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岩切の地名は往古,この地方で初めての岩の産地であったことに由来すると云われ,ここから切り出された岩は陸奥国分寺の礎材にも使われたという。 ここは古代にあって北方面に蝦夷対策の城柵が置かれた玉造,胆沢,志波などに向かう東山道から西方面に七北田,東方面に多賀城・塩釜に通じる 東西の街道(いわゆる奥の細道)が分岐する交差点に位置した要衝であった。 鎌倉・室町時代には留守氏が岩切城(高森城)に居を構え,七北田川の水運と併せて交通の便を活かし,陸奥国の政治経済の中心を成して栄えた。 伊達氏の勢力拡大で一時衰退したが,元和7年(1621)今市が新町として取り立てられ,更に寛永年間には住民が足軽に取り立てられたことにより, 町は藩政時代を通じて賑わった。
曹洞宗。慶長年間(1596~1615)野原であった今市に新道を拓き市を立て,今市発展の礎を築いた兵藤家五代大隅信俊が寛永元年(1624)に開基。 承応3年(1654)輪王寺十三世角外麟恕和尚が開山した。昭和33年3月失火により堂宇を焼失。 その後、原町陽雲寺の位牌堂を譲り受けて本堂とし,更に平成8年(1996)新築。 境内に兵藤大隅の墓塔があり,当寺は兵藤家の菩提寺となっている。
(左)今市の本通側からの入口。
(上)
南側市道に面した山門。境内隅に何やら小堂が。
(左)
平成8年新築の本堂。大きくて周囲から目立つ。
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矢崎大明神・伊豆佐比売神社。由緒等不詳。境内に大日堂がある。
(右)鳥居扁額
「伊豆佐北売神社」とありますが,恐らく間違いと思います。
ここから程近くに隣接する利府町には式内社の伊豆佐比売神社がありますので,そこと何らかの関係があるのではないでしょうか?
(勝手な憶測ですが…)
(上)境内社の大日堂。鳥居潜って右側。
(左)社殿。
畑の真ん中という感じの場所にあります。境内は綺麗に掃き清められていました。
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子安観音を含む3体の観音像と供養碑,馬頭観音を祀る。子安観音には安永2年(1773),供養碑には寛文2年(1663)の刻字がある。
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所在地は岩切畑中。創建時期等不明。明治43年(1910)岩切の八坂神社に合祀された。
子安観音・八幡神社いずれも由緒等わかりませんが,小さいながらもきちんと管理されています。
明治になって多くの小社や小堂が合祀や廃仏などで無くなっていますが,こうして地元の人々に支えられて残っている寺社には温もりがあります。
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曹洞宗。かつては慈覚大師(794~864)が開基したといわれる天台宗寺院で医王山と号していた。 その後荒廃したが鎌倉期に留守家景が再興,天文9年(1540)須賀川長禄寺の普嶽文統和尚が曹洞宗として中興,本松山と号した。 境内からは建治4年(1278)から延文5年(1360)までの鎌倉期造立の板碑118基が確認されており,この地方の有力寺院であったと推測されている。 境内周囲の山腹には鎌倉から室町時代にかけて彫り込まれた多くの麿崖佛がある。
(上)山門を入ってすぐ左に進むと西側斜面を登る道が上段墓地まで続いています。その途中に南側市街地を望むようにある鐘楼堂。
(上)階段の参道を登ったところに山門があります。新しそうな高麗門。
奥に本堂が見えますが,今日は本堂に大勢の人達が集っていましたので写真はこれだけ。
鐘楼堂から更に登ると麿崖佛のある石窟があります。仏様が彫られているのはわかりますが…。
(左)
麿崖佛の一つ,穴薬師が祀られている扉付き石窟。
(右)
上段の墓地西側に整然と並べられた板碑群。他にも数多くあります。
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文治5年(1189)高森城主伊沢家景が京都祇園から岩切村余目に勧請。その後,同村台ケ原頂上に遷座して天王山と称した。 戦国時代に荒廃したが,藩祖伊達政宗公が寛永年中(1624~43)現在地に遷宮。祇園牛頭天王社と称していたが,明治6年(1873)社号を八坂神社に改めた。 祭神は素佐男神。明治43年(1910)神社合併の令により旧岩切村内の以下の神社を合祀している。
熊野神社・松木神社(燕沢),諏訪神社・羽山神社
・八幡神社(小鶴),矢崎神社・八幡神社(畑中),
小物忌神社・諏訪神社・天神社(羽黒前),熊野神社(新宿),
志賀神社(鶴ケ谷),雷神社(台ケ原),八幡神社(若宮),
