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「木ノ下」の地名は,この地が古今集に「みさぶらひ御笠と申せ宮城野の木の下露は雨にまされり」と詠まれたことに由来する。 歌に詠まれた当時は大樹が鬱蒼と茂り昼でも暗かったという。天平時代,ここに聖武天皇の勅願により国分寺と国分尼寺が置かれ,一大伽藍を成した。 都から国府のあった多賀城までの主要街道「東山道」もここを通っていた。時代を経て国分寺は荒廃したが,国分氏と伊達政宗により復興がなされた後, 松尾芭蕉が奥の細道の旅の際に歌枕巡りで立ち寄っている。
天平13年(741)聖武天皇の詔により,国家鎮護の宗教的機関として各国ごとに国分寺と国分尼寺が建てられた。 国分寺は金光明四天王護国之寺と呼ばれ,法華滅罪之寺と呼ばれた尼寺とあわせて,全国で124ヶ寺になった。 仙台の国分寺創建は瓦から推定して天平13年から天平神護3年(767)に至る頃と考えられる。 創建当時は、18の伽藍、七重塔、300の僧坊、3000人の僧という壮大な規模で,近くの国分尼寺と渡り廊下で結ばれていた。 文治5年(1189)源頼朝の奥州征伐の兵火により焼失し荒廃したが,国分盛行,盛重や伊達政宗が再興した。 この薬師堂は政宗が国分寺の講堂跡に慶長12年(1607)建立したものである。
広く平らな境内(史跡)に創建当時の門や廻廊の礎石が綺麗に並んでおり,昔の威容が容易に想像できます。 全体が緑で覆われ,適度な樹木と芝により,気持ちのいい公園になっています。 散策の人々やはしゃぎながら走り回る子供達がいて,時を経た仙台で一番古いお寺(の跡)がここにあります。
(左)
薬師堂。優雅に反り返る屋根。すっきりした外観。
(左)
陸奥国分寺創建時の南大門跡に建つ薬師堂仁王門。茅葺が眩しい。あいにくの工事中。平成の大修理で元の姿を取り戻したばかりのようです。
肝心の仁王像はまだ戻っていませんでした。
(左下)
鐘楼。薬師堂と同時期の建立とされる。初めは瓦葺だったといいますが今は鉄板。広い境内にぽつねんと建っていてもの悲しい。
傍を国分寺創建時に金堂と中門を結んだ廻廊の礎石が整然と並んでいます。
(上)薬師堂の南東,七重塔跡。
一辺が16.8mの正方形。七重塔は承平4年(934)落雷によって焼失しました。
平成26年(2014)11月22日再訪
久しぶりの訪問です。
震災で相当傷んだ薬師堂も完全復活しています。
(左)今回はちゃんと仁王がいる仁王門です。とは言え,写真では見えませんね。
扁額は「護国山」。陸奥国分寺です。
(下)もう紅葉の季節も最後。銀杏の落ち葉が絨毯のよう。小春日和で気持ちのいい日でした。
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薬師堂から市道を挟んで西側の公園に建つ観音堂。陸奥国分寺跡の陣内である。 享保4年(1719)に5代伊達吉村夫人の長松院久我氏冬姫が准胝観音を寄進し小堂を建立。 更に6代宗村が延享2年(1745)観音堂を建立した。堂内の厨子の中に延宝9年(1681)の准胝観音碑が蔵されている。 仙台三十三観音第25番札所。
このお堂には冬姫が彫らせた仏石碑が床下から樹立した形で納められています。
本尊の准胝観音像は陸奥国分寺本坊の本堂に安置されています。
観音堂の北側に建つ芭蕉碑。元禄2年(1689)5月,奥の細道の芭蕉が仙台で詠んだ「あやめ草 足に結ん 草鞋の緒」の句が刻まれている。
天明2年(1782)建立。その左に望月宋屋句碑,延享2年(1745)建立,大淀三千風供養碑,享保7年(1722)建立。風流です。
薬師堂から観音堂への入り口にある光明真言塔(右)と庚申塔。
平成26年(2014)11月22日再訪
(上)
准胝観音堂も東日本大震災では扉が外れ,周囲の石碑群はあらかた転倒する大きな被害がありました。
今,全てが復旧して,更に堂宇は鮮やかな朱塗りになりました。仙台市登録文化財。
(右)
堂の正面左側に建つ三体の浮彫石仏。これも何とも言えない優雅さを漂わせています。根元の白い横筋は転倒後の補修跡でしょうか。
(右)
堂の裏手(西側)にずらりと並ぶ石仏群。薬師堂境内にあったものを集めたようです。
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陸奥国分寺創建時に地主の守護神として祀られたと伝えられ,天正年間(1573~1591)に国分氏により再興,更に2代藩主伊達忠宗が寛永17年(1640)に再建した。 社殿の位置はしばしば移動しており,近年までは陸奥国分寺七重塔跡に建っていたが,現在は江戸初期の位置に近い薬師堂北西に移築されている。
(下)
本殿は正面1間(柱2本)で切妻照屋根(反りのある屋根)が前方に長く伸びた一間社流造(いっけんしゃながれづくり)。流麗です。
(上)
拝殿に向かって左(西)側に摂社が並ぶ。手前から須賀神社,木ノ下八幡宮,雷神社,稲荷明神。本殿東には天満宮も。(下)
(左)拝殿
