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伊達政宗による仙台城下の町割り以前からこの付近に由来のはっきりしない八つの古塚があったという。 かつての土地の豪族などの墓と思われるが,これに因んで一帯は八つ塚と呼ばれていた。 慶長6年(1601)から始まった城下町割の際,東の守りとして幾つかの寺院が配置され, 更に寛永14年(1637)からの第1次城下拡張によって当時寺町であった寺小路(今の青葉区本町付近,仙台駅西の広瀬通り北側)から一部の寺院がここに移された。 以降,両寺小路はそれぞれ元寺小路,新寺小路と呼ばれるようになった。新寺一帯は戦後の土地区画整理により整然とした街並みとなったが, 寺社の位置は概ね当時と同じと言われている。新寺通り沿いには大きな寺院が連続して並び,当時の威容が今に伝えられている。
関ヶ原の戦いの前後,伊達政宗が会津・福島で上杉氏との戦いに臨んだ際に政宗に付いた柴田郡大河原の鉄砲足軽は, その後仙台東八番丁に移り住み大河原組と呼ばれた。彼らは大坂冬・夏の陣に初めてここから伊達勢として出陣し全員無事帰陣。 神の御守護に感謝して先住地の四社明神を勧請した。 後にローマに渡った支倉常長が海上安全を祈り賽銭箱を奉納したとも伝えられる。(宮城県神社庁HP要約)
仙台駅から連坊への通り道・東八番丁に面してあった小さな神社。ここも月末にお祭りで,付近には赤い幟が。
そして狛犬ならぬ狛狐。社殿も赤いし,お稲荷さん?
でも鳥居は白いし,疑問です。
(下)5/27お祭りに出会う。お神輿も見っけ
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曹洞宗。輪王寺末。伊達政宗の祖母,久保姫(栽松院)が福島の信夫に天正7年(1579)慶昌院として開基。 天正末に伊達氏の移封に伴い名取の増田に移転,更に政宗が現在地に移した。この時に光寿院となる。 天保4年(1833)の大飢饉の餓死者を埋葬した供養碑があり,河原町の桃源院, 北山の大法寺とともに仙台の三叢塚(くさむらづか)と呼ばれる。 観音堂は仙台三十三観音18番札所。
(右)本堂前の牡丹庭園。綺麗です。
山門扁額↑ 本堂扁額↓
(左)
一見して料亭かと見紛う山門は3間1戸の幅広な棟門。
(左)
観音堂。裁松院護持仏の聖観音を祀る。('07.02.10撮影)
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時宗。法王山正覚院阿弥陀寺。建治3年(1277)時宗開祖の一遍上人が奥州をまわった折伊達4世政依によって福島の伊達郡梁川町に上人を開山として創建。 のち米沢を経て2代藩主伊達忠宗の時に現在地に移った。本尊の阿弥陀如来立像は伊達14世稙宗が六男宗貞夭折の折に寄進したもの。 境内の観音堂は享保元年(1716)の建立で平成3年(1991)再建。仙台三十三観音17番札所で 本尊は「影沼観音」といわれる聖観音。
北の新寺通りから入る参道には山門はなく門柱が立つのみ。
一遍上人の思想でしょうか。この季節にもかかわらず緑がとても濃い。
しっとりした空気。
庭も広くて手入れが行き届いている感じ。本堂左にあります。同じく本堂左には一遍上人のブロンズ像も。写ってませんが…。
(上)庭にある坂村真民(さかむらしんみん)の詩碑。真民の詩碑は43都道府県にあって,海外も含めて460余基といいます。
これもそれに含まれるのかは不明。上の詩文,読めるでしょうか?