神明社(余目),三神社(今市)
また,境内社の冠川神社は志波彦神社とも呼ばれ,天正年中(1573~1592)縁起焼失により沿革不詳だが,かつての延喜式内社である。 荒廃していたが延宝3年(1675)小祠で再建。明治4年(1871)国幣中社に列っせられ,社殿造営のため明治7年(1874)塩竈神社に遷座した。 現在地に旧社殿が残されてあったため,明治10年(1877)志波彦神社の分霊を祀り冠川神社と称した。
大きな鳥居。潜って正面は参集館。左に社殿があります。
(上)神社入口。階段左には忠魂碑。
(左)拝殿。
境内社の冠川神社。八坂神社社殿の左に並んでいます。塩竈志波彦神社の摂社でした。遷座がなければ由緒深い式内社が仙台にもう一つ…
と思うと少し残念ですね。
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社前の石碑に「船形山神社」とあるのでとりあえず同名で記載しました。
中には3体の石仏なので神社ではなく地蔵尊だと思われます。由緒等わかりません。
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明治43年(1910)に八坂神社に合祀されたという余目の神明社だと思われます。
付近は整然と区画された住宅地になっており,この社は昭和54年(1979)に建てられたもののようです。石柱に「藤子山稲荷大善神」の名もあります。
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羽黒神社は建久元年(1190)伊沢家景が勧請したと伝わる。その後,留守氏18代政景が化粧坂城を取り立て,羽黒神社は二段目の郭(くるわ)内にあった。
明治39年(1906)の書上によれば,社地は表参道と裏参道があり,東西92間,南北77間の広さがあった。鳥居は両参道にあり,表は三浦家,裏は高橋家からだった。
祭神は大忌神,月讀神,湯殿神で羽黒大権現と称した。別当寺として羽黒修験道場覚性院,大宝院があり,当時の信徒は800戸を数えた。
羽黒神社は明治末,神仏合祀をみることもなく,廃合の模様もなく,どうなったかわからない。
小物忌(おものいみ)神社
社伝によれば多賀城を修復した藤原恵美朝臣朝かり(えみあそんあさかり・「かり」は獣辺に葛)が勧請。
明治43年(1910)八坂神社に合祀された。(現地説明板から抜粋)
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仁寿2年(852)山城国から来た穂積保昌が当地で麻の栽培を教え,三光神(日=天照大御神,月=月読神,星=天之御中主神)を 岩窟中に祀ったのが創始と伝わる。かつて源義経の家臣であったという常陸坊海尊(清悦仙人)の伝説がある。 天和2年(1682)下野国(千葉県)から当地に来て岩窟に住んだ清悦仙人が村人の眼病や中風などを癒す霊験を顕したことから, 村人は仙人の言葉に従い岩窟を青麻岩戸三光窟と称し,岩窟前に宮社を祠って崇めたと云う。 中風除けの神として信仰され,延享3年(1746)伊達6代宗村,宝暦8年(1758)7代重村,文政元年(1818)8代斉村,慶応3年(1867)13代慶邦の各藩主参詣の記録がある。 元禄11年(1698)山火事延焼により焼失したが,享和年間(1801~1804)再建。明治8年(1875)郷社に列格。 昭和43年(1968)再び火災に遇ったが,昭和45年(1970)現社殿完成。平成12年(2000)随神門再建。 周囲は明治百年記念事業として昭和44年(1969)開設された「県民の森」で,森林レクリエーション施設として市民県民の憩いの場になっている。
入口の赤い太鼓橋を渡ってすぐに鳥居・神門・拝殿と並んでいます。奥行きはあまりなく,すぐに山が迫っています。
随神門。平成12年の比較的新しい建築です。
青麻神社は「3度詣でれば生涯中風の病難から逃れられる。」という青麻(権現)信仰の本源です。
東北関東を中心に広く青麻権現塔の建立が見られるそうです。中風は現代病かと思っていましたが,昔から苦しむ人々が多かったんですね。
中風快癒の伝説は岩窟に住んだ仙人が辺りの山中を遊行の際,偶々出会った樵(きこり)に母親の中風の救いを乞われ,
「桑の箸で食すれば全快し長寿する。」と教え,そのとおりになったというものです。
拝殿。背後には岩壁が迫ります。
人里を離れていて車でなくてはちょっと行けません。
拝殿前には岩壁からでしょうか,湧水が引かれていて,その水をペットボトルやポリバケツに汲みに来ている人達がいました。綺麗で美味しい水なんですね。
拝殿向って左の境内社。境内社には山神社,御井神社,七福神祠があります。
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