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永正13年(1516)から慶長12年(1607)まで国分盛行,国分盛重,伊達政宗により再造営,復興された陸奥国分寺の門前に小路に沿って24の坊が置かれた。 これにより門前は連坊小路といわれるようになったという。藩政時代に足軽町となり、現在では商店街や学校が立ち並ぶが,裏町の寺院は当時の寺町の面影を残す。 荒町は田町から東に伸びる奥州街道に沿う要路に当たる。仙台開府の際,伊達家に従ってきた商人の町,所謂御譜代町の一つで麹の専売特権が与えられていた。 当初は南町の西端・本荒町に置かれたが,寛永4年(1627)からの城下第一次拡張以降,この地に移った。今も商店街を形成し賑わっている。
曹洞宗。伊達政宗の祖母,久保姫(栽松院)の牌寺。 久保姫は政宗が岩出山に移った天正19年(1591)福島から白石館(泉区根白石)に隠棲し,4年後の文禄3年(1594)当地で亡くなった。 遺言により居住していた白石城内に寺を建て葬られたが, 政宗仙台入府後の慶長6年(1601)城下に栽松院を創建して位牌を奉安した。 本堂前には千体仏を納めた千仏閣があり,堂内に仙台の地名の起源となった千躰仏の一部を胎内仏とする仏像がある。 境内に推定樹齢千年で「政宗公遺愛の樫」と案内される白樫がある。
(上)参道が随分と長く付近は静寂。緑がきれい。
(右)山門は新しそうな四脚門。
(下)本堂。千躰観音のお祭りが近く,奉納幕と赤い幟が出ています。
(上)千体仏を祀る千仏閣。
仙台の名称の起源といわれる千躰佛(の一部)を胎内仏とする大きな仏像を中心に千体の小振りな仏像が納められているそうです。
母が実家に帰り,多くの時期を祖母に養育された政宗にとって,栽松院は母に等しい大事な人だったのでしょうね。
城下への栽松院牌寺建立に当たり,仙台城本丸から高くそびえる「遺愛の樫」を見出し,日々の遥拝の目印になるとして,その地を決めたといいます。
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曹洞宗。米沢瑞雲院の末寺。文安元年(1444)に米沢で創建し,当時は瑞巌寺と称していた。伊達家に従い,岩出山を経て現在地に移転。
慶長11年(1606)政宗が松島の円福寺を瑞巌寺としたため,寺号を瑞雲寺とした。
境内の観音堂の如意輪観世音は慈覚大師の作といわれ,安産祈願で知られる。仙台三十三観音21番札所。
(左)堂々とした本堂。
(左)白壁の清楚な薬医門。門扉に伊達家の紋。
(左)観音堂。21番札所。
如意輪観音と安産祈願が直結しているのはここだけでしょうか
敷地が南北には長いのですが,東西の奥行きが狭いのがちょっと気の毒。今の堂宇や山門は新しそうなので,恐らく西面の道路建設による影響だと思います。
岩出山から仙台に移ってきたのは何時なんでしょうか?