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曹洞宗。奥州藤原秀衡の創建ともいわれる古刹で仙台城大手門の下,大橋の川内側にあった。本尊は五智如来。 創建当時は天台宗であったが,荒廃の後,永正13年(1516)再興時に曹洞宗に変わっている。 仙台城築城当時,川内は当院や長泉寺など多くの寺院寺地であったが,要害のため築城地に選ばれ,それぞれ城下に移された。 龍泉院も慶長7年(1602)現在地に移転した。玄光房、大満房などの別院を持ち、後に仙台の名前の由来となった千躰仏も祀っていた。 別院は現在それぞれ玄光庵,大満寺(向山)になっている。 境内に千躰仏を祀る千躰仏堂がある。 また西門前の六地蔵は藩政時代には清水小路北目町通交差点付近にあり,当所は「六道の辻」と呼ばれていた。 明治の鉄道建設に支障となり現在地に移されたものである。
(左)
西側道路に面した山門。山門前に六地蔵が並ぶ。一体の台座刻字から享保16年(1731)建立が読み取れるそうです。
*大震災で六地蔵転倒。台座を新調して復旧。(2012/09記)
(右)
南側,新寺通りに面した山門。千躰佛があるとの石柱が立つ。
(上)
本堂右前に五大虚空蔵菩薩と千躰仏を祀った六角堂。
(右)正面本堂。前に布袋様がいました。
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曹洞宗。松音寺の末寺。 政宗の乳母,片倉喜多子(片倉小十郎の異父姉)の父,鬼庭左月斎が人取橋合戦で戦死した折,政宗の母が喜多子の慰めに天正14年(1586)山形の長井に建立。 その後,岩出山を経て現在地。喜多子は慶長15年(1610)白石市郊外の「滝の観音堂」で71歳で没し,政宗がここを牌寺とした。 戦後の区画整理で昭和50年(1975)に再築。境内に古来から祀られている「稲荷堂」がある。現稲荷堂は平成11年新築。
稲荷堂が信仰を集めていたから稲荷山か。
山号は「とうかさん」と読むようです。
山門は総桧素木造の重厚な八脚門。
入母屋屋根の本格派。左右の仁王像もすごい。平成5年に寄進により建立されました。
(上)本堂扁額
平成26年(2014)11月22日再訪
本堂前左手に建つ芭蕉翁蓑塚(右)と芭蕉翁蓑衣塚銘。寛政7年(1795)建立。
銘碑は黄檗宗万福寺(京都・黄檗宗の本山)の蒲庵禅師が撰文したもので,
それによれば,当地に浮月坊鉄船という医者の俳人がおり,芭蕉が奥の細道の旅に着て来た蓑を脱いで置いて行ったものを所蔵していた。
それをここに埋めて,建てた記念碑が蓑塚であるという。
(右)
塚の拡大。芭蕉翁蓑塚とのみ彫られています。
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浄土宗。五劫山悟慎寺(ごしんじ)愚鈍院。慶長7年(1602)政宗から南町通り東端(現仙台駅構内)に寺地を受け呑茶和尚が創建。 元和3年(1617)現在地に移転した。観音堂は仙台三十三観音15番札所で本尊は桜塚観音といわれる。
(右)
本堂前の全天候型?カラー舗装とかも,現代的。
(左)
山門,本堂ともに薄いピンク色が基調。桜塚観音に由来する?
(左)
山門を入って右手方向,裏門に抜ける途中にあるホントに小さな観音堂。かわいいと言ったほうがいいかも。
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浄土宗。天正5年(1577)政宗の祖父伊達15世晴宗の家臣が主君の菩提を弔うため米沢で開山。岩出山を経て仙台大町に移り慶長15年(1610)頃に現在地に移転。
本尊の阿弥陀如来像は晴宗の護持仏で政宗から当寺に賜ったもの。また,2代藩主伊達忠宗の側室で3代藩主綱宗の生母,得生院(貝姫)の墓がある。
得生院は京都の商人の娘として身元を隠し側室になったが,実は公家の落剥であり19歳で没した後に素性が明かされた。
当寺は寛永19年(1642)得生院を葬るに当たり得生山を号した。境内に伊達家の刀匠,本郷国包(くにかん)の墓所もあり,初代から13代までの墓が並んでいる。
(右)入口から奥まった南の山門は3間1戸の楼門。
(上)
手前が本堂。庭園整備のおじさんが昼休み中。
(上)
西の山門も立派。南入口を入ってすぐ左の鬱蒼とした庭園の中を園路をつたってこの西門まで通り抜けられます。看板に通り抜けの案内があります。心が広い。
(左)
刀匠13代の墓。中央が初代本郷国包のもの。
平成25年(2013)5月18日再訪
新緑の季節に再訪。相変わらず素晴らしい境内です。今度はちゃんと山門扁額と本堂の写真も撮ってきました。
本堂向かって左手。得生院墓所も。なんと刀工墓所の隣にあったんですね。前回は失礼しました。
ちゃんと清掃されていて綺麗。墓石も優美な感じです。
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浄土宗。十劫山大乗院成覚寺。室町中期に福島の伊達郡で開山し,伊達家とともに米沢,岩出山を経て慶長5年(1600)現在地に移る。 この寺の清海(せいかい)曼陀羅図は室町時代の作で寛永7年(1630)に京都法林寺から寄進されたもの。当麻(たいま),智光とともに浄土宗三曼荼羅のひとつ。 山門は榴岡の孝勝寺にある4代藩主綱村の生母,三沢初子(浄眼院)の墓所霊屋門で, 明治初期に伊達家から譲り受け移された。浄眼院は貞享3年(1686)に没しており山門もこの頃の建立とされる。かつては総黒漆塗だった。 平成17年修復で袖塀はその時の新設。境内の観音堂は仙台三十三観音16番札所。
山門入って左の改築工事中が観音堂。大きそう。残念ながら工事囲いで見えませんでした
