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七郷

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荒浜

七郷は国分氏の時代から続く旧七ケ村一浜(南小泉,六丁目,伊在,蒲町,長喜城,霞の目,荒井,荒浜)の総称である。 多くは国分氏の家臣たちが帰農して開墾した地域で,明治22年(1889)の町村制実施により一つの行政区として纏められ,地域を灌漑する七郷堀に因んで七郷村とされた。 昭和16年仙台市に合併している。
 荒浜はその名が示すとおり常に波が荒い浜であり,土地も荒れた淋しい海浜であった。 慶長元和(1596~1624)の頃に戦国の落武者がこの地に難を避け,土地を開墾し農業や漁業を営んだのが村の始まりという。 現在は仙台市から最も近い海水浴場として賑わう。

この仙台寺社巡りもとうとう太平洋まできました。 6月の始めの海はまだ海水浴はできませんが,汗ばむ陽気のこの日は家族連れやら二人連れやらが早くも海辺で寛いでおりました。(2008/06記)

七郷では仙台東部道路以東のほとんどが東日本大震災の津波により浸水し,多くの被害を受けました。 特に荒浜ではほぼ全てが流失してしまいました。(2012/09記)

335 八幡神社 Hachiman jinja
2008.06.08

由緒等わかりません。小さな社殿が大きな鎮守の杜の端っこに鎮座しています。

大震災で鳥居だけを残して全壊流失。('12/09記)

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336 神明社 Shinmeisha
2008.06.08

江戸時代初期の勧請と云われる。旧荒浜の鎮守。現在の本殿は明治7年(1874)建立。明治末期に七郷神社に合祀されている。

大震災で全壊流失してしまいました。('12/09記)

荒浜の守護神として信奉されており,社地も広く社殿も奇麗に整備されています。ダブルの鳥居に長床付き。 社殿向って右の須賀神社,成田山不動尊の摂社も立派です。隣地の町内会会館はカラオケで賑わっていました。

(上)摂社群。
須賀神社,成田山不動尊,あともう1社は不明。調査不足です。

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337 海縁山浄土寺 Joudoji
2008.06.08 寺紋

浄土宗。慶長元和の頃に難を逃れ来て農民となって荒浜の始祖となった戦国武士達が子孫安楽のために庵を結んだのが寺の始まりという。 後に福島県いわきの如来寺善的和尚行脚の際に依頼して寛永2年(1625)大会山摂受院浄土寺として開山。元禄17年(1704)善哲和尚の時に海縁山に改称。 本尊の阿弥陀如来は大昔に福島の海中から現れたという伝説がある。境内に推定樹齢200年のクロマツがある。 荒浜小学校は明治6年(1873)当寺の境内に開校した。

村創始の頃から荒浜の歴史と共に歩んできたお寺です。神明社とも近く,別当関係もあったかもしれませんね。 浜のお寺らしく境内には海難供養碑も建立されています。

上の写真は何のお堂でしょうか?

大震災により全壊流失。
2012/02/26 プレハブ仮本堂により再開。('12/09記)

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338 湊神社 Minato jinja
2008.06.08

荒浜の集落の北はずれ,新堀端にあります。 由緒等全くわかりませんが,社地は奇麗に清掃され社殿もきちんと管理されているようです。気持のよい空間になっています。

大震災で全壊流失してしまいました。('12/09記)

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339 八大龍王 Hachidairyuou
2008.06.08

漁や航海の安全を祈願した八大龍王碑を納める。碑は文政8年(1824)建立。

八大龍王は仏法を守護する天龍八部衆(てんりゅうはちぶしゅう)といわれる龍族の王。難陀(なんだ),跋難陀(ばつなんだ),娑伽羅(しゃから), 和修吉(わしゅきつ),徳叉迦(とくしゃか),阿那婆達多(あなばだった),摩那斯(まなし),優鉢羅(うはつら)の八神の総称です (と,言われてもよくわかりませんね)。水神としても信仰されています。

おまけ:
八幡神社から神明社までの道すがら,緑の田圃の中を舞う白鷺。
優雅です。

こんな風景が一日も早く戻ることを願っています。

平成25年(2013)5月5日再訪

鳥居(と燭台)だけが残った。隣には大震災後に建てられた慰霊塔と観音像。休日には多くの人が手を合わせていますが, 疎らに残った松には寂寥感が漂う。復興はまだまだこれからです。