境内に幾つかの句碑がありました。
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日蓮宗。寛永14年(1637)2代藩主伊達忠宗が開基。政宗に殉じた仙台藩士の青木友重の弟,日悟は家を継ぐことを勧められたが既に出家していた。 この日悟のために法運寺が開かれたと言う。境内西側に四谷怪談のお岩さんを祀った於岩稲荷明神と浄行菩薩のお堂がある。
(右)
左が於岩稲荷。お堂に貼られた説明板には「この世の男女の問題の解消に,また人気商売の繁栄に…」とあります。
更に由来として「幕末維新の頃,仙台の吾妻太夫という義太夫を志す者が,一生女性を持たないとお岩様に立願し,効あって出世を果たしたが,
誓いを忘れ女性を持つや芸が落ち人気も下がった。太夫は懺悔し,帰郷して当寺にお岩稲荷を祀りお詫び供養したと伝えられています」とありました。
右が菩薩堂。浄行菩薩は法華経の教えを伝えるためこの世に現れたといいます。隅にタワシが置いてあり,
説明板に「体の悪いところ、例えば足の悪い人は浄行菩薩の足を、目が悪い人は目をタワシで洗うと楽になる」とありました。
平成26年(2014)11月22日再訪 山門が建て替えられていました。優美な四脚門です。
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日蓮宗。昭和35年(1960)に開かれた新しいお寺。南隣の法運寺と同じ日蓮宗で,何か繋がりがあるのかもしれませんね。
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曹洞宗。寛正年間(1460~66)に福島の国見町松ヶ蔵に11世持宗が創建。長享元年(1487)12世成宗の没後,13世尚宗が父成宗を開基とし菩提寺と定めた。 永正11年(1514)尚宗も当寺に葬られた。天文17年(1548)14世稙宗の隠居に従い丸森に移転。永禄8年(1565)稙宗も没し当寺に葬られた。 慶長7年(1602)仙台開府に伴い現在の連坊小路小学校付近に移転。元和4年(1618)には政宗の五男宗綱(正室愛姫との次男)も当寺に葬られた。 伊達家の庇護により全盛期には末寺が36にものぼった。昌伝庵(荒町),泰心院(南鍛冶町), 輪王寺(北山)とともに仙台城下の曹洞宗四大寺。 明治3年(1870)火災で全焼。廃寺の危機に当たり,末寺の長泉寺を併合して明治21年(1888)同寺の敷地に移転した。 山門は三間一戸の薬医門。政宗が晩年をすごした若林城が一国一城令により廃止された際,その大手門を拝領した。度々の火災にも残り明治23年(1890)ここに移建された。 境内に開基の成宗,中興開基の宗綱の墓がある。
入口がある通りは,かつてあった末寺・長泉寺により「長泉寺横丁」となっています。
(左)
入口から曲線を描いて長く続く参道。手入れの行き届いた緑のトンネルが心地よい。
(下)
山門入って右手の観音堂。仙台三十三観音23番札所。
本尊の如意輪観音は,現在宮城第二女子高となっている地にあった真言宗遍照寺にあったもので,
遍照寺廃寺に伴い明治22年(1889)松音寺に移されたそうです。
(上)
かつて若林城大手門であったという山門。武家屋敷のように白壁の塀が続く。白壁と豊かな緑のコントラストが美しい。
(右)本堂。山門を入って正面。
(右)本堂左にある「放光堂」。
と,言ってみても何の建物なのかわからない…。
(上)こちらは「円月堂」。
新しそう。こちらも何が祀られているのか…。
(左)
山門の手前右手に歴史のありそうな地蔵堂。赤子を抱いたお地蔵さんが祀られています。安保原安産子育て地蔵。
(下)
市道を挟んで南側に墓地。中央突き当り,向かって左が開基成宗公,右が中興開基宗綱公のお墓。
平成26年(2014)11月22日再訪
(上)秋,もみじを敷き詰めた山門前。
(右)
向かって左が開基成宗公,右が中興開基宗綱公のお墓。
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曹洞宗。泉区七北田の洞雲寺の末寺で, はじめ洞雲寺の近くで闕泉竜院(けっせんりゅういん)として文安元年(1444)に開基。 伊達氏以前に付近を支配していた国分氏が創建。後に現在地の近く,現鉄道用地に移転し保寿寺と称した。国分氏の牌寺で,国分氏滅亡後も伊達氏が庇護した。 国分氏最後の領主彦九郎盛重は当時の境内に武器を埋めて鎮護の神とし,その上に杉を植え,そばに祠を建て大杉稲荷明神としたという。 明治19年(1886)東北線工事で寺地が削られ,本堂移転と同時に同じく線路に支障となった大杉稲荷も寺の境内に移転し大杉は伐採された。 本堂内には聖観音が祀られ,仙台三十三観音22番札所となっている。
(右下)大杉大明神
今の地図を見ても鉄道によって移転させられたことが手に取るようにわかります。時代の流れの中で長年生き延びることの難しさでしょうか。
荒波を乗り越えて国分氏の菩提寺は生き続ける。