山門が赤いのはなぜ?黒漆唐破風は伊達家廟廊の特徴なのに。伊達家に限られないかもしれませんが(不勉強)。
いくら修復したばかりとはいえ,300年以上を経ているはずなのに真新しく見えます。
お隣の愚鈍院が五劫山で,ここは十劫山。同じ浄土宗でご近所。本山が同じ福島県双葉郡楢葉町の成徳寺だそうです。
平成22年(2010)10月29日再訪
前回来訪時に工事中だった観音堂が完成していました。
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曹洞宗。天正年間(1573~95)に福島県内に創建され,伊達家と共に米沢,岩出山と移り,伊達政宗による仙台開府の際,慶長6年(1601)に現在地に移った。 江戸時代に2度の火災があり,堂はその後再建されている。仙台七福神の弁才天像がある。林香院の移転前からこの地に祀られていたものといわれている。
「新寺」以前からこの地にある古刹。
山門は堂々たる八脚入母屋の仁王門です。本堂なみに威厳のある佇まいですね。
(上)参道脇に並ぶ地蔵さま。両側に3体づつ。
(左)本堂。前面左に弁才天堂が見える。
(左)弁財天堂。仙台七福神のひとつ。
平成27年(2015)3月28日再訪
(左)まだ3月なのに5月の陽気に誘われての東新寺再訪です。 林香院の撮影は後ろのメルパルクがいつも課題です。何も対応してませんが…
(下)再び,八脚入母屋の山門。勇壮な佇まいが青空に映えます。
(上)山門手前左側に坂村真民の詩碑「念ずれば花ひらく」。昭和62年,真民本人を招いて建碑を祝ったとのことです。
真民の詩碑は阿弥陀寺にもありましたね。
本堂向かって左手方向に西山門があります。こちらは薬医門。高さはあります。
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曹洞宗。正保2年(1645)開山。妙心院末寺。平成2年建造の仏足跡がある。
(上)仏足跡(ぶっそくせき)。
釈迦の足裏には瑞祥七相と呼ばれる美しい指紋があったとされ,仏足跡は釈迦が布教で歩いたことを象徴しています。(説明碑より)。置いてある5円玉は?
(右)
山門につながる参道と,山門前の菅谷不動堂。
この不動堂は明治40年(1907)宮城県利府町の菅谷不動の分霊を勧請したもの。
あれ?本堂の写真がないのでは?…
平成26年(2014)11月22日再訪
8年の懸案。洞林寺本堂の写真です。
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曹洞宗。松音寺の末寺。 代々,伊達藩の御殿医を勤めた錦織家19代久庵により慶長12(1607)創建された。 開山は錦織家出身の松音寺7世霊堂文徹大和尚で,当寺は大和尚の菩提寺である。
山門前の大きな木が印象的。全体的に境内がきちんと手入れされていて気持ちのいいお寺です。ここにも仏足跡があるとのことですが,見落としてしまいました。
林香院,洞林寺,そして林松院と,ここまで「林」のつくお寺が3つ並んでいます。新寺通を挟んで向側には大林寺もあるし…。ただの偶然でしょうか?
平成27年(2015)3月28日再訪
山門扁額
本堂扁額
相変わらず手入れの行き届いた境内です。やはり今は春浅く,緑の季節が待ち遠しい。
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曹洞宗。蔵王の保昌寺の末寺。寛永2年(1625)開山。開山当時は現宮城野区小田原にあったという。 寛永14年(1637)からの第1次城下拡張で新寺小路に移ってきたものと思われる。 山門脇に天保4年(1784)建立の飢饉供養塔,平成4年(1993)建立の仏舎利塔がある。 仏舎利はミャンマー仏教会への協力に対する返礼としてミャンマー仏教会からアジア仏教徒協会を通じて東秀院に贈られたものである。
(上)ここもお隣と同じく入母屋の屋根の八脚門です。
(右)ミャンマーから贈られたという仏舎利を納めた塔。
(上)天保飢饉の供養塔
平成27年(2015)3月28日再訪
(上)山門扁額 (下)本堂扁額
何も考えずに撮って9年前と全く同じ構図になってしまいました。成長なしです。お恥ずかしい。
寺紋ですが,山門大棟も本堂大棟も中央に三つ引き,両脇に五七桐と久我竜胆と三つ並べています。
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浄土宗。慶長15年(1610)開山。本尊阿弥陀如来。境内には八ッ塚の地名の起源ともいわれる伝説につながる八地蔵もある。
(上)本堂。玄関両脇の2本の木が特徴的。
★八ツ塚伝説
昔,重罪人の火あぶりの刑を見た8人の子供たちが,遊びでそのまねをして1人の子供を罪人に見立てて縛り上げ,
藁などを集めて火をつけたところ,火は大きく燃え上がり,その子は本当に焼け死んでしまった。
子供たちはどうすることもできず,亡骸をそっとそこに埋めて帰ったが,夜になって大人たちが探し当て,事の次第が明らかになった。
親たちは供養のために身代わりの八つの地蔵を建て弔ったという。
(左)
前面六地蔵の間に首の欠けた小さな地蔵が八体。哀しい伝説です。
平成27年(2015)3月28日再訪
(上)山門扁額
(左)山門入ってすぐの境内に仏様2体。
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浄土真宗大谷派。東本願寺の末寺。寛永3年(1626)開山。宝永5年(1708)の火災で詳しい歴史は不明となった。現在の本堂は昭和4年(1929)に再建されたもの。
平成27年(2015)3月28日再訪
(左)入口標柱が変わっています。もしかして大震災で破損したのでしょうか?
