当HPは移転しました。
当面こちらもご覧になれますが,更新等は新サイトのみになります。
是非とも新サイトにおいで下さい。こちらをクリックして下さい。
愛子盆地は青葉山の西,広瀬川が奥羽山脈を東に抜けた後,仙台平野に到る手前に広がる細長い盆地である。 中世に国分氏が支配し,藩政時代は青葉城後方の防御地,あるいは奥座敷とされた。 奥州街道の脇道として天童まで到る関山街道が地区を東西に貫き,愛子には宿場駅が置かれた。 この道筋は現在も国道48号として仙台と山形を結ぶ基幹道路となっている。
延暦年間(782~806)山神社として現在地西の御殿山の頂にあった。文治年間(1185~90)奥州合戦で源頼朝が祈願し勝利したので, 家臣の伊沢(留守)四郎家景に信州諏訪大社の分霊をもって社殿を造営させ現社号とした。 康正3年(1457)広く当地方を支配した国分氏が領有33ヶ村の総鎮守として現在地へ移して再興,「国分一の宮」と呼ばれた。 現本殿は元禄7年(1694)着工,宝永2年(1705)の完工と推定される。本殿と長床だけで拝殿のない古い形式である。
(右)入口の赤鳥居。
(上)二の鳥居。桜の咲き始めの季節でした。
(左)二の鳥居の後,御殿山に向かって真西に登る参道。
短いけれど結構急な勾配があります。静か。
(上)階段途中に見上げるように長床がある。
(左)覆屋にがっちりと守られた本殿。国分一の宮と書かれた扁額が掛かっています。(写真なしです。)
▲ページのトップへ戻る |
建立時期等は調べ切れていません。近くの集落の守り神でしょうか。付近に明神前という地名があります。
▲ページのトップへ戻る |
曹洞宗。古昔,小田原にあった。藤原時代には大伽藍を成し仏光山と称したという。 文治5年(1189)頼朝の平泉征討のとき藤原秀衡の三男和泉三郎忠衡の女児5歳を家来石塚民部守時と妻小萩が護って一時加美郡色麻村清水寺に身を寄せ, 元久2年(1205)に仙台福沢の尼寺に移った。 姫は成長の後,安養院と称し藤原氏に縁のあった安養寺に移って藤原家の菩提を弔ったという。 時代を経て慶長の初期(1600頃)松音寺第7世霊堂文徹和尚が安養寺の復興に当たったが, 慶長13年(1608)境内に侵入し狩猟する武士を喝破した遺恨により焼打ちとの内報を受け,聖徳太子像を背負って天神囲(場所不明,現地付近と思われる)に逃れ, 泰盛山安養寺として開山。慶応2年(1866)現在地に移建。大正2年火災で全焼し,大正5年再建。平成元年開山380回忌で大改修が完工した。 聖徳太子堂は昭和8年,子易地蔵堂は昭和39年の建立。
(上)地蔵堂
(右)聖徳太子堂。昭和8年の建立。380年前に和尚様が背負った太子像が祀られています。
▲ページのトップへ戻る |
曹洞宗。連坊の保寿寺末。
(上)内門として設置されている薬医門。明治7年青葉区木町通の屋敷門として建立され,平成18年にここに移築された。
弥勒菩薩堂
由緒等調べ切れておりませんが,国分氏が付近を支配した中世時代に創建された古寺です。
創建時は天台宗でしたが,天正8年(1580)に曹洞宗になったようです。境内には浄土を表したと思われる庭園が綺麗に整備されていました。
▲ページのトップへ戻る |
道に迷って見つけた小社。地図を持って歩いていたら見つけられなかったでしょう。畑の中に祀られています。きっと個人の氏神様でしょう。
勝手に失礼しました。鳥居の明るい朱色が印象的です。
▲ページのトップへ戻る |
愛子の地名の由来となった観音。元和9年(1623)輪王寺末寺として開山された岩松山補陀寺の境内に残る観音堂。 補陀寺廃寺時期は不明。観音像はその銘により文治3年(1187)定澄(じょうちょう)の作とされる。 別当を大門寺が勤めている。
地図や文献などでは「子安(こやす)観音」だったり「子愛」と書いて「こやす」と読んだり,様々です。
「こあやしかんのん」は現地の案内柱によりました。やっぱり「あやし」の由来ですから。
▲ページのトップへ戻る |
勧請等不詳だが安永3年(1774)の「下愛子村風土記御用書出」にも記載がある。 別名「盗人神」ともいい,祭りは夜中に家中で無言で行い,互いに身を隠して出会わないように参詣したと云う。
現在も旧暦8月15日の祭日には,付近14軒の旧家で家庭内で話をせず,戸主が袴をつけて雨戸1枚開けた縁側から出て参詣するそうです。
奇妙な伝統ですね。
▲ページのトップへ戻る |
元亀2年(1571)開山の真言宗万代山薬師寺(廃寺時期不明)の薬師堂。政宗公長女の五郎八姫(いろはひめ)が松平忠輝と離縁後に蕃山麓の西館に居住した際に建立した。
五郎八姫が離縁し政宗に引き取られたのは23歳の時でした。寛文元年(1661)68歳で逝去したそうです。
▲ページのトップへ戻る |
全て由緒等わかりません。栗生ニュータウンの造成に伴って地区内別々の場所にあった社殿が集められたようです。
左写真で手前から奥に向かって地蔵堂,道祖神社,大六天堂です。それぞれ形や大きさが異なるのは,以前の姿を模したのでしょうか?
(上)道祖神社と(上右)地蔵堂
(左)大六天堂
▲ページのトップへ戻る |
明治16年(1883)菅井藤左衛門,庄子長吉,加藤民治の三氏が伊勢参宮の帰途に尾張津島祇園社に詣で分社を許され帰村,有志が廟堂を造り奉遷した。 明治43年(1910)岩鳥居が奉建された。(境内石板による)
牛頭天王・スサノオ神を祭神とする祇園信仰は東海地方は津島神社を中心に広まりました。当社はその分社です。
覆屋の中の本殿は当初のものでしょうか?少なくとも鳥居は新しくなっているようです。
▲ページのトップへ戻る |
森田家は国分氏を先祖とし国分氏に仕え,郷六,上愛子の二邑を拝領し,二軒在家に館居した。 森田家4代総左衛門政友が芋郷の地に神明社,岩本の地に熊野社を建て,家中や集落の人達の安泰と五穀豊穣を祈願し,以後も祀りを継承した。 このことは森田家十代定光が奉納した鰐口(享保20年:西暦1735年9月19日銘)が大切に保存され祭礼の一役を為している事を見ても推察される。 集落の人々は明治,大正,昭和,平成と崇敬の念を深くし,芋郷に鎮座する神明社を氏神と崇め,恒例の祭礼を挙行し祀っている。(参道看板)
十代が1735年とすると4代は1500年代後期,やはり国分氏の時代の創建でしょうか。裏手の山は鬱蒼としていて,そのまま奥羽山脈に連なっています。
▲ページのトップへ戻る |
由緒等わかりません。周りが宅地で囲まれています。今は神社裏手の宅地が空地になっていてアクセスできます。
▲ページのトップへ戻る |
国道の愛子駅前道路交差点近くに建っていました。由緒等わかりません。延命地蔵尊ではないかと思います,多分…。
▲ページのトップへ戻る | 次のエリアページに進む⇒ |