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浄土宗。寛永2年(1625)開山。阿弥陀如来を本尊とし,天和3年(1683)常念仏を開いて念仏三昧の道場となった。 以来,北六番丁の清浄光院,榴岡の願行寺とともに,仙台三回向寺の一つ。 5月の13日から15日までの3日間,3つの寺が3年に1度ずつ交替で大回向を開き,大念仏供養が行われる。 山門は宝永6年(1709)に4代綱村夫人仙姫(万寿院)の墓所がある市内小田原高松の万寿寺の本堂前の門として建造された。 新坂通の大願寺と同様,明治11年万寿寺から購入移築された。一間一戸の向唐門。 桟唐戸には夫人の実家稲葉氏の家紋「隅切角に三の字」が入っているのも大願寺と同じである。
本堂はお城のような2層建て。立派。文政4年(1821)薩摩藩の佐久間五郎左衛門の寄進によって建立されたとのこと(商工会議所HP「ぶらり仙台まちめぐり」)。
一方で,山門は大願寺とはうって変わって華やかさはありません。質素。それにしても万寿寺は相当に困窮していたのでしょうね。
ちょうど曇り空で,写真が白黒写真のようになってしまいました。
平成27年(2015)3月28日再訪
(上)山門の家紋は稲葉氏のもの。
本堂正面がガラス戸から木製扉になっています。本堂前に位牌塔でしょうか,新設されました。全体的に新しく明るく感じます。お天気のせい?
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曹洞宗。山号は「てんみょう」山と読む。慶長19年(1624)開山。名取秀麗齋の末寺。 飛観音といわれる千手観音が祀られており,仙台三十三観音19番札所になっている。本堂は大正7年(1918)建立。
(左)山門前に仙台三十三観音の標柱があります。
(上)嘉永4年(1851)建立の花塚。
(左)本堂。大正7年(1918)築。
(左)観音堂。
各種参考資料ではここに千手観音が安置されているとされていますが,H23刊の河北新報社「祈りの街」によれば本堂にあるとされていました。
観音堂前ではなく山門前に三十三観音の標柱があるので,後者の方が正解でしょうか。…とすると,ここには何が?
★飛観音伝説
延宝年間(1673~81)の頃,三百人町の惣右衛門という足軽宅に観音が現れ,近隣の人々の信仰を集めた。
続いて荒町の毘沙門堂に現れ,最後に皎林寺に落ち着いたという。
平成27年(2015)3月28日再訪
以前来た時は意識しませんでしたが,左上写真の観音堂右に「伊勢久治郎翁頌徳碑」が建っています。 伊勢久治郎は明治から昭和にかけてレンガ工場や銀バスを経営した実業家です。銀バスは大正8年に開業した民間バス会社のバスの愛称。 昭和17年に仙台市に買収され市営バスとなりました。お墓も当寺にあるようですが,ここがそうでしょうか?
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真言宗智山派。寛永20年(1643)隣接する毘沙門堂の別当寺として開山。藩政時代まで藩内真言宗の学頭住職地で藩内の宗務を執った。 明治20年(1887)鉄道開通により仙台駅構内から高福院を合祀。平成4年(1992)本堂新築。本堂正面に昭和60年建立の弘法大師像がある。
本堂前,向かって右に弘法大師像。すぐ南側に毘沙門堂があります。境内が毘沙門堂と繋がっていて,境がありません。
管理が一体だから当然か。別当寺とはそういうものなんですね。
平成27年(2015)3月28日再訪
かつて満福寺には仙台東照宮とここだけに許された相撲の勧進興行がありました。 荒町の賑わいに思いが馳せられます。
(左)毘沙門堂の裏手になる場所にある日限(ひきり)地蔵。仙台では満福寺だけにあったとのこと。
例えば毎月○日というように,その日に限って祈願すれば願い事がかなうということのようです。(平成23年12月4日 河北新報夕刊「までぇに街いま」)
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「荒町の毘沙門さん」で知られ,荒町のほぼ中央にある。文永年間(1264~75)に平泉の藤原秀衡が運慶につくらせたという毘沙門天を祀る。 藤原氏滅亡後,流転するが,北目城主の粟野氏が北目城(太白区八本松)に移し軍神とした。 更に粟野氏を破った伊達政宗が寛永4年(1627)に現在地に仮堂を建て祀り,その後,政宗の遺言に従い,寛永20年(1643)に2代藩主忠宗が鞘堂を建てた。 明治37年(1904)の火災で焼失するが大正5年(1916)再建。火災で毘沙門天像の表面は焼けただれている。 仙台七福神の一つ。子育ての神さまとしても知られる。 参道入り口に嘉永3年(1850)に建立され,迷子や尋ね人などに利用された「奇縁二天石」という石標がある。
入口は商店街の真ん中にあるお堂に相応しく目立っています。鳥居の左柱脇に奇縁二天石があるのですが,電柱の陰になってしまいました。
(左)
山門は毘沙門堂より時代を下った江戸時代中期の建立と見られています。
屋根の側面に唐破風をつけており平唐門と言うのだそうです。一間一戸の薬医門。
(上)
本堂左(西側)に南北に並ぶ二つの小堂。手前が子安観音堂,奥が百八体毘沙門堂。ここにも毘沙門さん?