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向かって左が姥神社。子どもの百日咳と歯痛に効くとの信仰があり,かつては清水小路にあった。
その後五橋交番隣を経て,昭和40年(1965)国分寺の本薬師(もとやくし),正善院の聖観音と合祀されて現在地に移された。
向かって右が紫神社。昔,木ノ下丁の南を東西に走る椌木(ごうらぎ)通りの北東角の大木に洞があり,
幣束を立てて「柴明神」として祀られていたのを当地に移したものである。
本薬師堂はかつて現在大塔が立っている場所にありました。
陸奥国分寺薬師堂が造営されるまでその本尊を祀っていたと云われています。
正善院は古城の東北少年院北側にありました。
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真言宗。陸奥国分寺復興に当たり慶長12年(1607)までに政宗公が建立した三院二十四坊のうちの三院の一つ「別当坊」が前身。 三院は他に「学頭」「院主」で,交代で藩政時代の陸奥国分寺運営に当たった。筆頭は「学頭」であったという。 明治以降,三院二十四坊は徐々に衰微したが,当寺は残り寺籍を継いでいる。
(右)入口は薬師堂の方角に東面しています。
陸奥国分寺本坊の標柱があります。
(右)山門はRC製三間一戸の四脚門。
他の塔頭が衰微していく中で,薬師堂と同じ歴史を越えてきたお寺です(敬意)。山号は陸奥国分寺創建時の正式寺号に由来すると思われます。
境内の宝物館(現在は改装休館中)には国分寺創建以来の文化財や発掘出土物が展示されているそうです。
(左)
昭和57年(1982)落成の大塔。3間半4面高さ21m。
1階に金剛界大日如来像,2・3階には仏舎利と信徒の永代供養の位牌を安置しているそうです。
平成26年(2014)11月22日再訪
何か広々してるなぁと思ったら,かつてあった門柱も山門もありません。これも大震災の被害でしょうか。
結果的には逆に開放感があって,これもいいかも…という感じです。
(右)
かつては山門に掲げてあった扁額が本堂正面上に掲げられています。
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住所は木ノ下ですが,椌木通の西端近く通りに面してあります。由緒等わかりません。お堂の名称は中央に「薬師如来」の扁額でしたので推測しました。
左右に「大日如来」と,あとは「不動明王」でしたか…,記憶が曖昧になってしまいした。申し訳ありません。m(_ _)m
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ここも由緒等わかりません。「一本杉」は,現在は若林区役所と聖ウルスラ学院になっている地に明治時代は伊達家の邸宅があり, そこに一本の老杉があったことから名付けられた新町名です。この不動明王はいつからここに祀られているのでしょうか。
鳥居に「不動明王」とあります。周囲の柵には上の看板があります。恐らく大日如来の化身といわれる不動明王の正式名称「大日大聖不動明王」だと思います。
綺麗に清掃されていて気持ちがよく親しみのわく境内でした。
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ここも由緒等わかりません。鳥居には「正一位稲荷大明神」とだけあります。 「正一位稲荷大明神」の称号は京都伏見稲荷の祭神を各地の稲荷に分祀したことを示すものだそうです。 ここも境内が綺麗に清掃されていて地域に大事にされている様子がわかります。
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曹洞宗。新寺の龍泉院末寺。 天平13年(741)聖武天皇の勅願により建立された国分寺と対の官寺であった陸奥国分尼寺の寺基を継ぐ。 元亀元年(1570)龍泉院二世明屋梵察和尚により中興開山し天台宗から曹洞宗に改められた。 本尊の木彫り聖観音は恵心僧都の作といわれ,当寺は仙台三十三観音第24番札所になっている。
境内整備中。本堂はつい最近の完成のようです。真新しいお堂は壮大です。当寺は現在は尼寺ではありません。
(上)三十三体観音。
平成3年から8年に行われた墓地整備完工を記して有志により建立された。
(上)陸奥国分尼寺跡。
現在の国分尼寺の墓地北側に道路を挟んであります。かつての金堂跡で8個の礎石が残っているそうです。
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伊豆佐売神を祭神とし,古くから宮城郡原町南目字志波南14番地の1(現白萩町21番地6)に鎮座。昭和28年(1953)社殿新築。 個人所有地であったため,昭和42年(1967)現地に遷座し,更に昭和49年(1974)新社殿が造営された。(現地説明碑)
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