(下)本堂。今度はしっかり木の陰にならないように撮りました。初歩です。
(上)本堂前の保存樹木タブノキ。樹齢200年以上。この季節にこんなに繁っています。
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浄土宗。元和2年(1616)開山。
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曹洞宗。北山輪王寺の末寺。天文元年(1532)伊達家14世稙宗が山形県米沢鮎貝村(現白鷹町)に創建。 その後,政宗と共に岩出山を経て現在地に移った。 本尊は寛文13年(1672)弘法大師の実作といわれる釈迦牟尼仏。稙宗夫人の泰心院殿,弟の大林寺殿の位牌を祀る。 かつての八ッ塚古墳のひとつが境内にあったという。連坊小路小学校は明治19年(1886)この寺の境内で開校した。 仙台出身の詩人で「荒城の月」の作詞者,土井晩翠の菩提寺。晩翠は明治38年(1963)逝去しここに葬られた。山門前に詩碑がある。 境内の観音堂は本尊千手観音で仙台三十三観音第14番札所。
(左)
大林寺入口左手。寺名と三十三観音札所の標柱。
(下)
大林寺入口右手。土井晩翠墓所を示す標柱。
(上)長めの参道両側に仁王像が立つ。
(右)山門。背が高い。
(左)本堂。
(下)土井晩翠の墓
(右)観音堂。仙台三十三観音第14番札所
(上)妙理堂。白山大権現を祀る。
平成27年(2015)3月28日再訪
本堂正面扉に青いシート?修繕中かもしれません。それと,本堂前の2本の常夜灯は足が短くなりました。これも大震災の影響かもしれません。
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浄土真宗。かつては大谷派だったが現在は単立。戦国時代,現在の名取市笠島に創建,その後に真玄坊と号す。次に岩出山に移り,後に浄泉寺と称した。 4世明慶の時に若林区日辺北原に移り,福泉坊と称したが, 藩祖伊達政宗公が深く僧明慶に帰依し,慶長12年(1607)寺地を賜り,一宗の僧録司となる。 この時に寺号を「真正極楽寺」とし,これを略して正楽寺という。慶長13年(1608)藩から平泉中尊寺蔵王堂の古鐘(秀衡四十八鐘の一つ)の寄進を受け,寺宝とする。 慶長14年(1609)現在地を賜り移転。宝永5年(1708)の大火で焼けた後,享保5年(1720)に再建された。明治4年(1881)大谷派県内24か寺の触頭(ふれがしら)。 本堂は明治22年(1899)に改修されている。山門は寛保2年(1742)建築。本堂,山門ともに古い木造で残っており,仙台市の登録有形文化財に指定されている。
(上)山門は3間1戸の八脚楼門。2階部分は鐘楼だった。 大火前の寛永3年(1626)に若林城裏門を寄進されたものであったといいます。同じ形で再建されたのでしょうか。
やはり歴史の趣を感じる古い本堂。扁額は「真正極楽寺」となっています。真宗の仙台地方における最初のお寺だそうです。
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浄土真宗大谷派。かつての正楽寺塔頭。正楽寺に滞在していた山形の僧が天和2年(1682)もしくは貞享2年(1685)に開山したといわれている。
山号がわかりません。
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浄土宗。萬治2年(1659)には既に開山していた記録がある。弘化2年(1845)の火災で全焼したが,その後再建された。 かつて境内に蓮池があり,その中に弁財天堂があったことから,蓮池報恩寺とも呼ばれた。蓮池の跡は隣接する「蓮池公園」になっている。 弁財天堂は現在,本堂前北側にあり,金華山の弁財天の分身といわれる「身分け弁天」が祀られている。
(上)本堂。左(北側)に弁財天堂。
(左)弁財天堂正面。屋根が…
面前の小さな橋はかつて蓮池に架かっていた名残?堂左に文化元年(1804)建立の蓮花塚。
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