平成27年(2015)3月28日再訪
(上)鳥居の左並びに奇縁二天石が。右側面に「をしゆる方」,左側面に「たづぬる方」と刻まれていて,迷子や尋ね人の特徴等を書いて左側に貼り, それに心当たりのある人が右側にその旨を書いて貼るというように利用されました。
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日蓮正宗。嘉元3年(1305)に岩代・渡邑に日蓮正宗第3祖日目上人の弟子である日尊上人が開基。 仙台移転の当所は上染師町にあったが寛永13年(1636)に火事で焼け,現在地に移った。3代藩主綱宗の側室,椙原品(すぎはらしな)の墓がある。
皎林寺の飛観音に続いてこの寺には飛曼荼羅の伝説があります。国分町の檀家に預けてあった当寺の曼陀羅は正保4年(1647)に火事に遭ったが,
被害を逃れ仙台城二の丸の木に掛かっていた。火事を避けて飛んだといわれています。
(左下)
本堂は江戸時代に2度の火災にあった後に嘉永2年(1849)に再建されたもの。この年号は棟札により確認できるようです。仙台市登録文化財。
平成16年から境内伽藍の大規模改修が始められているようです。本堂,山門ともに新しそう。もう改修は終わったのかもしれませんね。
(上)山門から本堂までの参道。
資料によっては康永2年(1343)伊達6世基宗が伊達郡佐々木邑に建立とか,信夫郡笹木野村だとか, 祈祷で政宗の病気を治した功で米沢に呼ばれて以後岩出山を経て仙台に移った,とか色々あります。が, 上記創建由緒はお寺に掲示されていた改修に向けた「趣意書」によりました。 仙台移転を延宝2年(1674)とするHPも見つけましたが,飛曼荼羅の火事の年代より後のはずないし…。 どうも分けわかりませんが,学者でもないので,これ以上の調査はしません。
平成27年(2015)3月28日再訪
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曹洞宗。山号は「えきよう」山と読む。永正3年(1506)伊達家13世尚宗が三男,久松丸の菩提を弔うために米沢に創建。 天文8年(1539)8歳で逝去した14世稙宗の四男玄蕃丸も葬られた。その後,政宗に従い天正19年(1591)岩出山を経て,慶長7年(1602)仙台の当地に移る。 松音寺(連坊),泰心院(南鍛冶町), 輪王寺(北山)とともに仙台城下の曹洞宗四大寺のひとつ。 開基久松丸,初代藩主政宗公,5代吉村公,6代宗村公の位牌を祀る。仙台四大画家のひとり、東東洋(あずまとうよう)の墓がある。
ここも新しそうな山門です。平成11年築。
(左下)
参道を進むと本堂前に内門があります。
(上)冷泉家24代当主夫人の草木供養の和歌碑。
なぜここにあるのかは,わかりません。
春は花 秋は実りとみ佛の 恵みに生ふる 野へのくさ木は
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浄土真宗大谷派。慶長5年(1600)に利府に開山。その後,市内霞目を経て慶長19年(1614)に南鍛冶町。寛文事件で伊達家を支えた金子元継を初代とする金子家の菩提寺。 元継は2代藩主伊達忠宗,3代綱宗,4代綱村の3代に仕え天保元年没。金子家は2代横綱谷風の生家でもあり,境内に谷風の石碑がある。
平成15年(2003)より都市計画道路工事により南鍛冶町の通から東北線北側に移転中。本堂や山門などはもう移転完了でしょうか。新しく立派になりました。
(右)
谷風と金子家の石碑。谷風碑は昭和27年(1952)に谷風顕彰会が建立したもの。移転を機に仲良く並んだのかな?
