚伝説の場所ですが,今日は何とものどかで,素晴らしい眺め。年に何回もないような良い天気。
▲ページのトップへ戻る |
黄檗宗。元禄9年(1696)4代綱村が自ら鍬入れを行い同10年(1697)本堂完成。若林の廃寺小蓬山仙英寺の遺址を移したことにして両足山大年寺と号した。 網村公の牌寺。堂塔二十余宇に及んだ七堂伽藍は荘厳を極め,黄檗宗日本三叢林(そうりん)中の第一位に挙げられた。 仙台藩一門格寺院。綱村公以後の霊廟を司る。 明治維新後,廃仏毀釈により伊達家の庇護を失い,惣門を残し廃墟と化した。現在の大年寺は旧塔頭の?(手辺に掌)月院(とうげついん)跡に昭和8年に復興されたものである。 唯一の遺構である惣門は高麗門で享保元年(1716)の建築と推測される。昭和60年(1985)に仙台市指定文化財とされ,同年及び平成12年(2000)に修理が施されている。
惣門と参道の石段は見事としか言いようがありません。これだけでも当時の威容が容易に偲ばれます。
廃仏毀釈の趨勢とはいえ,全てまで撤去しなくても…。もったいないことです。
現在の大年寺本堂
平成27年(2015)4月4日再訪
右写真は参道上からです。今回の再訪では折角なので上まで登りました。高いね。
惣門からここまで来るのが一苦労。一直線の284段を使ったアスリートの訓練場になっています。奥に長町の中心部が見えます。
階段を上りきって右方面の先に伊達家墓所である宝華林廟(下左)と無尽灯廟(下右)があります。 内部は非公開です。4代以降の藩主と5代以降の夫人が眠っています。
(左)
去り際にもう一枚の惣門。周辺の桜が今にも咲きそう,というか,もう咲き出しています。数日後が楽しみですね。
▲ページのトップへ戻る |
曹洞宗。宗禅寺の末寺。明応5年(1496)開山。 明治になって外護を失い頽廃した大年寺に祀られていた穴薬師瑠璃光如来を大正6年(1917)当寺に遷座し瑠璃光殿に祀っている。 昭和59年(1984)から奥州仙台七福神の一つとされる布袋尊を祀る。
穴薬師とは変わった名の薬師さまです。
(上)瑠璃光殿
大年寺に元禄16年(1704)建立された薬師堂に祀られていた薬師如来を遷座した。昔,村人たちが大きな木の根下に大きな穴を見つけ,中から泥まみれの薬師様が出てきた。
村人たちはお堂を建て「穴薬師さん」と呼んで奉祀した。(境内説明板)
(上)
平成元年,開基500年記念に鋳造された大梵鐘。
(左)本堂
本堂下にある小堂。双体道祖神が祀られている。
平成27年(2015)4月4日再訪
入口階段上に山門が出来ていました。平成20年(2008)完成のようなので,前回訪問のわずか1年後です。 親柱・控柱があるようには見えないので八脚門ではない。でも通路の両脇は部屋になっていて立派な仁王様がこちらを睨んでいます。 型式としては小型の長屋門でしょうか。
(右)
奥州仙台七福神の一つ,布袋尊が祀られていることを示す写真案内板。ふくよかです。お目出度い気持ちにさせてくれそうな布袋様ですね。
▲ページのトップへ戻る |
由緒等わかりません。鹿野地区の住宅地,半間ほどの折れ曲がり通路を登って行きます。
▲ページのトップへ戻る |
曹洞宗。宗禅寺の末寺。永禄8年(1565)向山滝ノ沢に開山。 元禄9年(1695)大年寺造営に伴い根岸に,更に元禄時代末(1700頃)現在地に移転した。現在の本堂は平成3年(1991)建立。
残念ながら瀧澤寺参道は下写真で赤いセーフティコーンが見えるように工事中で通れませんでした。コーンの手前から右に駐車場を通って上に登ります。
階段のある参道は趣がありそうでした。
(左)白亜の瀧澤寺本堂。RC製です。
▲ページのトップへ戻る |
浄土真宗。由緒等は調べきれていません。長町商店街の裏手,一般住宅地の中にあります。
▲ページのトップへ戻る |
建武元年(1334)権中納言藤原籐房が東国修行の際,京都西洞院蛸薬師に祈誓をかけ,仏像を勧請して名取郡平岡村二ツ沢の下流淵上に堂宇を造営し
淵上蛸薬師如来とした。万治年間(1658~)当地の比良岐大明神境内に移し,その後文政3年(1820)村民挙げて大営繕を行った。(境内説明板)
先出の穴薬師も変わった名前でしたが,この蛸薬師も劣らず面白い名前ですね。親しみが湧きます。但し,こちらのお堂の扁額は単に「薬師如来」となっています。
(左)
薬師堂右側奥に石碑群と比良岐大明神の社殿。
★蛸薬師の伝説
今の薬師堂の東側には昔,大きな池があった。ある時洪水が引いたあと蛸に吸い付かれた薬師像が流れ着いているのを見つけ,堂を建てて祀った。
この薬師様に手のイボで悩んでいた若い娘が,蛸断ちをして願をかけたところ,きれいに直ったのでイボにご利益があるとされる。
▲ページのトップへ戻る |
天喜4年(1056)陸奥の乱平定の勅命を受けた源頼義が河内の平岡八幡宮(枚岡,現東大阪市)を勧請して 名取郡舞台の地(現金岡八幡の地)に奉り,そこを本営として勝利したことを受け,本社を造営し舞台八幡宮と称した。 永禄2年(1560)北目城主粟野大膳重国が再興。明治18・9年頃火災で焼失し仮宮で祀られていたが,明治23年(1888)現在地の蛸薬師堂境内に遷座再建された。
(左上写真は2010.12.01 撮影)
源頼義は平岡八幡宮を勧請したことに因み,当地を平岡村と名付けました。明治になって根岸村と合併して長町となるまで,南長町は平岡村でした。
頼義は同年に諏訪に諏訪神社も創建しています。
比良岐大明神の境内に蛸薬師が来て,更にその蛸薬師の境内に舞台八幡神社が来ました。同じ境内に今も3つ並んで建っています。
▲ページのトップへ戻る |
たいはっくるの国道挟んで斜向,地下鉄出入口の裏にあります。由緒等,社号すらわかりません。m(_ _)m
▲ページのトップへ戻る | 次のエリアページに進む⇒ |