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荒井周辺

荒井は「新居」の意であるという。かつて陸奥国分寺が置かれた平安時代に, 仙台平野の東部全域,太平洋までの広い範囲の総称であった宮城野の中でも東部に位置するこの地域は, おそらくその当時から新しい居として拓かれていた農村地帯であった。国分氏,伊達氏の時代も新田開発が進められ,今も広大な地域に田園地帯が広がる。 多くはその中に集落が点在する散村風景を見せているが,七郷村成立時からその中心であった荒井西部は昭和後半から急激に都市化が進み, 現在は市内随一の人口急増地域である。

352 七郷神社 Shichigo jinja
2008.11.09

明治42年(1909)11月荒井村鎮守の熊野神社に七郷村内の春日神社白山神社(伊在)皇大神宮(長喜城)神明社(荒浜)を合祀して村名を冠した。同年4月に村社。 熊野神社は勧請時期不明だが天保12年(1841)修造の棟札がある。(宮城郡誌)
社殿北側の荒井不動尊は熊野神社別当であった天台宗法性寺の名残で,明治6年(1873)には荒井小学校(現七郷小学校)が同寺地内に開校した。 昭和59年(1984)社殿改築。

(左)拝殿
向って左に境内社の八幡神社。

(右)拝殿向って右に並ぶ荒井不動尊
かつての法性寺。


綺麗に掃き清められた広い境内の西辺に社殿・堂宇が整然と並んでいます。姿のいい松の右に荒井小学校発祥の地を示す標柱があります。
神社周辺は近年の区画整理事業によって団地整備が進められていますが,社地も平成11年(1999)に再整備されています。

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353 太子堂 Taishido
2008.11.09

六丁の目コミュニティセンター前に建つ。堂内には「南無阿弥陀佛」の6文字が彫られた石碑がある。 弘法大師あるいは一遍上人が書いたものとされ,「六丁の目」の地名の起源といわれる。


「六字の銘」が訛って「六丁の目」になったとか。地名の起源とはこんなものなのでしょうね。 あと,なぜ太子堂なのでしょうか?これも大師堂の訛りなのかも。

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354 虎渓山龍香院 Ryukouin
2008.11.09

曹洞宗。保寿寺の末寺。慶長7年(1602)開山。

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355 白山神社 Hakusan jinja
2008.11.09

木ノ下の白山神社の分霊を祀って,白山神社を鎮守とした国分氏の家臣が創建したと云う。 かつて木ノ下白山神社の例祭に行われた流鏑馬(やぶさめ)の神事に先立って,射手が深沼の海で身を清める神事が行われた。 射手は深沼の帰途に伊在の当神社で休憩する習わしであったという。旧伊在村鎮守。明治42年(1909)七郷神社に合祀されている。

小さな神社ですが由緒の正しさを物語るように当所の地名は「白山地」,付近は「白山前」となっています。 今,周囲は宅地化されて住居も近接していますが,きちんと管理されているようです。

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356 雷神社 Kaminari jinja
2008.11.09

享保20年(1735)7日間雷鳴が轟き落雷が続いたのを鎮めるため建立された。旧蒲町村鎮守。

社名は「かみなり じんじゃ」と読むようです。村の鎮守に相応しい呼称です。 境内には蒲町公会堂,ちびっこ広場もあります。左隣の小さな社殿は何でしょうか?

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417 熊野神社 Kumano jinja
2013.05.12


荒井の団地東部,下荒井地区の公会堂と並んであります。由緒等わかりません。 七郷神社の前身である熊野神社と何か関係があるのでしょうか。

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418 皇大神社 Koudai jinja
2013.05.12

旧長喜城村の村社。明治42年(1909)七郷神社に合祀。


市街地と田園地域との境目。遠くからも鎮守の杜と象牙色の鳥居が目立ちます。今年も無事に田植えが始まりました。

左二体は馬頭観音でもう一つは?。明治昭和の建立のようです。

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419 浪分神社 Namiwake jinja
2013.05.12