仙台移転当初に立地した霞目には谷風の墓があります。
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城下拡張に伴い元鍛冶町から移転した南鍛冶町の鍛冶職人たちが元和年間(1615~23)に勧請。御神体は一度も御開帳をしたことがないという。 かつて成田町にあった修験の花京院(城下に再建,その後廃寺)が焼失した際,御神体は救われ当神社に納められたが, これを御開帳すると町に変事が起こると言われるためという。
三宝荒神は,仏・法・僧の三宝を守護するという神。不浄や災難を除去する神であるため,火と竈(かまど)の神とされています。
だから鍛冶職人の信仰の対象となったんですね。
(上)境内の石碑が集められています。
(左)耳権現。
弘安4年(1281)の元寇の時,国家安泰を願った地元僧が自身の耳を切って埋めたのを讃え,正応3年(1290)に建てられた石塔を祀る。耳の病に効能があるという。
平成27年(2015)3月28日再訪
(上中)鳥居扁額
(上右)社殿扁額。何て書いてあるの読めません。
(左)
ご神木。樹齢約320年(って何時から?),樹高21mのイチョウ。市の保存樹木。
雄木にもかかわらず実をつけ大変不思議がられましたが,後に雄株に雌株を接木したことがわかったというオチがあります。
高いです。黄葉時,いやせめて葉を付けた時に撮るべきでした。
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曹洞宗。輪王寺の末寺。伊達14世稙宗夫人(台心院)の菩提を弔い15世晴宗が永禄10年(1567)に米沢に建立。 政宗と共に岩出山を経て慶長12年(1607)現在地に。寺号は「台+心=怠」という政宗の指摘で「泰」に改めた。 昌伝庵(荒町),松音寺(連坊), 輪王寺(北山)とともに仙台城下の曹洞宗四大寺のひとつ。 山門は旧伊達藩藩校の養賢堂の正門で文化14年(1817)の建築。明治維新の時に移築された。
山門は超立派。屋根が荘厳重厚な四脚門です。藩校への力の入れ方が伝わるような。養賢堂跡は県庁となりましたが,残っていた講堂も戦災で焼失してしまったので,
この門が唯一残った養賢堂の遺構です。仙台市指定文化財。
本堂は享保12年(1727),明和元年(1764)の大火と大正12年(1923)の火事で3回焼失しています。RC造で再建されています。
(右)傘松
4代藩主伊達綱宗の寄進で,元禄年中に仙台城から移植したともいわれている。かつて保存樹木だったが枯れたため指定解除されたそうです。
平成27年(2015)3月28日再訪
まさに威容と言っていい山門。遠くからでも凄い存在感です。
(上)山門扁額。養賢堂の ではなく泰心院の扁額。
(下)本堂扁額
以下,現地説明板の写しです。
この門は,勾当台にあった仙台藩藩校養賢堂の正門で,養賢堂が明治維新後県庁舎にあてられた際,正門が洋風門に置き換えられたため,現在地に移された。
一間一戸の四脚門で,屋根は切妻造,桟瓦葺で,伊達家の家紋「三引両」と「九曜」を配した漆喰塗の棟や細部の装飾など重厚な外観となっている。
藩校は,江戸時代に諸藩が藩の子弟を教育するために設けた学校で,仙台藩では元文元年(1736)に開設された学問所を前身とし,安永元年(1772)に養賢堂と称せられるようになった。
この門は,文化14年(1817)に講堂が完成した際に建立されたものであるが,講堂他の諸建築が戦災で焼失したため,養賢堂の唯一の遺構となった。
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