もと,稲荷神社といい八瀬川稲荷堂(共同墓地)あたりに在った。ここは昔はもっと広く,高さ2mほどの小丘で樹木も生い繁っていたということである。 ここに隠居,又右衛門の肝いりで村民相集まって小祠を創建した。時に元禄16年(1703)8月16日であった。 古老の話では,その後あるとき大津波あり,幾波となく押し寄せ多くの溺死者を出したがやがて白馬に跨った海神が現われてこの大波を南北に二分して 鎮めたと伝えられている。これ以来稲荷神社に対する津波鎮撫の霊力信仰が高まり,その名も「浪分大明神」と呼ばれるようになった。 しかしこれは単なる伝説だけではない。この地方は古来幾度となく津波・洪水に襲われているうちに今の地形地層が出来て伝説も生まれたのである。 この地方に大きな影響を及ぼした記録では,貞観11年(896)5月26日の三陸地方大地震大津波であり,慶長16年(1611)の慶長三陸大津波では, 仙台領内で1,700人余の死者を出した。また天保6年(1835)6月25日発生の東北地方太平洋東部の大地震大津波でも仙台領内で数百の民家が流失し 溺死者多数と伝えられているが,この時,白馬伝承が成立したと言われている。天保6年6月の大津波は小祠奉献以来この地を襲った最大のもので, この年にはこれに続いて閏7月に2回も大洪水あり,天保10年まで全国的に荒天が続き冷害となり天保の大飢饉となる。 この惨事を救うべく当時の神主津田民部は,文化8年(1811)より村人により祀られてきた庚神・疱神・山神信仰の由緒深い,500m程西方の現在地を卜占し小祠を奉献, いぐねを伐ってお堂を建て,翌天保7年(1836)2月12日,新たに祭神,○○草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)のご神体を奉納,石造り神明大鳥居を配し, 除災を祈願された。以来津波の災害も減少した。明治38年(1905)日露戦争勝利後,浪分神社に昇格,明治43年(1910)3月, 旅立稲荷神社(保食神社 若林2丁目)に合祀された。 最近本殿の腐朽甚だしく,氏子町民相計り改築の運びとなり,昭和50年(1975)9月15日落成,遷座祭りを執行した。 回廊を除いた以外は旧本殿と全く同型とし,小祠も元通り縁下に納めた。素木造り丸柱一間社。 屋根は切妻瓦葺,流山造,向拝あり,破風板と海老虹梁の材料には最も苦心したが,栗の自然一本木を用いたので,小規模ながら神殿らしい簡素な美しさを感じさせる。 今はあらゆる除災招福の神社として崇敬されている。平成23年8月若林区霞目町内会(境内看板)

上は浪分神社遷座以前に当地で祀られていた庚神・疱神・山神の三神でしょうか。よく読めませんが山神碑には文化八年の文字が読めます。

上記説明によると天保の大津波の時は八瀬川稲荷堂の地にあったようですから,白馬の海神が現われて津波を分けたのはそちらの地でのことでしょうか。 ただ,当地で津波が分かれたとの伝承もあるようです。どちらにしても改めて伝承の大切さを感じざるを得ません。当社は旅立稲荷神社に合祀されるまで霞目村の村社でした。
(追記)簡素な美しさという肝心の本殿の写真がありません。また,やってしまいました。

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荒井東部

334 長樂院不動尊 Chourakuin fudoson
2008.06.08 神紋

深沼行きバスの笹新田バス停目の前にあります。由緒等わかりません。当初,湯殿山神社かと思い そう掲載してしまいました。当HPをご覧になった方からの情報で長樂院不動尊と知りましたので,訂正致します。('08.06.30)

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400 春日神社 Kasuga jinja
2010.05.03

寛永年中(1624~43)藩士の藤田但馬が開墾した藤田新田にある。勧請年月等不明。明治42年(1909)七郷神社に合祀。 藤田新田は正保元年(1644)但馬の娘婿山本氏が後を継ぎ,以降明治維新まで領有した。 山本氏は小田原にも大きな屋敷を持ち,小田原山本丁の名の起こりとなった。

(右)
左が春日社。向かって右の境内社は疱瘡神社。


境内は藤田公会堂と共用です。防災倉庫などもあり,鳥居の柱間が広いのは車両が通りやすいようにでしょうか。

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416 湯殿山神社 Yudonosan jinja
2013.05.12

寛永2年(1625)伊達家家臣の佐々元綱が当地に知行を拝領し,その孫の豊前定隆が延宝年間(1673~80)知行地丸森の家中の次男三男を起用するため藩に願い出て 当地を新田開発した。笹新田と呼ばれ開墾者は足軽として土着した。 この湯殿山神社の勧請時期等は不明だが,出羽三山信仰より五穀豊穣にご利益があるとされ勧請されたものと思われる。(若林の散歩手帖)

(上)
今,当地の地名は笹屋敷。ちょっと出世しましたね。神社は今でも地域の集会所と共にあります。

(左)社殿前左に並べられた石碑群
古峯神社以外は割れています。中央の湯殿山碑には安政4年(1857)の文字。「湯殿」より下はありませんが。

佐々家が開墾したので笹新田なんですね。
ここにも東日本大震災の津波はきましたが,流失等の被害には至らず,不幸中の幸いでした。

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